2022年12月31日土曜日

20221231 株式会社光文社刊 関口高史著「牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う」pp.238-239より抜粋

株式会社光文社刊 関口高史著「牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う」pp.238-239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334046169
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334046163

これまでインパール作戦は無謀な作戦と言われてきた。では無謀な作戦とは何か。それは作戦の必要性、例えば意義や目的、そして任務に比し、達成の可能性が極端に低い環境(戦術レベルでは「状況」などと呼ばれる)で実施された作戦を言うのだろう。また、作戦基盤を十分に付与できなかった上級部隊指揮官が責を負う作戦も含まれるかもしれない。

 これまで見てきた通り、インパール作戦は必要性と可能性の検討が十分になされ、各級指揮官の状況判断に基づく正規の手続きを経て実行に移されたものだった。しかし、それが無謀だったかどうかは別の問題だ。本節ではこの疑問について考察していく。

 まずインパール作戦の意義とは何だったのか。作戦にも目的や任務だけではなく地位・役割がある。インパール作戦の場合、大東亜共栄圏の西陲に位置する方面軍の主力、一個軍が全力を挙げて取り組む主作戦であり、西陲の防衛要領は南方軍、なかでも方面軍に任せられていたと言える。もちろん、西陲の防衛とはビルマの防衛だけではない。攻勢に出て連合軍の戦力を減殺し、ビルマへの進攻企図を破砕することなども含まれる。

 ただしインパール作戦の意義は、それだけに終わらなかった。戦争終結の条件作為、つまり援蒋ルートの崩壊、西亜打通を実現することによって、独伊との提携やインドの独立などによる英国の連合国からの離脱、そして米国の戦争遂行意志を失わせ、最終的に戦争終結へ導く効果を期待されたのである。また戦争全般の情勢、那賀でも太平洋での戦局悪化による統帥部への批判をそらし、国民の戦争に向けた戦意高揚を促進するカンフル剤としての役割も加味されていった。現に昭和十九年(1944年)三月十日頃には、第八十四議会召集中の衆議院議員に対し、陸軍大臣秘書官の井本熊男がインパール作戦の説明を行っている。井本はその時のことを、当時は矢が弓を離れたばかりだったので、大きな地図を拡げ説明すると、作戦の前途に希望を持たせように感じたと回想する(井本熊男「作戦日誌で綴る大東亜戦争」芙蓉書房)。このように、意義が大きく変化する中で行われた作戦だった。

20221230 株式会社講談社刊 上横手雅敬著「源平の盛衰」pp.30-32より抜粋

株式会社講談社刊 上横手雅敬著「源平の盛衰」
pp.30-32より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061592750
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061592759

忠常の乱以前には、坂東では平氏の力が強かった。源氏は藤原氏にもちいられ、傭兵として働き、また近国の受領にも就任して富を重ねていた。その本拠も摂津・大和・河内など畿内にあり、頼信にしても藤原道長の有力な近習として諸国の国司を歴任していた。「東の源氏、西の平氏」といわれる後代とは異なり、当時はその基礎が逆であった。

 平忠常の乱を源頼信がしずめたことは、源氏の坂東進出の第一歩をきずくことになった。一方、平氏はその一族が反乱を起こしたり、その鎮圧に失敗したりしたため、みずからの勢力をおとろえさせていった。それにひきかえ、頼信によって植えつけられはじめた源氏の勢力は、その子頼信にいたってさらに強固になった。頼信は父とともに忠常追討の軍にも加わったが、やがて相模守となると、それまで国司に抵抗していた連中も、武士を愛する頼信の人柄に帰服し、その家来となるものがふえていったという。

 忠常の乱の二十年後、一〇五一(永承六)年、陸奥の俘囚(帰順した蝦夷)の長である安倍頼時が国司に反抗した。朝廷では頼義を陸奥守に任じ、その討伐にあたらせた。頼義・義家父子が頼時を討ち、最後にその子貞任をも討って乱を平定したのは一〇六二(康平五)年で、この間じつに十二年、平定のためには、出羽の俘囚の長である清原氏の援助まで借りた。この事件を前九年の役という。

板東の情勢を背景に新しい主従関係

 頼義の軍隊の特色は、死を恐れぬ坂東の精兵を従えていたことだった。戦いは苦戦の連続で、頼義さえも敵にかこまれてあやうくなった。相模の武士佐伯経頼は「自分は将軍に三十年仕えてきた。いまや将軍が滅びようとしているときにあたり、ともに戦死するのは当然だ。」(「陸奥話記」)といって頼義を救って戦死した。

 経頼のような武士は、これ以前の記録には見られなかった人物である。たとえば平将門の部下たちは、戦いに負けるとすぐに逃げ出している。中央から派遣されたかつての追討軍にしても、大将と従兵とのあいだに人間的なつながりがなく、大将のために命をすてる者はいなかった。つまり、重要なのは、頼義の軍隊が、強い主従関係のきずなで結ばれた最初のものだったということだ。

 戦いに負けたら逃げ出すのと、主人とともに討ち死にするのと、どちらが立派だろうか。もちろん人間はだれでも生きることを望む。死ぬのはいやである。だから、逃げるほうが人間的だともいえる。たしかに生命の尊重はなによりも重要ではある。しかし、ただ生きたいという本能のままに逃げ出すのと、主人のとめに献身するのとくらべると、少なくとも後者のほうが自覚された行動なのである。本能的な逃避と、戦争そのものに疑問を感じる反戦思想とを混同してはならない。

2022年12月30日金曜日

20221229 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.56-59より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.62-63より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

ロシアが南下政策を推進し、オスマン帝国の黒海沿岸地域を領有し、オスマン帝国内の正教徒の保護権を主張して介入を深め、バルカン半島のスラブ系諸民族に影響力を及ぼしていったのに対して、危機感を募らせた西欧諸国はロシアの拡大を抑制することを意図した介入を行っていく。露土戦争はロシアとトルコだけの問題にとどまらず、国際化したのである。露土戦争によるロシアのオスマン帝国領土の蚕食に対して、西欧列強諸国が、勢力均衡を守るために介入するというのが、「東方問題」の基本構図である。

 1735ー1739年の露土戦争では、黒海周辺でロシアがトルコを戦っているのに乗じて、ハプスブルグ帝国はロシアの側に立ち、オスマン帝国の版図だったバルカン半島のセルビアに侵攻して介入した。これは露土戦争に西欧諸国が介入する先鞭をつけた。

 1774年のキュチュク・カイナルジャ条約では、オスマン帝国がクリミア半島の支配権を手放すだけでなく、ロシア皇帝にオスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護権を与えた。これによって、オスマン帝国内の異教徒・少数派の保護を名目に西欧列強が介入する根拠ができた。

