2015年10月10日土曜日

「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫pp.223-229より抜粋

知識過剰ですかな。言語過剰かね。美なんて非常にすぐそばにあるもので、人間はそういうものに対して非常に自然な態度がとれるものなんですよ。
生活の伴侶ですから。
だけど、さて現代文化における美の位置というような考え―、美の日常性に関する経験がないから、そんな考えから出発するほかはない。すると言葉しかもうないということになる。そういうところからきているのじゃないかな。
まあとにかく、ジャーナリズムでは小説が盛んでしょう。しかも小説も大変批評的なものになっていましょう。そのほか、論文とか報道とか、みんな知識の誇示だ。片方では政治的な行動的傾向が強いでしょう。政治的経験というものは、美的経験というものと全然関係がないからな。(中略)
美の日常性がなくなったんだね。
伝統という問題も理屈からすると、むずかしいことになるでしょうがね。そういうものをキャッチできるという経験には、たしかにはっきりとしたものがあるのですよ。
たとえばね。永仁のツボの騒ぎがあるでしょう。ああいう騒ぎというものが起こることは、美とはなんの関係もないということを、騒ぐ人たちが全然考えてないんですよ。
あれは虚栄心とか名誉心とか、商売上の問題とか、要するに本物、にせ物という言葉しか騒ぎのなかにはないんですよ。
騒ぎのなかには焼き物の経験なんてものはないんですよ。
あれだけの騒ぎが起こって、このなかには実物の焼き物の経験なんてものは一つもないということに気が付いている人が、実に少ないのではないか、ということをぼくはしきりに考える。
気が付いている人はだまっているんです。
そしてだまっている側に伝統は流れているんです。
だから伝統というものをキャッチすることのむずかしいことは、いま決して伝統なんてものはなくなっちゃったからではないのだな。むしろ、伝統を経験している人々がいるか、ということに気が付くと、これが大事なんだな。
どこに捜すこともない。ただ、ふつうの書画好き、道具好きのなかにいるのですよ。
いわゆる書画骨董の世界というもののなかに、たいへん、なんというか時代錯誤的な、たいへん複雑な形で現に生きているのです。
断っておきますが、時代錯誤的なものというのは、知的な評価なのです。
審美的な評価ではない。
伝統が今日も生きているということが時代錯誤と見えるのは、傍観者の知的な目です。
好き者には、そんな目はない。
伝統を内側から見ますから。そういう目に伝統の命が見えている。
これは日に新たなはずのものなのです。
いったんこれを見てしまった人には、これは消そうといったって消えるものではない。そんな不自然なことができるものではない。


私は鍔に手を出したときに、こんなばかなことを考えたんだ。
鍔の世界にはまだ見残しがあるだろうと。
収集家が騒いでいるものは、たいがい新しいところなのです。
もっと古いところにいきますと、まだ見残しがあるだろう、という感じを持ったことがあるのです。
やってみると、そんなばかなことはないんだよ。これは瀬戸物の世界と全く同じなんだよ。いわゆる本物、にせ物の混合世界です。
それから本物とにせ物との間に無数の段階があります。
さっき言ったように、工芸の世界は模倣でできている。みんなイミテーションの長い歴史なんだ。
イミテーションのでき、不できに無限のニュアンスがあるが、いじる人は、イミテーションの動機なんて考えるもんじゃありません。そんなものはいりません。
現に目の前にある姿をたしかめることで手一杯なのです。
手一杯でそれが楽しいのです。
この手一杯の経験を何百年の間重ねてきているわけです。
だから同じものは何十万度、何百万度見られたか分からない。
どういうふうに評価されたか実にまちまちな、不思議な評価をされてきた。
その間に、永仁事件なんか何度あったか分かりはしません。
たまたま犯人が見つかる場合は何パーセントでしょうかね。
見つからない場合の方が、むろん多いわけですよ、それはみんな、本物の中に入ってしまっているんです。
それでちっともかまわないです。
見つかる場合なんて一番低級な場合なんです。論ずるに足りない、興味のない問題なんです。
いわゆる好き者から、つまり尋常な状態から見ますとね。
だいたい本物、にせ物の見分けより、本物同士の間に上下をつける方が、むずかしくおもしろいことなのだ。
そんなこと何百年もやっている間に、この雑然たる世界に、動かせない秩序が生まれてくるのだね。
鑑賞というものは、その秩序を許容しておのれを失うことなのです。
生意気なことをこちらから勝手に言う、そんなものじゃないんです。あの世界の経験は。
ただ、あの世界に入らない人は、美術なんてものは「私」の鑑賞でどうにでもなる、と思う。
ことに現代人はそうです。
芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている、それが芸術家です。
鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で一万円のものを五十円ということもできる。
そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。
おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。
そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。

