2017年12月31日日曜日

20171231 今年最後の記事【ジルコニアについて】

近年歯科医療において注目されているジルコニアであるが、このジルコニアとは金属であるジルコニウムの酸化安定状態にあるものを指す。

一方において、ジルコニアとはホワイト・メタルと称されることもあるようだが、あくまでも金属酸化物であるアルミナなどと同様セラミックスに分類されるものである。

しかしながら、ジルコニアがさきのように称されることにも理由がある。
それは機械的強度が非常に強く、耐摩耗性においても優れているという点である。さらに金属歯科材料と比して優れている点とは、金属特有の金属光沢を呈せず、多少の光透過性をも有し、そして既に酸化安定状態であることから生体為害性を持たない点であると云える。

最後に述べた点とは、生体材料として用いるうえにおいて、特に考慮すべきことであると云える。

それ故、さきの記事においても少し触れたが、ジルコニアとは整形外科領域における人工股関節の材料としてアルミナと並び用いられているが、昨今においてはその優れた機械的性質(破壊靭性はアルミナの約2倍)から徐々にジルコニアに置換されつつある。

さて、このジルコニアとは三種の結晶構造を持ち、それぞれ単斜晶・正方晶・立方晶と云う。単斜晶とは結晶構造が全体に斜めに傾き、正方晶は直方体による結晶構造であり、そして立方晶とは立方体による結晶構造を持つ。

これら三種の結晶構造とは温度により変化(相変態)し、焼結後に冷却すると立方晶から正方晶へ、そして正方晶から単斜晶へと変化(相変態)する。

そしてこの変化(相変態)が生じる際に収縮・膨張が生じ、正方晶から単斜晶への変化の際は4%程度の体積膨張が生じ、これにより脆性化・機械的強度の低下が生じる。

こうしたことは安定した機械的強度が求められる生体材料としては望ましくないことから、これに微量(数mol%程度)の安定化材(イットリア・アルミナなど)を添加することにより立方晶を保持した状態にて結晶構造が安定化し、さきの温度変化による機械的性質の低下を防ぐことが可能となる。

しかしながら、この安定化ジルコニアとは結晶構造が安定してはいるものの、その機械的強度とは各種生体材料として用いるには弱すぎることから、さきの安定化材の添加をさらに減らすことにより、単斜晶・正方晶が混在し部分的に結晶構造が安定した部分安定化ジルコニアが開発された。

この部分安定化ジルコニアこそが現在医療・歯科医療分野において用いられているものであり、とりわけ3~4mol%程度のイットリアを安定化材として添加したジルコニアは常温下においてほぼ全てが正方晶の結晶構造を成し、機械的強度に優れ、正方晶ジルコニア多結晶体(Yttria-stabilized tetragonal zirconia polycrystal:Y-TZP)と呼ばれている。

さて、この部分安定化ジルコニアは応力を加えることにより結晶構造が変化する。

これを異言すると、正方晶状態の部分安定化ジルコニアに応力が加わることにより単斜晶へと変化(相変態)し、その際、さきに述べた4%程度の体積膨張が生じるということである。

そして、この体積膨張により、応力によって生じた微細な亀裂の更なる進展が妨げられるといった部分安定化ジルコニア特有の機構がある。【応力誘起相変態強化機構】

この機構とはセラミックス材料において稀有とも云えることから、現在においても更なる実用化を念頭に置いた研究が為されているが、とりわけ天然歯に置換する歯冠材料として用いるための工夫・研究とはここ数年程度で大きく進展したと云える。

自身がかつてこの分野において研究活動に従事していた時期、あくまでもジルコニアとは、むき出しのままにて口腔内に用いられる材料とは考えられてはおらず、これをコア材料として用い、その上に歯科用陶材の築盛、成形そして焼成といった工程が不可欠であると考えられていた。

それ故、ジルコニアと歯科用陶材の接着強度およびその接着メカニズムの解明が重要であったのだが、これらは現在においては考慮を要しないものとなった。

何となれば、その組成等の工夫によりジルコニア自体の発色が天然歯のそれに近いものとなってきたからである。

もとより絶え間のない進化発展により、科学・技術の研究とはこうしたものであるのだが、ただし、そこで重要であると思われることは、何れかの分野の研究において世界規模での最先端を体感することではないかと思われるのだが、さて如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

そして来年もまた、しばらく記事作成を継続しようと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。

皆さまにとって来年が良い一年となりますように。

昨年より現在までに列島各地にて発生した地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。

最後に宣伝となりますが、師匠による新たな著作が医歯薬出版より刊行されましたので、ご案内いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック

ISBN978-4-263-46420-5




20171230 自身の歯科理工学の系譜から分かったこと・・【新刊著作の御案内】

2017年も余すところ1日となりました。
自身の作成しているブログは年内の目標であった850記事の投稿を既に終え、年内は記事作成を休もうと考えていました。
一方、昨日よりこれまでとは異なった方法にて投稿記事をSNSと連動させたところ、思いのほか多くの方々に読んで頂いているといった事態が生じました。

この連動の仕方が何故、多くの閲覧者数に結節したものかは分かりませんが、何であれ、こうした事態が生じますと『やはり新たに何かしら書いておいた方が良いのでは・・?』と思うに至り、そしてつい先ほどより新たな記事を作成している次第です・・(笑)。

くわえて面白かったことは、昨日投稿分の書籍からの抜粋引用部もまた、多くの方々(60以上)に読んで頂いていたことであり、どのように読んで頂いているかは不明ではありますが、何であれ自身としては興味深い現象であると思われました。

とはいえ、この書籍は2013年に刊行されたものであり、当時はセラミックス製のコア上に各種歯科用陶材を焼付け、より天然歯に近い補綴物の作製していたのですが、現在においては歯科用陶材の焼付け工程は省略されつつあり、その代わりにコアであるセラミックス自体の色合いがより天然歯に近づいていると云えます。

また、自身の研究テーマとはこのコアとなるセラミックスと焼付ける歯科用陶材の接着強さの概要およびその接着メカニズムを解明することを目標とするものであったのですが、この研究はその後さらに進展し、接着界面の透過型電子顕微鏡像をも得られていることから断定とは行かないまでも、概ね結論らしきものには至っていると云えます。

ちなみにその結論を学会発表・論文を通して発表されたのが自身の師匠であるのですが、つい先日訪問した医院の歯科医師より伺ったところによると、この師匠は先日12月15日投稿分の記事『ロストワックス鋳造法・鋳造収縮などについて』にて述べました金竹哲也氏の孫弟子にあたるということであり、そうしますと自身も曾孫弟子ということになります・・(笑)。
・・しかし、こうしたことは笑いごとではないらしく、そのことを仰った歯科医師の先生はごく真面目に、あたかもタイプ別金合金の組成およびその主たる用途を説明する時のような調子にて話してくださいました・・。
これまでのブログ記事にて多く歴史を主題とする記事を作成してきましたが、あまり興味を持つことのなかった自身の歯科理工学における師匠の系譜を辿ってみますと、期せずして、なかなか立派なものであることが分かりました・・。

