2016年9月29日木曜日

20160929 昨日投稿のブログ記事に関連して・・主に書籍からの抜粋引用

昨日投稿した記事(主に書籍からの抜粋引用)と関連しているのではないかと思われる記述を以下に示します。
そして、ここまで記していて、昨日の抜粋引用部の著者である丸山眞男と本日のそれの著者である橋川文三とは師弟関係であるこが想起され、これは必然であるのかもしれませんが、なかなか面白く思われました・・(笑)。
さて、以下、抜粋引用部です。

岩波書店刊 橋川文三著 中島岳志編 「橋川文三セレクション」pp.2ー5より抜粋引用 

『われわれ日本人の生活意識もしくは文化形成契機として、「歴史意識」とよばれるものの作用はむしろ希薄であるというのが「通説」のようになっている。そのことは、卑近な日常の思考・行動様式においても、理論形成の内面的契機の問題としても、あるいは芸術的な様式活動の領域においても、同様に指摘しうるものとされている(たとえば上原専禄加藤周一の対談「歴史感覚・歴史意識と歴史学」を参照―「思想」昭和三十二年五月号)。しばしば一種の通俗的な文化類型学的思想として、日本人の意識形態を古代ギリシャ人のそれに類推することが行われるが、その場合にも、芸術的感性の優越ということとならべて、「歴史」に対する無感覚ということが共通性の一つとされるのが普通である。ともあれ、「歴史意識」の欠如を説き、それを「持たなばならぬ」とするたぐいの発現は、われわれがしばしば耳にするところでもあり、そこにはさまざまな政治的評価もからんで、複雑な思想問題があらわれている。しかし、他方、「日本人は歴史観の上に生きることの強い国民である」(折口信夫「民俗学」-「歴史教育」昭和七年十一月、臨時増刊号)というような発言も、ごく当然のこととしてうけいれられるような状態があることも否定できないであろう。とくに戦前の教育をうけた世代にとっては、その内容がいかなる意味をもったにせよ、「歴史」からはなれて、思考や行動の意味をとらえるということはなかったともいえるのである。(そのもっとも極端な例をいえば、「八紘一宇」といった古代的イデオロギーが、少なくともたてまえとして、国民の行動原理として機能しえたのは、つい昨日のことである。)ここには明らかに概念規定における矛盾ないし困難がある。
日本人に「歴史意識」が薄いというのが真理であるならば、他方で歴史観における強さをいうことは虚偽でなければならない。あらかじめいえば、私はそのとおりだと考える。)

そして、私は、折口のいう意味での歴史観を、コリングウッドにならって、擬歴史意識(Quasi-history)として区別することにしたい。

それなら、いわゆる「歴史意識」とは何か、このことを、予備的に検討しておくことがやはり必要であろう。まず明らかなことは、それは歴史という学問のことでもなく、歴史の知識ということでもないということである。
わが国においてもっともさかんな学問の一つが「歴史学」であることはこれまた「通説」であるから、そこに「歴史意識」が欠如しているということはありえないことになる。
また、当然のことながら、それはあくまで「意識」のことであって「歴史過程」そのものではない。
どこの国、いつの時代にも、それが存在したことは明らかである。三木清の用語にしたがえば、学問としての歴史は「ロゴスとしての歴史」、即自的な歴史過程は「存在としての歴史」ということになるが(「歴史哲学」参照、「歴史意識」はそのいずれのことでもない。
 それは「歴史感覚」というか、あるいは歴史経験というか、直接感じ方の問題として、現象の背後にある歴史的厚みを感じる実感」「その実感があるから、物事の歴史的発展が論理的にとらえられ・・・専門化して歴史学にもなる」(加藤周一、前掲対談)という、そういう性質のものにほかならない。つまりそれは「歴史学」はもとより、「歴史的認識」「歴史的思考」「歴史的態度」「歴史的立場」等々とよばれるすべてのものの根底にあって、それらと関連しながらも、基本的にはそれらと異なる『一種の精神的能力』のことである。それは、あたかも感性のアプリオリな諸形式が、人間認識の前提として与えられているのと同じように、意識に内在する、ある基本的な様式として考えられるものであろう。
したがって、心理的実質に即していえば、それは「感覚」のある作用とも考えることができる。たとえば、マイネッケがその著作の一つにVom geschichtlichen Sinn und vom sinn der Geschichte(「歴史感覚と歴史の意味について」―邦訳名「歴史主義の立場」)と題した場合などは、そこにいわれる「歴史感覚」は「歴史の意味(ジン)を感覚しうる精神作用のことであり、そのまま「歴史意識」と同じ意味で用いられたものである。それなら、本来の「歴史意識」とは何か?われわれはここで、端的にトレルチュが、それに与えた美しい規定を見ることにしよう。・・・そういう気持(歴史的関心」もしくは歴史意識―引用者)は、人類の歴史的生活を出来る限り広く観察しようとする気持ちであり、またなんら一定の実践的目的を立てることなしに、ただ、人間存在の豊富・充溢・活発さを眺めて感激するような気持であるのです。この多種多様なる歴史的世界に現れて居るもの、またその多種多様な姿を現すことによって歴史的世界を観察する人の心に神の如き広さと大きさを注ぎ込んでくれるもの、それは尽くる所なき神の生命であり、働きである、という風に私共には見えるのです。」(歴史主義とその克服」邦訳一〇四頁)

マイネッケが歴史主義の根底にある歴史的感覚(=歴史意識)について「この新しい感覚のもっとも生命ある根元」は『人間および人間の形成物における個性的なものへの帰依であると表現した場合にも、およそ「歴史意識」についていだかれている観念は、ほぼ同様といえるであろう。つまり、そこに共通していわれていることは、マイネッケがその名著「歴史主義の成立」の巻頭に掲げたゲーテの言葉に示されるあの個体的なるもの(Individuum est ineffabile―個体的なるものは語りつくせぬ)への意識、それが歴史意識であり、歴史主義の母胎だということである。』

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。







20160928 主に電車内にて読んでいた書籍からの抜粋引用 丸山眞男著『忠誠と反逆』より

本日、電車内で読んでいた著作内での記述にて、昨今投稿したいくつかのブログ記事内容に対しての異なった視点ともなるのではないかと思われた部分を見つけましたので、以下それを抜粋引用します。

筑摩書房刊 丸山眞男著「忠誠と反逆」pp.422-423より抜粋引用
歴史的認識、たんに時間を超越した永遠者の観念からも、また、たんに自然的な時間の継起の知覚からも生まれない。それはいつでもどこでも、永遠と時間との交わりを通じて自覚される。日本の歴史意識の「古層」において、そうした永遠者の位置を占めて来たのは、系譜的連続における無窮性であり、そこに日本型の「永遠の今」が構成されたこと、さきに見たとおりである。この無窮性は時間にたいする超越者ではなくて、時間の無限の線的な延長のうえに観念される点では、どこまでも真の永遠性とは異なっている。けれども、漢意、仏意、洋意に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした「古層」は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる恰好の土壌となった。ところで家系(イエ)の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、「いま」の感覚はあらゆる「理念」への錨づけから放たれて、うつろい行く瞬間の享受としてだけ、宣命のいう「中今」への賛歌がひびきつづけているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識―ますます短縮する「世代」観はその一つの現れにすぎない―は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないであろう。
しかも眼を「西欧的」世界に転ずると、「神は死んだ」とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。
もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける「変化の持続」は、その側面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。このパラドックスを世界史における「理性の狡知」のもう一つの現れとみるべきか、それとも、それは急速に終幕に向かっているコメディアなのか。―だが、文明論は所詮、この小稿の場ではない。』

これはなかなか深いことを述べているのではないかと思われますが、読んで頂いた皆様は如何お考えになるでしょうか?

ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。

2016年9月28日水曜日

20160927 最近公開されたアニメ映画から勝手に思ったこと・・

さる八月に公開された地方と東京を舞台とするアニメ映画が大きな反響を呼んでいるとのことです・・。

この映画はストーリーの面白さもさることながら映像が大変キレイとのことであり、予告編を動画サイトにて視聴しますと「ウワサ通りたしかにキレイである。」と感じました・・。

しかし、実際の東京都心部の光景・景色とは概ね、このアニメ映画に描かれているような透明感のあるようななものではないと思いますが・・。

とはいえ、こうした描き方とは、アニメならではの創造的作業であり、やはり素晴らしいものであると思います・・。

また、一方の舞台である地方の光景、景色に関しては、自身の在住経験がないため、判断をすることができません・・。

もとい、こうした人格の入れ替わり、都市と地方との対比などを扱った物語とは、新しくとも日本霊異記の時代(~9世紀初頭)から我が国に存在しておりますので、現在の我が国にて、こうした主題、テーマが選ばれ、そして、それが人気を博しているということに対し「一体どのような背景となる世相、時代精神といったものが存在するのであろうか?」と考えさせられます・・。

こうしたものは、おそらく映像のキレイさといった要素のみにて人気を博することは少ないと思われますので・・。

また、都市と地方(文化)の対比そして融合、調和といったことを一つのテーマとして扱ったアニメ映画として一連のジブリ映画ほど有名ではないようですが高樹のぶ子原作の「マイマイ新子と千年の魔法」が挙げられるのではないかと思います。

この映画は鹿児島在住時に観ましたが、鑑賞の際、三十路過ぎであるにもかかわらず、不覚にも泣いてしまいました・・(笑)。

おそらく当時の私とは、この映画のテーマに対し甚く共感したのであろうと思われます・・。

興味を持たれた方は、よろしければ一度ご覧ください・・。

また、さきの映画のもう一つのテーマである人格の入れ替わりに関しては、アニメ化はされておりませんが、安彦良和のマンガ「天の血脈」が大変面白く、このマンガを読みますと、和歌山在住時にフィールド・ワークにて古社、古墳などに訪れた際の感覚が思い起こされます・・。
(あとになり手塚治虫の「火の鳥」(太陽編)もそうしたテーマであることを思い出しました。)

そして、その感覚の原因は判然としませんが、その感覚とは、こうした場所(古墳、古社など)を訪れると、以前ブログ記事にても記した「瞬時に様々な感覚の波が押し寄せる」といったものであるといえます・・。

このような感覚・精神現象?とは、なかなか面白いものです(そういえばラフカディオ・ハーンこと小泉八雲もどこかでそうしたことを述べていたと思います・・)。

もしかすると、我々とは、大概ある程度年齢を重ねると(多分30歳くらいでしょうか? そしてそのように考えると孔子の「論語」内の「三十にして立つ」とは、なかなか深い含蓄があるのかもしれません・・。)何かに対して、そうした感覚、現象が生じるように出来ているのではないでしょうか・・?
明確にはわかりませんが・・(笑)。

しかし、ハナシをもとに戻し、こうした都市と地方との対比、人格の入れ替わりをテーマとして扱ったアニメ映画を鑑賞する場合、それを鑑賞する人間が「どこで観るか」(都市、都会あるいは地方)によっても、おそらく鑑賞後の感想とは、大分異なるのではないかと思われます・・。

その意味において、このアニメ映画とは、(おそらく)一方において地方を舞台としながらも、その地方と東京の関係とは、我が国においてステレオタイプ化、無害化されたものから進化、変化していないのではないかと思われます・・
(対極にあるものが映画であれば野村芳太郎監督の「八つ墓村」あたりではなかろうか・・)。

また同時にそこから現今進行中の東京オリンピックへの一連の準備から看取される(東京における)時代精神らしきものを感じさせますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

2016年9月27日火曜日

20160926 自己について・・

A「本日は日中気温が上昇し、多少暑くも感じました・・。

さて、先日電話口にて久しぶりに文系院時代の知人と話す機会を得ましたが、どうにか文系学問特有の世界、会話について行けたのではないかと思います・・。

しかし同時に、以前に比べ、色々と忘れている部分もあり、自身としては口惜しい部分もまた(少なからず)ありました・・・(苦笑)。

そして本日は、何人かの歯科医師の先生と話す機会を得ましたが、ここでもいくつかの歯科分野の会話にどうにかついて行けたのではないかと思います・・。

また、ここにおいてもさきと同様、少なからず忘れている部分があり、自身の勉強不足、記憶力の悪さが悔やまれました・・。

しかしながら、自身のことを誇るのわけではありませんが、こうしたいくつかの学問分野での(ある程度専門的な)会話について行ける私とは、一体何者であるのかと時折考えてしまいます・・(苦笑)。

ともあれ何れにせよ、その根本、基層には、いくつかの結節点を持つ文系学問の多少オカシイ(極めて個人的な)体系らしきものが存在するのではないかと思われます・・。

そして、このオカシイ学問体系とは、主に和歌山、東京そして鹿児島にて形成されました・・。

また、これは一応学位の分野としては「歯学」となっておりますが、取得後の経緯などを踏まえますと、私個人の意見として時折「こうなってしまった以上、分野などは別に何でもいいのではないだろうか?」と考えてしまうことがあります・・(苦笑)。

果たしてこうした意見とは(私の場合)傲慢不遜なものなのでしょうか・・?

