2023年5月28日日曜日

20230527 ブログ2000記事到達に際して

当記事の投稿により、総投稿記事が2000に到達します。当ブログをはじめてから約8年ほどで2000記事の投稿と考えてみますと、その期間は、10日間のうち6~7日は1記事投稿してきたことになりますので、私としては思いのほかに継続したのではないかと思われます。とはいえ、現在、当記事を作成していても、感興や感慨のようなものは皆無と云えます。

また、以前、当ブログにて自分にとって転機となった南紀での経験を述べてみたいという考えから作成した【南紀について】は比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、大学関係者の方々で、新たな医療介護リハビリ系の専門職大学あるいは科学技術大学院大学などの設置を検討されていましたら、南方熊楠が後半生を過ごした口熊野とも呼ばれる紀伊田辺は、南紀白浜温泉にもほど近く、風光明媚であり、教育・研究の環境として悪くないと思われますので、類似した環境と云える紀伊半島南部の東側の新宮と併せて是非、ご一考頂ければと思います。

さらにもう一つこじつけますと、紀伊田辺・新宮双方から通じている熊野本宮大社の主祭神は、家都御子神または家都美御子神(けつみ(み)このかみ)ですが、実は、これは出雲系の神である素戔嗚尊のことであり、この神は、木の国だけに樹木の神であると同時に、穀物の神でもあることから食の神とされています。そして実際に紀州・和歌山は、鰹節や醤油などの我が国の食文化には欠かすことの出来ない食材の発祥の地であり、さらに伝統食品である梅干しの生産量もダントツの首位であることから、語義通り、日本の味のルーツが今なお息づいている地域であると考えます。

そして、前段が幾分長くなってしまいましたが、こうした文化的背景を持つ地域に、食材の専門家である管理栄養士を主軸として、それに関連する職種と云える歯科衛生士などの医療介護リハビリ専門職を養成する学費が安価な高等教育機関(専門職大学)を、ある程度の規模の病院など医療機関がある紀伊田辺・新宮双方に設置しますと、西日本・東日本双方の受験生にも対応出来て、とても良いのではないかとも思われます。

そして、それら専門職大学では、各々専攻する専門職の養成課程科目と語学課目とは別に、各学生さんの内発的な興味に即した人文系の自由研究科目を必修として、それを在学期間を通じて学び続けるようなカリキュラムにすることにより、これまでとは少し異なった知的背景を持つ専門職の方々を養成することが出来るようになるのではないかと思われるのです。

以前、当ブログにて自らのことを「私は課程博士を修了した初めての歯科技工士ではないか?」と述べましたが、その路程は兄の死や、指導教授(師匠)の予期せぬ退職などが重なり、それなりに辛いものでしたが、同時に歯科理工学実習にて鋳造や鑞付けを担当させて頂き、2012年からは教授も准教授の先生もいない状況下にて、実習書や教科書に記載の情報以外は、人文系ネタを随所に散りばめつつ実習を進めることが出来たことは、自分の性質に合っていたのか強く記憶に残っています。

学生さんとしては、実習にて30歳過ぎのオッサンの本能と知性が噛み合って駆動している様子を、何やら「おかしなもの」として見ていたのではないかとも思われます・・。実際、私が人文系ネタを話しながら、実習手順や使用材料などについて説明していますと、後ろから小声で「民明書房刊・・」と聞こえたこともありました・・(苦笑)。

しかし他方で、自分としては最も多く人文系ネタを散りばめた実習を行った2012年度の実習後から2013年初旬にかけて、どうしたわけか、休日での市内の散歩や、喫茶店での読書の際に、実習時に担当した学生さんから話し掛けられることが何度かありました。

若い女性が町なかで、数度の面識しかない中年男性に話し掛けることは、あまり一般的な行為ではないと思われますので、ありがたいことであるのか、ともあれ、少なくとも危険視はされていなかったのではないかと思われます・・(笑)。

また、そこでの会話のさなかに、性懲りもなく人文系ネタを話してみても興味深そうに聞いて頂き、また、私としても、その都度のご質問にも、あまり逸らさない返答が出来たのではないかと記憶しています・・。

