2019年10月20日日曜日

法政大学出版局刊 ジャン・カナヴァジョ著 円子千代訳「セルバンテス」pp.73-75

「われわれが病床においてきたあの火縄銃士はその後どのように行動したのであろうか。彼の戦友の証言は明快である。彼は高熱にもかかわらず戦闘開始の前に甲板に現れた。そして艦長や友人が、彼は病気で戦える状態でないのだから床につくようにとすすめたのに対して、彼は叫んだ。
「中甲板に避難してわが身の健康をいたわるよりは、神と王のためにたたかって死ぬ方がよい(・・・)こうして彼は艦長が命じた大型ボートにおいて勇敢な兵士として戦った(・・・)」

船首に位置するランチは、接近戦においてとりわけ危険にさらされた戦場になる。セルバンテスの勇気には疑いの余地はない。中央の神聖同盟戦闘艦隊が風を利して攻勢に転じたときも、彼は持ち場を離脱しなかった。ドン・ホアンのガレー船は舳先の衝角を取り払い、より直線的で有効な砲弾発射を可能にすると、敵陣に突入した。それ以後陣形を整えた総体的戦術はすべて不可能になった。戦闘はいまや三時間にわたる六万人の兵士の大がかりな肉弾戦と化した。一人の目撃者によれば、「この時点で戦闘は血まみれの恐るべき様相を呈した。海も砲火も一体と化していた。」相次ぐ壮絶な撃突の刻をきざみながら、ドン・ホアンのガレー戦はかろうじてトルコ兵の攻撃から逃れたーこの攻撃を受けていたら、この船は恐るべき殺戮の場となっていたであろう。
 われわれの主人公はなんらかの接舷攻撃に参加したのであろうか。彼は、ドン・キホーテが語るあの兵士、二尺の空間に立ち、襲撃中の船首からいまにも海中にとびこもうとしているあの兵士の不安を感じたのであろうか、あの兵士には敵をさけるのに、血で染まった海へのダイヴィング以外の手は残されていなかった。ラ・マルケサ号の損害ー艦長自身も含めて四十名の死者、百二十名以上の負傷者ーから判断してみると、この船はトルコの反覆攻撃にむしろよく耐えたようにみえる。セルバンテスが、のちに栄光の美しい肩書とみなす三発の銃弾を受けたのはこのときである。最初の二発は彼の胸をうった、と戦友の一人が後に述べている。三発目の銃弾が左手を傷つけた。彼はのちに語るだろう、この傷は醜くみえるかもしれないが、しかし、
「彼は美しいと思う、なぜなら彼はこの傷を過去の諸世紀が見てきた、そして未来の世紀がけっして見ることをのぞみえないようなもっとも記念すべきかつもっとも高貴な機会に受けたからである。なおかつ祝福された記憶に鮮やかな、かの雄将カール大帝のご子息の勝ち誇る指揮のもとで戦いながら受けた傷なのである。」

そして彼は晩年にいっそう誇らしげに語っている。

「仮に誰かが今日私のために一つの奇跡を起こしてやろうと提案するとしても、私はあの驚異的な事件に参加せずに、私の傷も癒えた状態にあることよりは、あの事件に参加する方を選ぶだろう。」

こうして、スペイン歩兵隊の優勢のおかげで、戦況が神聖同盟への有利に傾きかかったまさにそのときに、マンコ・デ・レパント(レパントの隻腕兵)が生まれたのである。石弓の矢で傷つき、捕虜によって斧で首を斬られたアリ・パシャの死は戦況の転回点を記したようにみえる。激戦のさなかに、ウルジュ・アリーのバーバリー海賊カレー船が敗走に転じ、ついてトルコ船内の一万のキリスト教徒漕刑奴隷の蜂起がオスマントルコの敗戦に拍車をかけた。午後四時、敗れた敵は潰滅した。勝者は略奪にとりかかった。それは夜までつづいた。戦果はオスマン艦隊にとって過酷なものであった。百十隻の船が破壊されるか流失した。百三十隻が拿捕され、一万五千人近い奴隷が解放された。しかし同盟軍の側でも、勝利の代償は少なくなかった。一万二千人が戦死し、また負傷の結果死亡した。戦死者のなかにはセルバンテスが含まれなかったのは、われわれにとって幸運であった。」
ISBN-10: 4588006894
ISBN-13: 978-4588006890
セルバンテス (叢書・ウニベルシタス)