2016年1月20日水曜日

20160120 高等教育と我が国社会の特質について

A「最近また寒い日が続きますが、どうですか、元気でやっていますか?」

B「どうでしょうか・・それにしてもやはり首都圏、関東は寒いですね・・。
また、こう寒いと、どうも気分が滅入ってくることが時折あります。」

A「そうですね、寒いと色々と心身に対してマイナスなことが多いですね・・(苦笑)。
しかしAさんは北海道にも住んでいたことがあるのですよね?
その当時は大丈夫だったのですか?」

B「・・あの当時はまだ若く、あまりマイナスなことを考えることも無かったと思うのですが、それでも北海道はやはり冬季では日光量が少なく、そのせいか多少鬱気味になったような気もしました・・。
その経験から私は日光量が少なく、寒く、積雪量が多い場所は体質的に合わないことを知りました・・(苦笑)。」

A「そうでしたか・・しかし、そういったことは案外重要であると思いますので、求職活動などでは留意した方がいいと思いますよ。
それはそうと、求職活動の方はその後どのようになっていますか?」

B「そちらの方は相変わらず動いてはありますが、今後の動向はイマイチ読めませんね・・まあ、求職活動など概ねはそういったものであるとは思いますが(笑)。」

A「・・先が読めないといえば、日本の景気や高等教育を巡る環境などは今後どう変化してゆくのでしょうかね・・?」

B「・・それは少子高齢化の進行に伴い日本の経済的力は衰退し、また高等教育を巡る状況も同様な方向に変化してゆくのではないかと思います・・。
しかし、その対策として理系および資格系の教育を拡充し、それに加えて高等教育初期の導入部における教養教育を充実させることにより、どうにか乗越えることができるのではないかと考えますが・・。」

A「まあ、理屈的にはそうなのでしょうが、しかし理系、資格系の件は置いておいて、教養教育の充実などはそう簡単にいくものであると思えませんけれどもねえ・・。
つまり教養教育の真髄である学問研究への能動性を生じさせることは、一朝一夕に出来ることではないと思うのですが・・。
また、このことはこれまでの様々な歴史が、その証拠を我々に多く与えてくれていると思うのですがねえ・・・。」

B「ええ、それは仰るとおりであると思うのですが、同時にそれは地道に漸進的に行っていく以外にないのではないかと思います。
まさに「学問に王道なし。」といったところであると思いますが、これを改善する具体的な施策として、小規模の理系、資格系に加え教養系の学費の安い公立大学を増新設することではないかと思います・・。
このたとえは変であるかもしれませんが、アメリカでいうコミュニティーカレッジみたいなものに相当するのではないかと思います・・。」

A「理系、資格系と教養が併存する小規模の学費の安い公立大学ですか・・。
そうしたものがアメリカにはすでにあるのですか?」

B「ええ、あちらでは看護師歯科衛生士などの資格や高等教育導入部における教養教育などで有名なコミュニティーカレッジ多く存在しますので、現在の大学が有している機能を分割し、その一部をこれらに移譲することができれば案外上手くゆくのではないかと思いますが・・?」

