2017年10月31日火曜日

20171031 ①~⑤それぞれの種族・民俗文化の歴史的関係について

これまでに5つの民俗文化を述べてみたが、もちろん、これはある程度仮説的なものであり、さらにまた、それらのみが我が国文化の基層を構成したものであるという意味でもない。

はじめに述べた①母系的・秘密結社的・芋栽培-狩猟民文化の我が国への伝来は縄文時代中期以後(後期)に置いたが、無論、それ以前にも何らかの民俗文化が列島に存在していたのであるが、それについては知識不足でもあることから、ここでは触れない。

ともあれ、この①母系的・秘密結社的・芋栽培-狩猟民文化は伝来以降、日本列島に広く拡散伝播し、また同時期の土器(縄文)においても、それぞれの地域的特徴が看取出来るものの、同時に繁縟的といった縄文土器一般における共通した意味合い、要素をも付与したとのではないかと考える。

そしてその後、縄文時代末期になると②母系的・陸稲栽培-狩猟民文化が伝来し、これが①を含む在来文化に加わり混淆し、そして日本列島西部を主として徐々に農耕文化的様相へと変貌していった。

さらにその後、弥生時代に入った紀元前4~5世紀頃になると、大陸での戦乱の影響により、中国南部の江南地方(呉・越)より④男性的・年齢階梯制的・水稲耕作-漁撈民文化そしてそれとほぼ時代を同じくして朝鮮半島を経て③父系的・「ハラ」氏族的-狩猟・飼畜民文化が列島に流入し、①と②を含む在来文化の混淆にて形成された、ある程度農耕への比重を持つ文化の上に③、④の文化が加わり、交流、混淆し、次の時代への胎動をもたらす弥生時代の社会が成立した。

とはいえ、もちろんここで述べた①~④それぞれ文化の交流、混淆の様相とは多種多様であり、また、それらの様相こそが我が国の多彩な背景を持つ地域民族文化の基層、マトリックスとなったと云える。

具体的には、縄文時代以来の狩猟採集と共に母系的畑作農耕を主たる基盤とする種族文化は主に内陸地域へ、新たに伝来した水稲耕作を主たる基盤とする種族文化は概して河川下流域、海岸付近へと居住するといった様相である。

そして、弥生時代も末期に近づいた頃に至ると水稲耕作を基盤とした酋長(首長)が治めるクニが各地に少なからず存在していた。

こうしたクニグニの成立の背後には共通して③、④の父系的農耕種族の文化要素が(ある程度)強く作用したのではないかと思われる。

また、この時代より言語的にはアルタイ語系の言語が徐々に浸透し、支配的言語となりつつあったのではないかと考える。

ともあれ、こうした様相、状況を示していた弥生時代末期~古墳時代初期の我が国に⑤の天孫族が朝鮮半島より渡来し、父権的・支配者文化、支配体制を持ち込むこととなる。

この天孫族は在来の諸種族、クニグニを征服し、大和にそれまでよりも巨大な国(大和王権)を建てた。この大和王権の政治支配は徐々に確立され、支配領域は拡大し、在来諸種族はその独立性、独自性を喪失し、漸次、この大和王権社会に組み込まれていくことになる。

それらは王権社会内部にて階層化し、農民、漁民、手工業者あるいは奴婢といった被支配層となり、またさらに支配種族自身も諸族としての独立性を喪失し、そして王朝制が確立するに至った。

以上の過程により大和王権内部社会の諸文化は、徐々に一様化、均質化の傾向を進み、かくして量的、質的にも一つの大きな文化共同体と称すべきものが形成され、またこれに伴い(より広域な)意識共同体も惹起され、ここに日本民族という新たな民族集団が発生するのである。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在まで日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』