しかし、それはともかくとして、現在ここまでブログ記事を継続して作成することが出来ている背景とは、さきに述べた三つの地域にて形成された学問体系らしきものに因ることは、たしかであると思われます・・。

あるいは異言すると、それら何れかの経験が欠けていても、それは出来なかった、出来ないと表することが出来ます。

そしてもちろん、投稿した一連の記事を読んで頂いた方々がいらっしゃったからという大前提が存在しますが・・。

とはいえ、こうしたブログ記事の作成に対して「のみ」それらの経験が生かされると考えるのもいささか悲しいものであり、そのため今後も自身の望む大学職種(主に教養課程の教員、研究支援専門職員など)に応募するつもりです。

・・色々と考えてみましたが、どうやら私とは教育の過程によりそうなったのではなく、どちらかというと生まれつき(生来)に近い部分より多少オカシイところがあり、そのために様々な必ずしも必要でない面倒に遭遇することになりましたが、また、それと同じ理由により、さきに述べたようなオカシイ体系を持った私となり、また、それをどうにか認めてくれる方々にも出会うことができたのではないかと考えております・・。


今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」










2016年9月26日月曜日

20160925 波、流れとそれを認識する何か・・

A「本日は特に降雨もなく、また気温も例年のこの時期並みに上昇したのではないかと思います。

また、ブログ記事の作成も今回の投稿によって430記事となります。

つい先日400記事に到達したものと記憶しておりますので、そこからここに至るまでの記事の増加とは、感覚的には、なかなか早いものであったと思います・・。

しかし、その増加する一つ一つの記事作成においては、決して「楽なものである。」と表現することはできません・・(苦笑)。

いえ、時によっては比較的スムーズに記事を記すことが出来たと思うこともありますが、ここ最近は季節の変わり目であるためか、どうもスムーズに記事を記すことが困難であるといえます・・。

とはいえ、こうしたことは以前にも幾度かありましたので、書き続けていくうちに再度スムーズに記事を記すことが出来る時期が訪れるのではないかとも思いますが、さて如何でしょうか・・(笑)?

何れにせよ、こうしたことにはおそらく他の様々なことと同様に波、流れのようなものがあるのではないかと思われますが、ただ、それが如何なる要因により、惹起、駆動しはじめるのかとは、未だに判然としないことです・・。

それに加え、こうしたものは個人、個別的な要素が強いものではあるのでしょうが・・(万人に共通ではない、普遍性がない)。

とはいえ、こうしたことを精密に考え、そしてある程度通用する普遍性を持った(応用し得る)見解を見出せるのであれば、それはそれでかなり有益なことではないかとも思いますが・・。

また、そうしたことの価値とは、現今流行している実践的な心理学、ハウツー本などと比して、少なくとも遜色のないものであるとも思いますが、如何でしょうか・・?

ともあれ、そうした波、流れのような目に見えなく、また分析機器などによっても測定できないものを説明する場合において極めて重要なことは、その説明の仕方つまり、表現、たとえ、文体、コトバなどではないかと思われます。

さらにそれに加えて図、イラストなどを併用し説明することにより、その理解はより一層浸透するのではないかとも思われます・・。

しかしながら、その一方、図、イラストを多く用いることにより、その記述様式とは徐々にマンガ様式に近づいていくのでしょうが、明らかにマンガとして分類される様式にまで行きますと、今度はどうもハナシが異なってくる、おかしな方向に行ってしまうのではないかとも思われます・・。

私は我が国の世界に誇る文化であるマンガに対し敬意を持っており、特に敵意を持っているわけではありません。

しかし、現今の「世界に認められた日本文化であるマンガ、アニメであるから、そのお家芸に則り、何でもマンガ様式にするのは良いことだ。」といったような風潮に対してはどうも賛同することができません・・。

こうした昨今見受けられる風潮とは「案外マズイことなのではないだろうか・・」と思っております・・。

そして、実際、様々なマンガによる知識、思想とインターネット検索に用いる種々装備を合理的、利便性の高いものとして装備した人々と、そうでない昔ながらの実際の様々な書籍の読書により知識、思想を獲得、練磨してきた人々の間では『何か』が違うのでしょうか?

あるいは、違いと云えるような違い(有意差)は見いだせないのでしょうか?

こうしたことはしばらく先にならないと、その答えは見出せないのかもしれませんが、私個人としては、その間には何かしらの違いが存在するのではないかと仮定します。

そして、その違いとは、さきほど述べた「様々な事象において存在すると思われる波、流れ」といったものに対する認識の仕方、深さ(おそらく想像力の一種)といったところにあらわれるのではないかと思います。

それ故、現今の我々よりさらに機械文化に接することの少なかった古の人々とは、それこそ妖怪などを現代を生きる我々が波、流れといったものを認識するように認識していたのではないかと思われるのです。

また、それと同時に、そうしたことは廻り回って、ある大きな思想、考えを紡ぎ出すという行為を為す能力、つまり歴史意識の祖型とも云うべきある種の観念の生成に対し(少なからぬ)影響を及ぼすのではないかと漠然とではありますが、考えております。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」




20160924 書籍からの抜粋引用および昨今の出来事 岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説」

A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数は1000に到達しました。
どうもありがとうございます。
本日の首都圏の天候は始終小雨が降り、グズついたものでした。
また、先日お目に掛かった歯科医師の先生との会話においても「ひょっとして私のブログ記事を読まれている(た)のではないか?」と思うところがありました・・。
こうしたことは気にしはじめますと、結果的に萎縮、緊張してしまい文章の作成がスムーズに行かなくなってしまうのではないかと思われます・・。

加えて、本日は私の文系学問分野の師匠のお一人から久々に連絡がありました。

この師匠からは主に欧米の歴史、文化についてかなり多くのことを教えて頂きました。

しかし、それは教えるというよりも、どちらかというと日常的な会話の中で、そういったことを学んでいたという方が適切であったと思います。

また、その会話、説明の中に出てくる様々な著作、映画などを出来るだけ読むように、観るように心がけ、それを続けた結果、北海道、南紀での会社員時代を通じ書籍を読む習慣が保持され、結果的に「やはり院に行こう・・。」ということになったのではないかと思われます・・。

それ故、この師匠からの影響により、会社員となっていた私が研究という方面に自身の人生の舵を切った(切りなおした)のではないかともいうことが出来ます・・。

もちろん、その他の要因もまたありますが・・。

そうしたことから、紆余曲折を経て現在に至っている次第ではあるのですが「果たしてこれで良かったのであろうか・・?」と時折思うこともあります・・(笑)。

しかしながら、同時に私のような人間が寄与することが出来る大学の職種とは多くはありませんが、あるとは思いますので、それに巡り合うことが出来るよう願い、そしてゆっくりと探し続けてみようと思います・・。

「天網恢恢疎にして漏らさず」とはいいますが、実際のところどうなのでしょうか・・(笑)?

さて、ハナシは大分変りますが、昨日記したブログ記事と関連するのではないかと思われる記述を見つけましたので、それを下に示します。

岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説ISBN-10: 4003391616
ISBN-13: 978-4003391617

PP.305ー307より抜粋引用

「人間の精神は本来体系(哲学)を好む傾向を持っている。
人々が事実よりもむしろ言葉について一致しようと努めているのもこれがためである。
しかしながらこれは、実験的批判における誤った方向であって、事実の存在またはその真価を考えさせる代わりに、いたずらに問題を紛糾させ、また容易に暴論と信じさせる弊害がある。
ところが大抵の場合この異論なるものは、人が現象を解釈する仕方にのみ存在していて、実際には存在していないのである。
予期しない事実、或いは新奇な思想を科学の中に導き入れる幸運をになったすべての人と同様に、私もまた数多の批判の対象となっていた。
現在もまたそうである。
私が今までこれらの反対者に答えなかった理由は、いつも仕事に追われて時間と機会がなかったからである。
しかし本書の続きにおいて、この吟味をなすべき機会がおのずと出てくるであろう。
また我々が前節において指摘した実験的批判の原理を応用することによって、これら一切の批判を判断することも容易であろう。その前にまずここでは単に、実験的批判においては本質的に区別すべき事柄が二つあるということを言っておこう。
実験の事実とその解釈がこれである。
科学は何をおいてもまず事実について一致することを要求する。事実こそは、我々がその上に立って考慮をめぐらすべき基礎であるからである。
その解釈、またはその思想に至っては、各自違っていてもさしつかえない。それどころか討論されるということはむしろよいことである。
なぜならば、このような討論はさらに他の研究を刺激し、また新しい実験をくわだてるように導くからである。
したがって生理学においても、真の科学的批判の原則をどこまでも忘れないで、個人的感情や策略などに決して混同しないように心がけなければならない。
批判の技巧の中には、すでに科学の領域外にあるという点で、我々がこれを論じることをいさぎよしとしないようなものも沢山ある。
しかしその中で、どうしてもここに述べなければならないことが一つある。
それは、他人の研究の中から、すぐれている点や重要な点を無視したり、かくしたりして、ただ弱点や欠点だけを指摘するやり方である。
この方法は誤った批判法である。
科学においては批判という文字と中傷という文字とは同一語ではない。

批判するとは、正しいことを誤っていることから分離しつつ、またよい点を悪い点から区別しつつ、真理を探究することを意味している。

このような批判は学者にとって正当であると同時に、学問にとっても有益な唯一の批判法である。
このことは我々が引き続き陳述しようとする特殊の実例を見れば容易にわかるのである。」

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの早期の復旧と、その回復を祈念しております。



2016年9月24日土曜日

20160923 最近のドラマ・著作の広告・ポスターを見て思ったこと・・【日本人とは】

A「本日首都圏は終日小雨が降り、ぐずついた天候でした。

そういえば、ここ最近都心部の電車内の吊り広告、駅の壁に貼られている広告ポスターなどを複数見ておりますと、どうも近代日本(主に明治以降)を時代背景としたドラマ、書籍等が流行しているように見受けられます・・。

こうした流行とは一体どのような現代社会の風潮により生じているのでしょうか・・?