 1853-1856年のクリミア戦争では、ロシアの台頭を恐れた英・仏がオスマン帝国の側に立って参戦する。1877年から翌年にかけての露土戦争でロシアが勝利を収め、1878年のサン・ステファノ条約でバルカン半島の広範囲が、ロシアに割譲されるか、独立・自治を認められて実質的にロシアの勢力圏内に入ることになると、当時台頭していたドイツ帝国の宰相ビスマルクが主張してベルリン会議を開催し、ロシアに割譲された領土の多くをオスマン帝国に返還させた。

 言うまでもなく、英・仏を中心とした西欧の列強は、オスマン帝国の領土を奪うロシアを懲罰するために、また苦境に立たされたオスマン帝国を救おうという正義や善意から介入したわけではない。1814-1815のウィーン会議で形成された、欧州の列強諸国間の勢力均衡を原則として成り立つ欧州の国際秩序を守ることが、介入の目的だった。西欧の列強諸国は、オスマン帝国の権益をめぐって相互に牽制し合い、特にロシアの伸長を抑制して、勢力均衡を維持しようとした。

 オスマン帝国は17世紀までの拡張期には、「強すぎる」ことによってヨーロッパ諸国の脅威となり、問題となっていた。しかしその後、衰退期に入り、台頭するロシアによって領土を奪われていくと、オスマン帝国の「弱さ」こそが問題となった。オスマン帝国が崩壊して、その領土をいずれかの勢力が占有することで強大化し、列強間の勢力均衡が崩れることが問題視され、西欧列強の外交・安全保障上の課題として、「東方問題」が現れてきたのである。

2022年12月29日木曜日

20221228 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.37-38より抜粋

一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.37-38より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130820915
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130820912

装飾古墳

中期の古墳では、長持型石棺を竪穴式石室に納めた者が多いが、追葬の可能な横穴式石棺もあらわれ、普及する。後期になると、横穴式石室に壁画を描いた装飾古墳が北・中部九州に行われた。

 装飾古墳は、四世紀から五世紀初めにかけ、石棺の蓋や本体に鏡や直弧文、円文や靱など武器・武具のかたちを浮き彫りまたは線刻し、魔除けとしたものに始まる。五世紀には千金甲古墳(熊本)のように、横穴式古墳の玄室(棺を納める奥の部屋)の下部に、石障と呼ぶ区切りの板石を設けて複数の遺体を安置し、そこに装飾を加える。六世紀には、玄室とそこに至る羨道の壁面に彩色や線刻で壁画を描く。六世紀半ばから後半にかけてが最盛期で、王塚、チブサン、珍敷塚、竹原[図16]など、装飾古墳の代表格がこの時期の北九州に集中しており、また茨城県のように、関東にも装飾古墳が及んでいる。七世紀には大分の鍋田横穴、福島の清戸迫横穴のように、山の斜面に直接横穴を掘って墓室とし、その内部や外壁に装飾を施すものも見られる。近畿地方にはなぜか、彩色古墳が八世紀まで見られない。垂れ幕に描いたため残らなかったとする説もある。

 装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。日本の装飾古墳との関係は当然ながら予想され、研究も始まっているが、中国の墳墓とも関係を含め、これからの課題が多い。中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文、三角文、蕨手文、直弧文など抽象文様が多い点にある。盾や靱、人物、馬、動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であり、図形の重なりがなく、平面的羅列にとどまる。同時代の中国の墳墓壁画にくらべてこの印象はとくに強く、高句麗壁画はその中間といえる。

 だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代お見方からすれば、装飾古墳も大きな価値がある。チブサン古墳[図17]の遺体の頭あたりに描かれた人物像は異星人のように奇異で稚拙だが、白、赤、青の三角と菱形、円を組み合わせた彩色は豊かで美しい。清戸迫横穴の狩猟する人物の肩から大きな赤い渦巻き文が吹き出して、描き手の呪術の力がそこにこめられているのを見るのも印象的である。装飾古墳の大部分は、発掘後の壁画の感想により彩色が色あせて見えるのが残念だが、死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱はそこに失われていない。

2022年12月28日水曜日

20221227 ある程度時間をかけて理解出来るようになることの意味について・・

昨日までの総投稿記事数は1913であり、他方で、年内の目標としている総投稿記事数は1920であることから、今年中に当記事を含め、あと7記事の投稿が必要となります。そして今年は残りあと5日となりますので、目標到達のためには、そのうちの2日は1日に2記事投稿することになりますが、果たして、ことは上手く進むでしょうか。

あるいは書籍からの引用記事を充てることにより、多少容易に到達出来ると思われることから、この年内残りの数日も、引用記事を投稿するものと思われます。しかし、先日投稿のブログにて述べましたが、ここしばらくの期間、オリジナルでのブログ記事の投稿がなかったことから、再開初日であった一昨日での記事作成ではいくらか苦労しました・・。とはいえ深刻なものではなく、実際に一昨日、昨日は無事にオリジナルの記事作成、投稿をすることが出来ましたので、おそらく、これまでのブログ記事作成の継続があったことから、どうにか出来たのではないかと思われます。そこから、たとえブログ記事の作成であっても継続が大事であることが分かりました・・。

また、ここ2日間の投稿記事にて挙げた人文社会科学系研究者の先生に、その旨をお知らせするためメールを出しましたが、その返信がまた考えさせるものであり、10年以上前の文系院生時代に友人と一緒にこちらの先生の研究室に初めて訪問した時のことが思い出されました。

その時はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(通称「プロ倫」)を輪読しており、その中の、ある文章についての見解を巡り議論をしていました。そして、その議論の裁定を求めて研究室を訪問した次第ですが、この時に何故か私はとても緊張していました。

先生の前でそれまでの経緯を友人と二人で説明し、さらに双方自らの見解を述べたわけですが、この時が私にとって人文系分野での議論の出発点であったのかもしれません。ともあれ、その結果は判然としませんでしたが、しかし何と云いますか、その記述についての理解は深まった(自分なりに腹落ちした)と記憶しています。

その後、こうした議論が度々あり、さらに、その後、私を含む院生数人で始めた院生自主研究発表会においても先生は教員代表として度々ご出席頂き、また、私もそこで、これまであまり知らなかった分野での、いくらか突っ込んだ議論に触れることが出来ました。

そして私もここで発表させて頂き、その際も先生から質問をいくつか頂きましたが、当時、先生は着任後おそらくまだ数年程度であり、何と云いますか、いまだ「院生のノリ」のようなものが少なからず残っておられたのかもしれません・・。

そして、それは去る秋に開催された久しぶりの勉強会において、かつての研究発表会にご参加頂いた当時と比べ、より聞き役に回り、出席者から無理なく自然に意見を引きだすような傾向が強くなられていたと感じられました。こうした態度は決して簡単なことではないと思われますので、それを自然に出来るようになることが、人文社会科学分野の教育研究者の一つの成熟の在り方であると思われました。

