2017年11月19日日曜日

20171118 筑紫君磐井について 言向け和す(ことむけやわす)

さきにも少し触れたが、遅くとも六世紀初頭の北部九州(筑紫)においては筑紫君磐井を盟主とする、いわば北部九州連合政権といったものが存在していたことは同時代のことを記した日本書記の継体紀の記述からも推察することが出来る。

そしてまた同時に、この北部九州連合政権とは、畿内のヤマト王権と関係を持たない独立した存在ではなく、遅くとも五世紀代において既に畿内ヤマト王権との間に同盟関係を築いていたと考えられている。

この同盟関係とは、互いにある程度の身分秩序を持ちながらも、筑紫君とは北部九州においては、地域内諸豪族を束ねる、いわば盟主的存在であり、また同時にヤマト王権に対しては、高い自立性・独立性を保持した存在でもあった。

しかしながら、五世紀代のヤマト王権とは、倭王武(おそらく雄略天皇)による中国南北朝時代の国である宋の皇帝に対する上表文(宋書)、あるいは埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の幾分猛々しい銘文からも推察されるように大王(おおきみ)自ら甲冑を環き(つらぬき)列島あるいは朝鮮半島における軍事行動を展開していた時代であった。

この軍事行動とは、端的に表現すると列島在地諸勢力の武力による制圧・征服である。

こうした専制的体制を志向するヤマト王権に対し、最後まであくまでも(平等に近い)相対的な同盟関係であると認識していた北部九州連合政権とは、ごく自然に独自に朝鮮半島とも交易を行い、またその国(新羅)とも対ヤマト王権に対してと同様、同盟関係を結んでいた。

そして継体天皇の御代である六世紀初頭、王権による朝鮮半島への派兵に際し、北部九州連合政権からの出兵を命じられた磐井は、これまでのヤマト王権より命じられた兵士、物資などの負担によって蓄積されていたであろう不満を表明し、そしてヤマト王権の朝鮮半島に渡る船に対して海路の妨害、あるいは朝鮮半島諸国からの来貢船を自領内の港に引き込むことなどを行うことにより徐々に状況が悪化し、そして戦端が開かれた・・。

九州に上陸したヤマト王権の対磐井討伐軍と、それに対する磐井の軍勢は筑紫国御井群(福岡県小郡市、久留米市周辺)にて決戦が為され、その結果、磐井を盟主とする北部九州連合政権側の軍勢が敗れた。

戦に敗北した後の磐井に関する記述は文献により異なり、討伐軍により処刑された、あるいは筑後川沿い東に逃亡し豊の国に至ったともされている。

以降、筑紫君の後継者となった葛子はヤマト王権に対し、服属の証として支配地域であった糟屋の屯倉を差し出し、またおそらく海路の要衝である博多湾沿岸地域の支配権をも王権に譲渡したのではないかと考えられている。

また、ヤマト王権の軍勢はこの戦の後、筑紫君磐井が生前に造営した墳墓とされる岩戸山古墳周辺にあった石像の人馬を破壊し、以降この文化(石人石馬)は廃れ、その後継としてあまり人目にはつかない石室を装飾する当地域独特の装飾古墳文化が生じたものと考えられている。

ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

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