ともあれ、これらの広告を見て思うことは「こうした近代を舞台としたドラマ、書籍とは、果たしてどの程度まで史実を考証して制作されているのであろうか?」ということです・・。

といいますのは、特に昨今の我が国における、こうしたいわゆる「歴史もの」とは、史実、時代考証に関しては出来る限り省略した流行に便乗したと思われるものが少なくないからです・・。

私はこれまで投稿したブログ記事にて記しているように、かねてより「歴史もの」全般が好きであり、そうした良い作品を観る、読むことが好きです。

その上で、昨今の我が国の「歴史もの」全般に認められる、こうした傾向(史実、時代考証の省略、簡略化)とは、その浅薄さに対し否応なく腹立たしく思い、同時に悲しくなります・・。

そして、それらは物語の背景を借景的に過去の時代を当て嵌めているだけではないかと考えさせられるのです。

しかしながら、こうした時代の借景現象とは、江戸時代の歌舞伎などにおいても見受けられ、その起源もまた、おそらくかなりの歴史的背景、伝統があるのではないかとも思われます。

つまり、こうしたことは、以前何度かブログ記事にて述べたような何も戦後、太平洋戦争の敗戦による歴史意識の挫折によるものではないということです。

そうしますと、では、なぜ学校などで学習する歴史と、それら「歴史もの」にて語られる歴史とは乖離していくのでしょうか・・?

おそらくそれは「歴史もの」一般とは、学校にて学ぶ歴史の勉強と根本的に異なる次元にあり、(創作者あるいは観客、読者が)好き勝手にその背景および内容をいじっても特に問題ないと考えられている、受け取られているからではないでしょうか・・?(日本のアニメ全般とは、概ねその延長であり、典型であると思われる。

しかし、この点に関しては多少意固地になりますが、歴史とは見方、解釈においてはいくつもありますしょうが、本質的に史実は一つであると考えております(当たり前のハナシではありますが)。
ヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」

そして、そうした前提が根本において存在するがゆえに、歴史を扱う学問が人文社会科学の一分野として存立するのではないでしょうか?

とはいえ、こうした意見とは、社会全般においては圧倒的に少数派であり、どちらかというと肩身が狭いといっても良いと云えます。

それに対する圧倒的な多数派とは、その表面的な評価のコトバ(建前)はさておき、本音においては歴史、史実に対し日常生活にあまり影響を及ぼさない、取るに足らないものとして、あるいは、そこまで厳粛に受け取ることなく、単に短期的なネタとして楽しむことが出来れば良いものとして考えているのではないかと思われます・・。

あるいはこれに対し何か他の表現、表記方法があるのでしょうか・・?

もとい、それ故、結果的に時代毎にその時代の風潮(時代精神)に適応した歴史観といったものが流布、流行し、それが社会を染め上げていくのではないでしょうか・・?

そして、それもまた歴史ではあるのですが・・(苦笑)。

・・そのように考えてみますと、こうした歴史観とは、和辻哲郎著の「風土」に述べられているモンスーン地帯(我が国も含む)において特徴的な精神的傾向、思考様式に親和性があるのではないかと考えさせられます・・。

あるいはこうしたモンスーン地帯における特徴的な精神的傾向、思考様式とは会田雄次もまた、そのいくつかの著作において類似したことを述べていたように思います。

しかし、何れにせよ、私はこうした我が国の歴史観、そしてそれに基づいてさらに再生産される(浅薄、軽薄な)国民感情、世論といったものは、どのようなものであれ好きにはなれません・・。

そして、こうした意見を述べると、日本的でないとして「日本がキライならば出て行けば良い。」といった意見などをマジメにいうのを聞きますと、何ともいえない絶望感をおぼえます・・・。

なぜならば、少なくとも近代以降の我が国とは、おそらくこうした意見を持つ方々により国民感情、世論が形成されてきたということもまた、史実であると考えるがためです・・・。

しかし、そうであるからといって、それに対し迎合、付和雷同するのはダメであると思います・・。
私は日本がキライではないと思います。
日本がキライであれば、その歴史などに興味を持ちません。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月22日木曜日

20160922 宙ぶらりん、保留・・疑問と葛藤そして創造について

A「これまでに投稿した記事は420を越え、また430にも近づいてきましたが、日常生活において特に大きな変化などは生じておりません・・。

それは、当たり前といえば当たり前ではあるのかもしれませんが、一方、これら記事を閲覧してくださっている方々がおられ、また昨日の記事に対してもそうであったのですが、投稿した記事に対して(時折かなり)興味深い反応が為されているのを見ますと、これまでの閲覧者数が国内外を合わせ15万人程度に到達したことにより、何かしらの出来事が生じても良いのではないかとも思われるのです・・(笑)。

いや、しかし、そうしたものは決して良いことばかりであるとも云えませんので、実際こうした静けさの方がブログ記事作成の継続においては望ましいのかもしれません・・。

とはいえ、それ以前に私に関しては、こうしたことに対し経験によって自身が定める「判断の基準」というものを未だに持っていないため、その良し悪しの判断とは、未だ保留、宙ぶらりん、棚上げ状態にしておこうと思います・・(笑)。
そして、そういったはっきりしない、煮え切らない状態とは、大抵の場合、どちらかといえば不愉快なものではないかと思われます・・。

しかしながら、実はそうした内面における解決出来ない疑問、あるいは葛藤といったものを飽くことなく、腐らせることなく平静のうちに問い続けることもまた、成熟というものの一つの要素ではないかとも思われます・・(・・果たして本当であろうか・・?)。

無論、様々な成熟の仕方があるとも思いますが・・。

ともあれ、こうした能動的ともいえる疑問、葛藤を持ち続ける姿勢から哲学そして様々な科学などが生まれ、発展していったのではないかとも思われます・・。

また、これは多くの科学者が述べられている「基礎科学が大事である。」ということの背景思想にも親和性を持つのではないかと思われます・・。

しかしながら、現在の我が国においては、表向きの評価はともかくも、日常我々が接するところの創造的な事物とは、貨幣を生むに都合の良さそうな既存フォームの表層を多少変形させたものをに対し、何かしら大げさなコトバをもって装飾しているものが多いのではないかと考えさせられるのです・・。

そして、こうしたことは社会における根源的な創造的な力(活力)が枯渇してきた時に多く見受けられる現象ではないかと私は思います・・

私見としては、あまりカッコが良くなくとも、参考としたものは参考したものとしてその出典を明示し、そして、そこから先の自らの創造を為したと考える部分を提示するに留めた方が、健全であり、また未来における創造にも繋がるのではないかと思われるのです・・文章であれ芸術作品であれ。

また、これは、実際に自身がこれまでのブログ記事の作成を通じて、いみじくも痛感したことでもあります・・。

さて、ここまで記していて何故か不図思い起こしましたが、先日書店にて映画化もされた中上健次著「千年の愉楽」を立ち読みしましたが、ああした文体もまた人を引きつける何かがあり「実のところ、こちらの文体の方が本来の伝統に沿った日本語の用い方なのではなかろうか・・?」とも思われました。
この著作、映画をご存じない方は、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、映画と共に是非一度観る、読んでみては如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」



20160921 スランプとパンチの効いた警世的なるもの・・・

A「先日よりどうもブログ記事の良い着想が思い浮かびません・・。

これは現在、季節の変わり目であるからか、あるいは先日赴いた公募の面接がダメであり、それにより何となく萎縮してしまったからであるか、あるいはまた、その他にも何か要因があるのかもしれませんが、ともかく、どうも良いブログ記事の着想がパッと思い浮かびません・・(苦笑)。

そして現在はそうした思いを文章として記せば、それはそれで、とりあえずは記事になるのではないかと考え、これを記している次第です・・。

そういえば、本日は仕事上にて伺ったある歯科医院にて、古くか続いている某歯科大学の付属歯科衛生士専門学校が、このたび短期大学として認可されたということを伺いました。

そして、さきほど、このことをインターネットにて調べてみたところ、それは既に公式なことであると記されていたため、ブログ記事の題材として記している次第です。

また、そういえば、先日記したブログ記事において、歯科衛生士の教育に関して記したものがありましたため、これもまた何となく面白く感じました・・(笑)。

あるいは本日伺った歯科医院の先生は、このかつて投稿した記事を読んで頂いていたのかもしれません・・(笑)。

しかし、そのように考えてみますと、こうしたことは私が思う以上に多くあるのかもしれません・・。

そして、単に私がそうしたことを認識していないだけであるのかもしれません・・(苦笑)。

しかしながら、ブログ記事を記し、その一方で日常生活にて、そうしたことを気にし出しますと、ますます自意識過剰となり、そして、さらにその後反転し、萎縮してしまい、自由にブログ記事を記すことが困難になってしまうのではないかという危惧が生じてきます・・(笑)。

また、それがなくとも、さきに記したように今現在どうもブログ記事作成においてスランプに近い状態であると思われますので、こうしたことは出来る限り考えない方が良いのかもしれません・・(笑)。

そして、そのようなことを認識してみますと、案外こうした公開を前提とする継続的なブログ記事の作成とは、高所における綱渡りに近いようなところがあるのかもしれません・・(苦笑)。
(フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭近く・・)

渡る場所を単に横幅が狭い場所での移動(前進)であると考えれば、特に恐怖も湧かないのかもしれませんが、それが高所であると認識することにより恐怖が湧いてくるといったような感じではないでしょうか・・(笑)?

そして、もし少なからずこうした(感情的な)要素がこれまでのブログ記事作成において良い方に作用してきたのであれば、少なくとも今現在までは、ブログ記事を書き続けるといった意味においては、どうにか上手くやってこれたのではないかと思われます・・(笑)。

そして、願わくは、今後しばらく(500記事程度迄)は、そうした状態(特に大きな反応がない)が続いてくれた方がありがたいと思います・・。

とはいえ、感情的な非難、批判、言いがかりとは、どのようなことをきっかけとしてでも、行うことは出来ると思われ、また、それに加え、おそらく私はそうしたことに対し強い耐性があるというわけではありませんので、繰り返すようではありますが、これまで通り、どちらかというと静かに見守って頂けた方がありがたいです。

読まれている皆様、どうぞよろしくお願いいたします・・。

さて、そうしたことを置いておいて、先日来より読んでおりました山田風太郎著「戦中派虫けら日記」を読了しました。

この著作は読了に至るまで大変短い期間であり、おそらく一週間程度であったのではないかと思われます・・。

また、この著作からも大変面白いと思われる記述が少なからずありましたので、今後、折を見て、それら記述を当ブログにて抜粋引用してみようと考えております・・。

そして、私見とはなりますが、ここ最近少なからず警世的な意味合い、あるいはそうした目的、意図を持った著作が刊行されているようですが、それらの著作と比べ、古書店にて(安価で程度の良いものが)購入することが出来る、山田風太郎著のこの時代(戦中戦後期)を扱った著作、あるいは、大岡昇平著の「俘虜記」、野上彌生子著「迷路」、大西巨人著「神聖喜劇」、そして山本七平著「私のなかの日本軍」などの方が、案外と普遍性のある、そしてパンチの効いた「警世的」なるものを明示してくれるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月21日水曜日