また、以前にも当ブログにて述べたことがありますが、医師や歯科医師など医療系分野での優れた研究者と、さきの先生のような人文系の研究者では、それぞれ優れた研究者であっても、そこから生じる「凄味」のようなものは異なり、人文社会科学系のそれは、以前の投稿記事にて「その仰るところには、分厚い教養の層を濾過されたとも云える、ある種の深み・含蓄があり」と表現していましたが、これはある程度、その分野を勉強なり研究していると、何となく知覚することが出来るようになるといった性質があるように思われます。

つまり、人文社会科学系の研究者の深みとは、ある程度時間をかけて、はじめて理解出来るようになるといった性質があるのではないかと思われるのです・・。

その点、医療系など自然科学分野の研究者は、何と云いますか、その見た目、外見からも「凄味」(黒光り?)が比較的に理解、看取し易いといった性質があるのではないかと私には思われます。

その意味で、先述のように、人文社会科学系研究者の明晰さや見識の深さを理解するためには、ある程度の期間を要すると思われますが、その研究分野から離れた普段、我々が生きている社会においては、そうした人文系研究者に対する判断などは特に必要ではなく、他方で比較的看取され易い、医療系分野の先生方の「凄み」のみが「大物」らしさとして感じさせられ、これに自然と追随するようになるといった一種の事大主義的な傾向が、我が国の社会全般にあるように思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


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~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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2022年12月27日火曜日

20221226 昨日の続き、事物の洗練の方向性そして歴史を実感する契機について

おかげさまで昨日投稿分の記事は投稿翌日としては比較多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。さて、この記事の最後に述べた「洗練の方向性について」は銅鐸などの青銅製祭器や古墳などを具体例として示すことが出来ると述べましたが、もう少し考えてみますと、こうしたことは殆ど全ての人類による文化的事物においても当て嵌まるのではないかと思われます。私がこうしたことに関心を持つ契機となったものは各国の兵器への興味であったと記憶していますが、そこから興味の対象である兵器の歴史を遡りますと、兵士の持つ刀や槍などに辿り着くわけですが、そのように考えますと、我が国の所謂、彎曲した刀身を持つ日本刀は、平安時代中期頃から造られるようになったそうですが、その拵えも当初はものものしい太刀でしたが、時代を経る毎に簡素化されていき、帯びるような打ち刀拵えに変化していきました。そしてまた、その過程において地方色のようなものが加味され、地域独特の刀装、拵えが誕生していったものと思われます。そして、こうした経緯は、先述のとおり、何も武器である刀剣や槍のみに云えることではなく、農具など当時の日常的な道具においても同様であると云えます。むしろ、そうした地方に古くから日常的に使用されてきた道具などの方が、長く形を変えずに用い続けられているものが多いと思われます。そして、こうしたことを述べていて思い出されたのが、以前に当ブログにて書いた「紀州鉈」です。この「紀州鉈」は紀伊半島のほぼ全域にて見られる独特の形状をした山林作業などに用いる鉈であり、特徴的な点は、鉈の刃と柄木の接続が刃の部分とオフセットに鍛着された帯状のヒツと呼ばれる部位の中空部に柄木を差し込み、固定する点と、刃部の先端にハナと呼ばれる鋭利な突起がある点です。しかし、この刃部先端の突起があるのは紀州鉈に限られず、西日本を中心とした各地にて見受けられます。ただ、この突起のハナが尖っている地域と、そうでない地域があったと記憶していますが、その地域的な分布には何らかの傾向や特徴があったかについては、未だによく分かりません。

しかし、そもそも、何故この「紀州鉈」に興味を持つに至ったかについては、これまた以前の投稿記事にて述べましたが、南紀白浜在住時に、海開き前の浜掃除が私を含めて勤務ホテルのスタッフ何人かと、白良浜近隣に立地する他のホテルスタッフや自治体職員などにより行われましたが、その中には本職の植木職人の方々もおられました。その出で立ちは、色の褪せた綿パンに、ふくらはぎの半分以上までを覆うようなゴム底の地下足袋を履き、作業用のシャツを着て、そして手には、おそらく1mほどの長さがありそうな柄木の紀州鉈を持たれていたのですが、この光景が何やらとても新鮮に映ったのです。つまり、日常生活の中で槍とも見紛うような鉈を当り前のようにしてめいめい手に持ち、煙草を喫いながら、互いに何やら話しておられる光景は、都市部などでは、なかなかお目に掛かることはないと思われるのです。そしてまた、それを初めて見た私は「何だ、あの武器のような道具は?」と思い、周囲の方々に訊ねたところ、それは樹木の枝などを掃うためなどに使う鉈とのことであり、そこで、この道具については記憶に残り、その後、当地の大学院に進み、地域学研究の一環として、この「紀州鉈」について調べていたところ「それを題材にして地域誌の記事を書いてみてはどうか?」と仰って頂き、作成したのが、私の作成した文章ではじめて活字になったものであると云えます。ともあれ、その記事では、紀州鉈を主題としているにも関わらず、ドイツの哲学者、社会学者であるゲオルグ・ジンメルによる、ある主張に被せて、この紀州鉈について述べていたと記憶していますので、この時も、やはり多少おかしくなっていたのだと思われます・・(苦笑)。

そして、その後になり、数カ月ほど前のことになりますが、紀州鉈や鉈などとはあまり関係ない、ある民俗学関連の著作を読んでいた際に不図、さきの白良浜の掃除の際に見かけた光景が思い出されてきたのです。この記述は、現在でも憶えており、また、その著作も手近にあることから、後日また引用記事として作成してみたいと考えています。ともあれ、現在において、ホンモノのその国や地域の歴史を実感する契機とは、何らかの、こうした体験のようなものがあるように思われるのですが、さて、これも実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年12月26日月曜日

20221225 分野横断と文化事物の洗練の方向性について

ここ2週間ほど、自らの文章によるブログ記事の作成をしませんでした。これほどの期間、オリジナルのブログ記事を作成しなかった理由は、体調によるものに加え、他の原稿作成に関与してきたからであると云えます。それがようやく昨日に一区切りがついたことから、本日は、かなり久しぶりに自分の文章での記事作成をしたいと思い、さきほどより当記事を作成しています。

さて、さきに述べた「他の原稿作成」について、それらは私が作成するものではなく、他の先生方に執筆依頼をさせて頂いたものですが、それら原稿の進捗状況などを先生方に伺いつつ、入手した原稿に加筆などをさせて頂き、そして、それら箇所についてのやり取りをメールや電話などを通じて相談しつつ進めさせて頂いていましたが、さきに述べましたように、昨日、どうにか一段落着きました。お預かりした原稿は、総じてそれぞれの先生方の特徴や個性がよく出ていると思われ、とりわけ、長くアカデミアにおられた先生方の作成された記事原稿は、当然であるのかもしれませんが、こちらで手を加える必要はほとんどなく、文章として明晰であり、そして内容も総じて大変に興味深いものであったと云えます。

