2021年7月16日金曜日

20210716 次の目標に到達出来た後について思ったこと

 かねてからのスランプ気味の状態は現在に至るまで引き続き、その中で、どうにか記事作成は続けてはいますが、あまり一記事毎の「書き上げた」という実感はなく、また同時に、作成記事の中に「何か新たなことを書いた」といった充実感もなく、以前にも書きましたが、これまでの記事作成にて、どうにか培った、いわば小手先の記事作成技術のようなもので現在、書き繋いでいると云えます。

また、以前にもこうした状態は何度かありましたが、今回のスランプもまた、毎回そうであるように、また違った感じのものであり、具体的には、今回のものは特に、新たな記事作成の題材となるものが、なかなか定まらず、記事作成を早く行いたいとは思っているものの、それに取り掛かることが出来ないといった、それなりに厄介なものであると云えます・・(苦笑)。

これが、何も気にせずに、半ば義務的なものとして書き始める方が多少は気が楽であり、また実際、以前はそのような感じにて記事作成を行っていましたが、それがある程度続いた先の現在においては、そうした(いわば)自分を騙しにかかることも、どうしたわけか難しくなってきたのです・・。

いや、これに関しては、自分をもっと上手に騙すことを覚えて記事作成が出来る精神状態を即座に醸成出来るようになれれば良いのかもしれませんが、あるいはもっと端的に、これまで記事作成に費やしてきたエネルギー自体が乏しくなってきたことから、必然的に、上記のような状態に陥ってしまったのかもしれません。ともあれ、残り当記事を含めて20記事の投稿により、当面の目標である1600記事に到達することができますので、どうにか、そのあたりまでは、あまり無理をせずに到達出来るのではないかと考えています。

しかしまた、もう少し投稿記事数が増えましたら、1600記事への到達後についても考えておいた方が良いのかもしれません。次の到達後は、またしばらく2週間ほど、記事作成およびツイッターからも離れてみようと考えています。そして、その空いた時間を利用して、これまでしばらくの間に斜め読み、積読しておいた書籍を、身を入れて読み進めようと思います。

また、それに加えて、このコロナ禍が落着いてきましたら、九州を含む西日本地域にて動き回り、また、これまでのブログ記事作成経験をも活かせるような副業(セカンド・ジョブ)を探してみたいとも考えています。

個人的に興味深いと考えているのは、同上地域に立地する医療福祉系学部を有するいくつかの、大学さま、あるいは専門職大学さまの色々な取組み等を、自身のブログあるいは他のHPなどを通じて、出来るだけ平易なコトバと写真、動画等を用い発信、周知することです。

こうした活動とは、これまで多くの場合、個人が一つの大学に所属して行ってきたことから、活動を進めるに伴い徐々に活動の展開が一定化されてしまいがちであったと思われるのですが、これが週、もしくは月毎にて違った大学の取組みに対して同一人物によるレポートであれば、読み手としては、それなりに興味が惹かれ、また、先の展開の仕様もあるのではないかとも思われるのです。

とはいえ、おそらくこうした職種とはJREC-INなどには掲載されていないと思われますので、その探し方については、もう少し検討する必要があると思われます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 



一般社団法人大学支援機構



~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









20210716 株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」pp.22-25より抜粋

株式会社筑摩書房刊 米窪朋美著「島津家の戦争」
pp.22-25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480434828
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480434821

当時、中国大陸を支配していた明朝は海禁政策を布いていた。

明の皇帝は国内の反明勢力と海賊との結びつきを恐れて、自国民に他国との海上貿易を禁じ、外国の朝貢船のみに入港を許可した。いわば条件付きの鎖国である。 しかも朝貢船は好きな時に好きな場所へ行けるわけではなく、国ごとに時期や入港場所の指定があった。たとえば日本は十年に一度、浙江省寧波から入港するようにと定められていた。このように国同士の厳しい取り決めが交わされる一方で、盛んになっていったのが密貿易である。

 十六世紀初頭、東アジアの貿易市場をさらに活気づける事件が起こる。ポルトガルのアジア進出である。1510年、ポルトガルはインドのゴアを占領。その後セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島が次々とポルトガルの手に落ちていった。

