2017年11月12日日曜日

20171111 九州南部における古墳造営様式について①

さきに九州北部における古墳文化の様相について述べたが、大変興味深いことに九州島全土における古墳の造営様式とは、地域により多様であり、それは九州南部においての方があるいは北部に比べ著しいとも評し得る。

先ず九州最南端の現在の鹿児島県域においては九州北部地域において特徴的とされた石人石馬、装飾古墳は存在しない。

また、鹿児島県域においても西側の薩摩半島を包含する県西南地域においては、そもそも古墳と称し得る高塚様式の古墳時代(三世紀~七世紀)に造営された墳墓の数自体が極めて少なく、土壙墓上に墓標として石を立て置くといった独特の墳墓(立石土壙墓)が造営されていたとされるが、その数自体もかなり乏しいと云える。

一方、東側の大隅半島側においては、さきにも述べたように、地理的に我が国の古墳文化にある種の普遍性を付与した大和王権の朝鮮半島、大陸への大動脈である瀬戸内海の延長線上でもあることから、大和王権の様式に依拠した古墳が五世紀前半頃より造営され、またそれを別言すると、北隣の日向における様式とも共通することから、これらの地域には古墳造営様式を含む何らかの文化的な連続性、共通性が存在していたものと考えられる。

またこの日向、大隅地域さらに詳細には宮崎平野から肝属川下流域、国見山麓の肝属平野までを南北とし、そして西端を伊佐市として主に霧島山麓地域において特徴的であり、多く見られる古墳時代中期以降(五世紀中期以降~七世紀代)の墳墓造営様式が地下式横穴墓である。

それ故、この地下式横穴墓とは当地域の所謂『日向・大隅隼人』特有の墓制であるとされているが、これは時代、地域的にも重なるため適当な見解であると云える。

さて、この地下式横穴墓の造営様式とは具体的には地面から井戸のように垂直に穴を二~三メートル程度掘り下げ、さらに穴の底から水平方向に穴を掘り遺体を埋葬、安置する玄室を掘削作成する。

その玄室の形状はさまざまであり、四角形、長方形、楕円形などがあり、天井部もまた同様にドーム、切妻、寄棟と多様である。

さらに玄室内部壁面には家屋内部を意識したと思われる浮き彫り、線刻等が為されていることが散見されるため、それは死者のための家として認識されていたのではないかと考えられる。

また、埋葬の後、玄室入り口を封鎖し、竪穴を埋め戻すため、通常の横穴式石室様式の古墳に比べ、追葬は困難であると考えられるものの、追葬が為された痕跡(遺体の位置など)なども少なからず見受けられることから、その葬送における背景思想とは、さきに述べた九州北部における横穴式石室を用いた古墳のそれからの影響を受けたものであると考えられる。

とはいえ、この地下式横穴墓とは、地表からは古墳における墳丘といった存在を示すものを視認することが困難であることから、その発見は偶然に為されることが多いと聞く。

(墳墓上の地表を重量のある車両(トラクター)などが走行した際、その重さで玄室天井部が崩落し、上下にて事故が生じることもあるとのこと。)

しかしながら、それが造営当時よりそう(墳丘を持たない)であったかは未だ確たる見解はなく、造営当時は土盛り程度は為されていたのではないかと考えられている。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も同様に祈念しています。