とはいえ、そうした一連の師匠・弟子達のなかにて臨床・研究分野に属せず、こうしたブログ記事を作成し続けているモノはいないのではないだろうか・・(苦笑)。
このことは多少恥ずかしくも思うところではありますが、同時に歯科理工学分野ではないと思われますが、それら記事の中において、ひとつ程度は古今初の言及が為されている記述もあるのではないかと考えています。
くわえて、自身としては脱抑制のスタンスを取りながらも、そうしたことをどこかで狙いつつ書き続けることが大事ではないかと考えています。

今回もここまで興味をもって読んで頂き、どうもありがとうございます。
近年、列島各地にて生じた地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被害を被った諸地域の復興を祈念しています。

昨年から再び活発な噴火活動をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。


宣伝となりますが、先日師匠による新たな著作が医歯薬出版より刊行されましたので、ご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
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ISBN978-4-263-46420-5




































2017年12月29日金曜日

20171229 Published by Springer Written by Carlos-Bergmann and Aisha-Stumpf Dental Ceramics: Microstructure, Properties and Degradation pp.15-16より抜粋引用

Published by Springer   Written by Carlos-Bergmann and Aisha-Stumpf
Dental Ceramics: Microstructure, Properties and Degradation
Chapter 3 
『Ceramic Materials for Prosthetic and Restoration Use』
ISBN:3642382231 

pp.15-16

『The first uses of ceramics as dental material date from the early XV century.
 Today, Ceramics are being used on a large scale as restorative materials in Dentistry. 
This includes materials for dental crown, prosthesis cementation and total and partial dentures. 
The increase in the use of ceramic restorations has virtually removed the use of metal restorations, since they do not meet the esthetic demands of patients.
Ceramic materials are best suited to replace metal, especially in erosive and corrosive environments.
Dental ceramics allow regular and diffuse transmission, as well as diffuse and specular reflectance of light, and therefore have the potential to reproduce the depth of translucency, depth of color, and texture of natural teeth. 
In addition, dental ceramics have a relative good resistance to degradation. 
The oral cavity is biologically compatible, and has a coefficient of thermal expansion that is similar to that of tooth structure.
The first dental ceramics had their use limited to the front teeth because of their low flexural strength. 
New technologies and manufacturing techniques have allowed the development of different ceramic systems for dental use with higher resistance, expanding the options available to dentists and allowing the manufacture of prostheses for posterior teeth.
Ceramics have been used to fabricate a wide variety of restorations including inlays, onlays, implant, crowns and fixed partial dentures on account of their biocompatibility, were resistance and better esthetics. Due to their better esthetics, in particular, patients have become more demanding regarding the appearance of their restorations.
The use of all-ceramic crowns has been questioned because of their lack of strength.
 Their counterparts, the metal-ceramic crowns, have been used successfully; the majority of all full-coverage restorations and fixed prostheses are fabricated from metal-ceramic systems that have a failure rate of only 1-3% over 5 years. 
Metal-ceramic systems (MSC) have come under scrutiny, however, because of (1)potential alloy corrosion leading to toxicity and allergy concerns; (2)esthetic problems such as lack of translucency, discoloration of some ceramics from silver in the alloy, and excessive value in the cervical third; (3)the amount of tooth reduction necessary, and associated tendency to overcountour the restoration; and (4)incompatibility between metal and ceramic, and the difficulty in establishing standard test for bond strength and thermal compatibility.
Fixed prosthodontic treatment, whether involving complete or partial coverage and natural tooth or dental implant abutments, commonly relies on indirect fabrication definitive prostheses in the dental laboratory. 
Historically, the necessity for provisional treatment has been primarily derived from this methodological process.
The importance of interim treatment, however, is more far-reaching than is portrayed by this procedural necessity and the requirements for satisfactory provisional restorations differ only slightly from the definitive treatment they precede
In the last few decades, ceramic materials for restorative. 
Dentistry have evolved significantly, and esthetic restorations, such as all-ceramic crowns and veneers, are routinely used in practice.
Different materials and production systems are available for all-ceramic dental restorations; a single layer ceramic that is attached to the tooth structure or a two-layered structure with a high-strength ceramic core material, which supports the more fragile veneering ceramic.
Some high strength materials are designed for computerized milling techniques (CAD/CAM) where the core structure is milled from the presintered block of an oxide ceramic. 
A relative recent dental ceramic is yttria-stabilized zirconium oxide polycrystals. 
These materials are manufactured from fine particles of ZrO2 and 3-5% Y2O3, which from a partly stabilized tetragonal structure at room temperature after heat treatment. 
Due to the optical opacity of these materials, they are covered with veneering ceramic, usually feldspathic types, with esthetic characteristics similar to the natural tooth substance.

The veneering process involves a firing procedure at high temperatures(750-900)and subsequent cooling of the restoration. 
This process is performed at least once, usually two to five times. 
It is not fully known what effect this thermal history has on the properties of the core ceramic. 
Patients have become more and more demanding regarding the esthetic and biocompatibility of their dental restorations, ceramic as material for inlays, onlays, crowns and bridges has become a main goal for scientific interest especially from the material point of view.』

2017年12月27日水曜日

20171227 ものごとの理解へと至る進め方とは・・

昨日の投稿記事もまた投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました(120以上)。

また、その内容にも関連することであると思われますが、時折どちらかというと理系方面への才能が長けていると思われる歯学分野の方々からの御意見にて『何故、君等文系と称する人々は現在のこの世界、国内のことも完全には理解していないのに、昔のことを分かったように話すことが出来るのかね?』といったことを聞くことがあります。

たしかに幾度にもわたる綿密な実験を通して、データを得てから一歩ずつ推論・論証していくといった過程による理系的な考え方・ものごとの進め方とは、まさしく科学的であると云えます。

しかし、それと同時に、ものごとの理解へと至る進め方とは、それのみではなく、さきに述べた理系的な考え方・ものごとの進め方とは、おそらく我が国においては早くとも18世紀後期以降からのものであり、それ以前の我が国においては、書かれた書物等の読解を通じて得る観念的な知見であったり、詩歌に拠って心情・情緒あるいはその思想などを表現するといった手法により知的作業が為されていたと云えます。

つまり多少の時代のブレはありますが、我が国における理系的な考え方・ものごとの進め方の流入と西洋文明の流入とは概ね軌を一にしていると云えます。

くわえて、その際に西洋的にして文系的な考え方・ものごとの進め方もまた、さまざまな哲学・思想として我が国に多く流入してきたのですが、そうしたものとは、他方において我が国が概ね独自で育んできたさまざまな文化・伝統といった歴史の生命と評し得るものに対しても、否応なく改変・解釈の変更を余儀なくさせるものであったとも云えます。

とはいえ、当時の多くの人々は、そうしたことをも致し方ないこととして概ね受容したと思われますが、同時に西洋化が国是とされ、同時にそれ以前の歴史文化が色濃く残る時代の社会にて活動した我が国の思想家・研究者にこそ古今を通じて偉大とも云える方々が多く見受けられるということには、なかなか興味深い何かがあるのではないかと思われます・・。

また、そのことからも、ものごとの理解へと至る進め方とは決して単線的なものではなく、さらには我が国が今後も独自の文化を持つ国であり続けるためには、やはりこうした文化・伝統を含む歴史全般を(具体的にしてある程度の知識を以て)視野に備えた考え方・ものごとの進め方とは、憎らしいと思われることも多いのかもしれませんが、やはり大事ではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

