2017年1月12日木曜日

20170112 510記事 書籍などの電子化について・・

A「昨今は多くの雑誌、書籍そして書類が電子化される傾向によってか書籍全般の売り上げが落ちてきていると聞きます。

こうした電子化によって実体としての書籍を購入する必要がなくなることから生じる影響とは、如何なるものであるか私には分かりませんが、やはり私見としては、実体としての書籍、書類が存在しないと、どうも不安になってしまいます・・(苦笑)。

あるいは、そういったものとは目的に応じ、それぞれ(実体としての書籍、書類、電子化されたもの)を使い分けすれば良いのであるかもしれませんが、そうなりますと、今度はその「目的」が当初より明確化されることにより不具合、不都合などが生じることが予想されます・・(苦笑)。

このように書いておりますと、実際にそうした局面に立っていないにも関わらず、あれこれ考えるのもあまり意味がないのではないかと思うに至り「その問題は棚上げしておこう・・。」となります。

とはいえ、そうした技術的な変化によって元来の書籍を読む習癖に良からぬ変化が生じるかもしれないと考えますと、多少問題は変わってきます・・。

しかしながら、現在こうして書いているブログ記事も、正確には筆記の意味で書いているのではなくキーボードにて文章を入力しているのです・・。

私がはじめてキーボードにて文章を入力することをおぼえたのはまさに前世紀末であり、その頃はそれなりに違和感を感じており、また「何故、キーボード入力であると文章が浮かんでこないのであろうか?」といった感覚をおぼえていたこともまた思い起こされます・・。

そのことから、私とは、文章を書くことを筆記にておぼえ、そして徐徐にキーボード入力に慣れていったということになります。

また、現在においても場面、目的によっては筆記をも行っており、実際に一連の当ブログ記事初期段階では筆記による下書きからキーボード入力を行い記事を作成しておりました・・。

しかし、面白いことに、ある程度記事を書いておりますと、自身のブログ記事に対する敷居が下がったのか、徐々に下書きなしの直接入力にて記事を作成するようになっていきました・・。

これは昨年の出来事ですので、一概にそれを進化と「のみ」見做すことは出来ませんが、ただ、この程度の年齢になっても色々と順応による変化が生じることは理解できました・・(笑)。

それ故、さきの電子化された書籍に対する危惧云々も、こうしたスタンスにて考えてみれば「自然と収まるところに収まるのであろう・・。」と思うに至ります・・(笑)。

しかし、そこで問題になるのは、その後の実体であれ電子化されたものであれ書籍にて得た「何か」(感覚や知識ではなかろうか?)の実体としての身体への定着の程度です・・。

あるいは、そうした傾向全体から生じる社会への影響です・・。

これは昨今のニュースなどを見聞きしておりますと、何やら良からぬ要素もないことはないのではなかろうか・・?と多少マジメに考えさせられるのです・・。

また元来書籍を読む習癖が定着していない場合においては、その影響もまた大であり、そのことから社会全体における知性?の壁のようなものが、より一層明確化されてしうのではないかといった危惧も生じ得ます・・。

その意味において「知性」といったものは最先端の機器操作に習熟出来る柔軟性である一方において、その芯あるいは核となる要素とは、あくまでも、我々の原初より続く文明を繋いできた生命の灯の延長上に存在する、いわば「原始的な何か」ではなかろうか・・?と考えさせられるのです・・。

また同時に、それこそがさきの柔軟性をも担保するものではないだろうか・・?とも考えます・・。

そして、現代の社会において忘れてきつつある要素とは、一つにはこういったものではないでしょうか?

その意味で、現代の我々とは、見ようによればオデュッセイアでのロートパゴス(蓮喰い)族の島に漂着したような状況であるのかもしれません・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いてどうもありがとうございます。

さる熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」