そして必修である実習以外の場面で、自分が話す人文系ネタを面白そうに聞いて頂けたり、それに対しての質問などの知的な反応を頂いたという経験は、それまで人文系を背景とする歯科技工士の大学院生として、あまり良い目を見たことがなかった私としては、それなりに画期的、いや革命的なことであり、以前にも述べましたが、そうしたいくつかの経験が複合的に作用して、今回の2000記事達成に至るのだと云えます・・。

とはいえ、であるからと云って、私はその学生さん達に恋慕しているわけではありません。おそらく、彼女等の多くは、鹿児島弁でいうところの「よかおごじょ」らしく、比較的早くに結婚されて、現在は子育てをされているのではないかと思われます。しかし、それらの方々が10年前の学生時代の実習時に、変なことを話していて「何だか面白そう・・」といった感じであるのか、町なかで話し掛けた中年男性は、8年近くかけて2000記事のブログを作成程度のことはしたということで、各々の「見る目」のご参考にして頂ければと願うところです・・。

おかげさまで(どうにか)2000記事に到達することが出来ました。そして今後はしばらく記事作成を休もうと考えていますが、また思いのほか案外早い時期に再開してしまうのではないかとも思われます・・。

そして2000記事到達となる今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



















2023年5月24日水曜日

20230523 異郷での経験や読書による変化から【南紀について②】

先日の投稿記事を含め、これまでに何度か当ブログで述べてきたことではありますが、私は当初、全く気乗りしなかった南紀白浜への転勤により、それまで知らなかった「西日本」という異文化の中で住むことになり、そこで否応なく強い違和感を感じたわけですが、ある程度若い時分でのそれは、多くの場合、特にとり挙げるまでもなく、生活のなかで、徐々にその土地に慣れて、順応していくのだと思われますが、私の場合、こうした違和感を、知識や、さまざまな実地見分によって解消しようとしていたのだと思われます。そして、こうした能動的な活動をしばらく続けていますと、徐々に私の方に変化が生じてきました。

他方で、同じ時期、しばしば、文系の師匠が、ご自身が執筆された論文やその他文章の別刷りなどに加え、クラシック音楽のCDなども送ってくださることがあり、私は、それに触発されて紀伊田辺の書店で面白そうな書籍を物色したり、あるいはアマゾンで購入して、西欧文化や近現代史に対する興味を自分なりに深めていましたが、当時、私が在住していた南紀では、それらの分野を学び、深めることは困難であると考えて、身近にある興味を持つことが出来そうなものを探したところ、ご承知のように、銅鐸や古墳に興味を持つようになったと云えます。

とはいえ、興味を持つとは云っても、それまで私は、考古学や古代史を専攻したことはなく、紀伊田辺の書店で面白そうな関連著作を探していたところ、それまでに多少は見聞きした記憶がある「南方熊楠」という人物の関連著作が少なからず棚に並んでおり、そのうちの読み易そうな著作を何冊か手に取り読んでみたところ、当時の私でも「何だかよく分からないけれどもスゴイ人物だ・・。」とは理解出来、そして、そうした人物が何故、後半生をここ紀伊田辺で過ごしたのかということも興味を持つようになりました。

実際、南紀在住期間に幾度か、紀伊田辺の市街地から少し外れた高山寺にある南方熊楠のお墓にお参りに行きました。この高山寺には、紀伊田辺出身の合気道の開祖である植芝盛平のお墓もあります。また、和歌山県出身の作家である津本陽氏による植芝盛平をモデルとして主人公とした小説「黄金の天馬」には、南方熊楠が登場しています。

やがて、当地の遺跡を扱った著作として、保育社刊「日本の古代遺跡」シリーズの和歌山編を古書で入手しました。当著作には古墳など遺跡の場所が記された地図が掲載されており、それを参考にして実地見分に赴くことがありましたが、実際に訪れてみると、遺跡の存在が確認できない場合もしばしばありました。さらに、当時はインターネットで各種情報を容易に入手することができなかったため、記載の地図通りに進んでいるはずであっても、よく不安を感じていました・・。

