2016年2月19日金曜日

ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」三交社刊pp.19-21より抜粋20160219

「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ―ついこの間のことのようにね。
そのあと、この河から光明が流れ出て行くようになったんだ―騎士たちが出立して行ったと言うのかい?それでもいいさ。
だが、それはね、平原を妬いて突っ走る野火、雲間にひらめく稲妻のようなものだ。われわれ人間の生なんてはかないものだ―せいせいこの古ぼけた地球が回り続ける限り、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、暗黒はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ。まあ想像してごらんよ。地中海に浮かぶ―ああ、なんて言ったっけな―そうそう、トライトリームという立派なガレー船の副長だった男が、突然、北辺に行けと命令された時の気持をね。
急いでゴール人の地の陸路横切って北海に出て、古代ローマの軍団の船の一艘の司令を任されるわけだ。
物の本にあるところを信用すれば、彼らはそうした船を、一月か二月のうちに、何百と造ったものだそうだ―ずいぶんと器用な連中だったに違いないね。
さて、世界の最果て、鉛色の海、煙色の空、六角アコーディオンと同じくらいの堅牢さしかない船―その船に兵糧、兵士、その他あれこれを積んで、その船長がこのテムズを遡ってくるところを想像して見たまえ。砂州、沼沢、森林、蛮民、―文明人の口に合うものなどほとんどなく、陸に上がっての楽しみもない。あちらで、またこちらで、まるで干し草の大束のなかの針みたいに、荒野のなかで消息を絶つ野営隊もあった。
―寒さ、霧、嵐、疫病、流浪、そして死、―空気のなかにも、水のなかにも、薮のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
兵士たちは蠅のように死んでいったに違いない。だが、もちろん、船長は任務完遂、それも、あれこれ思い惑うこともなく見事にやってのけたのかもしれない。
彼らこそが暗黒に立ち向かうに十分な強さを備えた男たちだった。
もし、ローマにいくらかのよいコネがあり、このひどい気候風土を生き抜いたあかつきには、やがてラベンナの艦隊への昇進もあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ。
あるいはだな、トーガを身にまとった人品いやしからぬ少壮のローマ市民が―さいころ遊びでもやり過ぎた挙句ににさ―一旗揚げ直してみるともりで、知事とか、収税吏とか、はたまた商人などに混じる一行に加わって、この土地にやって来たところを想像してみよう。
まず沼地に上陸し、森や林を抜けて、やがてどこか内陸の駐屯地にたどり着く。そこで、彼は未開地の荒涼さ、全くの荒涼さがすっぽりと彼を包み込んでしまったと感じるのだ、森のなか、ジャングルのなか、そして野蛮人の胸の奥にうごめいている荒野の神秘な生命のようなもの全体が、ひしひしと身に迫ってくる。
そうした神秘に参入する儀式や手ほどきなどありはしない。彼はその理解を絶したもののただ中で生きてゆかねばならず、それはまた、嫌悪すべきことでもある。
ところが、その神秘はある魅惑も備えていて、それが彼の心にじわりじわりと作用を及ぼしてくる。
嫌悪感の蠱惑とでも言えようか。思っても見たまえ。日々につのる後悔、逃げ出したいとあせる気持、それができない腹立たしさ、結局は屈服し、ただ憎悪が残るのだ」
闇の奥
ISBN-10: 4879191620
ISBN-13: 978-4879191625
ジョセフ・コンラッド