2021年4月14日水曜日

20210414 中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記 pp.44-48より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記
pp.44-48より抜粋

 
ISBN-10 : 4121024486
ISBN-13 : 978-4121024480

1936年12月、ボン大学はトーマス・マンの名誉博士号を剥奪した。7年前のノーベル賞受賞にあたり、大学当局みずからが申し出たものを、みずからで取り消した。

『トーマス・マン日記」 1935-1936』では1936年12月25日付、クリスマス当日の記述に出てくる。

「-うっかり忘れるところだったが、国籍剥奪の結果として名誉博士号を剥奪する旨、ボン大学哲学部から通告があった。-回答を考慮」

「うっかり忘れるところ」となるのは、その日、クリスマス・ケーキの朝食に始まって、おりしも来訪中の友人たちと森を散歩し、そのあとコーヒーを飲みながらジッドの『贋金つくり』、ジョイスの『ユリシーズ』、自作『魔の山』などをめぐり小説の危機について語り合った。ほかにも執筆中の短編、まぢかに迫ったプラハ、ブダペストへの講演旅行の連絡などと、いろいろ用があったせいだろう。

 とともに大学からの通告に対する意味合いもこめてのこと、自分のほうから申し出て与えたものを、国家による「国籍剥奪」を理由づけにして取り消しを言い立てる愚かしさ。

 ナチス政府によるトーマス・マンのドイツ国籍否認の告示は1936年12月2日付で、翌日のナチ党新聞「フェルキシャー・ベオーバハター』に発表された。マン夫人、および4人の子供を含むもので、活動家の長女エーリカと長男クラウスは、その前から国籍を剥奪されていた。

 マンはナチス内務省の動きを早くに察知していて、先立つ11月にチェコスロバキアの国籍を取得しており、剥奪を通告された時点で、すでにドイツ国籍を持っていなかった。12月2日の日記に記している。「ミュンヘンからハインスの電話(中略)先手が取れるよう是非とも事実を公表せよという」。公表して相手のハナをあかす予定のところに党新聞の情報が入り、マンは多少くやしい思いがしたらしい。12月4日に書いている。「・・やはりこれは不意打ちだし、先手をとられたのが腹立たしい」

 ともあれ法的には国籍剥奪に何の意味もない。むしろすでになくなっているものを、やっきになって取り消す側の滑稽さが浮かび出る。

 それだけではなかった。すぐさまこの一件に飛びついて、ものものしく、名誉博士の剥奪を伝えてくる、もう一つの滑稽集団がいた。通告文は日記の注に再録してある。ボン大学は通称で、正式にはライン州フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学哲学部、12月19日付。

 ボン大学総長の合意を得て余は貴下に対して、貴下が国籍を剥奪されたる以上、哲学部としては貴下を名誉博士名簿から抹殺するのやむなきに到れる旨、通告せざるをえざるものなり。本称号を帯びる貴下の権利は、本学学位授与規則第8条により消滅せり。

                       (署名判読不能)学部長

 著作家トーマス・マン殿

 文中の「抹殺するのやむなき」といった言葉から、大学当局がこころならずも決定したように受けとる人がいるかもしれないが、ドイツ語原文はネガティヴなことを伝えるときの常套句であって、いたって事務的な通告文である。学費滞納の学生に退学を伝えるときと、まったく同じ文面である。

 権力が大きくふくれ上がったとき、さまざまな喜劇がかいま見えるものだが、ボン大学による名誉博士号剥奪もその一つだろう。ヒトラーが政権についてほぼ4年になる。全面的な国家一元化が完成して、「党と国家の一体の保障のための法律」により、大学教授団もまたヒトラー・ユーゲントやナチス婦人団と同様に「ナチスの肢体」の一つとなった。

 法律の施行より早く、新しい権力者への迎合が始まった。ドレスデン工科大学教授だったヴィクトール・クレンペラー『私は証言する/ナチ時代の日記 1933-1945』(大月書店、1999年)が、同僚たちのうろたえぶりと変節のもようを克明に書きとめている。非アーリア系官吏の罷免を含む新官吏法が出されるやいなや、てのひらを返すように態度を一変させ、ユダヤ人言語学者を大学から追放した。フライブルグ大学哲学教授マルティン・ハイデガー教授はケルン大学公法学教授カール・シュミットに「ナチへの協力」を勧め、シュミットは一週間後にナチスに入党した。

 通告に対してマンの日記に「回答を考慮」とあるのは、まるで椋鳥が飛び込んできたような気がしたからではあるまいか。相手方の出方を利用して、存分にナチス批判ができる。素竿を当の相手が提供してくれた。学部長カール・オーベナウアーへの返書については12月30日の日記に見える。「コーヒーの後、鉛筆で学部長宛ての書簡を書き上げる」。かなりの長文であって、実際は誰に宛てたものかいうまでもない。

「わたくしは夢にも思いませんでした」

中年すぎて亡命者となり、祖国に背き、やむにやまれぬ政治的抗議のなかで過ごすとはーそんな書き出しのあと、ナチズムと呼ばれるものの実態、我が世の春を謳歌している権力者の欺瞞と虚構を克明に語っていった。

「学部長殿、わたくしはうっかり、あなた宛てに書いていることを忘れておりました」しかし、まあ、いいだろうと、辛辣な皮肉がまじえてある。「あなたはとっくに読むのをやめておられるでしょうから」

 私的書簡ながら広く伝わることを図って書かれ、「ある往復書簡」のタイトルで翌年1月『新チューリヒ新聞』に掲載。すぐさまチューリヒの出版社が学部長の通告文つきで仮綴じ本に仕立て、またたくまに二万部を売り上げた。オーベナウアー学部長がいかなる人物かは不明だが、幕間狂言の愚かしいメッセンジャーとして歴史に名をとどめている。