2016年8月20日土曜日

20160819 読書について・・【書籍 ラッセル著『幸福論』からの抜粋引用あり】

現在三度目の野上彌生子著「迷路」(上巻)を読んでおります。そして、その記述から、また新たに色々と思う、考えさせられることが出てきます・・。

以前読んだ時においては特に気に留めなかった記述を今回の読書において興味ある箇所として見出すことは、おそらく皆様においても同様に少なくないと思われます。

しかし、同時に、そうしたことが「何故生じるのか?」とは、イマイチよく分かっていない、自覚していないのではないでしょうか・・?

表層的には「それを読んでいる時の自分の心持、感情が変わっているから生じるのであろう。」となるのでしょうが、ではなぜ、どのように自分の心持、感情とは変化するのでしょうか?

また、おそらく、このあたりをも自身の意識などで制御、操作が出来るようになれば、それはそれでスゴイことなのではないかと思われます・・。

また、そう(自身の心持、感情を意識などで制御、操作出来るように)なれば、このようなブログ記事などを継続的に作成することは、おそらく何の苦でもなくなるのかもしれません・・(笑)。

そして、このようなことを記しておりますと、不図、小林秀雄がどこかで述べていた「文章を書く際には間(ま)というものが極めて重要であり、その間(ま)に乗らないと決して文章というものは書けない。」といったことを思い起こしました・・。

なるほど、これはたしかに自身の体験、経験からもその通りであるかもしれません・・。

また、本日のブログ記事を書く際においても、なかなかまとまった着想が思い浮かばず、幾度か主題を変更した結果、上のようなものとなっているのです・・(苦笑)。

そして、その主題にて、この程度まで文章を書き続けることが出来れば、とりあえず自身としては、及第ではあるのですが、同時にそれが読んで頂いている方々(のより多く)にとって面白いものであるかどうかとは、極めて遺憾ながら、また別問題であるようです・・(苦笑)。

とはいえ、どのように才能豊かな著述家であろうと、その著作の最初から最後まで全編が面白いといったものは存在しないのではないかと思われます・・。

そして、もし、そのような著作が存在するとすれば、それは先ほど記した我々が持つ心持、感情の特徴から敷衍しますと、逆説的にあまり深みのない、面白くないものとなってしまうのではないでしょうか・・?

また、それに付随して、深みのある読書の面白さ、楽しさとは、一つに、そういったところに存するのではなかろうかとも思われますが、如何でしょうか?

また、ここから一気に卑近な事情にハナシを移しますと、はじめに記した主題によってここまでハナシをある程度拡張し、引張ることが出来れば、それは自身としては、及第以上ではなかろうかとも思われます・・(笑)。

さらに、ここまで記しておりますと、不図、以前読んだバートランド・ラッセル著岩波文庫刊「幸福論」の一節を思い起こしましたので、下に示します。
PP.68ー70
『偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。
現代のアメリカの出版業者が、初めて持ち込まれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。
たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。
「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かにストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な箇所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」
こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。
現代の読者がどれほど退屈を恐れているか承知しているからだ。彼はまた、孔子古典や、コーランや、マルクスの「資本論」や、そのほかこれまでベストセラーになったすべての聖典についても、同様なことを言うだろう。
このことは、聖典のみにあてはまることではない。
最もすぐれた小説は、おしなべて退屈なくだりを含んでいる。
最初のページから最後のページまで才気がひらめいているような小説は、まずまちがいなく、偉大な本ではない。
偉人の生涯にしても、二、三の偉大な瞬間を除けば、興奮にみちたものではなかった。
ソクラテスも、おりふしは晩餐会を楽しんだし、また、あおいだ毒ニンジンが回りはじめたときも、自分の会話に深い満足をおぼえたにちがいない。
しかし生涯の大部分は、妻のクサンチッペとともに静かに暮らしたのだ。
そして、午後には健康のために散歩をし、もしかすると、途中で二、三の友と人会ったことだろう。カントは、一生涯、ケーニヒスベルクの町から十マイル以上離れたことは一度もなかった、といわれている。
ダーウィンは、世界一周したあと、その後の生涯をずっとわが家で過ごした。
マルクスは、いくつかの革命を起こしたあと、残りの日々を大英博物館で過ごすことに決めた。
総じてわかることは、静かな生活が偉大な人びとの特徴であり、彼らの快楽はそと目には刺激的なものではなかった、ということだ。
偉大な事業は、あまりにも注意を奪い、あまりにもむずかしいので、骨の折れるような娯楽をするためのエネルギーがほとんど残らないのである。例外は、休暇中に肉体的エネルギーを回復するのに役立つような娯楽で、その最もよい例は山登りであるかもしれない。

さて、このあたりは如何にもバートランド・ラッセルらしい文章であると思われます・・。
また同時に、抜粋引用部前半からは、モンティ・パイソン調の笑いを誘われることから、こうしたことにおかしさを見出す精神とは英国特有のものであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本での大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。