また、他の趣味もありましたが、こうして書籍などを探して読んだり、あるいは時々師匠が送ってくださるさまざまな印刷物を読んでいますと、どうやら私は、自分が興味を持つ分野のものであれば、比較的難しい書籍でも、どうにか読むことが出来ると分かり、そこから「やはり当初の希望通り、どこかで人文系の大学院に進んだ方が良いのではないか・・?」とひそかに考えるようになりました。

しかし、そこで大事であると思われることは、当初私はヨーロッパ文化を研究したかったのですが、南紀での生活により、前述したような我が国の地域文化・歴史についての興味を持つようになり「それを専攻として、さらに深めることは出来るだろうか?」と考えるようになったことですが、これにつきましては、やはり必然と云うよりも偶然であったのではないかと思われます。

そして、そこから、一般的に我々が考える「計画通りにものごとが進むことは良い」という視点からは、あるいは受容することは困難であるのかもしれませんが、こうした偶然の出来事や、制御が困難な出来事に(どうにか)対応することによって、あるいは当初の計画よりも、さらに創造的な未来を見出すことも出来るのではないかと思われるのです。それ故、我々日本人は、太平洋戦争で完敗を喫しましたが、それでも、自らの国の本物の歴史や文化に対して、内発的な興味を持ち続けることが、思いのほかに大事であるか、あるいは、それなりに意味があるのではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

















2023年5月22日月曜日

20230521 嗅覚と味覚の記憶から思い出したこと(南紀について①)

昨年10月に罹患した新型コロナウイルス感染症から回復して以来、ほぼ通常の日常生活に戻っていますが、嗅覚と味覚に関しては、以前よりも鈍くなったように感じられます。特に食べ物があまり美味しく感じられなくなったことが気になりましたが、他方で最近は気温が上昇し、天候も良くなり、活性が上がってきたためか、また少し復調しているように感じられます。ただし、これはマスクを外す機会が以前よりも増えたためであるのかもしれません。そのため、この感覚の変化については、今しばらく意識して推移を見守りたいと思います。

さて、嗅覚と味覚に関して印象深いことを挙げますと、以前に何度か当ブログにて述べたことがありましたが、2001年春に北海道から南紀白浜に転勤した時のことが思い出されます。北海道と比べて南紀の環境はあたかも別の国に来たかのようでした。その南方的とも云える横溢とした植生や自然環境、そして、そこからくる大気の薫りは非常に濃厚なものであり、在住後しばらく経っても新鮮に感じられました。また、そうした経験から、地元の食材を使った料理は、その土地で料理して食べることにより、本来の美味しさを味わえるのだと思うようにもなりました。さらに南紀白浜温泉には、複数の源泉があり、それぞれ泉質や香りも若干異なるため、慣れてきますと嗅覚を通じて、それらの違いが分かるようになりました。

また、南紀白浜温泉は総じて海に近く、私が勤務していた白良荘グランドホテルも白良浜に面していました。そしてその従業員駐車場は、白良浜北隣の半ば半島状である権現崎の近くにありましたので、当時はほぼ毎日、どこかで波の音を聞きながら生活していたと云えます。当初は首都圏に戻りたいと始終思っていた私でしたが、若かったこともあってか、徐々に南紀の環境にも慣れてきて、次第に感覚や価値観も変化していったのだと思われます。

やがて落ち着いてきますと、近隣にあるさまざまな史跡などの来歴・背景についても宿泊客に対して、ある程度は説明できるようにということもあり、それらの説明文などを読み、さらに興味深いと思われた事がらについては、休日、紀伊田辺に出向いた際に書店で立ち読みしつつ書籍を探したり、あるいは当時普及しつつあった「アマゾン」で見つけて購入するといったことをしていました。

また、それら書籍で興味深い記述を見つけますと、食事や買い出しなどの外出の際に、記述にあった史跡などを実地見分するといったことも度々していました。とはいえ、そうした興味は、まず最初に現実の史跡などの存在が先立ちます。つまり、実際に何かの史跡なりを見て興味深く感じるようになり、そこから関連する著作を探すといった流れでしたが、私の場合、その一つの起点にあったと思しき記憶に残る史跡は、さきに述べた白良浜北隣に位置する権現崎に鎮座する熊野三所神社内の火雨塚古墳です。

