2017年11月2日木曜日

20171102 我が国の青銅製祭器の様相から

さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在まで列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸インフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。







20171101 縄文時代の土器文化から、その先の時代の流れについて

縄文時代の名称由来となったものは、同時代の土器文様からであるが、この時代とは、それ以降の弥生時代~現代に至るまでの年数の数倍の期間を持ち、当然ながら、その草創期(紀元前14000~13000年頃)と晩期(紀元前600~500頃)の文化の間には著しい差異があると云える。

この時代名称の由来となった縄文式土器についてであるが、概して古いものであればあるほど粗い胎土によって厚ぼったく作られ、また器の形状は浅く、そしてその焼成温度は充分に高温でなく、煤けて黒く、全体的に焼成不十分といった印象を受ける。

そして、時代が下るに伴い、器の形状が深くなり、厚さも薄手となり、器辺縁に立体性のある繁縟的な装飾を施す造形技術に対し、ある種の深い精神性(知性)をも看取されるまでに至る。

こうして縄文土器とは、その段階における最高の技術水準まで到達した。

とはいえ、それらが器として用いられた時代とは、狩猟・漁撈に「より」大きな比重を置いていた・基軸としていた社会であり、そうしたことは他の同時代の他の出土物によっても理解される。

また、この繁縟的な装飾が施された縄文式土器が出土するのは主に東日本、特に関東甲信越地域を中心としており、その技術水準が最高潮に達したともいえる火焔式土器が登場した縄文時代中~後期(紀元前4000~3000年頃)における西日本地域では、主に芋栽培といった食用植物の栽培を伴う民俗文化が徐々に根付き、そしてそれが列島各地に広く伝播・定着し、さらに後の時代に齎される新たな陸稲栽培を伴う民俗文化の混淆を可能ならしめたと云える。

しかしながら、食用植物の栽培を伴う民俗文化とは、単元的な起源経路を持つものではなく、おそらく複数の流れがあったものと考えられるが、同時にそれらはある程度までは限定可能であり、それらの主たる最初の受容地域とは、当然であるとは云え、ユーラシア大陸東端(中国、朝鮮半島)に最も近い九州島であったものと考える。

そして、この図式とは、さらに後に列島に齎され、以降の我が国生活文化を一変させる働きを持った水稲耕作を含むものにおいても概ね同様であり、その主となる舞台もまた九州島北部であった。

とはいえ、水稲耕作とは、さきにも述べたように、その起源とは中国南部の長江(揚子江)中下流域にあるとされ、その意味から、どちらかというと南方的要素が強い文化ではあるのだが、我が国にそれが伝来されるに際し、主に朝鮮半島南部を介し九州島北部へといった経路を通ったものと考えられる。

おそらく東シナ海を渡り直接中国南部から九州島中南部へ齎されたものも単発的には複数存在したのであろうが、それが在来社会と混淆し、変化を齎し、新たな生活文化を形成するという段階にまでは至らなかったものと考えられる。

そして、こうした流れとは、水稲耕作とほぼ同時代に我が国に齎され、それは弥生時代に盛行する各種青銅製祭器の出土分布を見ることによって概括的な理解が得られるのではないかと考える。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

昨今、新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』