2024年4月19日金曜日

20240418 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」 pp.58‐60より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

十四世紀以降バルカン半島を支配していたイスラム王朝のオスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)を基盤とした統治制度を敷いていた。しかし、フランス革命後バルカン半島にも西欧から「ナショナリズム」概念が入ってくると、バルカンの非ムスリムは各地で自治権獲得の運動や、独立運動を展開した。その結果、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロは十九世紀中にオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治権を獲得した。各国は、「同胞民族」と見なす人々が国境の外に依然として存在すると主張し、「同胞民族」の居住する地域の獲得を目指した。獲得すべき土地があったのはオスマン帝国であった。また、多民族国家であるオーストリアの南部地域もバルカンの民族国家は狙うことになる。

 オスマン帝国領ボスニアは一八七八年のベルリン条約によりオーストリアの施政権下になっていた。一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、ブルガリアが独立を宣言すると、オーストリアはボスニア併合を宣言した。ボスニアの獲得を目指していたセルビア国内では、政府やメディアが反墺的主張を展開し、多くの民族主義団体が組織された。その中には、青年ボスニアとも関係を持つことになる「統一か死か」(通称か死か」(通称「黒手組」もあった。

 バルカンのオスマン帝国の獲得を目指しバルカン同盟を締結したセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは、一九一二年一〇月、オスマン帝国を攻撃した(第六次バルカン戦争)。その戦争の局地化を目指して外向的介入を行ったヨーロッパ諸大国は、国際会議を開催し、オスマン帝国領マケドニアを同盟諸国に譲渡する一方、オスマン帝国領アルバニアを独立させることで一致した。後者を強く主張したのが、オーストリアとイタリアであった。アドリア海に面するアルバニアの獲得を目指していたセルビアは、強く反発した。第一次バルカン戦争終結後に、今度は、バルカン同盟が獲得したマケドニアの分割をめぐって同盟内で対立が発生した。一九一三年六月、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。しかし、ブルガリアは反撃されただけでなく、第一次バルカン戦争で戦ったオスマン帝国、さらには中立を保っていたルーマニアからも攻撃された。そのためブルガリアは敗北し、第一次バルカン戦争で獲得した領土の重要な地域を喪失した。他方、二つのバルカン戦争によって、セルビアの領土は二倍となった。セルビア内外でのセルビア国家の威信は否応なしに高まった。これは、オーストリアにとって致命的な問題であった。

 また、オスマン帝国の勢力がバルカンから駆逐されたことによって、セルビアとルーマニアの次の領土獲得の対象がオーストリアであることは明らかであった。ボスニアを含むオーストリア南部のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の一部には隣国セルビアとともに、南スラヴ国家(=ユーゴスラヴィア)建設を目指す動きもあった。セルビア国内にも同様の考えを持つ者がいた。オーストリアの政策決定者にとって、この南スラヴ運動は、国家の解体を意味したので、セルビアは不倶戴天の敵であった。ウィーンには、外交的手段ではもはやこの問題を解決することはできないとの考えが充満していった。そのような時に、サライェヴォで暗殺事件が起きたのであった。