2022年1月20日木曜日

20220120 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

大隈は天保9年(1838年)2月佐賀に生まれた。その家格は上士であった。肥前藩の藩校・弘道館で経書を学び、のち藩の蘭学寮において蘭学を勉強し、その後長崎で英学を修めた。そして、これら洋学の勉学にあたっては、とりわけ大砲・築城など軍事方面のことに力を注いだ。

彼ははじめ尊攘思想を抱いていたが、蘭学の修行、長崎への往来、西洋兵制の勉強などの結果、開国論者になった。生来覇気にもえていた若き大隈は、めまぐるしい幕末動乱の政局に肥前藩を登場させようとして、実に焦慮した。しかし、藩主・鍋島直正(閑叟)は公武合体の立場に立ち、終始自重的態度を持して動かず、変革の過程は、大隈の焦燥をよそに肥前藩とは関係なく薩長両藩を中心として進展して、ついに明治維新となった。

 慶応4年(1868年)3月、大隈は参与・外国事務局判事に任じられて、長崎在勤を命ぜられ、こうして彼は明治新政府に仕えることになった。ついで、官命によって京都に赴くが、それは当時外交上の大問題となっていた浦上切支丹宗徒処分問題について外国側との交渉の局に当たるためであった。30歳を越えたばかりの若き大隈は、この折衝においてイギリス公使パークス(sir H. Parkes)に単独で立ち向い、烈しい論争を交えて屈せず、その縦横の才略と毅然たる態度とは、新政府要路のひとびとに大隈の存在を強く印象づけることになった。そもそも維新の主たる推進力は薩長二藩であった関係から、明治新政府においては周知のようにこの両藩の出身者が巨大な勢力を擁してわが世の春を謳歌することになった。これに対して、維新の変革を無為の中に傍観した肥前藩出身者の肩身は甚だ狭く、大隈の前途も亦、おのずから光明に乏しいものにみえた。けれども、浦上問題についてのこの折衝を糸口として、「運命の星」は彼の上に光を投げかけることになった。

 同じ年の12月外国官副知事に任じられたが、その彼は贋造貨幣問題というこれ亦当時の外交上の難問題について外国側と交渉を試みることになった。そして、その問題は財政と深く関連することもあって、会計官副知事も兼任した。彼が財政に関係したのは、実にこのときからである。大隈は後年に回顧して、当時の自分は財政のことには「真個の門外漢」であったが、外交との関係上やむを得ず財政に手を染めることになった。と語っている。臨機に策を立てて果断、決行する性格の彼はやがて財政の根本的立直しを企てるとともに、外国側と交渉を重ねて、幣制度早急の改革を約束して、ついに局面を収拾した。大隈は明治2年4月から会計官副知事専任となった。

 明治3年には参議兼大蔵大輔となった。このとき参議に列していたのは、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、広沢真臣(同)、佐々木高行(土佐藩)、斎藤利行(同)であった。それ故に、維新の変革にあたって活躍することのなかった藩の出身で参議になったのは、当時は大隈ただ一人であった。この異例の昇進は何に因るか。それは外交・財政が国政の重要な分野でありながらもその処理には本来特殊の能力・知識を必要とし、曽ての「尊攘の志士」たちの必ずしも得意としない特殊の領域であった。そのような分野で、大隈が機略・闘志をもって難局に当り、臨機・迅速な解決を与えたことに原因する。当時木戸は大隈のこの才略を「義弘、村正の名剣」に喩えた。

 明治6年予算編成問題で時の大蔵大輔井上馨が辞職すると、大隈は大蔵省事務総裁を兼任することになり、困難な予算の編成を達成して、その手腕を示した。ついで、同年征韓論争で西郷隆盛以下の征韓派諸参議が連袂辞職したあと、政府の陣容立直しが行われ、その結果、彼は大久保のあとを襲って参議兼大蔵卿に就任した。そして、大久保は爾後参議兼内務卿として岩倉具視(右大臣)の下で政府の中核となるが、大隈は伊藤博文とともに大久保の羽翼として彼を補佐することになった。なお、伊藤はこの政府再建の際に工部大輔から参議兼工部卿に昇任したのであった。大隈は、このように新政府内に次第にその地歩を築いた。但し、それにもかかわらず、枢機は岩倉具視、三条実美(太政大臣)を別とすれば依然として薩長出身者の手に掌握されていた。それ故に、陸奥宗光が指摘したように、廃藩置県、征韓論争、大阪会議など新政府が当面した重要段階においては大隈はつねに単に第二義的な役割を演じるに止まるか、又は局外に置かれたのであった。

明治10年に西南戦争が勃発すると、大蔵卿たる彼は財政困難の中で不換紙幣の発行に訴えて戦費の調達を行い、その才幹を大いに評価された。ところで、この西南戦争下において木戸孝允は歿したが、翌11年には大久保利通が紀尾井坂の変に倒れた。そうなったとき、大隈の前途ははからずもここに大きくひらけた形になった。もはや上から彼を制御するものはなくなり、且つ彼は今や参議首席ということになった。大隈は伊藤とともに政府の中枢を形づくるにいたったのである。明治11年には彼は41歳であった。