こうした表現は社交辞令やリップサービス、あるいは悪く表現すると「おべっか」であろうと思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、他方で私も一応、いくらかは、そうした種類の文章を読んできました。また、それらに対する自分なりの正直な評価は、文章や口にすることは多くありませんが毎回してきたと云えます。その視座から、今回の執筆頂いた原稿は、端的に「プロの文章」であると云えます。そこから、あるいは他分野の方々が、この原稿を読まれたら、どのように思われるのかと、執筆された先生から許可を頂き、かねてよりお世話になっている、ある人文系研究者の先生に原稿を試し読みして頂いたところ「すばらしいことですね。社会科学領域でもこのような可能性はあるだろうと思います。」とのことであり、概ね肯定的なお返事を頂きました。

しかし、ここで「肯定的なお返事」以上に大事であると思うことは、人文系の研究者が、歯科医療関係者向けの文章を理解しつつ普通に読むことが出来たことです。しかし、もう少し考えてみますと、こちらの原稿の内容は、歯科医療関係者向けではありつつも、特別に専門性が高い内容ではないとも思われることから、こうした種類の文章は、他分野の方々でも比較的容易に読むことが出来、ある意味で汎用性があるのではないかと思われました。ともあれ、そこまで考えが進みますと、昨今、電車内の広告にて医療分野の研究者の方々が執筆された他分野あるいは一般の方々向けに解説した著作を度々目にしたことが思い出されました。こうした著作は我々の健康に対する興味を反映して出版されるのでしょうが、その意味で、近年以降、現在に至るまで、我々の健康に対する興味の波は継続して寄せて来ていると云え、そして、それは人工知能をはじめとするデジタル・テクノロジーなどの周辺技術の進化発展により、さらに増幅されているのが現在と云えるでしょう。

ともあれ、そのように考えてみますと、今後はまた、これまでとは異なった種類の分野横断的な著作や記事が面白いものとして認知されていくのではないかとも思われました。具体的にはジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなどの著作から、さらに洗練させたものであるように予測されますが、しかし、この「洗練」が、どのような方向のものとなるのかについては、いまだよく分かりません。

とはいえ、この「事物の洗練の方向性」には、国や地域毎である種の特徴や傾向のようなものがあり、それは、簡潔に文章化することは困難ではありますが、具体例としては、弥生時代の銅鐸など青銅製祭器の形状や装飾の時代毎の変化が、その一つであるとは云えます。そしてまた、後に続く古墳の造営においても、そうした傾向は認められます。さらに千年ほど経った頃に南蛮から渡来した火縄銃もまた、その後の進化の過程を博物館や写真などで眺めていますと、どうやら、我が国での火縄銃の洗練の仕方は、殺傷兵器としての能力や操作性を高めるためというよりも、その見た目の華麗さに主眼を置いたのではないかと思われるのです。もちろん例外もあるとは思いますが、全体としては、そうした傾向が認められるのではないかと思われます。

こうした洗練の方向性などは、国や地域にて特有の文化事物の歴史的な変遷を辿っていきますと、徐々に知覚することが出来るようになるのではないかと思われます。

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2022年12月25日日曜日

20221224 株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480075283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480075284

 ここで、停戦交渉の行き詰まりをもたらしたブチャでの出来事について簡単に述べておきたい。

 前述した3月25日のロシア軍撤退表明後、ブチャを奪還したウクライナ軍が目にしたのは、酸鼻を極める虐殺の痕であった。後ろ手に縛られた拷問の跡だらけの遺体、性的暴行を受けたとおぼしき裸の女性の遺体、下水溝に投げ込まれた遺体ー街は陰惨な姿の遺体で埋め尽くされ、中心部の教会や町のはずれには集団墓地が作られていた。いずれも、ロシアによる戦争犯罪の明白な証拠であった。

国際社会はともかくとして、筆者自身がこの光景にショックを受けたといえばナイーヴとの謗りは免れまい。二度のチェチェン戦争でロシア軍がどれほどの非人道行為を働いたか、2015年に始まったシリアへの軍事介入でロシア航空宇宙軍の無差別爆撃がどれほどの殺戮をもたらしたかを、ロシア軍事研究を生業とする筆者はよく知っていたからである。2月以降のウクライナに対する侵略においても、ロシア軍は全くすることなく市街地に無差別爆撃を加えてきた。

 それでも、この情景はやはりショッキングであった。しかも殺害されたブチャの住民たちは、戦闘の巻添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの住民たちは、戦闘の巻き添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの占領自体はほど無血で行われたものの、虐殺、性的暴行、略奪はその後に始まったのである。そこには何の軍事的合理性もなかた。

 全くの言いがかり、酔った兵士の狼藉、ただの気まぐれによって人々は暴行され、犯され、殺されたいった(真野・三木、2022年5月5日、国末、竹花、2022年4月14日)。ウクライナ軍に協力している見なした人々を組織的に拷問。処刑していたこともわかっている(Peuchot,2022.4.5.)。

 今回の戦争に関しては「ウクライナを無垢の絶対的善として描くだけでよいのか、ロシアは絶対悪なのか」といった議論が度々提起されてきた。この主張を筆者は一概に否定するものではない。

 第一章で描いたように、ゼレンスキーは正義のヒーローではないし、ウクライナという国家自体も深刻な腐敗など多くの問題を抱えている。また、ウクライナ軍も戦争犯罪(捕虜の虐待やこれを晒し者にあうることなど)や住民の巻き添え被害とは無縁ではなく、これらの点はそれぞれに検証され、批判の対象とされるべきだろう。

 しかし、ブチャやその他多くの占領地域(ロシア軍の戦争犯罪はブチャに限られたものではなく、むしろ氷山の一角であった)にける振る舞いは、どう考えてみても「悪」と呼ぶほかないだろう。さらに言えば、今回の戦争はロシアによるウクライナへの侵略戦争であり、この点においてもロシアは明確に国際的な規範を犯している、これらの点を無視して、ロシアにもウクライナにも同程度に非がある、と論じるならば、それは客観性を装った悪しき相対主義でしかないのではないか。また、相対的に論じるというのなら、戦争犯罪や腐敗がより深刻なのはロシアであるが、これらの事情を以てロシアが外国の軍事侵攻を受けてもしかたないのだということにはなるまい。

 ちなみに、ブチャの虐殺を、ロシア政府は「挑発」と呼んでいる(例えば前述したプーチンの4月12日発現)。つまり、虐殺や拷問や性的暴行はウクライナ軍がブチャを奪還した「後」に起こった出来事であり、ロシアに罪を着せるために仕組まれたものだという主張である。