A「しかし、現在の大学がいわば既得権益として保持しているそうした機能をその新増設した小規模大学に移譲しますかね・・?
我々の国で行われるそうした改革とは、これまでのところ結局、既得権益保持層と、何というか原理的改革派との抗争によってその意義、本質が換骨奪胎されて、改革としての意味を為さないように作用してしまうのではないかと思うのですが・・。
それこそBさんがこれまでブログで何度か書いている大岡昇平の「俘虜記」における収容所社会でかなり明晰、痛烈に描かれていると思うのですが・・。
しかし、そう考えると、実は本当に問題なのは、そうしたかねてよりの我が国社会における普遍的な社会問題を示唆する文学、著作がいくつも存在するにもかかわらず、そういった問題が一向に明瞭化されないところなのかもしれませんね・・?
私は別に我が国が嫌いではなく、むしろ好きであると自覚しているのですが、そうであるからこそ、この一面において凝集性が強く、識字率が古来より高い我が国の社会が、そういった文学、著作に目を向けないで、またその内容、テーマを共感を持って理解しようとしないことが不思議で不思議で仕方ないのです・・。
また、我が国においては文学者、著述家で政治的意見を持つ方の多くが嘲笑、批判の対象になることには、それと同じような原因があるのではないかと思うのです・・。
そういったことから、私を含め我が国の国民性の一つとして自己愛性パーソナリティー障害に近いものがあるのではないかと考えさせられるのです・・(溜息)。
これは特に海外の著者が描く我が国国民性において多く見られ、それらは戦前、太平洋戦争中での体験に基づいているものであるのですが、こうした性質とは体制が変化してもそう簡単に変化するものであるとは思えませんので精神的古層持続する重低音のように、現在なお強く示唆するものがあるのではないかと思うのです。
そして欧米の方々は、そうした方法をも用いて冷静、客観的に対象国に対する対応、政策を考えていることは今更いうまでもありません・・。
加えて、我が国の組織におけるモラハラ的なものも、その多くはこうした自己愛的な性質に由来しているのではないかとも思います。」

B「ええ、仰ることの意味はよく分かります。
そうした性質を搦め手より徐々に改変、進化することを試みるものが、さきほどの理系、資格系そして教養教育の充実なのですが・・どうでしょうかね?」

A「うーん、現在の我が国における既得権益層と改革派との抗争は、言い換えると世代間の抗争になるのでしょうか?
それとも、かつて時代のブルジョアジープロレタリアート間の階級闘争のような枠組みになるのでしょうか?」

B「・・それは何ともいえませんが、とにかく何らかの実効性を持つ改革は今後必要不可欠なのではないかと思えますが・・。」

20160119 知的訓練とフロー状態について・・

ABさんは色々な分野を横断してきましたけれど、その中で特に何が面白かったですか?」


B「・・全て面白かったとは思いますが、自分の作成した試料で行った実験により新しい知見が構築されてゆく過程は、なかなかゾクゾクするような面白さがありましたね・・。
それと民俗学のフィールドワークで自分が薄々予期していた知見、あるいはそれを裏切るような知見に出くわしそうな丁度ギリギリのところも、なんともいえず興奮するものだと思います・・。
それに加えて、数十年前に刊行された古墳に関する書籍に基づいて古墳を探しに出て、野山をかき分け、それを見つけた時の興奮もなかなかのものですよ()
ああいった時は概ね単身行動なのですが、野山の中でも不思議なことに怖いとかそういう感覚はキレイにすっ飛んでいましたね・・。」


A「そうですか・・それはなかなか面白そうですね()
ともあれ、私は実験などを行ったことはありませんが、ああいった学問分野もはまると、とても面白いのでしょうね。」


B「ええ本質を得るために最適な試料の形状、治具、実験速度などを試行錯誤しているような時は、時間が経つのがかなり早かったように思いますね・・。
そして、ある程度既存の信頼できる知見と矛盾なく、さらに新たな知見を得ることが出来そうな感覚が湧くと、さらにそこから時間経過の早さが増すような感じがしましたね・・。
そうした感覚とは、このところかなり御無沙汰ではありますが、またどこかでそういった気持ちで何かに取組めるのではないかと思います。」


A「なるほど、多分ああいう時はなんというかハイになっているのでしょうね?
あるいは、そういうのをフロー状態というらしいです・・。
加えて、それはたとえば部活の試合や議論あるいは文章の作成時などにおいても同様の状態になることが出来るのではないかとも思います。」


B「そういわれますと、たしかにかつて時間を忘れて議論をしていた時や、夏真っ盛りの部活の練習などにおいてもそういった感覚をおぼえたことがありましたね・・()
あれは多分何かしら脳内麻薬みたいなものが影響しているのではないかと思いますが・・多分年齢がある程度までいくと、この脳内麻薬に対する耐性が出来てしまい、なかなかそういったフロー状態?に入ることができなくなってしまうのではないでしょうか?」