それまで古墳とは、上空写真から見る巨大な前方後円墳のようなものばかりであると思っていましたが、この古墳の墳丘径は10m程度であり、外から羨道を通じて玄室内をも臨むことが出来、これを初めて見た時、古墳であることは分かりましたが、しかし、それが人々が日常往来する領域である神社内にあること、そして、それが樹木や草に覆われながらも未だに古代の墳墓であることが分かるように存在していることにいたく驚かされました。

そうして当地でしばらく生活をしていますと、次第に、さきの熊野三所神社を含む多くの神社は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがその著作「日本の心」内で述べているように

『神道の「やしろ」は、通常の意味での寺院ではなく、むしろ「死者の霊が出入りする部屋」や「霊の部屋」と呼ばれるべきだと思います。なぜなら、多くの神々は実際には霊であり、立派な武人や英雄、統治者、人々の師として存在して、千年以上も前に生きて愛し、そして死んだ人々の霊だからです。そのため、神道のお宮や社の不思議な性格を西洋人に伝える際には、お宮や社を「shrine」や「temple」と訳すよりも「ghost-house」と訳した方が意味がよく伝わるのではないかと思います。』(要旨)

といった性質が基層にあることを自然に理解出来るようになっていくと思われるのです。そして、私見としては、こうした感覚は、旅行など短期間の滞在では得ることが難しく、その地域で何度か四季を過ごし、地域の大気や植生や湿気のようなものを嗅覚や味覚などの感覚を通じて、知らぬ間に身に着いていくのではないかと思われるのです。そして、そうして得られた感覚を土台として、その地域のことを学べば、さらに知らないことが分かるのではないかと思われた頃に東京へと転勤となりました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。
















2023年5月18日木曜日

20230518 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「競争の原理の作動」pp.70-73より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

中国・朝鮮式の儒教的専制国家ならば、皇帝の専制の手足になる大官はことごとく皇帝親裁の試験で採用されるのだが、日本では藤原氏を中心とする血族団体ー公卿ーがそれを担当する。この点で、致命的な失格である。だから日本史上、中国やヨーロッパの皇帝に相当する強大な権力ー朕ハ国家ナリという式ーをもった天皇はついに出現せず、原理的に出現できないしくみになっている。

 さらには土地公有も、すぐ失敗した。

 荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがって、ついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。

 平安中期ごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。

 要するに、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけたということであり、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することはできなかったということである。

 ひらたい例でいえば、山田である。明治期に日本にきた中国の有力者が、瀬戸内海を東航する船のなかから島々のてっぺんまで耕された山田をみて、

「耕シテ天ニ至ル、貧ナルカナ」

 といったという。この中国人の日本認識がいかに浅薄なものであったかといえば、山田を競争の原理の象徴としてとらえなかったことである。村々の百姓たちは弥生時代から明治以来にいたるまで、他家より一段でも多く田畑をもちたいがために、地理的に耕作しがたい土地まで開墾してわずかでも生産の収穫を得た。この競争の原理が武士を発生せしめ、さらにはくだって競争をすべて悪として停止せしめた江戸体制時代にあっても、開墾と干拓ばかりは諸藩が競争してそれをやった。たとえば長州藩のごときは三十六万九千石の石高でありながら、江戸初期以来瀬戸内海岸の干拓をつづけてきたために幕末にあっては実収百万石といわれた。その収入をもって換金性の高い殖産事業をおこし、幕末ではほとんどあたかもヨーロッパの産業国家のような観を呈した。いまの山口県の一つの収入で、洋式陸海軍をもち、さらに京都における革命工作のためにばく大な費用をつかい、つづいて戊辰戦争(一八六八)の戦費をまかない、それでもなお戊辰戦争終了後に古金(慶長小判など)八万両を持っていたという。この藩はその半分を新政府に献金している。要するに日本に競争の原理があったからだろう。