 だが、ブチャ事件が明るみに出た後、米国の衛星画像サービス企業Maxarが同地上空の衛星画像を公開し、路上の遺体や集団墓地はロシア軍占領当時に出現したことを暴露した。宇宙からの眼を現地住民の証言と照らし合わせて考えるならば、ロシア側の主張には全く信憑性がないことは明らかであろう。

2022年12月23日金曜日

20221222 株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」 pp.215-218より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」
pp.215-218より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041103428
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041103425

 私が紹介すると、和泉さんがいつもの目つきでじろじろと峠を見た。

「あんた一年目かいね?」

「あ、はい」

峠が一歩下がった。

「座りんさい。これ食いんさい」

和泉さんがホッケの開きなどを指して「後藤君、峠君にビールを持ってきちゃってくれ」と言った。後藤さんは「はあい」とご機嫌で言って、水鉄砲で口に焼酎を発射しながらテントの裏に回り、缶ビールを持ってきた。峠が不安そうに座った。

「いま、やきそば焼いてあげるから」

私は言って奥に入り、やきそばを二つ作った。峠のぶんにはキャベツや豚肉をたっぷり入れてやった。さすがに詐欺的やきそばは悪いと思った。

やきそばを持ってテーブルに戻ると、峠が嬉しそうに私を見上げた。

和泉さんが腹を抱えて笑っていた。

「この峠君、偽カイセイじゃのうて本物の開成じゃ言いよるんよ。あんたと一緒じゃけ、おかしゅうて。うちの本間なんて偽ガオカじゃけえの」

 松浦さんが和泉さんの肩を叩いて「増田、唯信のこのバカ笑いなんとかしてやってくれんか」と言った。

「クソトシがなに言いよる、年寄りのくせしてからに」

和泉さんが急に真面目な顔になって松浦さんの肩を力いっぱい拳で殴り、立ち上がって松浦さんの背中側から裸絞めをかけた。松浦さんは「苦しい苦しい」としばらく笑っていたが、そのうち本当に絞まってきたようで地面に転がってもがきだした。そして必死になって絞めを外し、逆に和泉さんを横四方で抑え込んだ。今度は和泉さんが大暴れしてそれを外し「年寄りの横四方は甘いのう」と言って、体中についた土を払いながら椅子に座った。

「誰が年寄りだ。このフラレ男が」

 松浦さんがそう言って立ち上がると和泉さんが言い返した。

「あんたの方がフラレ男きゃないか。五回はフラレとるであんた。増田君、あんた知っとるかね。トシ、入部したときパンチパーマで来たんで」

 そしてまたかかかと大笑いしだした。

「おかしいと思わんか、二浪でパンチパーマで耳が潰れとるんで。そんなやつが新入生で来たんで。カラオケ行ったら「黒の舟唄」歌うけえの。わしゃ、おかしゅうておかしゅうて」

 そこに末岡さんが両手に袋を提げてやってきた。

「おお、みんな頑張ってるか」

「なにしに来たん、この風邪男は」

和泉さんがまた真面目な顔になって末岡さんを見上げた。

「一年目の激励に決まっとるやろが」

そう言って袋から大きな箱をいくつか出して開いた。正本の梅ジャンが何人分か入っていた。

風邪男が来たらみんなに風邪が伝染ってしまうじゃないか」

和泉さんが怒った口調で言った。

末岡さんが笑いながら和泉さんを見た。

うるさいやつやな。早よ広島帰って寺継いで坊主になれや」

うるさいのはあんたじゃ。南海のくせしてからに。なんで清風の下に南海じゃいうてつけにゃならんのじゃ」

末岡さんは大阪の南海清風高校出身だった。なにが面白いのか和泉さんは末岡さんを「風邪男」の他に「南海」とも呼んでいた。松浦さんに「年寄りのトシという渾名をつけているように、和泉さんの渾名の付け方には法則がなかった。飛雄馬のことは「ボッコバケツ」と呼んでいた。和泉さんによるとバケツに棒を突き刺したような顔だからだそうだ。広島弁で棒のことをボッコというらしい。

 その和泉さんの後ろでは後藤さんが水鉄砲で焼酎を飲み続けていた。


2022年12月21日水曜日

20221221 ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳 【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋

ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳
【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478066507
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478066508

必要な知識のすべてが用意されない限り、知識によるイノベーションは時期尚早であって、失敗は必然である。イノベーションが行われるのは、ほとんどの場合、必要なもろもろの要素が既知のものとして利用できるようになり、どこかで使われるようになったときである。1865年から75年にかけてのユニバーサル・バンクがそうだったし、第二次世界大戦後のコンピュータがそうだった。

 もちろん、イノベーションを行おうとする者が、欠落した部分を認識し、自らそれを生み出すこともある。ジョゼフ・ピューリッツァー、アドルフ・オクス、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、近代的な広告を生み出すうえで主役を演じた。そこから、今日われわれがメディアと呼ぶもの、すなわち情報と広告の結合としてのマスコミが生れた。ライト兄弟も知識の欠落、特に数学的な理論の欠落を認識し、自ら風洞をつくって実験することによって欠落していた知識を手に入れた。

 このように、知識によるイノベーションは、そのために必要な知識のすべてが出そろうまでは行われない。それまでは死産に終わる。

 例えば、当時飛行機の発明者となることが期待されていたサミュエル・ラングレーは、科学者としてライト兄弟よりもはるかに力量があった。しかも当時、アメリカ最高の科学研究機関だったワシントンのスミソニアン研究所の責任者として、アメリカ中の科学的資源を利用できる立場だった。

 しかし彼は、すでに開発されていたガソリンエンジンを無視し、蒸気エンジンにこだわった。そのため彼の飛行機は、飛ぶことはできてもエンジンが重すぎて何も積むことができなかった。パイロットさえ乗せられなかった。実用的な飛行機をつくるには力学とガソリンエンジンの結合が必要だった。

すべての知識が結合するまでは、知識によるイノベーションのリードタイムは始まりさえしない。

2022年12月20日火曜日

20221220 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋 ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。

 そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦果を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。

 しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。

2022年12月11日日曜日

20221211 【空想】新たな医療介護系専門職大学の立地について

ここ最近寒くなってきたためであるのか、先日少し体調を崩してしまい、直近数日間はブログ記事作成はしませんでした。とはいえ、先日述べた目標である「年内での1920記事到達(±5程度)」を達成するためには、さらなる記事作成を要します。また、以前にも述べました通り、引用記事にて、あと10数記事作成して1920記事まで到達することも可能ではありますが、さらに先もあることから、ここは自らの文章による記事作成にて進めた方が良いと考えました・・。現在は特にスランプでもなく、単に体調が万全ではない程度であり、作成を始めれば、どうにか波に乗ることは出来るであろうと踏んで始めた次第ですが、はじめの勢いにて、この程度まで作成することが出来れば、とりあえずは及第であると云えます。