物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる、こんなことは分かり切った話ですけれども、インテリがなかなかそれに気が付かないということがある。
たとえば、わたしのところに、現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。
美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鍔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。
古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです。

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

ISBN-10: 4061984160
ISBN-13: 978-4061984165

小林秀雄 (批評家)

「小林秀雄対話集」講談社刊pp.334-338より抜粋

小林秀雄(小林)
田中美知太郎(田中)

田中 
ただ日本の文章とか、古典というものを考える場合にも、明治以降、ヨーロッパの圧倒的な影響があるだけに複雑になってきていますね。

小林
ええ、そうですね。今から過ぎさったことを振り返って逆に考えますと、日本の文明、文化というものは複雑なんですね。大昔から外国のものにやられ通しなのですからね。
何か病的なものがないとおさまらないほど複雑なものでしてね。ぼくらが経験したことだってなにも考えてやったことじゃないんです。もう少し健康な精神的楽しみ方があるはずなんですが、どうしても病的なことになる。要するに精神のエネルギーの捌け口を求めているわけで、詩といえばまずフランスの詩がおもしろくなるといった妙な姿をとるわけですね。

田中
文学の場合、近代化のモデルはやはりフランス文学ですか。

小林 
そうですね。それも偶然なんですね。
偶然の出会いにいやでも対応しなければならぬ。
ぼくは不案内ですが、日本にドイツの哲学が入ってきたのも偶然ではないですか。
そこに外国人にはなかなか察しのつかない苦しみが日本のインテリにはあるんですね。
アメリカのような国の人々にはちょっと理解できない苦しみでしょうね。
そうした悩みや苦しみは長いし、今後もずっと続くんではありませんか。
「哲学」という言葉を西周がつくったということをきいて西周を読んでみたんですが、はじめは希哲学といったんですね。どうして希がとれたのかな。

田中
最初は、希哲学とか希賢学といったんですね。
士は賢ならんこと、哲ならんことを希う、という意味で使ったんでしょうね。希賢学の方は、儒学の連想で感覚が古いために捨てられたんでしょうね。
どうして希がとれてしまったのか、後になると西周自身も哲学という言葉を使っていますね。
西周の訳語で、いま残っているのがずいぶんありますね。先天・後天、習性・悟性、といった言葉、西周という人はえらいですね。
とにかく産業近代化の必要に応じて幕府からヨーロッパに派遣されたんですが、そのため実学を修めながら哲学に興味をもったわけですからね。

小林
ぼくが西周で面白かったのは、西周の目を開いたのが荻生徂徠だったという点ですね。
徂徠などは当時異端の学だったわけで、西周も、病気をしたときに、はじめて寝転びながら読んだわけですね。
正統の学なら端坐して読まなければならない。
たまたま読みはじめて、驚いてしまうわけですね。そこで開眼するわけです。そこからソクラテスを識るわけですね。

田中
「ソコラテスといえる賢人ありて」と書いていますね。

小林
教養の伝統というものは、ふとした機会に生きかえるのですね。漢文という素養があるから翻訳もいいんです。

田中
「聖書」なんかも昔の訳の方がいいですね。


文明の原理について

小林
ああいうものはあまり改良がきかないことがわかりますね。
自然と壊れていくことはいいのだけれども、その自然とこわれて変化してゆく中に何かの摂理があると思うんですね。
命が永らえるようなものでね。
人間の成長でもひじょうに緩慢なんだ。
だから命が保てるわけで、 文明というものはそういうものじゃないかな。人為的な改良とか革命とかでは死んでしまうものがあるんだな。れは私たちが生きているものに深くつながっているものじゃないかな。それはショックを受けると滅びてしまってなかなか回復できない。歴史の流れの中にはそういうものがあるんじゃないかな。

