2022年1月7日金曜日

20220107 久しぶりの対話形式「記憶にある経験の文章化について」【架空の話】から

A「新年になりましたが、相変わらずブログ記事の作成は続けているようですね。」

B「ええ、相変わらずで、どうにか続けています。それで、あともうしばらく続けますと1700記事に到達出来るのですが、そこまで到達しましたら、今度こそは、しばらくブログ記事の作成もSNSも、しばらく休んでみたいと考えています・・。」

A「ええと、たしか6年間でしたっけ、そのブログを続けてきたのは・・それで、その期間は大体、どのくらいの頻度で投稿してきたのですか?」

B「ええ、これまでの期間全体を均しますと、大体10日のうち7日は新規で投稿してきたことになりますので、自分としては割合続いている方であると云えます。また、その一方で、その止め時については、考えていませんので、1700記事に到達しましたら、そのあたりのことも、また落着いて検討してみたいと思います。」

A「うん、まあ、そのくらいの期間続けているのであれば、予め目標を決めていなかれば、ズルズルと続けてしまうかもしれませんからね・・。しかし、この場合、あえて止めなくとも、折角ここまで続けることが出来たのであれば、続けてみても良いのではないでしょうかね・・。」

B「ええ、まあ、たしかにそうではありますが、そうであっても、次の良い区切りに到達出来たら、本当に長い休みを一度入れた方が、心機一転して良いのではないかと思われるのです。ここ最近は、これまで多かった独白形式よりも、以前から断続的に書き継いでいる【架空の話】を書く事が多いのですが、この作成に少し慣れますと、面白いことに今度は、独白形式の記事を書く事が難しく感じられるようになるのです・・(苦笑)。とはいえ、そうした感じは、昨今においては、あくまでも書き始めの当初のみであり、しばし我慢して腰を据えて書き続けていますと、次第に調子が出てきて、どうにか適当な区切りまでは書けてしまうのです・・。こうした、ある種の芸当はブログ開始当初の頃は出来なかったと記憶していますので、この点においては、わずかではあれ進化したのかもしれません・・。」

A「Bさんのブログは現在も更新されていて活動中でしょうから、なかなか、そうした自分の変化には気が付きにくいのかもしれませんが、それでも、この6年間での気が付いたその他の変化のようなものはありますか?」

B「・・そう云われますと、すぐには出て来ませんが・・ええと、これまでに80程度作成しました【架空の話】のような様式の文章は、以前の私では書く事が出来なかったと思われます。つまり、これら【架空の話】は、もちろん創作部分もあるのですが、その記述の多くの基には、実際の経験があり、そして、それら経験の記憶に対するアプローチの仕方が、なかなか掴むことが出来なかったのではないかと思われるのです・・。もしくは「記憶を文章化する際の記憶への距離感のとり方」のようなものが分からなかったのだとも云えますが、この【架空の話】については、最近では、書き始めのエンジンがかかるまでには時間がかかることが多いのですが、いざ書き始めてみますと、徐々に調子が出て来て、やがて、近年の私としては珍しく、時間を忘れていることもあるのです。また、その記述内容の確認の為に書籍を開いたり、あるいはネット検索をすることが度々あるのですが、こうした作業も【架空の話】作成のためであると、どうしたわけか割合面白く感じられるのです・・。」

A「ふーん、そうしますと作成に熱中しているのでしょうね・・。そして、そうして作成した【架空の話】が多くの人に読まれると、やはり、嬉しいものなのでしょうか?」

B「ええ、それは端的に嬉しいと云えますが、それでも、ここ最近は【架空の話】の先の展開について考えさせられるようになりましたね・・。」

A「はあ、それはどういうことですか?」

B「【架空の話】が自分の作成した文章としては、比較的多くの方々に読んで頂いていることは、もちろん、とても嬉しいのですが、その先の展開によっては、読んでくださる人数も変わってくるとも思われるため、恥ずかしながら、どうすれば、さらに多くの方々に読んで頂けるかといったこと考えてしまうのです・・。また、それについて最近考えが落着いたのは、この【架空の話】では、私が経験した家族の死や、師匠の退職といった、いわば「大きい負の出来事の記憶」に関しては、敢えて【「架空」の話】に入れるのは如何なものかと考えて、それらの影を話の中に落とさないようにしようといことです・・。」