さて、以前に何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、今後、高齢化が進む社会への対応にくわえ、国際的な競争力向上のためにも、我が国は、その国民性とも云える此岸的性質を善導して、英語あるいは中国語を用いることが出来る、より多くの医療介護専門職の養成を行うことが効果的な施策であると考えます。

とはいえ、既存のそれら専門職の養成機関である大学や専門職大学や専門学校が、軒並み、新たな学部や学科を新設することが可能であるかと考えますと、それは困難であると思われます。そこで、ツイッターで私の固定ツイートにて述べている「半官半民での学費が安価な医療介護専門職大学の新設」が(もう少し)検討されても良いのではないかと思われるのです・・。

そして、ここからは空想になりますが「では、その専門職大学は何処に設置するのか?」と考えてみますと、先ずは学費を安価にするため、教員の多くは、若手の成りたての研究者と、一度、定年退職をされた大学研究者・臨床家の先生方に就いて頂くのが良く、またその立地は、国内の比較的温暖で温泉があり、また近隣に学生の臨床実習のための医療・介護施設が既にある場所が適当ではないかと思われます。

そうしますと、その具体的な候補としては、静岡県東部の伊豆地域と、南紀白浜を含む紀伊半島南部地域が挙げられるのではないかと思われます。これら地域のうち伊豆地域では既に医療系学部がいくつか点在しておりますが、それらの大学にて養成を行っていない専門職の養成であれば、地域的にも、既存大学側としても、あまり問題はないと思われます。むしろ、進学先の候補ともなる地元の高校生にとっては喜ばしいことであると思われます。またもう一方の南紀地域は、私自身がそこで何年間か在住した経験から、この地域は近代以降より高等教育機関が乏しく、大都市圏と云える大阪に比較的近く、県庁所在地がある和歌山市以南では、たしか中紀の御坊市に和歌山工業高等専門学校が立地するのみであったと記憶しています。

くわえて、古くからの温泉地である南紀白浜に隣接する自治体の一つが紀伊田辺であるのですが、この紀伊田辺はあまり多く聞くことはない地名であるかもしれませんが、江戸期においては、徳川御三家の一つ紀州徳川家の御附家老である安藤氏が治める3万8千石の城下町であり、また近代以降においては、我が国が誇る博物学者である南方熊楠(和歌山市出身)が後半生を研究活動をしつつ過ごした場所でもあります。

つまり、その仔細な地域の精神的背景は未だ明確には分かりませんが、私の感覚として、当時の紀伊田辺は、あまり大きくない地方の街としては立派な書店がいくつかあり、また城下町の一つの特徴と云える地域にある老舗の和菓子店(織豊期以降の武家文化と茶道には親和性があり、そして茶道があれば和菓子店が必要となる)もあり、ありきたりな表現となってしまいますが「古き良き日本」がいまだ遺っている地域であると云えます。

こうした地域と高等教育機関である大学との相性は、おそらく、少なくとも悪いものではなく、また、さきに述べましたとおり、中紀の御坊以南に高等教育機関が存在しない県南部は、そうした新たな試みとなる高等教育機関を設けるのに適切な立地であると思われるのです。

さらに、この紀伊田辺と類似した背景(紀州徳川家の御附家老云々)を持つのが紀伊半島南部の東側に立地する新宮市です。こちらは街の規模としては紀伊田辺の半分以下となっていますが、田辺市は以前に周辺自治体との大規模な合併がありましたので、その主要な市街地部の規模としては、紀伊田辺と新宮では、大きくは変わらないかもしれません。

ともあれ、そのようなこともあり、新宮にも、そうした高等教育機関を設けても良いのではないかとも思われましたが、ちなみに、こちらは少し南に行ったところに南紀勝浦温泉があります。

勉強や研究を終えた学生や教員が気軽に温泉に浸かりに行くことが出来るような自然環境と市街地とのバランスが取れて、そして、古来からの土着の優れた文化が生きている地域に新たな試みとしての医療介護系専門職大学を設置するのは、我が国の高等教育にとっては良い効果を齎すのではないかと私には思われるのですが、さて実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年12月8日木曜日

20221207 類似する主旨の既投稿ブログ記事があっても特に気に留めない理由

 1000記事到達以前に作成、投稿したブログ記事を読んでみますと、文章的には練れていないと思われるものの、そこに書かれている考え方の向性やアイデアが現在にまで繋がっていることが理解出来ます。端的には、最近投稿のブログ記事の論旨も以前に投稿した当ブログ記事を読んでいくと、それと同様とまでは行かなくとも、かなり類似した内容の記事を看取することが出来るように思われます・・。

しかし、であるからといって、もはやブログ記事の作成には新奇性はなく、継続しても無意味であるということにはならないと考えます。多くの作業に云えることですが、作業の初期においては多少大雑把であろうと、とりあえず多くの量を扱うことが大事になります。そしてその手法にて大雑把にて出来るところまでいくと、徐々に作業を慎重に行い、そして最後の完成に至るまで進めるといった流れとなります。

そこから敷衍しますと、当ブログは1000記事を過ぎて、現在(どうにか)1900記事にまで至ることが出来ました。体感からしますと、この1000記事から1900記事までの期間のブログ記事作成は、当初から1000記事作成までの2倍とまでは行きませんが、少なくとも、それ以上の作成上の苦労はあったと云えます・・。ともあれ、その中で(どうにか)継続して、つい先日1900記事に到達しても、達成感や高揚はなく、またそこから引き続いて記事作成を行い、現在の目標としては年内にて1920記事への到達を目指しています。

その意味にて1000記事到達を折り返し地点として考えてみますと、今現在、実感はないものの、締めくくりと云える1900記事から2000記事への到達に至るまでは、これまでとはまた異なった感じのスランプが訪れるのでしょうか・・。幸い今現在、スランプとまでは行かない状態ですが、私の場合、スランプの多くは3、4日間継続して引用記事を作成しますと、多少良くなる傾向があることが、ここ最近(ようやく)分かりました。引用記事は、労力が多い割にあまり意味がなく「読めば分かる」であろうとお考えかもしれませんが、キーボードにて書籍にある文章を入力しますと、その過程で、その内容の理解が以前よりも深まり、そしてまた、その記述内容が比較的記憶に残るようになります。そしてツイッターなどで流れてきたツイートに、内容的に関連があり面白そうな以前に作成したブログ記事を投稿することは、私としては、それなりに面白く、また知的な営みであると思っています。

あるいは当ブログで今後(どうにか)2000記事まで到達出来ましたら、その次は引用記事を主体として、ある程度の期間、記事作成を行ってみたいとも考えています。引用記事のみで1000記事継続して、適宜それらを連携投稿してみるのも、それなりに面白く、また何か新たな発見もあるかもしれません。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部