田中
古いものをすべてやめて新しいものに代えるとすれば進化はないですね。
人間の一生の経験なんかは限られていますから、それまでの蓄積の上に立たなければ、むだな努力ですね。
トインビーシュペングラーの説だと、文明の成熟が止まって新しい芽が出なければ、文明は老衰してゆくということになるのでしょうが。

ギリシャの場合を考えると、ギリシャ文明はいまでも生きていますけれども、それを荷った民族は滅びてしまったようなものかもしれない。
ギリシャ自体の歴史を考えてみても、新しいものを生み出した時期と創造性を失った時期があるわけですね。
内乱や戦争によって政治的な条件がちがってくることが原因でしょうが、ギリシャ都市の自由があったときはやはり創造性があったわけですね。
当時でいえば世界戦争だったプロポネソス戦争アテネは大いにいためつけられ、その後またある程度回復するわけですが、その世界戦争がプラトンの青年時代で、次の世紀がプラトンアリストテレスの全盛時代です。
その世紀の終わりにはギリシャ都市の自由が終焉し、アレキサンドリアに中心が移って、ユークリッドアルキメデスといった科学や文献学の黄金時代ですね。
シュペングラーの説だと科学や文献学は末期的現象だということになるらしい。
ギリシャが完全に駄目になるのは、ローマは地中海を征服する時代ですね。
ローマはギリシャの弟子だけれどもオリジナリティはない。
政治的に古代世界全体を支配するけれども、その政治も共和制が帝政に代わると段々にたいへんな暗黒時代になる。
ローマの皇帝はたえず入れかわり、ロクな死に方はしていない。
ギリシャ文明の評価と古代世界の没落ということはたいへんなテーマで、トインビーなんかもそれをモデルに文明の没落を考えているわけですね。
が、政治史としていちばんおもしろいのはやはりローマの歴史でしょうね。
ぼくの昔の夢では老年になってからローマ史を書いてみたいと思った。
いまはとても自分の力でローマ史の史料をたくさん読む気力はないけれども、あれをほんとうに書いたら一種の政治教科書が書けると思いますね。
プルターク「英雄伝」とかいったものも一つの政治勉強のテキストとして使われるようですが。

小林
ぼくは病気をしたときにプルタークの「英雄伝」をみんな読んだんです。
退屈だけれどお能を見ているようなものでね。
退屈していなければわからないものがありますね。
文章を読んでいてパッといいところがある。やはり退屈というものはむだじゃないですね。

田中
プルタークは歴史家としてはむしろ凡庸でしょうかね。
歴史家としてはツキジデスが一級です。
たいへん読みづらい、クセのある文章ですけれど、がまんして読み通すとえらいことがわかりますね。
政治を理解するには政治的識見、政治的なセンスが自分にも必要ですけれど、ツキジデスは、当時の教養をもったインテリでしょうが、しかし、政治家として実際、政治にたずさわり追放されたりしたわけですから、それだけにセンスもあったわけですね。
カエサルメモワールガリア戦記」がいいのも、カエサルがやはり一種の教養を持っていて、よく人間を洞察することができたからでしょうね。

(「中央公論」昭和三十九年六月)