A「ああ、たしかにそうした出来事の記憶を【架空の話】ではあっても、文章で表現することは難しそうですからね・・。それに、たとえそれで【架空の話】を作成しても、読まれる方々はどう思うか分かりませんからね・・。それで良いのではないでしょうか。」

B「ええ、しかし今後も続けていきますと、そうした記憶も、たとえ【架空の話】であってもなくても自在にとは云いませんが、文章化出来るようにはなりたいですね・・。しかし、同時に思うことは、案外と、こうした、何と云いますか、意思を伝達するものである文章表現の練達のためには、そうした、いわば功利的動機が上手く作用しないのではないかと思われるのです・・。これも未だ上手くは云えないのですが・・。」

A「ああ、説得と対話の違いのようなものでしょうか・・。たしかにそういったことは全面的ではないにしても、あるかもしれません・・。」

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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20220106 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「最後の元老・西園寺公望」pp.283-285より抜粋

岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「最後の元老・西園寺公望pp.283-285より抜粋
ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

西園寺公望は、嘉永二年(1849年)10月京都において生まれた。西園寺家は九清華の一つ、公家中の名門である。彼が生まれて3年余りの後に浦賀にペリーの黒船が現れ、そして、これを糸口として幕末動乱の世となる。過去まことに久しい間その存在を世の中から半ば忘れられ政治的にもいわば仮死の状態にあった朝廷は、やがて急速に高揚してくる尊攘運動に、そして、のちには尊王討幕運動に擁せられて、激動、変転する時代の風雲の只中に登場し、歴史の脚光を華やかに浴びることになった。

 このように正に騒然たる世の姿は、年少の西園寺の心を烈しくゆり動かすにはいなかった。彼は馬術を試みた。剣術を学び始めた。但し、剣術は途中で関白から差し止められた。『日本外史』をよみ、王政復古を論じたりするようになった。そのような彼は、古格・先例に呪縛され、煩瑣な伝統的な儀式・慣行の中に明け暮れる朝廷生活の日々を次第に大きな苦痛と感じるようになった。「事々物々が嘆息の種」と彼は後年当時のことを回想している。

 このような気持は、西園寺と限らず、この幕末の若い気概ある公卿たちに多少とも共通した風潮であった。ただ西園寺の場合に注意をひくことは、文久年間14・15歳の頃、いまどき弓術を学ぶのは迂遠であり、今後の武器は銃器だといい、また福沢諭吉の『西洋事情』をよんで、「こういう天地に生まれたならば、さぞ面白かろう」と考えたりしていた、という点である。彼は、多くの公卿たちのように世を王政の古にかえすことにひたすらに憧れて、それのみを夢みていたのではなく、西洋の事物にも関心を寄せていたのであった。幕末・維新の朝廷には排外・攘夷の雰囲気が冬の霧のように深く垂れこめていたことを考えるとき、このことは注目に価する。幕末公卿の子弟に漢学を授けていた儒学者伊藤猶斎は西園寺を柳原前光と並べて年少公卿中の俊秀と評したといわれているが、西園寺は聡明であったとともに、すでに開明的でもあったといえる。

慶応三年(1867年)10月に将軍慶喜によって大政奉還の上表が提出され、12月には王政復古の大号令の渙発をみて、明治新政府が誕生した。それとともに、西園寺は参与職に任ぜられた。時に19歳である。しかし、まもなく戊辰戦争の開幕(慶応4年1月)を迎えると、彼は山陰道鎮撫総督に任ぜられ、烏帽子・直垂をつけ、馬に打乗り、薩長両藩の兵を率いて錦旗を風に翻して丹波にむかった。幕末の日にいそしんだ馬術が、このときはからずも役に立った。家臣から馬上の姿が似合うと誉められたという。やがて大阪に凱旋すると、今度は北陸鎮撫使として越後に出動、同地の平定をみたのちは会津に転戦した。なお、越後に出立する前に西園寺は洋服をつけて参内し、きわめて守旧的・排外的な朝廷のひとびとを驚愕させ、大いに物議をかもした。今後西洋の軍制を大いにとり入れるには先ず服装から、というのが、当時の彼の考えであった。なお、西園寺の回顧によれば、洋服で参内したのは彼が初めてであったともに、公卿の中で断髪したのも彼が最初であったという。