そして案外と、このポイントに何かしら別々の後世へと通じる大きな分水嶺があるのではないかと思われます。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて発生した地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。






20171226 作成したブログ記事に対しての反応から思ったこと・・

最近投稿した記事と関連性の深い内容を持つ、さらに以前に投稿した記事が読まれていることを発見しますと、多少複雑な感じを受けます。

これを一歩下がって考えてみますと、それは意識して為された行為であるかどうかも不明ではあるのですが、しかし、そうした反応とは無意識にて行うことは困難ではなかろうかとも思われますので、これらの反応とは意識して為されたものであると見做します。

そうしますと、冒頭にて述べた複雑な感じとなるわけですが、これは特に嫌悪感をおぼえるといった類いのものではなく『やるなぁ・・』といった一本取られたような感じに似ていると云えます。

くわえて、こうしたブログ記事への反応とは以前より度々あったことから、現在においては特に驚くことはありませんが、しかしそれを知覚した当初においてはそれなりに驚異もしくは脅威と感じていました・・(苦笑)。

また、正直に書きますと『こうした反応をある程度の速度にて為し得る能力・才能とは、あるいはこうしたブログ記事を作成する能力よりも優れたものではあるまいか?』とも思われるのです・・。

くわえて、これら反応を為し得ている背後にある論理とは、わたしがその意味・論理を知覚するまでは、ある意味無駄なものであるとも云えます。

そして、それら反応が誰により為されているかは不明ではありますが、反応の速度、的確さにバラつきのようなものを感じることはあるものの、概ねかなり気長な方(々)であり、且つ、どちらかと云うと人文社会科学系であるよりも理系的なセンスを強く感じさせられることが多いと云えます。

こうしたセンスもしくは才能に関しては、おそらく自身の内部にて乏しいため、そうしたセンス、才能を感じさせられますと現在でもやはり、それなりの驚きがあります。

しかし、これまでにブログ記事を作成している間にも、その反応の仕方の傾向とは多少は変化しており、多少憶測気味とはなりますが、当初に比べ、文系的な内容を述べた記事に対しての反応が的確、鋭くなってきたのではないかとも感じられるのです。

あるいはそれらは別の方によるものであるのかもしれませんが、しかし何れにせよ、こうした反応を認識しつつ記事を作成することはブログ記事作成における決して小さくないやりがいになると云い得ます。

さらに以前、しばらくブログ記事作成を休息すると述べておきながら、ここに新たに記事作成を行っている原因もまた少なからずここにあると云えます・・(笑)。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに日本列島各地にて起きた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
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昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。








2017年12月25日月曜日

20171224 知見・見解が組み立てられる過程・・実験、知覚的な経験、観察

おかげさまで昨日分の投稿記事は投稿翌日であるにもかかわらず多くの方々(85)に読んで頂けました。読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。

さて、今回の記事投稿により総投稿記事数が850に到達します。そして年内の記事投稿はこれにてひとまず止め、休息を取ろうと思います。

次に記事作成を再開するのは来年にしようと考えていますが、一方でこうしたことはあまり予め決め過ぎず、年内であろうとも、何かしら着想が浮かんだ、面白い文章を見つけた場合は、その都度記事作成を行おうとも思います・・(笑)。

ともあれ、どうにか以前から目標としていた年内の850記事へ到達したことは『喜ぶ』というよりも『安心した』といった感じであり、また現在作成している投稿記事においても緊張することはなく『さて、何を題材として記事を作成しようか?』といった感じにてPCに向かっています・・(苦笑)。

そういえば、昨日投稿分の記事とも関連するかもしれませんが、実験を伴う理系諸学問分野における知見とは、その根本において普遍性あるいは再現性が要求されます。

一方、人文社会科学分野におけるそれとは、無論、普遍性は重視されるものの、その再現性とは必ずしも担保し得ないことから、その学問的性質とは自然と理系学問分野のそれとは異なったものとなると云えます。

このことをもう少し考えてみますと理系学問分野においては、さまざまな指標が数値化され得ることが求められ、そして、それら数値の比較・検討などにより知見・見解が組み立てられていくと云えます。

一方、人文社会科学分野におけるそれ(比較・検討される指標)は、必ずしも数値化され得るものばかりではなく、あるいは多くの研究内容においては再現性もまた当初より望むべくもないことから、数値を以って表現される量的な情報よりも、質的とも評し得る知覚的な経験の情報により知見・見解が組み立てられる傾向が強いと云えます。

しかしながら、理系学問分野とは冒頭にも述べた通り、多くの場合、実験を伴うものであり、それにより数値化され得る量的な情報を入手することが出来ると云えます。

くわえて、ここがおそらく重要であると思われるのですが、この実験とは、単に数値化され得る量的な情報を入手する手段であるばかりでなく、人文社会科学分野における(質的とも評し得る)知覚的な経験の情報をも得る手段であるといった側面もまたあるのではないかと思われます。

また、その際に重要であるのが『観察』であると思われるのですが、実はこの『観察』の精度を洗練・向上させることこそが理系・文系問わず全ての学問研究においてより多くの努力が費やされるところではないかと思われます。

そして、おそらく多くの現象に対する『観察』とは、書籍文献の読解とも浅からぬ関連性があるのではないかと思われます。

それ故、あくまでも私見ではありますがSNSなどとは、ある種の便利さを我々に供給すると同時に、少なからず人間精神の発達を阻害するような要素があるのではないかとも思われるのです・・。

少なくとも国内における出版物全般とはSNSの使用が現今ほど広汎になる以前の方が優れていたのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに列島各地において生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
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2017年12月23日土曜日

20171223 20世紀は歯科精密鋳造:21世紀はCAD/CAM歯科技工の時代・・?

さきに述べた歯科医療分野にて多用されるロストワックス鋳造法に用いる鋳型材(埋没材)とは、当初は主に耐熱性のみが重視されていた。

その一方においてアメリカ合衆国のコールマンによる合金の鋳造収縮理論の発表および同フェンナーによる石英の高温結晶形であるクリストバライトが加熱により膨張する性質が発表された。

そして歯科補綴物の作成において、これら材料の性質(収縮・膨張)が互いに補完し合いワックス等の樹脂系材料により作成された鋳造体模型の寸法を変えることなく合金に移し替えることが企図された。

しかしながら、この鋳型材(埋没材)の加熱時における膨張のみでは合金の鋳造収縮を十分に補完することは困難であることから、順次鋳型材(埋没材)の膨張を試みる工夫が為され、硬化時膨張・水和膨張・吸水膨張といった更なる鋳型材膨張の発現もまた企図された。

こうした鋳造精度向上の工夫により、歯科精密鋳造とは徐々に理論・体系化され、くわえて新たな知見も随時追加され、歯科医療における精密な補綴物を得る技術・理論体系とは確立していった。

これらはほぼ全て20世紀代に為された進化発展であることから、歯科補綴物製作の視点にてこの世紀を概括すると『歯科精密鋳造確立の歴史』と評することも可能であると云える。

現在、歯科用合金を材料とする精密鋳造により製作された補綴物が口腔内にて広汎に装着されているが、その歴史的背景とは20世紀以降において急激な進化発展を遂げたものであり、それは、その他多くの(画期的効果を持つ)工業製品とも同様であることには、やはり何らかの大きな歴史の流れにおける有意な変化がこの時代の前後にあったのではないかと考えられる。