 中国・朝鮮式の専制体制は、競争の原理を封殺するところにその権力の安定をもとめた。その体制の模範生だった朝鮮の農村には、競争の原理というものが伝統としてない。そのために朝鮮の老農夫はだれをみても太古の民のようにいい顔をしており、日本人の顔に共通した特徴とされるけわしたがない。

 明治期の中国や朝鮮の農村からみれば、江戸期の競争による蓄積をへてきた日本の農村はーとくに西日本にあってはーたしかに富裕であった。五十戸の字には三戸の富農があるといわれたのは、「耕シテ天ニ至ル」という式の競争のおかげであった。

 山を田畑にするというのは百年の単位でのしごとで、大変な手間が要る。たとえばその山鹿が禿山である場合、下草をうえて土をやわらかくし、次いで竹木を植えて雨が浸みこむようにし、やがてそれが流れになって段畑でうけとめる。という手間を経なければならない。土地を公田にすることによって人民に競争心をうしなわせ、そのうえに立って儒教的秩序による皇帝専制の官僚体制をつくりあげた中国や朝鮮では、そういうことまでして田畑をひろげようとする衝動が農民の側にない。ひろがればそれが公田になるだけなのである。

 江戸期いっぱいの日本の農村はまずしいというのは、ヨーロッパとの比較においてのことで、東アジア的なレベルでの比較では富裕であったというべきだろう。維新成立後、農業国家でしかなかったこの国が、わずかに生糸を外国に売る程度の収入で、すぐさま東京大学をつくり、同時に陸海軍をつくることができたのは、東アジアの他の国からみれば魔法のようにしかみえなかったにちがいない。雄藩の基盤になった西日本における農村の比較的な意味での富裕を見おとしているからであろう。

 さらに競争の原理を内部的にもたない当時の中国・朝鮮式体制にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。外国の侵略という不幸な外圧によってようやく倒れるわけであり、言葉をかえていえば、体制内における薩長的存在というものをみとめないために、他から倒されるほかない。

2023年5月17日水曜日

20230517 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.470-472より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.470-472より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが?人殺しをするための道具じゃろうが?味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。うんと余計殺したほうの国が勝つとじゃ。それが戦争よ。それが戦地の軍隊よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争をするとか。そげなバカはなかろうもん?そんなら敵ちゅう敵は殺して殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。見てみろ、四国やらどこやらじゃ百姓どもが、水もろくに引かれん山の上んほうまで田圃作りをしてふうふう言うとるちゅう話かと思や、対馬に来てみりゃ山ばっかりの、どこちゅうて満足にゃ田も畠もなかじゃろうが?対馬だけのことじゃないぞ。だいたい大日本帝国の暮らしちゅうとは、そげなもんよ。大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。・・・ふむ、それが忠義ちゅうことにもなっとろうが?臣民の義務ちゅうことにもなっとろうが?誰が決めたとか、おれはよう知らんが、そげなことになってしもうとる。ー違うか。おぉ?」

 大前田は、問いを投げて口をつぐみ、野砲のすぐ真うしろまで十一、二歩ずかずかと前進した。ちょうど四番砲手が「目標。」という号令に応じて立ち上がったときのように、彼は両足を左右一歩間隔に開き、わずかに前に倒した上半身の両手で照準棍副木を握ると、中央射界をきっと注視する形になった。問いにたいするわれわれの返答を期待したふうでもなく、彼は、その姿勢で鳴りを静めた。