A「・・・はたしてそうでしょうか?
私も現在色々文章や様々な資料を作成したりしていますが、興が乗ってきますと、まだまだ周囲を気にしないで自身の作業に没頭してしまうことがありますけれど・・それはフロー状態とは違うものなのでしょうか?」


B「それはたしかにわかります。
しかし、問題となるのは、その新鮮さではないでしょうか?
私はこれまでいくつかの分野に身を置いてきましたが、幸いなことにその時々で、その分野特有であると思われる、そういった疾走感をおぼえることができたのではないかと思います。
そしてそれは能動性を持って何かしら未知のことに取組んでいる時におぼえる特有なものなのではないかと思うのです・・。
そうしますと、自身の分野に対して、馴れて、ある程度の知見を得た状態になりますと、その疾走感を得ることが困難になってくるのではないかと思います。
そして馴れから生じる惰性を戒めるために世阿弥の「初心忘るべからず」という言葉があるのではないかと思いますが・・。」


A「ふーん、そうしますと一つの分野に長年従事していると、疾走感をおぼえることが困難になるのではないかというのがBさんの持論ということになりますが、私はそうは思いません。
あるいはそういったことは、個々人の性質に大きく由来するものなのではないでしょうか?」


B「はあ、なるほど、そういわれますと、たしかに一つの分野に長年従事してきている人でそうした感覚を忘れていない方々も多く見受けられるとも思いますので、これは私の個人的な経験に基づいた意見あるいは偏見であるのかもしれません・・(苦笑)。
つまり私は一つの分野に長年携わった経験がないことから、そのような結果が導き出されるのかもしれません・・。
しかし同時に私は正式に研究とはいわれなくとも、書籍は読み、またその内容に関してはある程度考えているのではないかと思います。
そのことから自身の知性に対する少なくとも最低限の訓練は継続しているのではないかと思いますが・・。
また、ここ半年は周囲の方々からのすすめもあり、ブログを作成し続けておりますが、これはなかなか自身にとってはなかなか良いトレーニングとなっているのではないかと思います。
そして願わくは、そうしたこれまでの行為が比較的容易に結節することが出来る職務に就きたいと考えております・・()。」


A「ははあ、なるほど・・たしかにBさんのブログは内容の面白さなどにはブレがありますが、それと同時に何というか学問を修めた人であることは伝わってきますので、そうした発信は自他何れのためであれ、今後も続けられた方がいいと思います・・。
そして、そういった発信、アウトプットがある程度までいきますと、何かしら良いこと、面白いことが起きるのではないかと思います。
とはいえ、Bさんにブログをすすめた周囲の方々とは一体誰なのですか?」


B「ああ、それは何人かいるのですが、以前もブログで書きましたが不思議なことにほぼ同時期にいわれましたので、ブログ作成をはじめた次第なのです(笑)。
個人特定されてしまいますので、具体的にはここではお教えできませんが・・。
それでもそのお陰でどうにかここまで来ることが出来たのではないかと思います。
その意味において私はかなり幸運なのではないかと思うことがあります。
とはいえ、現在、私のブログの投稿記事数は193であり、その三分の一以上が自身の書いた文章であり、今後はその数を増加させてゆきたいと考えております。」


A「・・そうしますと、もうすぐBさんのブログ記事も200に到達するということになりますが、そこまでいきますと、実際に何か起きるのでしょうかね?
それは少し楽しみですね・・(笑)。」


B「いえ、そういったことはよくわかりませんので、まあ動画の投稿を除いて200記事に到達するまで、あるいは別の目安ですと、表示回数が10万を越えるまではとりあえず、あまり考えず書いて投稿し続けてみようと思っています。」


A「なるほど、そうですか・・それで表示回数は現在どうなっていますか?」


B「ああ、それは大体91000程度ですので、感覚としては、こちらの方が投稿記事数200に到達する前に達成できるような気がします・・。」


A「それは楽しみですね・・今後また何か面白いことがありましたら御連絡ください。」


B「ええ、了解しました。」