2023年1月19日木曜日

20230118 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋

一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.28-30より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130820915
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130820912

銅鐸と銅鏡
銅に錫をまぜた青銅器は、中国大陸において殷・周時代に大量に製作された。銅鐸などの祭器のほか剣や矛などの武器もあり、弥生人はこれも祭器としてあがめるようになった。弥生人が予想より早く青銅器の倣製を行ったことも知られている。銅鐸は弥生時代を代表する祭器で、筒型の本体(身)の上に吊り手(紐)をつけ、中に青銅の棒(舌)を吊るす。身を叩くと美しい音を出す楽器である。銅鐸のもとは、中国で銅鈴といって、家畜の首につける小さな鈴であった。朝鮮半島にこれが渡って、シャーマンが身につける呪術の祭器となり、さらに日本に渡って祭器としてのデザインを発達させた。

 前期の銅鐸は、高さ20~30センチの小型で、装飾は少ない。中期にこれが40~50センチと大型化され、鰭をつけ装飾化が進む。流水文をつけた中期の銅鐸は、兵庫県気比神社の境内から見つかったもので、これの鋳型の破片が大阪府の遺跡から出土している。昭和39年(1964)、神戸市の六甲山の尾根の下から、銅鐸14個、銅戈(ほこ)7本が見つかった。[図8]図9はその銅鐸の一つで、袈裟襷文といわれる帯状の区画のなかに、人間の農作業(脱穀)や狩猟のさま、サギ、カメ、カマキリ、トンボ、トカゲ、カエル、魚などが浮線で(鋳型では線刻で)あらわしてある。真上向き、真横向きの、児童画のような多視点による記号的表現で、人間の頭は丸が男、三角が女だと見る説がある。

 平成8年(1996)には、島根県の山中から銅鐸36個が埋められているのが発見された。これらは、神が顕現する場所を選んで祭りのあと奉納されたのではないかといわれる。後期になると、さらに大型化され飾り耳をつける。舌のないもの、高さ134センチのものもある。「楽器としての機能を失った。この平和なフィクションの青銅美術は、古墳文化のはじまえるや、現実の攻撃に耐えず、文字どおり葬り去れられる。伝統としてなにが残ったか、おそらく青銅器鋳造に習熟するという技術が貴重な遺産として伝えられたのであろう」。吉川逸治はこう評する。

 銅鐸は2世紀の終わりになくなり、倭国の乱を統一した卑弥呼の配布する銅鏡がそれにかわった。卑弥呼の支配した邪馬台国の所在については、従来から九州説、近畿説に分かれて議論が行われている。1986年発掘が始められた先出の吉野ケ里遺跡からは宮殿の跡ではないかと話題になった。一方1997年、天理市黒塚古墳から33枚の三角縁神獣鏡(三角縁銘帯四神四獣鏡)[図10]が出土して、これこそ卑弥呼が魏王から賜った鏡ではないかと注目された。この問題については次節でのべる。銅鏡は、すでに弥生中期に前漢、後漢の王から北九州の倭王に与えられており、細微な幾何学文を背面に刻んだ韓国製の多紐文鏡も大阪府から出土している。

 いずれにせよこのように、弥生時代、倭国が小国の分立状態から卑弥呼によって統一されるまでの過程で、中国、韓国との国交を通じて銅鐸、銅鏡、銅剣、銅戈などさまざまな青銅製品が日本にもたらされた。それらは呪術愚、あるいは王の権威の象徴として用いられ、あるものは倣製品として模造された。銅鐸のように日本で独自の意匠に発達したものもある。弥生土器という新しい形式の土器の出現も、大陸のそれの影響なしに考えられない。大陸美術の本格的移入の前触れは、すでに弥生時代にあった。