そして昨今、歯科用合金に多く用いられる貴金属の価格が上昇し続けていることから、その広汎な使用の継続とは疑問視され、何らかの代替技術・材料が求められているのであるが、そこで注目を集めているのが、さきにも少し触れたコンピューター技術の進化発展に伴い汎用化されつつあるCAD/CAM技術である。

そして、これを用い材料が比較的安価であり、今後もその材料の安定的供給が見込まれるコンポジットレジン、各種セラミックス材料などを用い各種歯科補綴物を製作するといった傾向が強くなってきている。

これを大きな歴史的視点にて捉えてみると、さきに述べたように20世紀とは歯科精密鋳造の時代であり、それに対して今世紀とはCAD/CAM技術による歯科補綴物製作の時代となるのではないかとも思われる・・。

ともあれ、そうすると既存の歯科技工が大きな変革を余儀なうされ、あるいはその業界全体のあり方自体もまた必然的に大きく変わっていかざるを得ないと云える。

歯科治療を受ける患者さん側からの視点であれば、何れであれ、より良い歯科医療を手頃な価格にて受けることが重要であることから、こうした歯科医療における技術体系の(大規模な)変化とは、あまり考慮すべきことではないのかもしれない。

しかし一方、それにより歯科医療を行う側に何らかの憂慮すべき不利益・不都合が恒常的に生じる事態が惹起されるのであれば、それは結果的に歯科医療そのものをジリ貧の状態とし、昨今、いくつかの業種において過労働がさまざまな事故に結び付く可能性が指摘されたことと類似するような事態が招来されるのではないかとも考えられる・・。

そして、それはやはり憂慮すべきことではないかと思われるのだが、さて如何であろうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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2017年12月22日金曜日

20171222 明治維新から日清・日露の役に至るまでの一視点

明治維新以降の我が国における文明化とは専ら西欧化のことであり、この西欧化とは、本来それとは異なった歴史文化を育んできた我が国からすれば、それまでの過去に対する訣別の意味合いが強かったと云える。

また、当時我が国にさまざまな学問・技術の指導の為来日していた外国人の記録を見ると、当時、西欧化の担い手として彼らから教育を受けていた多くの我が国の若者には、自らの歴史文化を恥じ、これを否定するといった側面があったと記されている。

ともあれ、その一方で当時の我が国とは、産業を興し国を富ませ、軍備を増強しなければ西欧列強の植民地となってしまう可能性も十分にあったことから、少なくとも、当時においては自身オリジナルの歴史文化の価値について論じる余地などはあまりなかったのではないかとも思われる。

如何せん当時は帝国主義真っ只中の国際情勢であり、また同時に我が国とは概ねコーカソイドにより構成される西欧列強諸国とは人種的に異なるモンゴロイドにより構成される国であった。

現今の国際社会においても人種問題とはなお多く耳にするが19世紀・20世紀初頭においては西欧列強の帝国主義を肯定・是認する社会進化論といった思想が最新の科学的知見として広く受け入れられていたことから、当時、西欧列強の中で我が国が味わったであろう苦痛・不合理とは現今の基準にて考えれば並大抵のものではなかったと思われる・・。

ともあれ、それでも我が国は独立を保持するため、西欧列強に伍して闘い続けなかればならなかった。

あるいは、当時はそれだけが独立国として生き残る有効な選択肢であったとも云える。

そして、当時の我が国とは正しく身命を賭して、こうした世界的風潮(西欧列強による帝国主義・世界規模の権益の伸長)と自身を同化させることにより戦ってきたことについては、もう少し世界的に評価されても良いのではないかと思われるところであるが、こうしたことは西欧諸国・アジア諸国双方にとって、あまり認めたくない、あるいは注視の必要がない歴史の一部分であるのかもしれない・・。

いや、モンゴロイドの国であるにも関わらず、西欧列強の帝国主義を真似して参加し、その末端のお先棒を担いだといった、あまり名誉ある扱いには値しない国とされているのではないだろうか・・。

また、さきにも少し触れたが明治維新以降、西欧的な文明化を国策とし、その実績をあげつつあった頃、隣国の中国(清王朝)、(李氏)朝鮮とは未だ旧態依然として低迷の状態にあり、それに対し我が国とは、その事態につけ入り、侵略政策を取ったと考えられやすいが、そうした見方とは当時の我が国を見誤っていると云える。

当時の我が国とは、現在における国際感覚とは異なり、未だ江戸期以来の文化伝統が色濃く残る社会でもあった。

その意味から当時、隣国の中国、朝鮮とは、古来からの文化的交流にて耳慣れた国々であり、それらに対して我が国が強く望んだことは一日も早く近代化の道を歩んでくれることであったが、こうしたことは少数の理解者、賛同者を得たものの、全体的な流れとはならず、その結果我が国は我が国で独自の道を歩むようになっていった・・。

また、当時の思想家・教育者である福沢諭吉が1885年に時事新報にて『脱亜論』を発表したが、それを述べた同じ人物が当時の(李氏)朝鮮における改革派勢力を支援していたことは一体どのような歴史的文脈に基づくものであるのかとは、なかなか興味深いことではないかと思われる。

ともあれ、その独自の道を歩んだ我が国の先にある山場が日清・日露の役であった・・。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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20171221 継続的なブログ記事が為される背景とそこから思ったこと・・

昨日投稿分記事も思いのほか多くの方々(60以上)に読んで頂けました。また、以前にも述べたことではありますが、継続的にブログ記事を作成していますと、直近に投稿した記事と関連性があると思われる記事が読まれていることがしばしばあるのですが、それが誰により為されいるかは分かりませんが、その選択のセンスとは、概しておそらく記事の作成者より優れているのではないかと思われます・・(苦笑)。

また、そうした優れた(と思われる)反応が為されていることを認識することにより、記事作成に対してもまた一層身を入れることが出来るのではないかと思われます。

とはいえ、ブログ記事であれ、その作成とは面倒である時はなかなか面倒なものであり、イヤイヤ書き始め、最後までそうした心境のままにて書き終え、そしてどうにか『本日のノルマは終えた・・』といった心境に至り、どうにか落ち着くといった日も少なからずあるというのが実状と云えます。

それでも、そうした作成・投稿された記事であっても、それらが(自身としては)比較的多くの方々に読んで頂いていることを認識しますと、さきに述べたような心境とは案外とキレイに払拭され、再度その記事を読み直し、必要と思われる加筆修正が為されることになります・・(笑)。

それ故、自身の場合、このブログという一種の相互作用的な文章発信様式が、思いのほか適していたのではないかと思われるのです・・(笑)。

また、そうしたことから、今後たとえ900記事あるいは1000記事の投稿に到達した場合においても、それはどちらかというと自身の努力というよりも、さまざまな事情・状況が自身の性質に適していたことによるのではないかとも思われるのです。

そしておそらく我々とは、本来そのようにして自身の得意とするものを(ある程度長期的な視野にて)模索していくのが良いのではないかと思われるところですが、しかし一方で実際の人生・生活にて重要とされることとは、より実際に即したことであることから、さまざまな悩みなどが生じるのではないかと思われます・・。