20160920 今回の大雨そして季節から思ったこと・・銅鐸について・・

A「本日の首都圏は終日の降雨であり、今現在なお雨が降っております・・。

そして、それと同時にかなり久々に大気が涼しいを通り越し、寒いと感じました・・。

そのように感じますと「果たして丁度今頃の九州とはどうであったか?」と思い起こしますと、未だに半袖を着て汗をかいていたと思われます・・。

また、それに伴い思い出すのは、九州においても南に位置する鹿児島は11月一杯までは暑いとも感じる日が続き、12月に入るあたりで急激に寒くなるといった気候であったことです

こうした気候は首都圏、関東とも、和歌山ともまた異なり、在住当初は一人勝手にギャップを感じておりましたが、こうしたものは大抵在住2年目には当たり前のこととして慣れて行くようです・・。

しかし、それに慣れた体質のまま首都圏、関東に戻りますと、今度は、その地の冬の寒さがとても体に堪え、ギャップを感じる次第なのですが、この調子で行きますと、果たして今年の冬は一体どのようなことになるのでしょうか・・(笑)。

また、そうしたことを通して思うことは、おそらく私は南紀、和歌山、九州といった、その在住遍歴により、何といいますか体質もそうした西日本の温暖な地方仕様となったのではないかということです・・。

そうしたことから、関東周辺における、そうした(西日本の温暖な)気候風土を感じさせる静岡県東部の伊豆、伊東市などに行きますと、何とも懐かしい感じがしてきます・・。

しかしながら、この伊豆、伊東市周辺の気候風土を懐かしく思う感覚とは、実のところ、私のもっと幼い頃、深い層において刷り込まれたものではないかとも思われます・・。

といいますのは、私の祖父母および一枝の遠い父祖がこの地域に住んでいたことから、様々な機会においてこの地を訪れた記憶があるからです・・。

そして、この地の気候風土を(幼い頃より)知っていたがために、その後在住することとなった南紀、和歌山も、ある程度類似したものであると(体が)認識することが出来たのではないかとも思われるのです。

また、結果から考えてみますと、そうした感覚の古来から(歴史的な意味で)の普遍性を自分なりに考えるための一つの要素が銅鐸に対する興味であったのではないかとも思われます・・。

感覚的なハナシではありますが、銅鐸を祭器として用いた集団とは、何といいますか、自らが住む地域の気候風土、植生などに相当こだわっていたのではないかと強く思われるのです・・。

しかし、そのように考えてみますと、その後私が在住した鹿児島においては、これまでに銅鐸の出土例がないため、おそらくこの地には、それ(銅鐸祭祀)以前の時代から、異なった背景文化を持つ集団が既にいくつか住み、銅鐸祭祀を行う集団の入る余地がなかった、あるいはこの地がさきに述べたような彼ら(銅鐸を祭器として用いた集団)の好み(気候風土、植生)ではなかったのかもしれません・・。

また、以前のブログ記事においても取り上げたことがありますが弥生時代における鹿児島の墳墓、墓制と関連させて考えてみますと、大陸、半島由来の墓制である甕棺墓が鹿児島県西部において見られることは、当時、この地において半島からの文化が来訪、往来していたことを示し、一方において甕棺墓と同様、大陸、半島由来の技術(青銅による鋳造)を用いる銅鐸の出土が見られない(北隣の熊本県においては存在する)ことは、おそらく銅鐸の作成とは全般的に見て、渡来した大陸、半島の技術「のみ」により為されたものではなく、在来住民との文化との結合によって、はじめて為し得たと考えることが妥当であると云えます。

具体的には、当時の鹿児島とは、渡来の墓制を受け入れつつも、それと同時に在来文化との結合により銅鐸を生じないという特徴を持つ在来住民が住んでいたということであり、こうした傾向とは、おそらく九州においては長崎、宮崎、そして四国においては愛媛、高知両県の西部(つまり四国の西半分)といった地域と概ね共通しているのではないかと思われます・・。

そのことから、おそらくこれらの地域とは、在来文化との混淆の具合が、北方からの半島、大陸からの文化よりも、南方からの海洋民の文化との方が優勢、盛んであったのではないかとも考えることが出来ます・・。

そして、そのようにして(おそらくそれ以前からの伏線が存在すると思いますが・・)生じた地域毎の文化とは、現在においても我々に何かしらの(文化的な)意図、傾向を感じさせるのではないかと思われま、如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いてどうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの復旧そしてその後の速やかな復興、また九州全土における今回の台風、大雨による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」

2016年9月20日火曜日

20160919 閲覧者数のとらえ方について・・

A「本日首都圏は朝からの降雨であり、また、この雨とは九州地方において台風を伴った暴風雨のような状態であるとのことで、九州方面におけるこの台風による被害が(強く)懸念されます・・。

また、こうした天候から本日は特に外出することなく、ここに至りブログ記事作成をはじめました・・。

とはいえ、やはり何かしら外出をして刺激を受けた方がブログ記事などを作成する上においては都合が良いようであり、そうしたことからか、本日はいつも以上にブログ記事の着想、主題が思いつきません・・(苦笑)。

とはいえ、やはり何かしら記すため、その主題について思いを巡らしますと、つい先日のブログ上での出来事となりますが、これまでの閲覧者総数が150000人を越えたことが挙げられます・・。

この数字とは、たとえば統計的な数字として考えてみますと、あまり大したものとは捉えられないのですが、一方、これまでに作成したブログ記事を閲覧して頂いた方々の人数として考えてみますと、それら一連の記事を作成した者としては、否応なく、その受け取り方が変わってきます・・。

何といいますか「結構な数の方々が閲覧してくださっているなあ・・。」といった感じに続き、少し身が引締まる、緊張するような感じを受けます・・。

そして、こうした感覚が勝りすぎると、萎縮してしまうためか、今度はブログ記事の着想、作成が困難になってくるのですが、ここ最近はそうしたことも特になく、以前に比べ、投稿した記事が公開、閲覧されているということを(強く)感じることなく、良くいえば自然に記事を作成することが出来ているように思います。

これは良いことであるのか分かりませんが、一方、ブログの炎上などもありませんので、特に問題はないように思われますが、さて如何でしょうか・・?

また、それに関して、これらのブログ記事に対しての具体的な反応、感想などを聞くことは殆どありませんが、時折ごく少数(閲覧者総数に比して)の方々にその感想を尋ねてみますと、それらは「面白い記事ばかりではないけれど、少なくとも内容に関しては特に問題ないのではないか。」といったものであり、そのことから「まあ、この調子で今後もキリの良いところまで書いてみよう・・」といった考えに辿り着きます。

そういえば、本日はさきほど記したように終日の降雨であるため、書籍をいくつか手に取り読んでおりましたが、その中で山田風太郎著「戦中派虫けら日記」は大変に捗り、概ね読了に至りつつあります。

また、面白いことに、こうした日記体の著作とは、他の文体のものに比べ、その頁数が多くとも意外とスムーズに読むことが出来るようです・・。

あるいはこれは文体への感情移入が容易な著者に対してだけ云えることなのでしょうか・・?

そして、その後、かねてより読んでいる野上彌生子の「迷路」下巻を読んでみましたが、これもなかなか面白く読むことが出来、おそらく良い著作とは論文、小説といった文体に限定されず、何度読んでみても面白い要素を引出す、感じることが出来るものではないかと思われます・・。

おそらくこれは、かなり月並みな意見であるとは思いますが、ここ最近は自身がブログ記事を記しているためか、より一層そうした感じを強く受け、またそれと同時に自身の作成したブログ記事およびその文体についても否応なく思いが至ってしまいます・・(苦笑)。

こうしたことは、ここ一年まではあまり多く考えることはありませんでしたが、ブログ記事の作成を継続的に行っておりますと、自然とそのようなことを考えるようになるのではないかと思われます。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震、そして本日においては九州全土での台風からの大雨による被害が出来るだけ軽微であり、そして熊本での大地震からの復旧、復興作業に支障がないことを祈念いたします。」




2016年9月19日月曜日

20160918 入出力の習慣化・・知的好奇心について★★★

A「おかげさまで昨日(20160917)のブログ閲覧者も1000人に到達しました。
どうもありがとうございます。

本日も半分仕事にて都心部に出向いておりました・・。

また、途中書店にも立ち寄り、面白そうな書籍をいくつか見つけましたが、諸事情により今回の購入は見合わせました・・(笑)。

そういえば、私の週末の習慣ともいえる書店への訪問とは、かなり長い間(10年以上)継続していると思われます・・。

そして、その経験に基づいて思い起こしますと、しばらく書店に出向かないで、突然書店に行くと、どうも圧倒されるような感じ(書店に行くと緊張する感覚)を受けるのではないかと思います。

しかし、定期的に書店を訪ねる習慣を保持していると、そうした感覚(圧倒、緊張)はあまり感じることはありません・・。

こういったものも現在継続的に作成しているブログ記事においても類似したところがあり、これもまた一種の慣れ、習慣化といったものが大事であるのかもしれません・・。

しかし、習慣化ととらえてみますと、そこから単純作業、画一的といった考えが連想されると思われますが、おそらく様々な創造的行為の基層においては、(複数の)習慣化された行為といったものが極めて重要なものとして各々存在するのではないかと思われます・・。

そして、これまでに作成したブログ記事を一応、創造的なものとしますと、それら作成の前提として、ノートに着想をメモしておく、あるいはPCの前に座り、とりあえず何かしら記し始めるといった(習慣化され得る)行為が挙げられると思われます・・。

そして、現在においては概ね、これらの行為をはじめますと、何となく(ここもまた大事であると思いますが・・)着想が浮かび、そこから文章を記し、ブログ記事として投稿することが出来ている感じがします。

しかし一方、たしかにこれは現在においては一応習慣化され(やはり多少面倒ではありますが)ほぼ毎日ブログ記事の投稿が出来ておりますが、ブログ作成開始当初においては、ここでなかなか苦労をしており、またそのことから記事の作成、投稿も(一応)継続的ではありましたが、同時に断続的でもありました・・。

そうした時期(ブログ作成開始時)に比べますと、ここ最近において記している記事とは、おそらく内容的には、以前に比べ、相対的に深いものが少ないのではないかと思われますが、同時に記したいと思う内容をコトバにてある程度的確に表現することが出来ているように思われます・・。

そして、これら(内容の深さ、表現力)の最適なバランス(これが抽象的であり、また、その評価が難しいのですが・・)が得られ、且つそれが保持されていると思われる時期こそが「文章作成能力が向上した。」といえる時期なのではないかと思われます・・。

そして、そこに至る為には、一般的には文章の作成という出力のみでは不十分であり、双輪のもう一つとして、何らかの入力、つまり読書、観察といった行為が不可欠ではないかと思われます。

その意味において、これまでに作成、投稿したブログ記事とは、これまでに為された入出力(主に過去における入力)の賜物であり、また今後もそうした行為を何かしら継続しておかないと、いずれ着想、アイデアが枯渇してしまう時期が訪れるのではないかと思われます・・。

しかしながら、現在もブログ記事作成と同様に継続している入力(現在では主に読書、観察)とは、決してそうした危惧(枯渇してしまう)に基づき為されているわけではなく、どちらかといいますと、能動的な興味に基づいて為されていると思われますので、さきに述べた「慣れ、習慣化」とは「ノートに着想をメモしておく、あるいはPCの前に座り、とりあえず何かしら記し始める」といった、どちらかというと出力的な要素「のみ」の習慣化に依存しているのではなく「読書あるいは観察」といった入力的な要素そして、その習慣化にも同程度に依存しているのではないかと思われます。

そして、これら入出力の総称として「知的好奇心」なるコトバが存在するのではないでしょうか?