 私は、彼の「違うか。おぉ?」を聞いて、「いいえ、違いません。」と答えねばならぬような気持に強く突き動かされながら、皆とおなじように何も言わなかったのであった。彼の激情が赴くままにぶちまけられたであろう戦争哲学は、それなりに一本立ちの風格を持っているとみえた。「耕スコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、貧ノ極ナリ。耕サザルコト山腹ヨリ山巓ニ至ル、亦貧ノ極ナリ。」というような内容を実際的に語った彼の農民的着眼にも、私は、感心せずにはいられなかった。彼が知らぬにちがいなかろうその成句を私は知っていたけれども、そしてまた津阪東陽著「薈瓉録」(化成度(ほぼ十九世紀第一四半分)脱稿?)中の「対馬ハ米一粒出来ザル地ナリ、鮮米ヲ以テ国中ノ食トス、今モ交易シテ取来ルナリ、「三国志」ノ「倭人伝」ニ、「対馬ノ国ハ土地山険ニシテ良田無シ、舟ニ乗リテ南北ニ市糴ス。」トシルセリ、此方ノ人ハ却テ知ラズ、彼方ニテハ筆マメニ書伝フルヲ以テ三国ノ時ヨリ既ニ知リテアリ、「聖ハ知ヲ得ル」ト謂フベシ。」という記述を読んで覚えていたけれども、対馬なり四国なりの実地に立脚して大前田のごとく端的な感じ方・見方をすることは従来私にできなかったのである。まだ多くの何かを吐き散らさねば彼は治まらないのであろうか、と私は、斜めうしろから彼の頑丈な軀幹を打ち眺めて想像していた。この間、神山上等兵は、さりげなく行動を起こして、北側三個分隊の最左翼まで退却しおおせた。

「違わんじゃろう?違やせん。」大前田は、数呼吸ののち照準棍からの両手を放し、くるりとまわりの東面の仁王立ちになって、彼の設問にみずから答えた、「違おうが違うまいが、どっちでもおれはあんまり構わんぞ。構やせんが、そげんことになっとる。それじゃけん、百姓しとりさえすりゃええはずのおれまでが、人殺しに召し出されて、足かけ四年も支那三界をいのちからがらうろつきまわらにゃならんじゃったとじゃ。やっとのことで生きて帰って来りゃ、一服したかせんかに、またありがた涙の零るるごたぁる二度の、いんにゃ、二度じゃなか、三度じゃ、三度の御奉公ちゅうわけで、いまごろは麦踏みでもしとるどころか、こげな海ん中に持って来られて、遅かれ早かれ南方要員にまわさるる身が、おんなじ軍隊の貴様たちから、あさましゅうめずらしがられとる。引き合やせんぞ。何がめずらしいか。

2023年5月16日火曜日

20230516 株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」 pp.29-31より抜粋

株式会社筑摩書房刊 森 浩一著「日本の深層文化」
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480064761
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480064769

倭人伝は、正しくは「三国志」魏書烏丸鮮卑東夷伝の倭人条の俗称である。俗称とはいえ、日本人にはよく知られた言葉であるので、以下は「倭人伝」とする。

「倭人伝」には、日本列島の北西部、とくに九州島の北西地域での中国人(帯方郡の役人)の見聞が記録されている。日本列島全域の見聞ではないけれども、三世紀代の貴重な情報がえられる資料である。中国歴代の史書のなかでも、日本列島のことえお地域に即して記述することに努め、それにある程度成功した貴重な史書であり、地理書でもある。

 ここで問題としたいのは、「倭人伝」では海での生業については、航海のことや漁労のことがくり返し述べられているのに、広い意味での農耕関係、とくに稲作についての描写がとぼしい。

「倭人伝」が描く時代は、厳密に時間との関係でいえば初期お古墳時代にさしかかっている気配はある。ただし人びとの生業や生活については、”弥生時代後期的な稲作を基盤とした社会”とみるのが通説である。だがこの通説は、考古学者がいだいている常識であって、「倭人伝」の記述からの結論ではない。以下検討しよう。

 倭地での帯方郡使の見聞は旅行の目的どおりの順で記事が作られている。まず朝鮮半島南部と九州島のあいだの対馬海峡にある対馬国が描写されている。この国(島)の記述は、地形や土地利用などが簡にして要を尽くしていることについては、ぼくは昔から指摘している。

