2022年9月20日火曜日

20220919 書籍を読んでいて不図、発見・気が付くことについて

いくつかの読み進めている書籍以外で、書棚からある書籍を不図、取り出し立ったままでしばし読むことが度々ありますが、面白いもので、そうした機会に選び、読んだ書籍の記述から、突如として、これまで知ってはいたものの、記憶の片隅に追いやられていた、何らかの知識が想起させられることがあります。

それは、それらの間に認められる、何らかの共通性などの発見ですが、こうしたことは意図して狙ったものではないことから、比較的鮮烈に記憶に残るのだと思われます。直近でのそうした経験は、去る9月17日投稿分の「株式会社岩波書店刊 谷川健一著「日本の神々」pp.186-188より抜粋」の記述にある「元来、山陰地域を根拠とした名和水軍は、南北朝時代に加担した南朝方が敗れて、その残党は、味方である肥後の豪族菊池氏と、その根拠地である肥後国に遷り、そこからさらに南の琉球に進出した」という伝説から、自らの以前の投稿記事「20190323 対話形式2007年10月頃のこと」内、以下の記述が思い出されたことです。

「6世紀の継体天皇の御代に九州北部で生じた磐井の乱はご存じだと思いますが、それで、その筑紫君磐井の墳墓とされる岩戸山古墳周辺地域に特異的に見られる石人石馬もご存じであると思うのですが、この石人石馬が、何と!鳥取県の石馬谷古墳からも、一つだけですが出土しているのです・・。それで、この共通項から遡った地域を考えてみますと、それは古代朝鮮半島南東部にあった新羅ではないかと思われるのですが、これは未だ仮説、いや一応、歴史的背景などは考えてはいるのですが、現段階では空想と云えます・・(笑)。」

厳密には、岩戸山古墳は肥後国には属しませんが、古墳時代、6世紀頃においては、筑後と肥後の有明海をのぞむ地域一帯には、ある程度共通する文化があったものと思われます。そして、その地域での埋葬文化の一つの顕われとして、石人石馬があると云えますが、若干時代は先行するものの、これと同様とも云えるものが、山陰地域にて出土していることは大変に興味深く、おそらくこれら(有明海沿岸の筑後・肥後地域と、伯耆国の山陰地域)での共通する文化を育んだ故地のようなものがあるのではないかと思われますが、おそらくそれは、さきの引用部通り、朝鮮半島南半分の何処か(おそらく旧新羅地域)にあるのではないかと思われます。

また、さきの有明海沿岸と伯耆国について、その他の共通する要素を考えてみたところ、岩戸山古墳が有明海の近く(多少内陸ではありますが、そこに流れ込む矢部川の流域)そして石馬谷古墳が宍道湖・中海と、双方共に内海・潟湖近くの地域に立地していることが共通しており、ここからもまた、居住地域に対する共通した嗜好性のようなものが感じ取れます。

とはいえ、内海を控えた地域での居住を嗜好する生活文化自体は、古墳時代以前の弥生時代から続いており、面白いことに、内海や湖を控えた地域(宍道湖・中海がある出雲、琵琶湖がある近江、浜名湖がある遠江)に、銅鐸もまた集中して出土しているのです。このことは、さきの古墳時代での石馬発見事例とも文化的な連続性があるのか未だ不明ではありますが、他方で、そうした内海・潟湖や湖の近くに居住地を定めるのは、当然であるのかもしれませんが、水稲耕作を主たる生活手段とした集団であると云えます。

ともあれ、このような、一見あまり関係がないように思われる離れた地域から、共通すると思われるものが、時代が変わりつつも、いくつか見出すことが出来る背景には、やはり何かしらの要因があると思われます。そして、この場合であれば、その主たるものは、案外単純であり、列島沿岸を流れる「海流」であったのではないかとも思われます。

こうした事例は、その他にも国内外に多々あるとは思われますが、その着想を、書籍などを読んでいて不図、思い付いた時は、やはり現在でも多少ワクワクしますが、そうした着想は、発見と云うよりも、むしろ(ハッと)気が付くといった感覚の方が、より適切と云えるのかもしれません。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


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