また、人によりその性質の強さが異なる「知的好奇心」とは、おそらく能動的に為され、習慣化されたこれらの行為(入出力)の量、質と随伴している傾向があるのではないでしょうか・・?

また、こうしたことは読む人が読むと、当たり前過ぎて面白くないかもしれませんが、同時に記しておいてもあまり害はないものと考える為、記す次第です。

今回も何故か観念的な内容となってしまいました・・・(苦笑)。
また、ここまで興味を持って読んで頂いてどうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早い復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月18日日曜日

20160917 筑摩書房刊 丸山眞男著「忠誠と反逆」pp.234ー237より抜粋引用

明六社的啓蒙思想がフランスの百科全書家ほどラディカルでなかったとすれば、なにより伝統的思考の範疇を打破し転回させるという点の不十分さという点にこそ問題の所在を求めねばならぬ。

それにしても明六社の思想は十年代以後の自由民権論に比べて、政治的急進性において劣っていたものを、啓蒙主義本来の課題の方法的自覚において補っていたといっても必ずしも言い過ぎではない。

明六社のような非政治的な目的をもった自主的結社が、まさにその立地から政治を含めた時代の重要な課題に対して、普段に批判して行く伝統が根付くところに、はじめて政治主義か文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的モラルが育って行くことが期待される。

その意味では、この明六社が誕生わずか一年余りで讒謗律、新聞紙条例といった維新政府の言論弾圧によって解散しなければならなかったということは、近代日本における開いた社会の思考の発展にとって象徴的な出来事であった

これ以後にもっとも活発に社会的に活動する自主的結社は、ほとんど政党のような純政治団体に極限されていかざるを得なかったのである。

けれども、政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十全な発達は期待できない。

むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託するということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。

政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等々)に立って組織的化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党はまた政党で、もともと最大最強の政治団体としての政府の小型版にすぎない。

それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。

交詢社」などの使命とした「社交」がその後たどった運命はどうであったか。
維新以来のもっとも著名な知日家の一人であるB・チェンバレンは、この国の自然の風景の素晴らしさと対蹠的に「社交」がおそろしく退屈(ダル)なことをのべ、「日本における善美なもののカタログをひろげれば随分沢山ある。
けれども諸君の教養ある魂が客間やコンサートホールのよろこびを憧れはじめたら、諸君はむしろ故国へ帰る切符を買った方がいい」(Things japanese, 6th rev. ed., 1901, 〔1st ed., 1890〕のなかの“Society”の項)と勧告しながら、そこに潜む根本問題についてつぎのような定式化をこころみている。

日本では、社交界というのはほとんど全く政府筋のものである。イギリスで田舎の名門といえば、官職を引き受けるのも引き受けないのもあるが、引き受けた場合にも、それですこしでも家門の名誉が増すわけではなく、それどころか逆に官位の方に箔が付くのであるが、そういった意味の名門に当たるものが日本には皆無である(中略)

日本では皇室が事実上唯一つの名誉の源泉であり、一旦敗れた大義名分(コーズ)にはこの国では誰も味方に付き手がない。
(中略)皇室(というよりも皇室の名において行動する者なら誰でもいいのだが)は古い封建制の廃墟の上に新たな官僚制を築いたが・・・この官僚制こそ国家そのものでありまた社交界でもあって、いかなるライヴァルの存在をも始めから排除してしまうような、本来の意味での貴族制なのである。
・・・実際日本の社会では官界が圧倒的なエレメントであり、政府の援助なしには何一つできない。

アングロ=サクソンはこうした個人主義の欠如をもって、とかく弱さの源泉と断定しがちである。

しかしこうした見方にたいして、日本の驚異的勃興―日本が政府の指導下の奮励によってたった一世代の間にかちえた地位―はまさに抗し難い反証となる。

日本はプロシアのように中央集権化を通じて成功した。
その四千三百万の国民はあたかも一人の人間のようにうごくのである」。

無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的エネルギーに切りかえて行ったところに「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった、チェンバレンのいう反証がはたして、またどこまで、反証でありえたかを、すでに私達はおびただしい犠牲と痛苦の体験を通じて知っている。
しかし、その体験から何をひき出すかはどこまでも「第三の開国」に直面している私達の自由な選択と行動の問題なのである。」

ISBN-10: 4480083987
ISBN-13: 978-4480083982

2016年9月16日金曜日

20160916 読書の種類、環境の変化と文章の作成について・・

A「ここ最近読み進めている、どちらかというと理系分野の著作を読んだ直後とは、少なくとも私に関しては、あまりこうしたブログの文章が(相対的に楽に)思い浮かばなくなるようです・・。

これはここ最近(のみ)の傾向であるのか、今後更なる検証が必要ではありますが・・・。

あるいは、これは単なる経験(N)不足によるものであるのかもしれませんが・・。

しかし、傾向としては、やはり何かしらの文学作品あるいは文系分野の著作を読んでいる時の方が、あまり一つのコトバ(の厳密な意味)に捉われず、あるいは文章の簡潔化にも捉われることなく、何と言いますか、伸び伸びと文章を書けるような感じがします・・(笑)。

そして、もし、こうした傾向が実際に内部において存在するのであれば、やはり私は元々文系の人間ということになるのでしょうか・・?

もちろん断定は出来ませんが・・。

とはいえ、こうしたことに関しては、他者の御意見をあまり聞いたことがないため、どうもイマイチよく分かりません・・。

自分自身のこととは、相対的にはなかなか分からないこともあるものです・・(苦笑)。

しかし、その一方で思うことは、ある種の書籍を読んだり、あるいは誰かと話しますと、理由はよくわかりませんが、文章などの主題を思いつく、ひらめくといったことは(比較的よく)あるのではないかと思われます・・。

そして、その反対といったこともまた、あるのかもしれませんが・・(苦笑)。

その点において、ここ一年程度の周囲の環境とは、果たして好ましいものであったのでしょうか・・?

あるいは、そうした環境に慣れて(しまい)、ここまでどうにかブログ記事作成を継続することが出来ているのでしょうか・・?

そして、今後もし何か(大きな)環境の変化があった場合、それに適応し、記事などといった文章作成を継続することができるのでしょうか・・?

・・こうしたことを考えてみますと、多少不安になってくるものです・・(苦笑)。

しかし、それと同時に、採用されれば必然的に環境が変化すると思われる大学職種の公募に応募しようというのは、これまたさきに述べた不安(環境の変化により文章作成の継続が図れるのか?)と矛盾するものではないのだろうか・・(苦笑)?

しかしながら、その前段階で、このブログ記事作成を開始した主な理由とは、自身の文章を書けなくなったことに対する適当な解決策として周囲の方々に勧められ、また自身もそれに納得、同意したことにより、それは文章作成における環境の変化への心配以前のものであることから、それ(環境の変化)が本心から自身の望む環境の変化であるならば、たとえ文章を一時的に書くことが困難となったとしても、これまでどうにか継続してきた何かしらのコツらしきものを頭よりも身体の方が記憶しており、再度何かしら(案外早く)書くことが出来るようになるのではないかと思います・・(笑)。

とはいえ、こうしたことも冒頭に述べたように、その後の検証が必要であるとは思いますが・・。

どうも、ここ最近は自身の内部に対する興味関心を述べてきてしまいましたので、今後少し趣向を変えてみようと思います・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」



20160915 理念と欲、ブログ記事作成について・・

一連のブログ記事も400記事への到達から、もうしばらく経ちました・・。

本日は多少帰宅が遅くなり、記事作成を多少面倒に思いましたが、それでもまた、何かしら作成しておこうと考え書きはじめた次第です・・。

ここまで記事作成を継続して行っておりますと、ほぼ惰性あるいは習慣となってしまっているのではないかと思われますが、たしかに双方共に間違いではないと思います・・(笑)。

また、特に前者に関してはより強くそうであると思われます・・(苦笑)。

もともと私は特に勤勉な方ではありません・・。

しかし一方において、自身の好きなことには昔から没頭するクセがあります。では、昔から没頭しているクセとは何であるかと考えてみますと、それは読書であるといえます。
それ故、その時々において自身の好んだ分野における読書とは、あまり苦にならず、ある程度の量を読み込んでいるのではないかと思われます。

しかし、その読み込んだ書籍の分野、分野があまり(世間一般における)統一性を持ったものでないため、現今のような事態(決して「悪い」とは思いませんが)を招いているのではないかとも思われます・・。

とはいえ、これらは自身としては、ある程度統一されたものであり、それぞれの分野間に結節点、移行部が存在し、それをどうにか文章にて説明しようとする試みが、この一連のブログ記事なのではないかと思われますが、さて、これらを読んで頂いている皆様に納得して頂けるでしょうか・・?

また、納得して頂いたとしても、そこから肯定的な評価を頂けるかどうかもまた、別のハナシになってきます・・(苦笑)。

しかしながら、考えてみますと、何も肯定的な評価を(より多く)得るために一連のブログ記事を作成しているわけではなく、その当初においては「とりあえず自分なりに書けることを書いていこう。」といった理由により、ブログ記事の作成をはじめたわけであり、それは現在なお特に変化しているわけではありません・・。

ただ、ブログ記事作成を継続していくに伴い、読んで頂いている方々の数が当初の予想よりも(大幅に)上回ったため、何かしらの「欲」(もっと多くの閲覧者を得たい)のようなものが出てきたというのもまた事実であるといえます・・(苦笑)。

そして、さきに記したブログ記事作成をはじめた当初の理念(「とりあえず自分なりに書けることを書いていこう。」)と、後に現れ大きくなった「欲」との争いが葛藤となり、それを通じて一連のブログ記事とは作成されている傾向があるのではないかと思われます・・。

そうしますと、これら双方(当初の理念・欲)とは、共に重要、不可欠なものであり、何れか一方により統一されることにより、案外ブログ記事の作成という一応創造的な行為とは、困難なものとなってしまうのかもしれません・・。

また、これらの矛盾するとも見える要素を一人がその内部に包括することにより、ブログ記事の作成を含めた能動的、創造的ともいえる行為が為されるというのは、特に珍しい意見でもなく、ヘーゲルの弁証法、西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一なども、大きく見れば、それに適合するのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?

しかし一方、ここで大事なことは「矛盾するとも見える二つの要素を一人がその内部に包括すること」であり、おそらくこのこの矛盾する要素の相異、矛盾の度合いが大きくなればなる程に、それを一人格が包括することが困難となり、精神に対し負荷となるのではないかと思われます・・。

そして、そうであれば、こうした負荷を出来るだけ少なくして、より大きな矛盾を包括出来ればそれで良いのではないかとも思われますが、しかし、おそらくそこには「持続可能性」といった概念があまり考慮されていないのではないかと思われます・・。

そして、そうしたところに様々な物質と人間の精神の異なる点が存在するのではないかと思われます・・。

またそれと同時に、昨今流行している人間の心理、精神に関しての問題解決型の多くの書籍とは、おそらくそうした点があまり考慮されていないのではないでしょうか?