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

ISBN-10: 4061984160
ISBN-13: 978-4061984165



山本七平著 「ある異常体験者の偏見」 文春文庫刊 pp.120-121より抜粋

引用とは非常に面白いもので、われわれはその人の引用の仕方でその人の精神構造を知ることさえできるのである。
たとえば私が「軍人勅諭」を引用するときは、あくまでもこれは史料としての引用である。しかしかつて軍人が引用したときは、自己権威化のためで史料としてではない。
この二つは全く違う。新井宝雄氏の引用は、毛沢東の言葉を、一つの史料として引用しているのではなく、絶対の権威として引用し、それを無謬の真理の如くにして、反対者の口を封じようとし、それに応じない者は「反省がない」ときめつけているわけである。これはかつての軍人と非常に似た態度だといわねばならない。
もちろん「似た」といったのは「同じ」ではないという意味であって、両者がどう違うかは軍国主義者と商業軍国主義者の差と同じである。
言うまでもない事だが、同一主義者集団またはそれに類するものの内部なら、「反省をしろ」「自己批判をしろ」という言葉は、ある程度は成り立ち得る。
この場合は、あくまでも「同一主義に基づく共通の尺度を相互にもっている」ことが前提である。従って、その尺度が同一かどうかを相互の討論によって検証し、確認された尺度の前に、共にそれを基準とすることが絶対に必要だとするのが、少なくとも相手を自分と対等の独立した人格であると考える者にとっては、当然の措置であろう。
主義を異にする者に対して、お前は反省が足りないの、反省がないの、ということは、少なくとも相手を独立した人格と認める者にはありえないことである。
従って、本当の「主義者」すなわち主義をもって自らを律している人は、自分と主義の違う者には絶対にこの言葉を口にしないのは、前述した通りであって、先制防御的にこの言葉を口にしてくるものは、二重の裏切りともいえる前述の矛盾を権威主義で隠蔽する「虚構の主義者」と考えてよい。






山本七平著「これからの日本人」文藝春秋刊pp.60-64より抜粋

脱イデオロギーの時代とは何か。
それは体制信仰の別名ではなく、いずれの面でも「いわゆる信念のない時代」、イデオロギー信仰も体制信仰も拒否する時代であり、思考により、新しい仮説の未来を言葉で構築しなければならぬ時代なのである。
しかし信念の拒否は実際には非常に困難な作業であり、イデオロギーへの信仰はそのまま体制信仰に転位し、別のタイプの「信念の人」を生み出してしまう。
そしてその「信念の人」は、まことに始末のいい存在だが創造性が皆無であり、それがますます体制を固めて行くという悪循環を起こす。
前に会田雄次氏が「信念の人!つまりそりゃ頭がカラッポの人間のことやね」と言われたが、確かにその通りであって、現在の体制を絶対と信じようと、過去のイデオロギーのシナリオを絶対と信じようと、そう信ずるだけなら頭はカラッポの方がよい。
そして何か反論されれば「これはオレの信念だ」と言えば、それで終わりである。
そしてこういう信念なら、そしてその信念に基づく無思考の決断と実行なら、教育ママも赤軍派も田中角栄氏もともに持っている。
三者が軽侮し合い、反発し合うなら、それは信念の対象が違うというだけのことであり、その状態が共に「思考の拒否」であることは否定できない。
そして脱イデオロギー時代は、必ずこのタイプを生み出すのであり、民主主義下におけるその危険性は、その相反発が結局多数の勝利すなわち体制信仰に固着し固定してしまうことである。
そしてこうなると、脱イデオロギーの如く見えて、実は、体制信仰・生活イデオロギーの完全な信徒となってしまうわけである。

体制が永遠で「天壌無窮」ならこれでもよい。
しかしそうでないなら、人は一体この状態から、どうやって脱出すべきであろうか。
明治以来われわれは、外国をモデルとして、それを移入することで進歩してきた。
イデオロギーももちろん輸入品で間に合わせてきた。
そしてわれわれはこれを進歩と考えて来たわけだが、実は厳密な意味での進歩とは違う、別の作業だったはずである。
すなわち、この作業は、すでに存在しているものを、外国から日本へと空間的に移動させる作業であっても、自らの「時代」をどこかで区切り、その先の未来を言葉で構築して、それを現代と対比させ、この言葉で構築された未来との関連において、現在の問題を処理するという形で行う進歩ではなかった。

従って、空間的に移動させうる対象が見つからなくなったとき、いまあるものを固定させ、これを絶対に動かないと信じて、その中を通過して行くという形でしか、自己の存在を把握できなくなってくる。
そしてこういう把握が当然と信じられた頃に、その体制がぐらつき出すと、昭和初期の日本人のように、これにどう処理してよいかわからなくなるのである。
現在はおそらく非常にこれによく似た時代で、日本の周辺で何か異変が起こったら、政府もマスコミもおそらくただただ戸惑うだけで、何一つ的確な対処はできないであろう。

