2022年3月24日木曜日

20220323 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.353-355より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.353-355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

世界地図は西洋人の探検の進捗にしたがって次第次第に海岸線が正確に詳細に描かれるようになるが、世界中で最も製図の遅れた部分は大洋州と、それから北海道・カラフトの一角とである。日本の領土の辺陬が世界で一番知られない所であったという事実はそもそも何を物語るであろうか。それは取りも直さず、日本が世界の端になったのである。もう一つ言いかえると、世界文化の大きな動きの中で、日本はもう一度、世界のターミナルになったのである。事実、近世の日本は、まだ十分近世化していないで、多分に中世的な性質を残しているところへ、中国の近世と西洋の近世とが折り重なって流れこんだのである。むしろ、二つの外来の近世に影響されて、日本の近世は近世たり得た、と言ってもよい。

 ところで、この近世日本のターミナル文化と比較してみたときに、どんな相違がその間に見出されるだろうか。古代日本のターミナル文化は後世に素晴らしい傑作を残している。法隆寺や新薬師寺、東大寺の建築、仏像はいうも更なり、正倉院の御物、宮中伝来の雅楽など、燦然たる大陸文化の光輝を伝えている。もっともこれを古代というのは日本の立場からで、大陸からいえばせいぜい中世文化にすぎぬが、それにもせよ、大陸では既に滅亡して跡形ないものが日本にはほとんどそのままの鮮やかさをもって伝来し、時にはそのままの生命のいぶきさえ感じ取られることは実に驚くべき事実である。

 ところが近世の日本には、その雛型となった中国の近世も、西洋の近世も、別に誇るに足る傑作を残しておらぬのである。それは単に滅び去ったためばかりではない。たとい京都に南蛮寺が残っていたとしても、それはヨーロッパの田舎町の教会堂に比べることさえできぬ代物であったであろう。これはやはり受入れ当事者の地位によることである、古代日本においては大陸文化の受容者は主権者、貴族を中心としたグループであったので、権力と財力とを背景として、大陸の上流文化を根こそぎ移し植えたのである。その上に当時の中国は貴族時代で、文化も分散的であったため、あまりに容積の大規模なものは流行らない。長安の貴族の生活も、揚州の貴族の生活も、杭州の貴族の生活も、程度において大した変りがなかった。同様に日本の貴族の生活も中国のそれとあまり大きな逕庭はなかったのである。だから仮に法隆寺をそのまま、唐の長安へ持って行っても、決して最高級ではなかったであろうが、またさして見劣りもしなかったであろうと思われる。光明皇后の使った鏡は、楊貴妃の使った鏡とほとんど同じものである。

 ところが近世日本の権力者は、外国文化を輸入するよりも、流入を阻止するに努力した。これでは傑作のできるはずがない。日本の大名たちは化物の出そうな天守閣を背景にこしらえて、その下にただ在来の建築を大きく引き伸ばしたに過ぎない邸宅に住んで満足していた。明・清の北京宮殿を真似しようともせず、ベルサイユ宮殿を模倣しようとも考えなかった。甚だドライな野人だったのである。ただ幕府や諸大名の力で建立された黄檗山万福寺が、中国の近世を移植した唯一の例とでも言えようか。但しこれも大した上等品ではない。