また自身においてもまた、今現在、そうした悩みの中にあると認識しており、これはこれでなかなか(自身にとっては)深刻であると思うところではあるのですが、しかし、そうしたこともまた、文章として著してみますと、多少は、そして有意に気分が晴れるようであり、さらに加えて次に行うべきこと、企図する方向などもまた示されるようであり、そうしたことからも、こうした文章作成とは、表層においてはあくまでも面倒と思われるものの、それが習慣化することにより生じる効果とは、少なくとも現在の自身にとっては欠くことの出来ないものであるとも云えるのです。

また、我々がさまざまな勉強、研究を行う根本の意味とは、そういった行為そのものの中に何らかの深い・不可知な意味あいが認められてきたからではないかと思われるのですが、他方、昨今の御時世における傾向とは、どうもそうした意味あいのことを閑却し、多くの勉強・研究的要素自体を本質的に面倒なことであるとして外部化しようと試みているのではないかとも思われることが多々あるのですが、それもまた一つの反知性主義の顕れと認識しても良いものでしょうか・・?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。













2017年12月20日水曜日

20171220 18世紀半ばイングランドにて生じた産業革命が齎す波が我が国に至ると・・

18世紀中期イングランドにて発生した産業革命は、その後ヨーロッパのみならず世界の様相を一変させた。

産業革命における蒸気機関の普及により大量の製品が製造され、それが蒸気機関車にて運ばれ、さらに蒸気船により国外に輸出されるといった流通経路・形態が常態化すると、当然の如く、それら輸出先地域の伝統的な在来文化が変形もしくは破壊され、そして結果的にその地域とは産業革命が為された欧米諸国の植民地とならざるを得ない状態へと至る。

極東の中国・朝鮮・日本などは独自の伝統的な在来文化を保持していたことから、当初、武装された蒸気船による欧米文化の来航に対して激しく抵抗したが、そうしたいわば国粋的な勢力・行為とは、優れた武器を広汎に装備した欧米列強により排除され・圧迫を受け、とりわけ国土が広大である中国(当時は清王朝)は沿岸部複数地域が半ば植民地のような状態へと陥るに至った。

そうした中、日本のみは当時のアジア世界において例外的に、来航する欧米文化を摂取・順応することにより、その民族的な独立は保持しつつ新たな政体への変化を遂げることが出来た。

また、我が国の歴史においてはこの時代より近代化が為されたと一般的に云われる。

しかしながら、なぜこの時期に日本のみが独立を保ちつつ曲がりなりにも近代化を遂げることが出来たのであろうか?

このことは、現代に至るまでさまざまな国々から指摘される我が国に対する興味・疑問であり、またそこで得られたことを手掛かりとして東アジア全体の歴史・文化を認識を試みるといった傾向もまた少なからずあった(ある)とも云える。

とはいえ、全ての歴史的出来事がそうであるように、一つの歴史上の出来事が生じるに至るまでには無数の原因があり、そしてそれぞれの原因にもまた同様に無数の結果が生じているのである。

それ故、歴史上にて良いとされる出来事とは、その発現に至るためには数多くの小さな良い(とされる)出来事があり、それらが相互作用することによりはじめて発現されると云えるのである。

無論、逆においても然りであると云える。

ともあれ、そうした原因・結果として考えられるものが多い場合においても、それらの歴史の流れにおける重要性の比重とは、さまざまな史料・資料に基づいて考えてみると概ね理解することが出来るのではないかと考える。

さて、この時期の我が国において良い効果を齎したものとして、先ずはじめに17世紀初頭から19世紀半ばに至るまでの約250年間、凍結した軍事体制とは評されるものの徳川幕藩体制下の国内にて大規模な争乱もなく、概ね平和裏にさまざまな文化・事業の進化発展が為されたことが挙げられる。

そして二つ目に当時の欧米列強の東アジアをはじめとした世界各地における帝国主義的(権益の伸長)な行為態度に基づく互いの(権益伸長への)牽制が為されていた、あるいは国よっては内戦が生じていたといった外部的要因もまた挙げられる。

しかし、たとえそうであったとしても、それら我が国にとって有利に働く外部的な諸事情は、あくまでも恒常的なものではなく、我が国はそれに適切に応対するため早期の変革が為されなければならないことを、当時の心ある・世界規模の知識を有する人々は痛感していた・・。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

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2017年12月19日火曜日

20171219 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 『サピエンス全史』上巻pp.226-228より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『貴金属の一定の重さが、やがて硬貨の誕生につながった。
史上初の硬貨は、アナトリア西部のリュディアの王アリュアッテスが紀元前640年ごろ造った。
それらの硬貨は、一定の重さを持つ金や銀で、識別記号が刻印されていた。記号は二つのことを保証していた。
第一に、その硬貨にはどれだけの貴金属が含まれているかを示していた。
第二に、その硬貨を発行し、中身を保証した権威を明らかにしていた。
今日使われている硬貨のほとんどは、リュディアの硬貨の子孫だ。
硬貨は二つの重要な点で、何の印もない金属塊に優る。
まず、金属塊は取引のたびに重さを量らなければならない。第二に、塊の重さを量るだけでは足りない。私が長靴の代金として支払った銀塊が、鉛を薄い銀で覆ったものではなく純銀製であることは、靴職人には知りようがない。
硬貨はこうした問題の解決を助けてくれる。
刻印された記号が厳密な価値を保証しているので、靴職人はレジの上に秤を置いておく必要はない。
さらに重要なのだが、硬貨の記号は、その硬貨の価値を保証する何らかの政治的権威の署名なのだ。

記号の形と大きさは歴史を通してはなはだ異なるが、そのメッセージはつねに同じで、「偉大なる王〇〇である予は、この金属円板がきっかり五グラムの金を含むことをじきじきに保証する。

この硬貨を偽造する者がいたら、その者は予の署名を偽造しているに等しく、それは予の名声に汚点を残すこととなる。

そのような罪を犯す者を、予は厳罰に処すであろう」というものだ。だからこそ、貨幣の偽造は他の詐欺行為よりもはるかに重大な犯罪であるとつねに見なされてきたのだ。

貨幣の偽造はたんなるごまかしではなく、君主の支配権の侵害であり、王の権力と特権と人格に盾突く行為なのだ。

法律用語では「大逆罪」で、通常、罰として拷問され、死刑に処せられた。
人々は、王の権力と誠実さを信じているかぎり、王の貨幣も信頼した。見ず知らずの人どうしも、ローマのデナリウス銀貨の価値については、何の疑問もなく同意できた。それは彼らがローマ皇帝の権力と誠実さを信頼していたからで、皇帝の名前と肖像がこの銀貨を飾っていた。

そして、皇帝の権力は逆に、デナリウス銀貨にかかっていた。硬貨なしでローマ帝国を維持するとしたら、それがどれほど困難だったか創造してほしい。

もし皇帝が大麦と小麦で税を集め、給料を支払わなければならなかったとしたら、どうだろう。

シリアで税として大麦を集め、ローマの中央金庫に運び。
さらにイギリスに持っていって、そこに派遣している軍団に給料として支払うのは、不可能だっただろう。

ローマの町の住民が金貨の価値を信頼していても、従属民たちがその信頼を退け、代わりにタカラガイの貝殻や、象牙の珠、布などの価値を信頼していた場合も、帝国を維持するのは、同じくらい難しかっただろう。』


