2017年8月22日火曜日

20170821 読書とブログ記事作成の違い【能動性の多寡】

A「まだまだ先のハナシにはなりますが、現在のペースにて記事を作成投稿し続けることにより、おそらく年内11月中に800記事までどうにか到達することが出来るのではないかと思われます。

とはいえ、これまでどうにか記事作成を継続してはきましたが、その間に何かが大きく変わったと実感するようなこともなく、また、たとえ、この先無事に800記事まで到達することが出来たとしても、おそらくその時もまた、これまで通り大きな感慨もなく、何となく到達するのではないかと察せられます・・。

そして、そうした感慨などの自身を励起・鼓舞するような要素がないにもかかわらず記事を作成し続ける行為とは習慣あるいは意地悪く云えば惰性のようなものであるのかもしれません・・(苦笑)。

また実際にそれを否定出来るような理屈を自身は保持しておりません。

しかし、実際の行動として記事を書き続けるのであれば、そうした批判を否定するいわば防御的な理屈とは特に必要ないのではないかとも思われます・・(笑)。

そうしますと、それはもう一つの自身がこれまで継続している『読書』についても同様であるのではないかと考えが及ぶのです。

先日投稿したブログ記事においても書きましたが、読書に関しては当ブログよりはるかに長く継続していますが、これに関しては、さきに書いたブログ記事作成に対するような防御的な理屈とは、大分以前より考えることもなく、何といいますか、自身の自然な行為の一つとなっているのではないかと思われます・・。

そして、その意味において、さきに書いた感慨などがなくとも記事を作成し続けるようになりつつあることは、それもまた読書と同様、自身の自然な行為へと変化しつつあることを示しているのかもしれません・・。

しかし、読書とブログ記事作成にて大きく異なることは、それら行為の基層にある能動性の多寡であるといえます。

能動性に関しては、読書と比べ、ブログ記事作成の方がより多く必要であるとこれまでの経験より考えます。

そして、その理由から現在に至るまで、ある程度の期間にわたる継続的な文章(ブログ記事)の作成とは為されなかったのではないかと思われるのです。

これを多少詳しく言い換えますと、能動性を発揮し、他者から非難の対象とならず、なおかつ何かしら主張する文章を継続的に作成することは自身にとってはかなり難しいことであり、今現在の段階において(本当に)どうにかそれを行うことが出来ているということです・・。

また、その作成する文章とは客観的な科学的知見を述べるような性質のものではないことから、それ特有の難しさ(表現のバランス)があるのではないかとも思われます。

もちろん、今現在の自身は、そうしたことをただ漠然と感じ、思う程度であり、この先に為されるであろう記事作成を通じ、そのあたりの微妙とも云える感覚を自分なりに開拓あるいは進化発展させることが出来れば良いと考えています・・。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」