ではわれわれは、何をなすべきなのか。何から手をつけるべきなのか。

一個人であれ、一民族であれ、一国家であれ、日々の目前の問題の処理は放置できない。
しかし目前の問題の処理は、一つの「時代」の終わりと次の「時代」への対処ではなく、あくまでその体制内の空間的処理であり、対ロッキード的処理にすぎない。
従って現代に要請されていることは、それらの処理とともに、それとは別の形で行われるべき言葉による自らの未来の構築なのである。
思想が輸入できず、自らの思想だけが指針であった民族は、みな自らの手でこの構築を行ってきた。
そして、その作業の跡を見れば、それが決して安直なものでなく、驚くべき知的浪費を重ねた実に長い歳月が、その構築のために費やされている。
そして、その第一歩は常に脱イデオロギーの時代にはじまり、一つの思考が次の思考を生み出していくという形で、徐々に修正されながら、それが体系づけられ、そのように構築された一つの世界が、世界イデオロギーとは別の、一つの実在感を持ちうるイデオロギーとなって人々の意識を支配し、その意識と現実の生活の間に緊張関係を生じ、それがエネルギーとなって、人々が現実に動き出し、それが社会を変革して行く。

そしてこの間、常に一世紀から一世紀半の歳月が過ぎている。
そしてこれは、かかって当然の歳月であり、この過程を経たものだけが現実に社会を変革しうる思想なのである。そしてその思想は、任務を果たして消えていく。

そして、それがはじまる第一歩は、常に過去のイデオロギーの呪縛から自らを解放し、同時に、体制信仰からも自らを解放して、「自由になること」からはじまっている。
従ってまず最初にそれを行った人間を見ると、必ず過去のイデオロギーのレッテルを、どう貼り付けてよいかわからない人間なのである。
いまの言葉でいえば左翼ともいえるし保守反動ともいえ、右とも見えるし左とも見える人間であり、と同時に、どう見てもどちらの枠にも入らない人間である。
そういう人間の一例をあげればモンテーニュがいるであろう。
彼はおそらく、同時代の人間から見れば、何とも規定しかねる人間だったに相違ない。
というのはもちろん彼はプロテスタントではない、と言って伝統的かつ教条的なカトリックでもない。
いわば当時のあらゆるイデオロギーの枠外にいる。
しかしそれでいて、否むしろそれなるが故に、以後のフランスの思想を―それだけでなく政治体制まで―方向づけたのは、おそらく彼だったであろう。

そしてこの「自由な思考」のできる人を見ると、そこに示されているのは、まことに遠慮会釈のない、勝手気儘ともいえる、過去の思想の自由なる取捨選択なのである。
いわばすべてのイデオロギーはもはや帰依の対象ではなく、また自らの空白を埋める信念でもなく、自己の思想のために、自由自在に使ってよい材料にすぎない。
そしてこれが自由であり、これが思考なのである。
人は、言葉により未来を構築しなければならぬとはいえ、いきなり白紙に返って無から有を生み出せるわけではない。
過去の思想をばらばらの素材に解体して、文字通り遠慮なく使いこなし、使い棄てにし、自分の意のままに利用すること、それが脱イデオロギーの時代、思考の時代の特徴のはずである。

脱イデオロギーの時代は確かに平穏な時代である。
現在の平穏な時代はまだ続くであろう。そしてこの平穏な時代こそ、思考においては平穏であってならない時代、人間が自由自在にその思考力を活用し、自らの脳漿をしぼって思考すべき時代なのであり、この時代はこれが任務のはず、知的怠惰が許されない時代のはずである。
もっともこの作業は、過去のイデオロギーと生活のイデオロギーを信念としてもつ人には、まことに下らない知的遊戯に見え、閑人のサロンの閑談に見えるかもしれない。
しかしわれわれは、多くの科学上の実験がまずサロンで行われ、フランス革命へと進んだ発起点もまたサロンであったことも忘れてはなるまい。

もちろんそこで行われたのは、驚くべき知的浪費だったかもしれぬ。
しかし、あらゆる思想が形成されるまでには、みな恐るべき知的浪費が行われている―少なくとも完成品の輸入で間に合わせた者から見れば。
しかし、この作業が浪費でないことは、基礎的技術の確立のために行われる膨大な実験が浪費でないのと同じように、浪費ではない。