夏目漱石著「三四郎」岩波書店刊PP.169-170より抜粋

『広田さんは髭の下から歯を出して笑った。割合に綺麗な歯を持っている。三四郎はその時急になつかしい気持がした。けれどもそのなつかしさは美禰子を離れている。野々宮を離れている。三四郎眼前の利害には超越したなつかしさであった。三四郎はこれで、野々宮などの事を聞くのが恥ずかしい気がし出して、質問をやめてしまった。すると広田先生がまた話し出した。―

「お母さんのいう事はなるべく聞いて上げるがよい。近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それをひと口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り出せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展してしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。―君、露悪家という言葉を聞いた事がありますか」

「いいえ」

「今僕が即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人―だかどうだか、まあ多分そうだろう。与次郎の如きに至るとその最たるものだ。
あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれもまた、あれなりに露悪家だから面白い。
昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各々同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切っている。形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしゅうらんまん)としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じて来る。その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らして行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。
英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石しかかっている。・・』
三四郎 (岩波文庫)
ISBN-10: 4003101065
ISBN-13: 978-4003101063



Natsume-Soseki 1908-9 Sanshiro translated by Jay-Rubin 
Penguin classics pp.130-131 
 
『Hirota’s teeth appeared below his mustache in a broad smile. They were rather nice teeth. Sanshiro suddenly felt very close to Hirota. The feeling had nothing to do with Mineko, nothing to do with Nonomiya. It was a closeness that transcended any immediate advantage to him and made him ashamed to go on asking these questions.

‘‘ You ought listen to your mother, ’’ professor Hirota began. ‘‘ Young men nowadays are too self-aware, their egos are too strong-unlike the young men of my own day. When I was a student, there wasn’t a thing we did that was unrelated to others. It was all for the Emperor, or parents, or the country, or society. Everything was other-centered, which means that all educated men were hypocrites.
When society changed, hypocrisy stopped working, as a result of which we started importing self-centeredness into thought and action, and egoism, now all we have are hyper villains. Have you ever heard the word ‘hyper villains’ before?’’

‘‘No, I haven’t.’’

‘‘That’s because I just made it up. Even you are-maybe not-yes, you probably are a hyper villain. Yojiro, of course, is an extreme example. And you know Satomi Mineko. She’s a kind of hyper villain. Then there’s Nonomiya’s sister, an interesting variation in her own way.
The only hyper villains we needed in the old days were feudal lords and fathers. Now, with equal rights, everybody wants to be one. Not that it’s a bad thing, of course. We all-take the lid off something that stinks and you find a manure bucket. Tear away the pretty formalities and the bad is out in the open. Formalities are just a bother, so everyone economizes and makes do with the plain stuff. It’s actually quite exhilarating-natural ugliness in all its glory.
Of course, when there’s too much glory, the hyper villains get a little annoyed with each other. When their discomfort reaches a peak, altruism is resurrected. And when that becomes a mere formality and turns sour, egoism comes back. And so on, ad infinitum.
That’s how we go on living, you might say. That’s how we progress. Look at England. Egoism and altruism have been in perfect balance there for centuries. That’s why she doesn’t move. That’s why she doesn’t progress.
The English are pitiful lot-they have no Ibsen, no Nietzsche. They’re all puffed up like that, but look at them the outside and you can see them hardening, turning into fossils.  』

Sanshiro (Penguin Classics)

ISBN-10: 0140455620
ISBN-13: 978-0140455625


夏目漱石 現代日本の開化1~5 






Yukio Mishima Speaking In English




    

2017年12月18日月曜日

20171218 『言語の限界が世界の限界であるとすれば、その他は一体何なのか?』

本日の首都圏は日中も気温があまり上がらず、足の方から冷え込むような寒い一日でした。

またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。

一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。

また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。

さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。

それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。

とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。

おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。

そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです

それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。

加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。

それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】

そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。























2017年12月17日日曜日

20171217 創造性・進化発展に寄与する要素とは【脱抑制・リラックスした状態】

本日は休日ということもあってか、当ブログの閲覧者数も比較的多く、また昨日投稿分の「『無双感』と『脱抑制』について・・」は投稿翌日にしては比較的多くの方々(70程度)に読んで頂けました。

そしてまた、そこで述べた主張とは端的に『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』といったところでした。

あるいは、このことをさらに考えていきますと、我が国の性質のかなり深いところにまで達する何かがあるようにも思われます。

また、こうしたことは、特に我が国の場合、昨今のコンピューター技術の進化発展によって以前と比べて明瞭に認識され得るようになったのかもしれません。

これを異言すると、コンピューターの能力向上により、機械的な要素にて為し得る要素と本質的に人間の精神によってのみ為し得る要素との相違点が明らかになりつつあるといったことであると云えます【それは今後もコンピューターが精神を持つに至るまで継続するのかもしれない・・】。

その意味において我々日本人とは、これまで人間が行ってきた各種労働を機械に担当させるさまざまな仕組みの開発、洗練によって、その経済的優位性を獲得してきたと云い得ます。

無論、こうした開発・洗練への努力もまた我が国の場合、特有のある種ストイックな性質に基づくものであったと考えますが、しかし本質的にそうした方向(人間が行う労働の軽減→無化)への進化発展とは、既存のそうした労働・作業が成立以来よりおそらく長い時間をかけて獲得・保持してきたさまざまな精神性・文化を根底から覆すようなものでもあり、また同時にそれは奇しくも19世紀半ば過ぎより科学・技術をも含む各種西欧文化の理解・吸収・実装に明け暮れていた我が国のいわば習い性的な行動様式・傾向と一致するものであるとも云い得ます。

そして、こうした我が国にて各種西欧文化の理解・吸収・実装が為される過程において、実用の見地からのいくらかの改良が加えられることがいわば我が国能力の真骨頂であるようにも思われます。

しかしながら、それは本質的な創造であるよりも付加的な要素、あるいはオリジナルを真似する際の一種の追加的な工夫といったものであるように思われるのです。

そのように考えますと、ハナシは記事冒頭に戻り『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』と、あるいは何らかの関連性があるのではないかと考えさせられます・・。

コンピューターの能力向上により、人間的な要素と機械的な要素の判別が比較的明瞭に為し得るようになり、人間の精神によってのみ駆動する要素すなわち『本質的な創造とは何か?』といったことがある程度客観的に認識され得るようになると、おそらく国毎、地域毎のそうした傾向といったものも同様に認識され得るようになると思われます。

そうした場合、我が国日本及び日本人とは一体どのような評価を得ることになるのでしょうか・・?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被害を被った諸
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20171216 『無双感』と『脱抑制』について・・

議論や学術会議などの質疑応答の場にて、質問に対してかなり鮮やかな受け答え、先の先を読んだような見事な返答をたて続けにされている様子を時折見受けることがあります。

こうした状況は文章にて書いてもあまり伝わらないと思われますが、実際にそうした状況に遭遇してみますと、自然と身体が前のめりになったり、あるいは目が見開いていくような感覚を得るのではないでしょうか?