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2022年12月6日火曜日

20221206 中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義pp.120-124より抜粋

中央公論新社刊 福間良明著「司馬遼太郎の時代」歴史と大衆教養主義
pp.120-124より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027205
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027207

司馬は1970年の三島事件についても、驚愕と嫌悪感をもって受け止めた。

11月25日、作家の三島由紀夫は主宰する「楯、東部方面総監・益田兼利陸将を椅子に縛って監禁した。三島はバルコニーで自衛官に向けて演説を行い、日本国憲法に縛られた戦後体制を打破すべく、決起を呼びかけた。結果的に自衛官の同調は得られず、三島は庁舎内で割腹自殺を遂げた。

 三島は右傾化した言動でも知られていたが、「潮騒」「憂国」「美徳のよろめき」など文学作品の評価が高く、ノーベル文学賞候補にも挙がっていた。それだけに、三島によるクーデター未遂事件とその最期は、社会に衝撃を与えた。新聞・雑誌でも、緊急特集が続々と組まれた。

 司馬は早くも、事件当日の「毎日新聞」(1970年11月26日)に、「異常な三島事件に接して」と題した論説を寄せている。司馬はその冒頭で、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりにもなまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」と陰鬱な心情を吐露しつつ、「ただこの死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」と記している(「歴史の中の日本」)。

 先に触れたように、司馬は新聞記者時代に金閣寺放火事件(1950年)を取材し、修行僧の宗門への不満があったことをスクープした。その事件を題材に取った三島の「金閣寺」(1956年)は、文壇で高い評価を獲得し、読売文学賞を受賞している。また、司馬の短編「人斬り以蔵」(1964年)を参考に制作された映画「人斬り」(五社英雄監督、69年)では、三島が薩摩藩刺客・田中新兵衛を演じた。そうした奇縁も、司馬が三島事件を重く受け止めることにつながったのかもしれない。

 司馬がこの論説のなかで強調するのは、「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」ということだった。

 思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実はなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰りかえして云う思想の栄光がある。(「歴史の中の日本」)

 しかし、三島は抽象的な「思想」「美」を現実の「政治」に結び付けようとした。その過程で道連れにされたのが、楯の会の青年たちだった。

 三島氏はここ数年、美という天上のものと政治という地上のものとを一つのものにする衝動を間断なくつづけていたために、その美の密室に他人を入りこまざるを得なくなった。楯の会のひとびとが、その「他人」である。

「天上のもの」を「政治という地上のもの」に結び付けることで、歯止めの利かない暴力が生み出される。その危うさを、司馬は三島事件のなかに読み込んでいた。

 司馬のこうした議論は、三島のライフコースとの相違をも反映していた。三島は1925年1月生まれであり、司馬の一学年下でしかなく、ともに戦中派世代に属している。だが、両者の歩みは大きく異なっていた。三島(本名・平岡公威)は農商務省官僚・広岡梓の長男として、東京四谷に生まれている。学習院初等科に入学し、高等科まで進んだ三島は、10代前半から小説執筆に目覚め、19歳で小説集「花ざかりの森」を刊行している。

 その後、東京帝国大学法学部に進み、戦場に駆り出されることのないまま終戦を迎え、卒業後は大蔵省に入省した。すでに「早熟の新人」として川端康成らから評価されていた三島は、一年足らずで大蔵省を退職し、文筆活動に専念する。以後、「仮面の告白」(1949年)、「潮騒」(54年)、「金閣寺」(56年)など次々と著し、早々に作家としての地位を確立した。

 こうした経歴は明らかに「一流」であり、「二流」のキャリアを歩んだ司馬に比べて、三島はそのすべての面でエリートだった。

 もっとも、エリートに対する司馬の幻滅が、三島事件の評価にどれほど投影されていたのかは定かではない。事件を評した「異常な三島事件に接して」にも、文学者・三島への敬意はあれ、三島のエリート性への言及はない。だが、司馬の三島事件への批判には、イデオロギーの過剰に対する嫌悪とともに、自らを疑うことのないエリートの威丈高さへの不快感を読み込むこともできるだろう。

2022年12月4日日曜日

20221204 先日連携投稿した二記事の関連性から思ったこと

おかげさまで先日投稿した千葉雅也による「現代思想入門」の引用記事は、比較的多くの方々に読んで頂き、また、それと連携投稿をした2016年1月の引用記事である照屋佳男著「コンラッドの小説」pp.117-119もまた随分以前の投稿記事としては伸びました。これらを読んで頂いた皆さまどうもありあとうございます。引続き私事を述べますと、こうした思想関連の書籍にて述べられている、ある主旨の類似性などの関係性を認識出来た時は、現在となってもやはり嬉しいものであり、また歴史などの過ぎ去った時代を扱う歴史学などの諸分野おいては、こうした背景の類似性などの関係を見出し、それらを比較検討して、その結果をさらに大きな次元にて検討や考察をすることにより、何と云いますか、その時代の「時代精神」といったものを見出していくことが出来るではないかと思われるのです。その意味において、歴史学などの人文系諸分野は、どれほど優れた既存のテキストがあっても、自らの手を用いて課題である個別の各々の対象を認識していかなければならない、いわば帰納的な方法が為されない限り、年数を経る毎に上からの演繹的なものとなっていき、遂には思想教育的なものになってしまうのではないかと思われます。

そして、そうしたいわば硬直化を防ぐための効果を持つのが「議論」ではないかと思われるのです。議論での論争により、その論旨が徐々に明らかなものとなり、また論点を理解するためには、当然といえば当然ですが、それまでの過程、文脈を(音声・記述問わず)言語にて記録したものが必要となります。あるいは異言しますと、現代を生きる我々が、古代の人々が述べたさまざまなことを知り、理解することが出来るのは、こうした記録があることによると云えます。

つまり、これは先日の引用記事の内容とも関連するのでしょうが、古今東西を問わず、そこで記録・遺されたもの(事物)の内容を、それぞれを認識しつつ比較検討をくわえ、さらに他の分野での知見や考え方を視座として、それら事物について考えてみますと、またそれまでとは異なった新たな見解、考えなども生じるのではないかとも思われるのです。

そしてそこで、ハナシは冒頭の二引用記事に戻り、こうした異なった意見、見解などでの議論が行われるからこそ、広く世の中にて生じている時代の推移が社会全体に感知され、そして、それを原動力として徐々に、より大きな時代の相(フェーズ)のようなものが変化していくのではないかと思われるのです・・。

その意味から現在の我々の社会はどのような状況にあると云えるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年12月3日土曜日

20221202 株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」 pp.116-118より抜粋

株式会社講談社刊 千葉雅也著「現代思想入門」
pp.116-118より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065274850
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065274859