人々は技術についてはしばしばこのことを口にする。しかし、この原則はただに技術だけでなく、さらにその奥にある思考にとっても結局は同じことなのである。


ISBN-10: 4163647104
ISBN-13: 978-4163647104

山本七平著「私の中の日本軍」文藝春秋刊pp.506-509より抜粋

一体全体「捕虜になったら自殺せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。
陸軍刑法にはそんな規定はない。
従って天皇が裁可した規定ではない。
戦後には、この問題でよく引き合いに出されるのが「戦陣訓」だが、「空閑少佐事件」のときは「戦陣訓」は存在しない。
そして、部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だということであり、その発端が「空閑少佐事件の報道」だというのである。

これは上海事変のとき、日本軍の一個連隊が中国軍に壊滅させられたときの話である。
何しろ「マスコミ無敵皇軍」には敗北はないはずだから、知らせずにおけたらそれが一番なのだが、連隊長は戦死し、大隊長の空閑少佐は負傷して人事不省になり、捕虜になってしまった。
事変は短期間で終わり、停戦・捕虜交換となる。
当時はまだ「捕虜は自決セエ」の時代に入ってなかったから、すべてを―一個連隊の壊滅を含めて―明るみに出さないわけにはいかない。

ところが、これがすぐ「美談」にすりかえられてしまった。
まことに「美談」とは奇妙なものである。
非常な残酷な描写と美談とをミックスすると、人々をコロリとだますことができるらしい。
「中国の旅」の南京戦の叙述にも、残虐描写と美談とが、非常に興味深く交錯しているが、昔も今も、これをやられると人々は完全に騙されるらしい。
従って、以下の美談を、当時の人々が、全く抵抗なく受け取って、そのまま「事実」として信じたとて、それを批判する資格は今の人にもないはずである。

その「美談」によれば、重傷の空閑少佐を乱戦の中から助け出したのは中国軍の甘中尉で、彼は日本の士官学校に留学したことがあり、空閑少佐はそのときの恩師であり「師を救った」というわけである。
感激的な「敵味方を超えた美しき師弟愛の発露」の物語であり、そして一個連隊全滅の事実はこれによってどこかに消えてしまうわけである。

「どうもこの話は少し変だな・・・」部隊長はやや皮肉に苦笑して言った。
というのは記事によればそれは夜戦なのである。
そして大隊本部は全滅したわけでなく、全員が「大隊長殿!大隊長殿!」と叫んで、闇の中を死物狂いで探したがわからなかったと、記されている―ということは、負傷した大隊長をほったらかしてみな逃げた、といって悪ければ撤退したということである。
そこへ中国軍がとびこんできた。

戦場の闇は、文字通り鼻をつままれてもわからない真の真っ暗闇である。
また前線で不用意に懐中電灯などふりまわす非常識人はいない。
まして陣地奪還の逆襲の恐れがあるときは、敵味方を問わず、負傷者の後送などは後まわしになる。
それどころではない。ところが日本側は連隊長が戦死した。これは最後の軍旗中隊まで壊滅したという惨憺たる状態か、連隊長を放り出して逃げたかのどちらかのはず。
従っていずれにせよ逆襲能力はない。
そこで助けを求めて呻いている負傷者を後送したわけであろうが、暗闇でわからないため、ある地点までは、空閑少佐は、おそらく中国兵を誤認されて担送されたか、あるいは自ら助けを求めたかであろう。
それが普通の人間であり、そして人間はほっとすると人事不省になる。
従って人事不省は担送後であろう。
そうでなければ暗闇だから死者と間違って放置されるはずである。

そして日本軍の佐官であることがわかったのは、おそらく仮繃帯所についてからだろう。佐官クラスの捕虜はどこの国でも「大切」にする。
これは実に貴重な情報源で、その氏名・階級・所属がわかっただけで、正面にいるのが、どこの連隊でどの程度精強か判断できるからである。

従って「通達」が出されて、日本語のできる、士官学校への留学経験者が呼び出され、そこでその教え子である甘中尉が出てきたというわけであろう。
これならば不思議ではない。