また自身の場合、そうした場において見事な受け答えをされている方に対して最近の若者コトバでもありますが『無双』といったコトバが不図浮かんできます・・(笑)。

とはいえ、実際そうした場面に遭遇することは多くはなく、それ故、あくまでも感覚的ではありますが、そうした場面・人とは、ある程度(精確に)判断することが出来るのではないかと思われるのです。

あるいは『ヒトは見かけによらない』といわれ、またそれは事実であると考えますが、しかし、その語るところを、ヒトと話しているところを、あまり意識はしないでも、しばらく見ていますと、やはりそうした方々には、さきに書いたような動物的な感覚を通じ感知され得る『何か』があるのではないかとも思われます。

しかし、その感知される『何か』とは具体的には分からず、現段階においてはあくまでも感覚的なものであるため視点を変え、そういった方々が共通して持つ特徴について以降少し述べます。

さて、自身がこれまでに見受けた、さきほどのいわゆる『無双感』のある方々の共通する大きな特徴として『脱抑制』のスタンスが挙げられます。

つまり態度、話し言葉が特に硬くなく、専門用語なども必要に応じて話され、おそらくあまり意識されていないのかもしれませんが聞き手に分かり易く話され、さらには多少早口気味のやや高音であり、また英語にて話される場合においても、同様に早口気味である割には聞き取り易くコトバが明瞭であるといった傾向が共通してあると思われます。

とはいえ、これら全ては表層的な傾向であり、その本質にある真髄とは、あくまでもその方御自身が話される内容にあると云えますが・・。

それ故、こうした傾向・性質とは、おそらく真似・演技をすることが困難ではないかと思われるのです・・。

また、昨今テレビ番組の視聴率が概してあまり芳しくない一つの要因とは、さきに述べたことがインターネットの普及により、ある程度社会において自明のことになりつつあるからではないかとも考えられます。

また、この脱抑制に関連して思い出されたことはやはり自身の師匠であり、おそらくこれらの方々もまた、少なからずこの共通する特徴である『脱抑制』が当て嵌まるのではないかと思われます。

くわえて、さらに思い出されるのはトーマス・マン著の長編小説『魔の山』の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏であり、この人物にもある種の『無双感』があると思われます・・(笑)。

ともあれ、そうしますと、さきに述べたように、こうした人物像とは、ある程度の最大公約数的な何かしらの傾向といったものがあるのかもしれないと思い至るのですが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


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2017年12月16日土曜日

20171215 840記事到達 人生万事塞翁が馬?

直近に投稿した記事により総投稿記事数が840に到達しました。

そうしますと、あと10記事の投稿にて年内の達成目標である850記事に到達することが出来るわけですが、また自身としては年内出来るだけ早めの到達を望んでおります。

それ故、また新たに記事作成を開始した次第であるのですが、面白いことに記事内容が異なると、その文体もまた、どうしたものか変わってくるようです・・(笑)。

また、あくまでも自身の感覚に基づくことではありますが、自身がこれまである程度長く取り組んできた文系学問のいくつかの分野での記事に関しては、硬軟何れの文体においても、どうにかその述べたいことを述べることが以前に比べて出来るようになってきているようにも思われます。

以前はこうしたことが出来なかったと記憶しておりますので、これも継続的なブログ記事作成による一つの効果と云って良いのかもしれません。

とはいえ、それでも自身の文体を確立・獲得したといった実感はありませんので、今後もそうしたことをある程度明瞭に実感そして認識することが出来る程度までは記事作成を継続していきたいと考えています。

そして、おそらく1000記事程度まで継続してみますと何かしら見えてくるものがあるのではないかと思われます。

しかし、このブログ記事の作成に関しては、意見を伺える先達・師匠といった方の存在が周囲にないため、時折インターネットにてそうした情報を検索することがありますが、そこで書かれている見解がある程度普遍的に正しいのか、あるいは普遍的に正しい見解であったとしても、逆に自身がその見解に適応するかが分からないため『よく分からないけれどもとりあえず継続している・・』といった状態のままであると云えます(苦笑)。

くわえてブログ記事作成当初は周囲より時折中傷めいたことを云われることもありましたが、現在に至っては特にそうしたこともなく、おそらくあきらめたのではないかと思われます・・(笑)。

そういえば、何故であるかよく分かりませんが、私は幼い頃からそうした中傷めいた、悪意的とも取れることを云われることが多かったようにも思われます。

それは一種の教育・精神の鍛え方であったのかもしれませんが、同時にそうした行為・言動が云われた人間の負けじ魂の発育にのみ寄与するとは限らないことも(もう少し)念頭に置かれた方が良かったとは思うところですが、しかしながら、それに関しては『時既に遅し』といったところであると云えます・・(苦笑)。

一方で巡り合った師匠の方々についてはかなり運が良かったのではないかと思われ、また、こうした師匠との出会いがなければ、おそらく私は良い意味においても、悪い意味においても現在とは違ったものになっていたと云えます(当然と云えば当然ですが・・)。

そして、現在どうにか継続して作成することが出来ている当ブログもまた、これらの出会いに大きく因っていると云えるのです。

また同時に、それ故に現在のようなあまり良いとは云えない状況においても、どうにか、心が折れず、さまざまな活動を継続することが出来ているとも云えます。

おそらくこうしたことは以前の私ではさまざまな意味から出来なかったと考えます。

あるいは、さきの師匠との出会いとともに、現在のあまり良くない逆境とも云える状況もまた継続的なブログ記事の作成を為さしめている一つの要因であるのかもしれません・・。

そうした意味からも人生万事塞翁が馬と云えるのかもしれませんが、これに関しては、今しばらく記事作成を継続したのちに再度検討してみようと思います。


ともあれ今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまで列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた諸
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2017年12月15日金曜日

20171215 ロストワックス鋳造法・鋳造収縮などについて

歯科医療において多く用いられる鋳造方法はロストワックス法と呼ばれるものであり、これは鋳造体原型模型をワックス等の成形・加工が容易な樹脂系材料を用いて作成し、これを耐火性質を持つ鋳型材(埋没材)内部に包埋し、乾燥した後、包埋された樹脂による鋳造体原型模型を炉内にて熱して焼去、焼き飛ばし、それにより生じた空隙部に溶湯状態の合金を鋳込むことにより樹脂製鋳造体模型が合金による鋳造体に置き換わるといった手法である。

このロストワックス鋳造法とは歯科医療のような精密な寸法精度が要求される鋳造体の作成に適した手法であり、その歯科医療への応用の公的な起源は20世紀初頭(1907年)米国の歯科医師タガートによるニューヨーク市での歯科医学会における講演であるとされている。

とはいえ、ロストワックス鋳造法自体は歯科医療以外の分野においては相当古くから用いられた手法でもあり、我が国においては奈良時代に朝鮮半島・大陸よりもたらされたと考えられており、この手法により当時の仏像、銅鏡などが多く制作されている。【当時のワックスとは蜜蝋であった。】

さて、歯科医療における鋳造とは一般的な工業界における鋳造とは異なり金・銀・銅の三元合金さらに高カラット合金を早くから多用していたことから、当初は得られた鋳造体の化学的・機械的性質については合金そのものが優れていたことからあまり問題とされなかった。

しかし、この鋳造法にてインレーを作製する場合においては、その窩洞への適合性に対してはかなり厳しく、その精度についての議論とはかなり鋭いものであった。

鋳造体の精度について、はじめてその理論を公表したのは米国の国立標準技術研究所のコールマンでありコールマンは合金の鋳造収縮に着目し、それが鋳造体が不適合となる要因であると述べた。

