2017年8月7日月曜日

20170806 其の2 岩波書店刊 コンラッド著  中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著  中島堅二編著
コンラッド短編集』「武人の魂」PP.336-339より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

『長い白い口髭を蓄えた老士官は、抑えていた憤りを思いきりぶちまけた。
「貴公たち若い者は、その程度のことを理解する分別も待ち合わせていないのか!
かつては大いに働き、少なからぬ辛酸を嘗め、もはや残っている者とて数少ない世代の老兵をとやかく言う暇があるなら、貴公らはまず、自分の乳臭い唇をしっかり拭っておくのがよかろうというものだ。」
聞き手が大いに恐縮の体を見せたので、年老いた戦士の気持は収まってきた。しかし、彼の口のほうは一向に収まらなかった。
「わしもそんな古参兵の一人なのだよ。つまり、生き残りの一人ということだ」と、老士官は逸る気持ちを抑えかねるように言葉を続けた。「わしたちは何をしたというのだろう?何をなしとげたのだろう?あの大ナポレオンが、アレキサンダー大王にも負けじとばかりに、運霞のごとき連合軍を従え、我々に襲いかかってきたのだぞ。わしたちは、猛攻を加えるフランス軍と、最初のうちは距離をおいて対峙していたが、やがてわが方は、繰り返し繰り返し執拗な攻撃を仕掛け、ついにフランス軍をして、自陣に山なす死体の中に伏して眠らざるをえぬところまで追い込んでやったのだ。次がモスクワの大火だった。火は、彼らの頭上に容赦なく降り注いだ。
そしてついに、あの大遠征軍の長い長い敗走が始まったのだ。わしはそれをこの眼でしかと見た。絶望に打ちひしがれた敵の眼の前に果てしなく広がる、ダンテの地獄の底にも似た極寒の地を、やつれ果てた幽鬼さながらの姿で、蜿蜒列をなして敗走していく遠征軍の姿をな。
逃げおおせたフランス兵どもは、きっと、魂に二重の鋲を打って、それを己の肉体に釘付けにしていたのだろう。あの、岩をも砕くという厳寒の中を潜って、無事にロシアからその魂を運び出すことができたのだから。だが、彼らを一人でも落ちのびさせたのが、わしらの落ち度だと言うならば、それは、あまりにもものを知らぬということだ。だってそうではないか!わが軍とても、ぎりぎりのところまで、その力を使い果たしていたのだからな。名にし負う、ロシア軍の強健無比な精力をもってしてもだ!
もちろん、わしらの闘志は衰えていなかった。それに、大義はわれらの側にあった。
あの戦はいわば聖戦だった。だからとて、兵士や馬に吹きつける風が和らぐものでないことは、言うまでもなかろう。
肉体とは弱いものだ(マタイ伝六章四一節)。意図が善であれ悪であれ、人はその弱さの代価を支払わねばならぬ。よいか!わしが先ほどから貴公たちに語って聞かせている小さな村落の争奪戦とても、古ぼけた田舎家を風除けのねぐらにしたかったばかりに、必死の思いで戦ったのだ。フランス軍とて、同じ思いであったろう。
あれは、栄光のためでも、戦略上の必要によるものでもない戦闘だった。フランス軍は、自分たちが夜明け前にそこを退却せねばならぬことを知っていた。そして、わしたちも、敵軍が退却するつもりなのは承知の上だった。戦いと言うなら、そもそもそんなところで戦う必要性はなかったのだ。だが、わが方の歩兵も敵の歩兵も、まさしく山猫のごとく戦った。勇猛果敢に、と言い直してもかまわぬ。戦いは、村の中での白兵戦となった。その間にも、支援部隊は吹きすさぶ北風の中で凍えながら立ち尽くしていた。地上には雪が舞い飛び、空には大きな黒雲が恐ろしいばかりの速さで流れていた。辺りは白一色だったために、それとの対比で、大気までもが言い知れぬほど黒々と見えたものだ。わしは、あの日ほど、神の造り給うた万物が陰惨に見えた日を知らぬ。
わが騎兵部隊は(といっても、わずかなものだったが)、風に背を向けたまま凝然と立ち尽くし、ときおり飛んでくるフランス軍の砲弾の流れ弾を喰らう以外になすすべもなかった。これがフランス軍最後の砲撃だったと言っても間違いない。結局、彼らが砲兵部隊を布陣したのは、それで最後になったのだからな。それらの野砲は置き去りにされてしまった。翌朝になってから、わしたちは、それらが撤収されぬまま放置されているのを眼にすることになったのだ。だが、まだその日の午後は、敵の砲兵は前進するわが縦隊めがけて地獄の砲火を浴びせ続けていた。荒れ狂う風は、硝煙を吹き飛ばし、砲声をもかき消していたが、フランス軍の前線沿いに絶えず砲火が明滅するのが、こちらからはっきり見て取れた。そして地吹雪がどっと襲いかかるごとに、一切がかき消されて、真っ白な渦の中に、ただ深紅の閃光だけが光っていた。』