2017年12月18日月曜日

20171218 『言語の限界が世界の限界であるとすれば、その他は一体何なのか?』

本日の首都圏は日中も気温があまり上がらず、足の方から冷え込むような寒い一日でした。

またブログ記事に関しては、これまでの総投稿記事数が843記事であり、あと7記事の投稿により年内の達成目標である850記事に到達することが出来ます。

一方、年内余すところ12日程度であり既に2週間を切り、そして残りの7記事もまた出来るだけ早めに作成・投稿したいと考えていますので、今後も出来るだけ記事を作成出来る時は作成・投稿していきます。

また、そうしたいわば粗製乱造的とも見做し得るスタンスではあっても、どうした原因によるものか、多くの方々に読んで頂ける記事とは時折は作成されるようであり、そこから、こうした状況もまたそこまで悪くないとも思われる次第です・・(苦笑)。

さて、本日明け方の暗い頃に一度目が覚めた際、何やら面白い歴史についての大きな意見・仮説が脳裏をよぎったのですが、こうしたワクワクするような仮説とはここ最近ご無沙汰であり、昨今はどちらかというと電車内・就寝前に書籍を読みつつ既知の知見から少しずつ新たな知見を加えていくといった、どちらかというと地味な作業に近いものが多いと云えます。

それ故、本日朝に一瞬脳裏をよぎった意見・仮説とは多少惜しく思われ『その場にて即座に録音できるような機器さえあれば・・』とすら思われました。

とはいえ、そうしたものは往々にして『逃した魚は大きい』とも捉えられがちではありますが、本日早朝のそれに関しては、再度それが脳裏をよぎったならば、その尻尾を捉え、そしてその姿を言語にて著すことが出来ると何故であるか分かりませんが確信出来るのです・・(笑)。

おそらく、こうしたところにある程度の期間ブログ記事を作成してきたことが精神の内奥にまで達していることが示されているのかもしれません・・(本当か?)。

そしてそこでヴィトゲンシュタインがその著書『論理哲学論考』にて述べた『言語の限界とは世界の限界である。』といった意味合いのコトバが想起されるわけですが、言語を洗練させる・鍛錬するといった行為とは、おそらく人により多少の偏差があるのかもしれませんが、あまり早急に知覚・認識出来るようなものではなく、概してかなり緩慢なる発育過程を辿るのではないかと思われるのです

それ故、あまり個々人の性質・特性に基づいた能動性に裏打ちされているとは云えず、単に社会における功利性・有用性に基づいたとも見做し得るネガティブ・ケイパビリティー(処理能力)の促成的な発達のみを企図する傾向があると云える我が国の教育とは、ゼロからの出発といった状況である場合(敗戦後のような)は都合が良いのかもしれませんが、そうした社会基盤・制度に基づく社会とは一度繁栄に至った後の経時的な劣化が著しく、あるいは発展持続性が乏しいのかもしれません【社会主義に基づく社会にもまたそうした性質があるのかもしれません・・】。

加えて我が国の場合、古来よりの普遍的な道徳観念などもまたありませんので・・。

それらに関してはまさしく見かけ倒し(ハロウィーンにしろクリスマスにしろオリジナルの国々から見れば結局そうであるように思われる。外国の方々が神社らしきものを即席に拵え参拝するような様子を見たとしても、彼らが神道に帰依しているとは到底思えないのと同じ。)であり、また我が国においては、実のところ見掛け倒しであることの方が諸事都合が良く好まれるのかもしれない・・(苦笑)。
【そうした背景にある重い思想・観念などは絶対にイラナイ!理解したフリでただ楽しければそれで充分!といったところが本音ではないでしょうか?】

そして、その意味からも我が国の特性とも云える即物性・此岸的性質を(抽象的・彼岸的方向へ多少なりとも)昇華させるためにも先ず当初においては言語とその指し示す実体的対象が明瞭である諸学問分野への更なる注力・人員の再配分等が為されるのが適当ではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った
諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。