もちろん一概にはいえないハナシではありますが・・。

とはいえ、今回もここまで興味を持って読んで頂いて、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。

2016年9月14日水曜日

20160914 羽根、鋳バリ、銅鐸の鰭飾り・・

本日の首都圏もまた天候が不安定であり、小雨が降ったり止んだりといった状態でした・・。

また、よく読まれているブログ記事を見てみますと、よく読んで頂いているようであり、本当に感心し恐縮すらしてしまいます・・(苦笑)。

これら一連の記事を読んで頂いている皆様、どうもありがとうございます。

さて、これまで投稿したブログ記事も400からいくらか過ぎ、このまま順調に記事の投稿が為されたならば500記事もそこまで遠い先ではないことのように思えてきました・・。

自分で記すのも、おかしなハナシではありますが、よくもまあ、ここまで書き続けることが出来たと思います・・。

とはいえ、こうしたことをさらに長い間されている方々も特に珍しいわけでもありませんので、あくまでもこれは主観的な思いではありますが・・。

また、本日に関しても、ここに至るまで記す題材も特に定めているワケではありません・・(苦笑)。

そういえば、本日町中にて鯛焼きの美味しそうな匂いに誘われて、少し気を付けて見てみますと、そこに「羽根付き鯛焼き」と記されており「何故鯛焼きに羽根がついているのだろう?」と思い、しばし観察してみますと、どうやらこの羽根とは、鯛焼き作成時の周りの生地によるバリのことを指すようであり、これは同様に「羽根付き」と称される餃子と同じパターンのネーミングであることが分かりました・・(笑)。

しかし「何故このバリともいえる羽根があることがブランドになるのだろうか?」と考えてみますと、残念ながら、その適当な答えは思い浮かびませんでした・・。

その一方、同じく液状の物質を型に流し込み所望の外形、外観を得る技術として鋳造が挙げられますが、鋳造においてはこうしたバリとは絶対に避けるべきものとして考えられています。

そして、その鋳造時に生じるバリの主要な原因として、
埋没材の急加熱、鋳型への衝撃、埋没材の膨張差、埋没材の亀裂などが挙げられます。

これらは総じて何らかの原因(主に埋没材の急加熱、衝撃)による鋳型内部(パターン空洞部との接続部)の亀裂によって生じるものであるといえます・・。

こうした鋳造時に生じる鋳バリとは、我が国古代(弥生時代)における銅鐸においても、見出すことが出来、また、この鋳バリを起源として装飾へと転化、進化させたものが、縁に鰭のような装飾が為された大型(後期)の近畿式銅鐸であると言われており、私はこの説が妥当であると考えております。

また、そのような製作者あるいは使用者の心のメカニズムが同様にさきに述べた鯛焼きあるいは餃子における羽根のブランド化?にも転用、応用することが出来るのではないかと思われますが、さて、如何でしょうか・・(笑)?

また、それに関連して、さきに述べた近畿式銅鐸の鰭状の装飾部(円型、渦巻き文様)のみがペンダント状に再加工され後代(古墳時代)の静岡県沼津市の遺跡から発掘、出土していることは、なかなか興味深く、これは住民の移住(近畿から静岡へ)を示唆しているのかもしれません・・。

そしてまた同様にそれは、以前当ブログにて抜粋引用しました谷川健一著の文章を裏付ける一つの要素となり得るのもしれません・・。


さきにも少し述べたが、我が国における青銅製祭器のなかで、特に我が国において特有と考えられるものが銅鐸である。

多くの場合、銅鐸はその出土に際し伴出物なく孤立し、しかも工事などの際に偶然見出されることが多い。

また、それら形状の多くは、我が国にて独特のものであり、周辺諸国に同じ形状のものがなかったことから、これを説明するため一種の仮説が立てられた。

それは現在の日本民族の祖先が渡来する以前の民族、原住民が作製したものであり、彼らが滅亡する際に、この青銅器を土中に埋め、侵入者に発見されることを避け、逃走したというものである。

しかしその後、銅鐸が他の青銅製祭器(銅剣、銅矛、銅戈など)および弥生式土器と一緒に出土、発見されたことから、銅鐸も我々の先祖が作製した弥生式文化事物の一つとして認識されるようになり、またその祖型とは中国、朝鮮半島における楽器の一種である編鐘(へんしょう)あるいは家畜の首にぶら下げる鐸(さなぎ)であるといった理解が為されるようになり、銅鐸もまたその祖型とは他の同時期の文化的事物と同様、中国、朝鮮半島より齎されたものと認識されるに至った。

銅鐸の出土分布は西日本に集中し、近畿、四国東半、瀬戸内、山陰に特に多いと云える。

また、この時代においては、後の古墳時代ほどではないにしても、実用的利器の素材としてはより有用な鉄を用いることも珍しくはなかったことから、実用的利器の素材として青銅とは、あまり重要でなかったものと考えられる。

これは九州北部を中心として四国西半、瀬戸内、山陰にて発見、出土される銅剣、銅矛においても同様のことが云える。

それ故、これら青銅祭器とは、中国、朝鮮半島から九州北部を経て主に西日本の弥生式文化圏へ伝播していったのであるが、それとほぼ時を同じくして鉄器文化もまた同様の経路にて伝来し、そこで利器素材としての価値を失った青銅とは祭器を主とした用途にしたものと考えられている。

ともあれ、一般的な世界史時代区分にて考えると、石器時代に次いで青銅器時代そして鉄器時代へと移行あるいは進化していくのだが、我が国の歴史において特徴的であることは青銅器と鉄器がほぼ同時に中国、朝鮮半島より齎されたということであると云える。

金属製品とは一般的に鍛造、圧延、切削などの方法により加工・製作されるが、その本質である優れた機械的強度により、かなり多くの労力が費やされると云える。

とりわけ複雑な形状の製品を製作する場合は困難であると云える。

そして、それを解決するための方法が鋳造であると云える。

鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、スズ、アルミニウムなどを単独あるいはそれらを合金化して用いる。

鋳造に用いる合金、金属としては青銅あるいは銅がもっとも古いとされている。

以前の記事においても述べたが古代メソポタミア(両河地方)においては紀元前3500年頃すでにその合金が存在し鋳造に用いられていた。
 
また古代エジプトにおいては紀元前2000年頃より為され、古代中国においては殷・周の時代すなわち紀元前1500年以降が青銅器時代とされている。

わが国においては弥生時代にそれらが大陸、朝鮮半島からもたらされ、またそれは鉄器伝来とほぼ同時代であったことから明確に青銅器時代として区分される時代はなかったと云える。

昨今は弥生時代の鋳造遺跡が多く発見され、その最古のものは現在のところ和歌山県御坊市の堅田遺跡(紀元前200年頃)であるとされているが、おそらくほぼ同時期の西日本、特に北部九州地域などにおいては、鋳造技術とは特に稀なものではなかったと考えられている。

弥生時代における我が国の青銅器とは当初、渡来元の朝鮮半島にて製作されたが、後代に至り製作技術が流入・定着し当時の我が国の(地域ごとの)嗜好、文化にあわせた独自の青銅器の製作が為されるようになった。

その際、我が国にて製作されたのは銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸、銅鏡などであり、それら青銅器およびその鋳型とは、これまで主に西日本各地にて出土している。

また、こうした祭器の製造とは軌を異にするものであるか未だ不明であるが、統一国家の成立に至ると鋳造技術とは、貨幣の製造(造幣)と密接な関係を持つようになる。
これはある程度普遍的な歴史発展の図式、様相ではないかと考える。

世界最古の鋳造貨幣とされるものは紀元前700年頃、リディア(現在の小アジア・トルコ共和国西側)にて製造されたエレクトロン貨幣であり、これは自然に産出された金銀合金を材料として用いている。

また中国では紀元前200年代の秦の始皇帝の時代に貨幣鋳造が国家事業として為された。

我が国においては7世紀末天武天皇の御代に製造された富本銭、707年の和銅年間に製造された銅貨の和同開珎が古いものとして有名であり、その後、天平宝字年間(700年代中頃・淳仁天皇の御代)に我が国初の鋳造金貨である開基勝宝が製造された。

鋳造を行う職人をわが国では一般的に鋳物師と呼び、古くは大宝律令において大蔵省の典鋳司(いもののつかさ)の下におかれた雑工部に十名程度の職工官が勤務していた。

後代の鎌倉時代においては各地の村々にてさまざまな農工具を鋳込んだり、寺社などの招きにより梵鐘、仏像を鋳造するフリーランスとも云える職人も存在していた(このあたりを欧州における石工と比較して考察してみるのも面白いのかもしれない・・)。

さて、具体的な鋳造技術の種類としては平板の鋳型に溶湯を鋳込む方法、上下の型を合わせ、その中に生じる空隙に溶湯を鋳込む方法、そして実物を砂で埋めその実物を抜き取った後に溶湯を流し込む方法といったものが挙げられるが、歯科鋳造とは精密さが要求されることから、その用いる材料の選択にはじまり鋳造に至るまで細心の注意が払われる。

2016年9月13日火曜日

20160912 またしても・・しかし・・

A「本日首都圏、東京都は雨が降ったり止んだりの落ち着かない天気でした。

それでも、気温がそこまで上昇しなかったため、比較的過ごし易くはありましたが・・。

さて、つい先日応募しておりました西日本在某大学の公募(任期付コーディネーター)の「採用ならず」との結果を受け、かなり落ち込みました・・。

このような時はガックリと膝の力が抜けるものです・・。

また、とりあえず面接まで進ませて頂いたのは大変ありがたいのですが、その往復交通費、宿泊代が(大変)バカにならないものでした・・。

これもなかなか辛いものです・・。

しかしながら、落ち込んでいても仕方がありませんので、今後はもう少し応募職種を精選してみようかと思います・・。

『しかし、そうすることにより、今度はチャンスを逃してしまうのではないか?』
といった不安、危惧もまた生じますが一方、始終そうした考えに捉われ日常を送っておりますと、神経が衰弱(心を病む)してしまいますので、そうした病的な方向に向かうことを避けるべく、自然と自身が(本当に)就くことを望む大学での職があるとすれば、自身がそれを見つけ応募することになるのではないかといった、見方によればいい加減な、大上段の、あるいは運命論的な考えに徐々に落ち着いていくような感じがします・・(苦笑)。

しかし一方、これを積極的に考えますと、もしかすると、現在の職務での経験を付加的に生かし、今後の自身の就くことの出来る職もまた増えるのではないかとも思えます・・(笑)。

この私とは、よくよく考えてみますと、様々な経験(だけ)はしているのではないかとも思えますが、一体どうなのでしょうか・・?

そして、こうした(変な)人間が大学組織の中に少数いることは、あながち無益なことではないと思われるのですが・・(笑)?

あるいは、これはさきに述べた願望よりも一層現実的ではないのかもしれませんが『何かしらの著述によって生計を立てることができれば、時にはイヤイヤになるかもしれませんが、継続的、能動的に努力をすることが出来るのではないだろうか?』とも、ここ最近考えてしまいます・・(苦笑)。

これに関しては、これまでブログ記事を作成してきたことにより、そのように考えることが出来るようになったのではないかと思います・・。

とはいえ、これは、これまで(主観的あるいは客観的にも)あまり面白いとは思えないブログ記事を少なからず作成、投稿しつつも、一連のそれを読んで頂いた方々がいらっしゃるからではありますが・・(苦笑)。

そしてそれ故、このブログ記事の作成を止めず、ここまで継続的に記事を作成することができました・・。

これはひとえに読んで頂いている皆様のおかげです・・。

果たして今後500記事にまで至ることが出来るのでしょうか?
また500記事に到達出来た場合、如何なる心境の変化といったものが生じるのでしょうか?

