2016年6月4日土曜日

20160603 「慣れ」およびいくつかの思想について・・

本日も若干帰宅が遅くなりました。
また最近は電車通勤にも以前に比べ慣れてきたのではないかと思います・・。

これは自慢できるようなことではありませんが、それでも少し前までは「これからまた電車通勤などできるのであろうか・・?」と半ば本気で考えておりました(笑)。
慣れというのはスゴイものです・・。

また、慣れといえば、私にとっては現在継続し作成しているこのブログも一面において「慣れ」の産物です・・(笑)。

そういえば、昨年の今頃は300記事どころか100記事も書けるかどうかで四苦八苦しており、また、その文体も現在に比べ、何といいますか、頑なであり、同時に敢えて硬質な文体を以って書くことに対し、よくわからない美学あるいは憧れのようなものを持っていたようです・・(苦笑)。

また、硬質な文体といえば、理系の論文などがその一つの典型であると思われますが、この文体を用いて文章を書きますと簡潔明瞭ではあるのですが、その反面、文章を書く際に生じる創造性あるいは偶然の思い付きなどの芽を摘んでしまうような傾向もまたあるのではないかと思います・・。

それ故、たとえ硬質な文章を書く際においても、まずはじめに散文的な形式にて概ね主題に沿った内容の文章を(ダラダラと)書き、そして後にそれに対し重複箇所を削除、修正したり、精確を期するよう表現に改めてゆくといったような方法を用いることにより、それらしきものは書けるのではないかと思いますが、これは不真面目な意見であるかもしれません・・(笑)。

とはいえ、一方において散文的なものには散文的なものの良さといったものもまた存在すると思います・・。

その昔、ある著述家が「小説とは一つの哲学(観念の体系)を物語形式で述べたものである。」といった意味のことを述べておりましたが、私はこの意見は間違っていないと考えます。

もっとも聖書などはどちらとも(物語、哲学書)とらえることが出来、また、それと類似した形式にて書かれたニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」なども同様(どちらともとらえることができる)であるのではないかと思います。

そういえば、ゲーテがキリストのことを「当初キリストは政治的革命を試みたが後にそれは道徳的なものとなった。」といった箴言を述べておりましたが、そのことは少し前に製作されたキリストの後半生を描いた「最後の誘惑」という映画の内容にも共通しているのではないかと思います。

また「当初キリストは政治的革命を試みたが後にそれは道徳的なものとなった。」に関しては、孔子の儒教についても同様の傾向がある(あった)のではないかと思います。

とはいえ、双方の当時の覇権に対する挑戦といったある種の主体性の強さにおいては相異があるとは思いますが、これは東西文化の違いなのでしょうか・・?

さて、ハナシをもと(とはいえ、果たしてどこが「もと」なのだろうか(笑)?)に戻し、聖書と類似した形式にて記されたニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」に関しては、その後マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などといった論文、学術書に精製、昇華されたのではないかとも思えます。

あるいはホセ・オルテガ・イ・ガゼットの「大衆の反逆」においても、それは同様あるいは類似した関係が「ツァラトゥストラかく語りき」との間にあるのではないかと考えられます。

さらに、それ(ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」をはじめとする一連の思想)はバタイユの思想とも強い関連性があり、またバタイユの思想に関しては、三島由紀夫の特に後期の思想に対して強い影響を与えたのではないかといわれております・・。

また、その三島由紀夫は1960年代の我が国において「このままでは日本は日本でなくなり、その代わり無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう・・」といったことを述べておりました。
そして、必然か偶然かこれはマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の最終章において述べられている「精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは・・」へとつながるのではないかと思います・・。

加えて、私がこれまでのブログにて幾度かその文章を抜粋引用させていただいた「ビルマの竪琴」にて有名な竹山道雄とは、ニーチェの著作の翻訳においても知られております。

さきの九州・熊本での大地震にて被災された地域の今後の早期の復旧そして復興を祈念しております。

ここまで興味を持って読んでいただいた皆様、どうもありがとうございます