 ポルトガルの得た果実の中で、ことに重要なのはマラッカだった。マラッカは南シナ海とインド洋を結ぶ海上交通の要所だ。ポルトガルがこの地を押さえたことで、ヨーロッパと東アジアが一つに繋がった。

 ポルトガルはマラッカを拠点に東アジア貿易にも乗り出した。ちなみに東アジアの輸出品のなかで、特にヨーロッパからの需要が高かったのは日本の銀だ。日本の銀は石見銀山の発見と灰吹き法と呼ばれる精錬法の導入により飛躍的に産出量が増大し、日本は新大陸アメリカに次ぐ世界第二の銀産出国となっていた。 

 一連の動きのなかで、海上交通の花形に躍り出たのが琉球だった。

 琉球はもともと東シナ海と南シナ海をを結ぶ役目を果たしてきた。ポルトガルがマラッカを占領したことにより、自国の物産はもちろん、中国、朝鮮、日本など東アジア諸国の商品をマラッカに持込み、反対にインドやジャワ諸島、ヨーロッパの商品を持ち帰ることが可能になった。琉球に世界中の品物が集まるようになったのだ。

 この恩恵にあずかったのが薩摩であり、対琉球貿易の入口の一つが都城島津家所有の内之浦であった。

 従来、日本は明国との窓口を博多に設けており、貿易において薩摩は博多に一歩も二歩も先を越されていた。しかし薩摩は琉球を介することで、明どころか世界中の商品を手に入れることができるようになったのだ。

 慶長14(1609)年、家康の許可を得て薩摩藩は奄美地域から琉球へ出兵した。独自の高度な文明を誇っていた琉球王国であったが、最新鋭の兵器を携えた薩摩武士の猛攻撃の前にはひとたまりもなく、たちまち首里城は陥落、琉球国王・尚寧王は捕らえられ、鹿児島へと連行された。

 翌年、尚寧王は薩摩藩主・島津家久とともに駿府城で大御所・徳川家康と、江戸城で二代将軍・徳川秀忠と面会し、その後再び鹿児島に戻ると島津家の求めに応じて薩摩の琉球統治方針に従う旨の起請文に記し、やっとの思いで琉球へと帰国した。ここから琉球の苦難の歴史が始まる。

 幕府から琉球の仕置きを命じられた薩摩藩は、与論島以北の奄美地方を割譲して薩摩藩領としたものの、琉球全土は植民地化せず、沖縄・先島を琉球王国として残した。

 薩摩藩は琉球をあえて同化せず、従来の王朝体制を温存して、中国との朝貢関係も継続させた。言うまでもないが、このような形式をとったのは薩摩側にとって都合がよいからであり、琉球の独自性を認めていたからではない。

 薩摩藩は琉球に出先機関(琉球仮屋)を設置し、朝貢貿易の運営に関与するとともに、琉球から多額の租税を徴収した。薩摩藩がいろいろな名目をこじつけて琉球から甘い汁を吸い上げる様子は、まさに「骨の髄まで」という表現がぴったりとあてはまる。

 また、琉球は薩摩藩を介して幕府へも服従を強いられた。

 琉球王が即位するたびに謝恩使を、将軍の代替わりのたびに慶賀使をそれぞれ将軍家へ遣わすことになっていた。その際、使節は中国風の衣装を身につけ、異国情緒たっぷりな行列を仕立てたという。 

 使節派遣は幕府からすれば異国を従えていることを天下に示す機会であり、薩摩藩にとってはその異国を事実上従えている自らの存在感を幕府に示す機会でもあった。

 むろん、こうした支配の在り方は琉球にとっては屈辱的なものだった。しかしながら、この時代の琉球支配と、近代になってからの琉球統治とを比べて、どちらのほうがより文明的であったこといえば、その答えは簡単に出ない。なぜならば江戸幕府も、薩摩藩もいわゆる「同化政策」だけは行わなかったからである。つまり、支配はしても、琉球の文化や風俗まで変えようとはしていない。

 このように薩摩藩が琉球固有の文化を残したのは、あくまでも政治上の思惑であり、琉球の文化に高い敬意を払ったからではなかった。琉球からみれば薩摩藩は憎むべき侵略者そのものだ。

 その点を踏まえたうえでなお、薩摩藩には多様な文化が並立して存在することを良しとする、度量の広さがあったーそう言っても差し支えないのではないか。