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。世界のなかに混乱を見つけて喜ぶような哲学は、あるとしても異端。そういう意味で、混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

「悲劇の誕生」(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシャにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニソス的なもの」であるという二元論です。

 ギリシャには酒の神であるディオニソスを奉じる狂乱の祭があったのですが、それが抑圧され、もっと調和のとれたかたちに収められていった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバいエネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシャの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

 こういう暴れ出そうとするエネルギーとそれを抑えつける秩序との闘いに劇的なものを見る、言い換えれば、善と悪、光と闇の対立があるところに、どちらかをとるのではなく、その拮抗状態にこそ真のドラマを見る、なんていうのは今日のコンテンツではよくあるもので、みんなそういうドラマ性を当り前だと思っていると思いますが、それをはっきり形式化したのはニーチェなんです。

 まずディオニソス的エネルギーが大事であって、しかしそれだけでは物事は成り立たず、アポロン的形式との拮抗において何かが成立する。僕のドゥルーズ論である「動きすぎてはいけない」という本のタイトルも、動くというのがエネルギーの流動性を表しているとするなら、そこにある抑制がかかることで何事か成り立つという意味で会って、そういう意味では、ニーチェ的なダブルバウンドが僕の仕事にも、あるいはドゥルーズにも継承されているということになります。

 ここで重要なのは、「秩序あるいは同一性はいらない、すべてが混乱状態になればいい」と言っているわけではないということです。しばしば現代思想はそういうアウトローを志向するもののように勘違いされることがありますが、そうではないのです。確かに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。ですからここでも二項対立のどちらかをとるのではなく、つねにグレーゾーンが問題であるという脱構築的発想が働いているわけです。

ニーチェは古典文献学者として、24歳の若さでバーゼル大学教授に就くのですが、その後、「悲劇の誕生」によって学者たちの不興を買うことになります。ニーチェは、堅実な研究者として生きるのでは満足できなかった。「悲劇の誕生」は、本来なら丹念な歴史研究をすべきところ、大ざっぱな図式を打ち出し、かつギリシャ悲劇を当時ニーチェが入れあげていたワーグナーの音楽に結びつけ、ワーグナーの革新性を謳うもので、研究というより今日風に言えば「批評」的な著作でした。当時の文化状況に一石を投じたいという野心があったのです。こいつは学者の道を踏み外した、と思われたことでしょう。

 批評的な仕事が、大学=アカデミアの学者から、いわば「出すぎた」ものとして反発を受けるというのは今もあって、批評の世界すなわち論壇と大学にはときに対立が生じます。ニーチェはそういう対立を生んだ生きたパイオニアだと言えるでしょう。

2022年12月1日木曜日

20221201 株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」 pp.110-112より抜粋

株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」
pp.110-112より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4270001178
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4270001172

ライターズ・ブロックの表れ方も原因もいろいろだろうが、ライターズ・ブロックになった作家に共通する特徴が二つある。知的には問題がないのに書けないこと、それに書けなくて苦しんでいるということだ。この定義は単純だが、ライターズ・ブロックとは重要な点で異なるいくつかの状態をあぶりだしてくれる。

 ある意味ではライターズ・ブロックの対極にあるのがハイパーグラフィアだ。しかし驚いたことにこの二つの脳の状態はまったく正反対というわけではなく、相互補完的で、だから一人の作家がハイパーグラフィアとライターズ・ブロックのあいだを揺れ動くことが可能になる。それどころか、ハイパーグラフィアで同時にライターズ・ブロックだという場合さえある。小説の執筆を先延ばしにしているあいだに、ジョゼフ・コンラッドが友人に書いた熱っぽい手紙がその一例だ。

 ぼくは毎朝、敬虔な気持ちでデスクに向かう、八時間座り続けるー座っているだけだ。この八時間の労働時間中、三行の文章を書き、デスクを離れる前に絶望して消す。ときには、頭を壁に打ち付けたくなるのをあらん限りの力を振り絞って我慢する。口から泡を吹いて泣き喚きたいが、赤ん坊と妻を怯えさせると思うからそれもできない。こんな絶望的な危機に落ち込んだあとは、何時間もうとうとするが、そのあいだも書こうとして書けない物語が意識から離れない。そして目覚め、再び試み、へとへとになってベッドに入る。こうして何日も過ぎ、何も書けない、夜、眠る。朝、目覚めると、またも徒労の一日に耐えなければならないかと恐怖と無力感に苛まれる・・・。 

 ぼくは文体も感覚をすべて失った気がするが、それでも文体も必要性に憑かれている。書こうとして書けない物語は、ぼくが見るもの、話すこと、考えること、読もうとするすべての本の行にまとわりついている・・ぼくは自分の脳を感じる。頭にあるものははっきりと意識する。ぼくらの物語はそこに揺らめいているーかたちが定まらない。それをつかめない。確かにあるんだーいまにも破裂しそうなのに、だが水を握ろうとしても握れないように、どうにもそれがつかまらない・・・。

 決してゆっくりと書こうというつもりはない。文章は勝手な速さでやってくる。ぼくはそれを書きとめようと待ち構えている・・だが困るのは、一行を、一語を、待ち続けなければならないことがあまりにも多いんだ・・・最悪なのは、こうやってなす術もなくいるあいだもぼくの想像力がすさまじい勢いで活動し、すべてのパラグラフ、すべてのページ、すべての章がぼくの頭を通り過ぎていくってことだ。すべてがそこにあるんだよ。描写、会話、想念、すべてがあるのに。ただ信念だけが、ペンを原稿に置くために必要な唯一のものだけがない。ぼくは一日、膨大なことを考え、疲れ果て、気分が悪くなってベッドに入る。疲労困憊し、一行も書けずにだ。ぼくのこの努力ときたら、山のごとき傑作が生まれても不思議はないくらいなのに、ときどき馬鹿げたネズミがちょろちょろと現れるだけなんだ。 

 この長い文章ー原文はもっと長いーには、ライターズ・ブロックの苦しさがまざまざと表れている。だがこの饒舌ぶりはそれがハイパーグラフィアとごく近い関連があること、少なくとも作家によっては、ライターズ・ブロックが書きたいという圧倒的な欲望と同居している場合があることを示している。

 ライターズ・ブロックを、作家当人が望むより少なくしか(はるかに少なくしか)書けない状態と定義すれば、世間並みの執筆量であっても、当人は書きたいと思うほど書けないのでライターズ・ブロックだと強く感じる場合も考えられる。たとえばここに引用した痛ましい文章にもかかわらず、コンラッドは定期的に本を出版していた。彼らほど作品数が多くないわたしたちは、そんなものは真のライターズ・ブロックではないと不満に思うかもしれないが、このライターズ・ブロックの感覚は真のそれにきわめて近いのであり、この二つは一緒に考えるべきだろう。