しかし、何れであれ、これもまた記事を投稿し続けないと分からないことですので、今後もとりあえずキリの良いところ(500記事程度)までは、どうにかして記事を作成、投稿したいと考えております。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


20160912 自然風土と魂の濃度・・?

A「改めて記すことではないかもしれませんが東京、首都圏は人が多いです・・。

町中でも電車の中でも、どこでも、とにかく人が多いと思います(多すぎるとはいいませんが)。

帰郷後当初はこれになかなか慣れることが出来ず難儀しましが、ここ最近は特にそうしたこともあまり苦とも思わなくなりました・・。
これは以前その場所にて生活していたからなのでしょうか・・?

さて、そうした環境にも(再び)慣れてきますと、町中や電車内などにおいて他者のことを見て考える余裕も出てきます・・。

そういえば、かつて一連のシャーロック・ホームズシリーズを熱心に読んでいた時期は、そのようなことを電車内などでたびたび行っておりましたが、現在ではかつてほど進んで、熱心にそういったことをしようとは思いません・・。
これは精神の進化あるいは退化のいずれ(の傾向)であるのでしょうか・・(笑)。

しかし、それはさておき、最近の(あまり熱心ではない)そうした観察、考察を通じて思うことは「ここ首都圏とは九州在住時に比べ天然そのまま(「に近い」も含む)の容貌、容姿といったものが少ないのではないか?ということです。

また、それと関連して先日偶然神田の古書店にて林忠彦の文庫サイズの写真集「文士の時代」を眺めておりますと、不図「この文士たちの誰かをもし、現代の電車の中で見かけたら、一体どのような観察、考察を私はするのであろうか?」といった考えが浮かんできました・・。

やはり、かつての文士、著述家とは、現代のそれに比べ、顔つき、顔貌が異なり、司馬遼太郎風の表現を用いますと「より魂の濃度が濃い」といった印象を受けます。

また、さらに以前の著述家、研究者などの顔貌もまた(現代に比べ)同様の印象を受けます。

たとえば青年時代の牧野富太郎南方熊楠の顔貌は、おそらく現代の東京、首都圏などにおいてはなかなか(到底)お目に掛かれない一種の迫力、魅力?を持っているのではないかと思われます・・。

その点、九州在住時の頃を思い起こしてみますと、老若男女共々全体的に東京、首都圏に比べ印象的(迫力・魅力)な方々が多かったように思われます。

しかし、こうした見解とは、果たして科学的な意味で妥当なものなのでしょうか・・?

そして、科学的な意味においてそれが(ある程度)妥当な見解であるとすれば、それらの間の差異を生み出す因子とは(様々考えられますが)一体何なのでしょうか・・?

あるいはまた、その差異とは、昨今のインターネットの普及に伴う、様々な情報の全国的な標準化、平均化によって今後減衰してゆく性質のものなのでしょうか?

・・私見としては、それによってあまり減衰してゆくことはないと考えます。

何故ならば、その根源には、我々が大きく変化させることの出来ない自然風土があると考えるからです。

そして、さきに挙げた青年時代の牧野富太郎、南方熊楠の顔貌にも、彼らを生んだ自然風土(土佐、紀伊)が大きく関与しているのではないかと考えさせられますが如何でしょうか?

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」








2016年9月12日月曜日

20160911 意識の流れの感知、言い換え作業・・

A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数も1000に到達しました。
興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さて、昨日は半分仕事も兼ねて東京、千代田区周辺を廻りましたが、その際、面白い書籍を(比較的安価にて)見つけ購入しました。

その書籍とは荒俣宏著の「理科系の文学誌」というものであり、偶然ながら、この著作内に取り上げられている人物の多くが、これまでに投稿した一連のブログ記事にて取りあげた人物と重なるため興味深く、面白いと感じた次第です。

しかし、そこで面白いと感じるのは「自身が面白いと感じることが出来る著作に出会うことが出来た」ということであり、具体的には「数多ある書店の書籍の中から、何故それを手に取り頁を開いたか」ということです・・。

そのように考えてみますと「こうしたことは一種の運によるものではないか?」とも考えられ、また、それ以外に如上のような現象を簡便、適当に説明する論法?とはないのではないかと思われます・・。

さらに若干、我田引水、牽強付会の観がありますが、そうした意識の流れ(の感知)が文系諸学問が持つ根源的な価値であり、またそれは一見あまり大きな意味を持つものではない(あまりにも主観的であり(他者が)感知することが困難であるが故に)とも見ることができるため、特に昨今の我が国社会においては(文系諸学問が)軽んじられているのではないかとも思われます・・。

また、こうしたことは、さきに示した著作の内容にも関連するのではないかと思われますが、前述の意識の流れ、およびその感知とは、何も文系諸学問のみに認められるものでなく、理系諸学問においても同様に存在するのではないかと思われます・・。

しかしながら、文系諸学問においては、この意識の流れの知覚、これをさらに別言すると、認識された形而上下の現象の言語化そしてその(継続的な)言い換え作業を通じて生じる現実(物質的)世界との(時折生じる)合致こそ」が重要であるため、何と言いますか、その成果の認識あるいは可視化、具現化が困難であることから、どうしても、さきのような価値判断(文系学問の軽視)へと至るのではないかと思われます・・。

そして、ここまで記していて思うことは、我々は一般的に具体的な物質的存在の認識および、その積重ねによる思考作業の方が(徹頭徹尾形而上的な思考作業よりも)容易に為すことが出来ると考えられることから、先ず理系、文系の分岐以前の中等教育あるいは高等教育初期段階において、ある程度職業につながるような専門的な技術教育を行い、そこからさきの高等教育(専門課程)の段階においても、理系、文系何れの学問分野であれ、各々の専攻とは異なった学問分野(理系であれば文系の、文系であれば理系の)にて能動的に親しむことの出来る科目を見つけておくことが案外と重要なのではないでしょうか?

そしてまた、これは大学院(研究)レベルにおいても、そのようにしておく方が良いのかもしれません・・。

しかし、その意味、価値を疑問視する方々も少なからずいらっしゃるかもしれませんが「強く弦を張りすぎた弓は切れやすい」ともいいますので、少なくとも息抜き、あるいは(ユング)心理学でいうところのコンステレーション(布置、配置)の契機ともなるのではないでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ速やかな復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月11日日曜日

20160911 岩波書店刊・バートランド・ラッセル著「幸福論」pp.54ー55より抜粋引用

「成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。
たとえば、若いうちはずっと無名であった画家は、才能が世に認められたときには、前よりも幸福になる見通しがある。
また、金というものが、ある一点までは幸福をいやます上で大いに役立つことも、私は否定しない。しかし、その一点を越えると、幸福をいやますとは思えない。
私が主張したいのは、成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる、というのである。
この災いの根源は、実業界一般に広まっている人生観にある。
確かに、ヨーロッパには、実業界以外にも威信のある階級がいる。
一部の国には、貴族階級がある。
すべての国には、知識階級があり、二、三の小国を除くすべての国では、陸海軍の軍人が非常に尊敬されている。
さて、ある人の職業が何であろうと、成功の中に競争の要素があることは事実であるが、同時に、尊敬の対象となるのは、ただ成功することではなくて、何でもいい成功をもたらしたすぐれた資質である。
科学者は、金をもうけるかもしれないし、もうけないかもしれない。しかし、金をもうけたほうが、もうけない場合よりも余計に尊敬されることは、絶対にない。
有名な将軍や提督が貧乏だからといって、だれも驚きはしない。それどころか、こういう境遇での貧乏は、ある意味では、それ自体一つの名誉である。
こういう理由で、ヨーロッパでは、純粋に金銭のために競争し奮闘するのは、一部の階級だけに限られているし、しかも、そういう人たちは、たぶん最も有力でもなければ、最も尊敬されているわけでもない。
アメリカでは、事情が異なる。陸海軍は、彼らの尺度では、影響を及ぼすほどの役割を国民生活において果たしていない。
知識階級について言ば、ある医者が本当に医学のことをよく知っているかどうか、あるいは、ある弁護士が本当に法律のことをよく知っているかどうか、部外者にはさっぱりわからない。だから、彼らの価値を判断するには、彼らの生活水準から推定される収入によるほうがやさしい。大学教授について言えば、彼らは実業家たちに金で雇われた使用人であり、そういうものとして、もっと古い国々で与えられているほどの尊敬を受けていない。こうした事態の結果、アメリカでは、知的職業にたずさわる人は、実業家のまねをし、ヨーロッパにおけるように独自のタイプを作っていない。それゆえ、アメリカには、裕福な階級のどこを見まわしても、金銭的な成功のための露骨な容赦ない闘いを緩和するものは、何ひとつない。」

