2024年2月29日木曜日

20240228 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」 pp.93‐95より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」
pp.93‐95より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188501
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188504

 保守もリベラルも抽象的な目標では一致する。たとえば弱者を支援しろといわれて反対する政治家はいない。けれどもリベラルはそこで、できるだけ広く「弱者」を捉え、国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度を構築しようとする。それに対して保守はまず「わたしたち」のなかの「弱者」を救おうとする。むろん、その「私たち」の内実は事例により異なる。「わたしたち日本人」のこともあれば「わたしたち男性」「わたしたち富裕層」のこともある。いずれにせよ、そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。

 これは、いまの日本で使われている保守とリベラルの対立が、本書でいう閉鎖性と開放性の対立にほぼ重なっていることを意味している。保守は共同体が閉じていることを前提としている。そのうえで仲間を守る。それに対してリベラルは共同体は開かれるべきだと信じる。だから保守を批判する。

 それゆえ、ここまで検討してきた開放性をめぐる逆説は、保守とリベラルの非対称性を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれる。法や制度は万人に開かれねばならない。それは正しい。だれも反対しない。けれども肝心の閉鎖性と開放性の対立がそれほど自明なものではない。

 現在は左派に階級闘争のような実質的な理念がない。それゆえ、いまの左派、つまりリベラルは、自分たちの倫理的な優位を保証するため、形式的な開放性の理念に頼るほかなくなっている。けれども、ここで繰りかえし指摘してきたように、開かれている場を志向すること、それそのものが別の視点からは閉鎖的にみえることがある。これはけっして抽象的な話ではない。現実にいま日本のリベラルは、彼らの自意識とは裏腹に、閉じた「リベラル村」をつくり、アカデミズムでの特権や文化事業への補助金など、既得権益の保持に汲々としている人々だとみなされ始めている。

 そんな意見は一部の「ネトウヨ」が言っているだけだ、と鼻で笑う読者もいるかもしれない。その認識は誤っている。左派への厳しい視線はもはやネットだけのものではないし、日本だけのものでもない。たとえば二〇二一年には、作家のカズオ・イシグロのあるインタビューが話題になった。彼はつぎのように述べている。「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなど飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです」[★43]。イシグロは二〇一七年のノーベル文学賞受賞者で、リベラルを代表する世界的な作家である。そんな彼が漏らしたこの述懐は、現在の「リベラル知識人」たちが、世界の市民と連帯しているかのようにふるまいながら、じつのところは同じ信条や生活習慣をもつ同じ階層の人々とつるみ、同じような話題について同じような言葉でしゃべっているだけの実態を鋭く抉り出している。

 保守は閉ざされたムラから出発する。リベラルはそれを批判する。けれども、そんなリベラルも結局は別のムラをつくることしかできないのだとすれば、最初から開き直りムラを肯定する保守のほうが強い。いまリベラルが保守よりも弱いのは、原理まで遡ればそのような問題なのではないか。