2023年8月6日日曜日

20230805 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.398-400より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.398-400より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

1885年の世代
 日本の工業化は、日清戦争(1894~95)の後で大いに進んだ。その進み方が殊に早かったのは、綿糸紡績を中心とする軽工業である。日清戦争(1904~05)の後、第一次世界戦争(1914~18)に至る時期には、そこに造船や鉄鋼のような重工業の発展(官営企業を主とする)が加わり、軽工業部門では、独占化(紡績・製紙など)が進行した。二つの対外戦争の軍事的成功と、国内での工業化の成功とは、明治の天皇制官僚国家の権力を安定させると共に、アジア大陸に対してはその膨張主義的傾向をはっきりさせ、国内の体制批判者に対する弾圧政策を強めるように作用した。そのような日露戦争後の権力者の性質を見事に象徴していたのは、1910年に起こった二つの事件ー日韓併合と「大逆事件」である。日韓併合には、その後「対支21ヶ条要求」(1915)とシベリア出兵(1918)が続き、「大逆事件」の後には、「米騒動」の軍隊による弾圧(1918)や「治安維持法」(1925)が来る。

 工業化に伴って、人口の都会集中の傾向もあらわれた。たとえば今世紀の初め(1900)に150万であった東京市の人口は、1920年には200万を超えていた。教育は普及し、前世期末(1897)に66.7%であった義務教育の就学率は、1910年は早くも98.198.1%に達した。日清戦争以前に東京にしかなかった帝国大学は、戦後1910年までには京都・東北・九州にもつくられていた。同時に、日露戦争後の不況のなかで、日本近代史上はじめて、高等教育機関の卒業者の就職難という現象もめだちはじめた。高等教育をうけた失業者が、必ずしも体制の批判者ではないが、少なくとも彼らが自己を国家と同定することは少ないだろう。明治維新前後に生まれ、明治国家の運命と自己の運命をむすびつけて考えた一世代の後に、1885年前後に生れ、日露戦争後の時期に青春を過ごし、国家から離れて、またしばしば国家に対して、自分自身の問題を考えることに専念する一世代が来たのである。日露戦争の終わったとき、20歳前後であった小説家志賀直哉(1883~1971)や谷崎潤一郎(1886~1965)、詩人木下杢太郎(1885~1945)や北原白秋(1885~1942)の関心は、彼らの生涯を通じて、個人の感情生活や、美学や、日本語とその文化の伝統に向かい、政治的な面を含めて日本社会の全体の構造と機能に向うことはなかった。彼らにとっての明治維新は遠かった。体制はもはや選択の対象ではなく、与件であった。他方彼らのなかの誰も、十月革命を予期せず、日本共産党はまだ成立していなかった。体制の全体を批判するために有効な知的道具としてのマルクス主義が、日本の知識層に広く普及しはじめたのは、1920年代になってからである。

 しかし弾圧にも拘らず、権力に対する反抗がなかったのではない。幸徳秋水と堺利彦の「平民社」の流れを襲いで、荒畑寒村(1887~1981)と大杉栄(1885~1923)は、1912年に「近代思想」(後には「平民新聞」を刊行し、社会主義の立場をとった。荒畑はその後1922年に日本共産党の創立に加わり、大杉は無政府主義者として労働運動にも知識層の青年にも大きな影響を行使しながら、1923年の大地震の混乱のなかで甘粕憲兵大尉に暗殺された。これが1885年の世代の少数派といえるだろう。その少数派を意識していた問題を含めて、日露戦争後十月革命前、1910年前後の時代の特徴を鋭く体現していたのは、詩人ジャーナリスト、石川啄木(1885?~1911)である。

 啄木は1910年8月に、「官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて」いて、「学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなった」状況を指摘して、「理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失った)青年たちの、「内訌的、自滅的傾向」について書いた。そのとき、明治寡頭制権力は、勝ち誇っていた。「強権の勢力は普く国内に行亙つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる・・・」という状況を、啄木は「時代閉塞」と称んだのである。