いずれにせよ空閑少佐は「大切」にされ、事変終了と共に捕虜交換で日本側に引き渡された。
そして軍法会議にかけられたが、「人事不省」で「捕虜」になったと認められて判決は「無罪」。
ところが、彼は内地送還の直前、戦死した連隊長の墓標の近くで自殺したという。
ここの話も少々変なのだが、細部は省略しよう。
いずれにせよ当時のマスコミは例の手で「激戦の記事」「師弟愛美談」「微笑を浮かべて自決」「武士道の華」を巧みにミックスして、この全滅・捕虜交換を隠し、彼を一種の偶像とした。

だが一体全体、軍法会議で「無罪」の彼がなぜ自殺したのか、本当の意味の「自殺」だったのか、それとも何らかの圧力で「自決させられた」実質的な他殺だったのか?
自殺なら軍法会議前が、否、「捕虜」とさとった瞬間が普通である。
だが彼には「捕虜→自殺」は必然的帰結という考えはなかったように思われる。当時はこれが当然だったのかも知れぬ。そして彼は、判決後、「今後、もし戦争があったら一兵卒として従軍したい」という意味のことを言っているから、その時点までは絶対に自殺の意思はないはずである。

児島襄氏も記されているが、カーッと頭に血がのぼって自殺することはありえても、通常三日たてば、「再び自らお役に立てるのが真のご奉公」と考えて、自分の生存を正当化するのが普通である。会田雄次氏も同じ発言をされている。
さらに例をあげれば、赤城艦長である。
彼のことは「週刊文春」に載っていたが、彼は、赤城と運命を共にするつもりだったが、これを消火して日本まで曳航するというから、駆逐艦に乗りうつった。
ところがその直後に、赤城を沈めよという命令が山本司令長官から来た。
彼はそれなら自分も赤城といっしょに沈めよ、赤城にもどせ、といって狂ったようになる。人々は、自殺を心配して彼を監視しつづける。
大体三日ぐらいで「再び自らお役に立てる・・」と考えはじめる。そして彼はその通りの生涯をおくる。

これが普通であり、これ以後に、何らの強制もしくは外的圧力もなく、全く自らの意思で、そのことのために人が自殺するということは、まず考えられない。
従って、空閑少佐没後昭和十九年まで、こういうさまざまなケースを見てきた部隊長には、振り返って空閑少佐の「自決」を見れば、それが到底本当の意味の「自殺」とは見えなかったとしても不思議ではない。
私にも、そうは見えない。―彼は自殺したのではなく、何らかの圧迫、たとえそれが無言の圧迫でも、何かによって「自決させられた」と私も見る。

この古い話がなぜ話題となったか。
言うまでもなく、前線のわれわれはいつ空閑少佐と同じ運命に陥るかわからない。
人事不省になり、捕虜になることは当然にありうるであろう。そして捕虜交換で帰されたらどうなるか。

陸軍刑法という「悪法」ですら、その者を無罪といって放免したのに、その悪法以上に恐ろしい「何か」がそのものを殺してしまった、という厳然たる事実がわれわれの前にある。

「絶対に日本に返さないでくれ、帰さないでくれれば、何でもいいます」これが日本軍のお定まりの台詞であることは前に記した。
そこにはこの気味の悪い「何か」が、全く得体の知れぬ「何か」が、ちょうど「殺人ゲーム」後のヒステリー状態のような何かが、「獣兵は名乗り出よ」と言った如く「捕虜は名乗り出よ」と言ってギラギラ目を光らせており、その人間が「自決」したら、血に狂ったようなわっという歓声をあげ、新聞はたちまち空閑少佐流の「美談」をその死体に投げかける、といった感じが、すべての人間にあったからだろう。
そしてそうなるくらいなら捕虜でいたままの方がよい、と。

空閑少佐の話は、私の少年時代のことなので、当時の私も部隊長の話で知ったわけである。そして部隊長がこの事件に接したのはおそらく下士官時代であって、彼はそのときの新聞報道に、何か「ショック」を受けたのだと思う。いわば今までの軍隊にはなかったはずの何かが、ある種の影のようなものがしのび寄って来たような感じであったろう。


ISBN-10: 4163646205
ISBN-13: 978-4163646206

山本七平