20160910 筑摩書房刊・山田風太郎著 「秀吉はいつ知ったか」pp.243ー249より抜粋引用

榎本武揚はまさしく英才であった。少年時、昌平黌に学び、青年時、海軍伝習所に学んだというのだから、現代でいえば東大を出て、防衛大学を出たようなものだ。そして二十代後半の五年間をオランダに留学した。当時おそらく近代兵学、近代科学についての素養において、彼の右に出る者はなかったであろう。その自負ゆえに、彼は帰朝して早々にぶつかった幕府崩壊の嵐の中にひとり屈せず、幕府艦隊を率いて五稜郭に立てこもり、官軍に猛抵抗して徳川の侍の最後の意気地を見せた。その壮絶さが官軍の参謀黒田清隆を感心させ、箱館戦争終結後、みずから坊主になってまで叛将榎本の助命に奔走するという美談を作り出した。降伏後、牢から出た榎本は、以後海軍中将に任ぜられ、ロシアや中国の駐在公使、外務、海軍、農商務、文部等の大臣を歴任する。元幕臣、しかも新政府に対する叛将というハンディキャップを持つ人間としては稀有の栄職である。いかに彼が有能であったかがわかる。ただ、きれるだけでなく、榎本は快男児であった。
五稜郭の戦いのみならず、オランダへゆくとき、ジャワ海で嵐のために船が難破して名も知らぬ小島に漂着し、海賊船に襲われたが、かえって日本刀をつらねて海賊たちを制圧し船を出させたという逸話、海軍卿時代、隅田川に海軍の汽艇二隻を浮かべ、芸者を満載してドンチャンさわぎをやったという快談、ロシア駐在公使の任を終えたとき、まだ鉄道もないシベリアを馬車で横断して帰国したという冒険など、あたかも武侠物語の主人公の観がある。しかも写真で明らかな通り、日本人は珍しいほどの颯爽たる美丈夫である。まさに人物、風貌、男の中の男といっていい。この榎本武揚にして、私の見るところでは、その人生において重大な二つのミスをした。人生のミスはなにも彼にかぎったことではないが、いかにも武揚らしくないミスである。ミスというより、誤判断だがー。
一つは、例の福沢諭吉の「痩我慢」問題に見られる福沢との鞘当てである。
明治三十四年(1901)、福沢諭吉は「痩我慢の説」という文章を発表した。実に福沢が死ぬひと月前のことである。彼は、国家も個人も痩我慢が大事である。平時において大国に対して小国が独立を保つのも痩我慢の精神、戦時において国敗れんとするも最後まで全力をあげるのも痩我慢の精神だとして、維新時なお戦う力があるのに幕府を売ってしまった勝海舟を嘲罵した。兵乱のために人を殺し、財を散ずる禍いを軽くしたかも知れないが、一国の士風をそこなった罪はそれより重いとしたのである。さらに、それはなお許すとしても、維新後、勝が新政府の栄爵の地位を得るのは何ごとか、と弾劾した。
そしてまた彼は、ほこさきを榎本武揚にも向ける。
榎本が、すでに滅亡した徳川武士の意気地を見せようとして五稜郭で戦ったのはまさしく痩我慢の見本であっぱれなふるまいだ。たとえ敗れて牢に投じられたとしても、勝敗は兵家の常ととがむべきではない。しかし、そのあとがいけない。
「氏が放免の後に、さらに青雲の志を起こし、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服する能わざる所のものなり」
と、福沢は言い、榎本よ、君はいま青雲の志をとげて安楽豪奢に余念がないかも知れないが、夜雨秋寒くして眠る能わず、残燈明滅独り想うのとき、五稜郭で君に殉じて戦死したいくたの部下たち、またそのあとに残されて路傍に彷徨した母や子たちを想像して腸を寸断されることはないか、と述べ、榎本のいま世に処すべき唯一の路は、坊主となって死者の菩提を弔うか、そうでなければせめて世間の耳目から隠れてひっそりと生きるべきである、と断案を下した。
実はこの文章を公開する前に、福沢はこれを勝と榎本に見せ、これについて何か言いたいことがあれば言え、という手紙を送った。
維新時まっさきに両刀を捨てた「平民」福沢諭吉から、「士道」についてのこの公開状をつきつけられて、勝海舟のほうは、行蔵は我に存す、毀誉は我に関せず、そのまま公表されても毛頭異存なし、という風のような返事をよこし、榎本のほうは、目下多忙、そのうち愚見を述べる、と、ぶっきらぼうに言って来たが、それだけで、以後何も言って来なかった。実は福沢の文章を読んで、彼は真っ赤になって激怒したといわれる。
この「痩我慢の説」は明治三十四年に発表されたのだが、実際は十年前の明治二十四年に書かれたもので、それはその年福沢が興津に遊んだとき、そこでの清見寺の境内に建ててある一つの石碑を見たからである。明治元年(1868)八月、榎本は幕府艦隊をひきいて北海道へ向かったが、途中房総沖で暴風のために艦隊四散する難に遭った。
その中の一隻咸臨丸清水港までおし流されたところを官軍方の攻撃を受け、おびただしい死者が海に浮かんだままになった。それを土地の遊侠清水の次郎長なるものが一々ひろいあげて、ひそかに葬った義挙を伝えるための石碑であった。
咸臨丸は福沢が、勝艦長とともにはじめてアメリカへ渡ったときの船である。
「それからの咸臨丸」の悲運に万感をもよおしながらこの記念碑を見た福沢諭吉は、その裏面に、「人ノ食ヲ食ム者ハ人ノ事ニ死ス。従二位榎本武揚」と彫りこんであるのに気がついて、帰京後たちまち「痩我慢の説」の筆をとり、かつその内容をひそかに勝と榎本に示したのである。榎本の文字は徳川に殉じた侍たちを悼んだものだが、福沢は、徳川の禄を食みながらついに徳川のために死ななかったやつが、えらそうに何を言うか、という心情を勃然と発したのであった。そして、これについては福沢と榎本の間に、明治の劈頭早々に、次のようなただならぬいきさつがあったのだ。
明治二年(1869)六月、降将として箱館から東京に送られた榎本武揚が辰ノ口の牢獄にいれられたまま、それっきり消息が絶えてしまったのを、榎本の老母や姉たちがひどく案じているといううわさをふと耳にした福沢諭吉は、榎本とは一面識もなかったにもかかわらず、榎本の最後の勇戦ぶりに感心していたこともあって、義侠の人肌をぬいだ。
彼はひそかに武揚が牢で健在であることを調べて家族に知らせてやり、牢獄に書物その他を差し入れてやり、はては武揚の母に代わって助命嘆願まで書いてやり、さらに黒田清隆と相談して触法運動に奔走さえしたのである。ところがである。やがて釈放された武揚は、この福沢の労にまったく酬いることがなかったのだ。どうやら出獄後、礼のあいさつにさえゆかなかったらしい。福沢の尽力のことは家族から聞かなかったはずがない、-いや、それどころか彼自身獄中で、福沢から差し入れられたオランダの化学書も受けとったのに、これに対して彼の感想は、「実は、この方一同、福沢の不見識には驚きいり申し候。もそっと学問ある人物と思いしところ存外なりとてなかば歎息いたし候。これくらいの見識の学者にても百人余の弟子ありとは、我が邦いまだ開化文明のとどかぬこと知るべし」と、姉宛の手紙に書いたようなものであった。榎本は、福沢から差し入れられた化学書があまり初歩的なものであったので、かえってむっとしたのである。彼の語学力、また西洋知識についての自信は絶大なものがあった、自分の履歴についてのプライドは天より高かった。おそらく、直参、最初の留学生、徳川艦隊司令長官のコースを経た彼は、九州の小藩の下級武士出身で、いまは市井に塾をひらいているだけの福沢という男が、自分のために多少の奉仕をしてくれようと、町人が殿様に犬馬の労をとってくれたぐらいにしか思わなかったのではあるまいか。」
秀吉はいつ知ったか
ISBN-10: 4480433031
ISBN-13: 978-4480433039
山田風太郎





2016年9月10日土曜日

20160909 コーヒーについて

A「本日もまた、ある程度長い距離を徒歩にて移動したと思います・・。

とはいえ、昨日(20160908)ほどの湿気ではなかったため、多少楽ではありましたが・・。

また、丁度昼時に神田周辺の某個人経営のコーヒー店にてコピ・ルアクをかなりの安価で限定販売(10杯)しており、これを幸運にも飲むことができました(本日最後の1杯であったそうです)。

本当に美味しいのであろうかと思い飲んでみますと、たしかにコンビニエンス・ストアのコーヒーに慣れている私にとっては格別の美味しさであり、短い時間ではありましたが満喫することができました・・。
そして、コーヒーも豆によって大分味に違いがあることを再認識しました・・。

そういえば、コーヒーといえばかつて九州在住の折、特に福岡市街には(センスの良い)個人経営のコーヒー店が少なからずあり、週末の書籍持参の散歩の際は、かなりお世話になった記憶があります・・。

もしかすると、こうした個人経営のコーヒー店の数およびその質とは、その都市の文化水準を測定する要素となり得るのではないでしょうか・・(笑)?

そして、この意見がある程度妥当であるとするならば、少なくとも福岡市はなかなかのものであるのではないかと思います。

また、それに加え、コーヒーに関して最近思うことは、コーヒーを飲んでいる時の方が、こうしたブログの文章を書く際において、割合スムーズに書くことが出来るのではないかということです。

そうしますと、コーヒーに何かしらの精神に及ぼす影響、作用があるのではないかと思われますが、たしかにコーヒーを飲むことによる文章作成への影響、効果とは、あると私は考えます・・。

そうしますと、フランスの作家オノレ・ド・バルザックは、その著作執筆の際コーヒーを大量に飲んでいたと伝えられておりますが、この行為も無理なく理解することができます・・。

さらにまた、私の師匠のお一人(歯科理工学)も学生時代に自分専用のコーヒー・ミルを所持されていたと何度かお聞きしたことがありますが、この師匠もまた、多くの著述をされております。

私は師匠から、このお話しを伺った時、森見登美彦著「太陽の塔」内での記述のようであると返答した記憶がウッスラとあります・・。

そして私もこれまである程度(たいしたことでもありませんが)継続的にブログ記事を作成してきましたが、これもある程度コーヒーのおかげであるのかもしれません・・(笑)。

とはいえ、無論、これを為さしめている最大の要因とは、これまで投稿した一連の記事を読んで頂いている皆様がいらっしゃることではありますが・・。

しかし、ここではそれはさておき、そうしますと、コーヒーには何と言いますか一種、麻薬的な効果があるのかもしれません・・(笑)。

そして、もしかすると私はその中毒ではないかとも思われます・・(まあ、それでしたら私以外にもいくらでもいらっしゃるとは思いますが・・(笑))。

ともあれ、コーヒーとは我々が普段何気なく飲んでいるものではありますが、我々の精神およびそこから発せられる様々な事物に対し、少なからぬ影響を持っており、またそれ故に時折美味しいコーヒーを飲むこととは、あながち悪いことではないと思われますが、さて如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年9月8日木曜日

20160908 このような天気の日には・・

A「本日首都圏は雨が降ったり止んだりを繰り返し、なんとも落ち着かない、よく分からない天気でした・・。
また、それと同時に気温は普通に上昇したため、やけに蒸し暑く感じました・・。

こうした天気、気温の日は何ともいえず疲れます・・。

とはいうものの、本日も何かしらブログ記事は作成しようと思い、記しはじめた次第です・・。

また、400記事の投稿から既に10記事以上記しており、この調子にて投稿し続けますと、案外近いうち(10月半ば過ぎ頃)に450記事まで到達してしまうのではないかとも思います・・(笑)。

また、このように書いておりますと、不思議なことに450あるいは500記事もそこまで大きな数字、目標(年内中?)であるとは思えなくなってきます・・(笑)。

とはいえ、それを構成するものは、ほぼ毎日呻吟しつつ記し続けている一つ一つのブログ記事であるのです・・(苦笑)。

こうしたことを考えてみますと、少なくとも私とは、ほぼ無意識ながら、そうしたこと(全体と個別)を判断する基準といったものを複数持っているのかもしれません・・。

しかし、それらの判断基準を適宜、場面に応じて用いているかと考えてみますと、それは大変難しい問題であると思います・・。

また、上に記したように、自身の内心、内面に対し疑問を呈する(自身の(ほぼ)無意識を意識の対象とする)ようになりますと、何だか心身が疲れてくるのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかし、これは若い頃には、ある程度、深く味わっておいた方が良い感覚ではないかとも思われます。

その意味において、私はあくまでも全面的に反対するわけではありませんが、成年がマンガ(のみ)を読んだり、スマホのゲームに興じたりする傾向とは、あまり良いものではなく、そうした意識の集中の仕方により彼ら、彼女等から何か大切な感覚を奪い取られているような感じを受けます・・。

また、それと多少関連すると思われるため記しますと、先日、不図観ていたテレビ番組にて、出演していた芸能人が、ある現象について解説をしていた研究者に向い「その現象をマンガにして説明しなさい」といった意味のことを述べているのを観て少し眉をひそめました・・。

こうした現代の社会とは、かつてに比べ、その精神あるいは、その基盤となる感情が多少なりとも劣化しているのではないかと考えさせられます・・。

そして、こうしたことを考えてみますと、社会一般において、何らかの宗教といった非合理的側面を良しとする側面を持つ考えが存在しないと、こうした傾向とは、是正されることなく、強化される一方であるのかもしれません・・。

しかしながら、我が国においては古くからの社会に根差した宗教、観念的基盤といったものが存在せず、現世的価値観のみを重視する極めて此岸的な社会であることから、こうした主張とは、結局のところ「空気を読まない意見」、「引かれ者の小唄」といった評価が為されるのが妥当であるものと考えます・・(苦笑)。

本日のようなよく分からない天候の日には、上のようなつまらない考えが出てくるようです(笑)。

とはいえ、本日もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の今後の出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして復興を祈念いたします。」