当時(1928年)この鋳造収縮の理論とは画期的なものでありコールマンはそのなかで純金の鋳造収縮を約1.25%であると発表していた。

後年、我が国の歯科理工学研究者の始祖の一人とされる金竹哲也が公表した値は1.7%であり、現在においてはこの値が妥当とされている。

ともあれ、この鋳造時に生じる収縮を何らかの方法により克服することが出来なければ、鋳造精度の向上ひいては精密な歯科補綴物の製作は為し得ない。

他方、1913年にフェンナーにより石英の高温結晶であるクリストバライトの熱膨張の性質が解明された。

そこで歯科界はこのクリストバライトの熱膨張の性質を鋳造に用いる鋳型材(埋没材)として利用し、さきに述べた合金の鋳造収縮を補う・相殺することを試みた。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

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2017年12月14日木曜日

20171214 IT化により生じる歯科医療・技工業界における変化について

近年、さまざまな機器がコンピューターに接続され、そこで得られた情報がデータ化され、それらがインターネットを介し相互に送受信することが可能となった。

現在作成しているこの文章がインターネットウェブ上にてブログ記事として何処でも閲覧可能になることは現在においては当然であるが数十年前においては考えられないことであった。

こうしたコンピューター技術に基づく所謂技術革新とは、さきの記事においても少し触れたが医療、歯科医療に対してもまた少なからぬ影響を及ぼしており、なかでも画像診断に用いるCTMRIなどの機器は、まさしくこれまでの伝統的なX線画像による診断を過去のものにしたと云える。

さらには、これらCT、MRI機器にて得られたデータを3Dプリンターなどを用いて三次元的に模型化・実体化することが可能であることは、まさしく、さきのコンピューターによる技術革新が具現化されたものの一つであると評し得る。

こうした新たな機器とは医療スタッフの治療技術の更なる向上、患者さんへ提供する医療の質の向上、そして医療スタッフの作業の軽減あるいは質を担保した効率化・簡便化を企図したものであるとも云える。

そして精密な手技により巧拙が多く決せられる歯科医療分野においてもまた、この技術革新による影響とは著しいものであり、とりわけ各種被せもの、義歯の作成などを行う歯科技工分野においては既存業界の在り方自体に変革が迫られているとも云える。

これを具体的に述べると、これまで印象材を用いて口腔内様相の印象採得を行い、得られた印象に石膏を注ぎ、口腔内様相の石膏模型を得て、そこから各種補綴物の設計、作成が為されていたものが、コンピューターに接続した光学印象機器により口腔内様相が即座にデータ・画像化され、それに基づいて各種補綴物の設計がCAD機器を用いコンピューター上にて為され、そこで設計された補綴物データを用いCAM機器にてバルクから削り出し作成されるようになるといった変化である。

これに伴い従来の
技工作業とは、ほぼ最終段階にある色彩の調整、マージンの微調整、仕上げ研磨などといったごくごくわずかな一部分のみとなってしまう可能性もないとは言い切れなくなる。

また、他の補綴物においても用いる材料の更なる進化発展により、この傾向とは今後さらに進行するものと思われる。

しかしながら、さきにも少し触れたが歯科技工をも含めた歯科医療機関とは、その大半が中小あるいは零細企業であり、彼らがどのようにして、このある程度大きな設備投資を要し、さらには事業主、従業員共に既存の知識、意識、技術の大きな変革が要求されるこの技術革新の波に対し果たして適切な対応をとることが可能であるのかとは未だ疑問のままであると云える。

くわえて
単なる杞憂であるのかもしれないが行政・国の方々とは、どの程度まで、あるいはどのように、こうした歯科医療、歯科技工業界にて生じている事態(技術革新の波)を把握されておられるのだろうか?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまでに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等といった大規模自然災害により被害を受けた諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
























2017年12月13日水曜日

20171213 鋳造について(歴史的視点から歯科鋳造に至るまで)

金属製品とは一般的に鍛造、圧延、切削などの方法により加工・製作されるが、その本質である優れた機械的強度により、かなり多くの労力が費やされると云える。

とりわけ複雑な形状の製品を製作する場合は困難であると云える。

そして、それを解決するための方法が鋳造であると云える。

鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、スズ、アルミニウムなどを単独あるいはそれらを合金化して用いる。

鋳造に用いる合金、金属としては青銅あるいは銅がもっとも古いとされている。

以前の記事においても述べたが古代メソポタミア(両河地方)においては紀元前3500年頃すでにその合金が存在し鋳造に用いられていた。
 
また古代エジプトにおいては紀元前2000年頃より為され、古代中国においては殷・周の時代すなわち紀元前1500年以降が青銅器時代とされている。

わが国においては弥生時代にそれらが大陸、朝鮮半島からもたらされ、またそれは鉄器伝来とほぼ同時代であったことから明確に青銅器時代として区分される時代はなかったと云える。

昨今は弥生時代の鋳造遺跡が多く発見され、その最古のものは現在のところ和歌山県御坊市の堅田遺跡(紀元前200年頃)であるとされているが、おそらくほぼ同時期の西日本、特に北部九州地域などにおいては、鋳造技術とは特に稀なものではなかったと考えられている。

弥生時代における我が国の青銅器とは当初、渡来元の朝鮮半島にて製作されたが、後代に至り製作技術が流入・定着し当時の我が国の(地域ごとの)嗜好、文化にあわせた独自の青銅器の製作が為されるようになった。

その際、我が国にて製作されたのは銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸、銅鏡などであり、それら青銅器およびその鋳型とは、これまで主に西日本各地にて出土している。

また、こうした祭器の製造とは軌を異にするものであるか未だ不明であるが、統一国家の成立に至ると鋳造技術とは、貨幣の製造(造幣)と密接な関係を持つようになる。
これはある程度普遍的な歴史発展の図式、様相ではないかと考える。

世界最古の鋳造貨幣とされるものは紀元前700年頃、リディア(現在の小アジア・トルコ共和国西側)にて製造されたエレクトロン貨幣であり、これは自然に産出された金銀合金を材料として用いている。

また中国では紀元前200年代の秦の始皇帝の時代に貨幣鋳造が国家事業として為された。

我が国においては7世紀末天武天皇の御代に製造された富本銭、707年の和銅年間に製造された銅貨の和同開珎が古いものとして有名であり、その後、天平宝字年間(700年代中頃・淳仁天皇の御代)に我が国初の鋳造金貨である開基勝宝が製造された。

鋳造を行う職人をわが国では一般的に鋳物師と呼び、古くは大宝律令において大蔵省の典鋳司(いもののつかさ)の下におかれた雑工部に十名程度の職工官が勤務していた。

後代の鎌倉時代においては各地の村々にてさまざまな農工具を鋳込んだり、寺社などの招きにより梵鐘、仏像を鋳造するフリーランスとも云える職人も存在していた(このあたりを欧州における石工と比較して考察してみるのも面白いのかもしれない・・)。

さて、具体的な鋳造技術の種類としては平板の鋳型に溶湯を鋳込む方法、上下の型を合わせ、その中に生じる空隙に溶湯を鋳込む方法、そして実物を砂で埋めその実物を抜き取った後に溶湯を流し込む方法といったものが挙げられるが、歯科鋳造とは精密さが要求されることから、その用いる材料の選択にはじまり鋳造に至るまで細心の注意が払われる。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。