 ”良田なく、海物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴している”とある。

”良田なく”を読んで、”水田がないとか乏しい”とおもっては駄目である。この文は中国人の文章、前にふれたように中国でいう田には日本でのハタケも含まれている。いずれにしても、良田がないので”海産物で自活している。だがそれだけでは生活にはならず、船に乗って南の九州島方面や北の朝鮮半島方面に市糴している。”市糴は厳密には穀物の買い入れだが、ぼくはこの個所ではもう少し意味をひろげて交易とみたほうがよいと考えている。対馬国からさらに南の海中に一支国がある。中国の三、四世紀ごろの金石文(銅鏡に多い)には漢字の減筆がよくおこなわれている。例えば「仙」を「山」にしたり「鏡」を「竟」とするようなことである。その観点では、一支は壱岐の減筆とみられ、一支国は今日の壱岐島であろう。

 ここでは、”田地は少しあるが、田を耕してもなお食べるのに不足するから、やはり南北に市糴している。”このことは対馬島よりは農耕しやすいが、それでも盛んとはいえないという意味であろう。

 一支国(島)のあと末盧国(古代の松浦、唐津市を含む臨海の地域)や伊都国の記述になるが、農耕関係の記事はない。

 伊都国は福岡県前原市域とその周辺で、古代の日本側の史料にも伊斗、伊覩、怡土などと同じ地名が別の表記でよくあらわれ、確実に土地の比定はできる。

 注意を要するのは、「倭人伝」では伊都国の描写に費やした字数は112字で、地域描写では第一位である。このことは伊都の地名に都がついていることと無関係ではなく、新井白石が「古史通或問」で説くように、女王国の都があったとみてよかろう。伊都国王もいたが女王国の都でもあった。室町時代の京都に天皇と将軍がいたのに似ている。都だったから、主な記述が政治や外交についてのもので、農耕などの生業の記述はない。

2023年5月15日月曜日

20230515 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋

株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.57-59より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061490397
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061490390

かつて私たちのまわりにも、いたるところに闇があった。深い闇があった。山は昼でも暗く、森蔭には黒々とした闇が隠れていた。町の通りは暗く、夜の空には満天の星の背後に底知れない闇があった。

 人の住居もまた暗かった。玄関も、座敷も、納戸も、はばかりに、物置きも、屋隅には昼間から闇がひそんでいた。とっぷり日が昏れると、たちまち墨を流したような一面の闇につつまれた。

 闇の中には何がいただろう。そこにはあきらかに死者がいた。見えない死者の群れがいた。暗い通りや、玄関や、庭をとおり抜けるとき、私たちは子ども心に、何よりも死者を思った。死者を連想し、死の観念におびえて足がすくんだ。

 ゲルマン神話には死者の赴く闇の国がある。戦いで倒れた者たちのいるヴァルハラでは、毎朝、死者たちが起きあがって武器をとり、戦いに出ていく、夕には800人ずつが一列になり、6400の門をとおってもどってくる。

 闇には、闇の兄弟がいる。闇を材質とする堕ちた天使たち、災いをなし、苦しみをひきおこし、悪をなして、死をもたらす黒天使たち。

 私たちのまわりから闇が追い払われてすでに久しい。いまやどこもかしこも眩いばかりに明るいのだ。町の盛り場は夜を知らない。どの家にも部屋ごとに電気じかけの光学機械があふれている。山野にゴルフ場の照明がつっ立ち、夜はナイターのための時間帯に下落した。

 闇を駆逐した。ついては私たちは、同時に何かも喪失したのではあるまいか。ひそかに生者を見はっていた死者の群れ、死の観念を失った。死にしたしまずして、どうして生を尊重できるだろう。外界の闇はまた、自分のなかの闇の部分の警告ではなかったか。息を殺して自分のなかにひそんでいる黒々とした悪の部分。おのれのなかの悪を知らずして、どうしてこの世の悪が識別できようか。おそかれ早かれ私たちは駆逐したはずの闇の力の報復を受けるにちがいない。

2023年5月14日日曜日

20230514 ブログ記事作成についての工夫から思ったこと

つい先日、当ブログの総投稿記事数が1990に到達し、その後も2記事投稿しましたので、2000記事の到達まで残り、当記事を含めて8記事の投稿を要することになりますが、この目標達成まであと少しというところで、ここ数日の不安定な気候といった環境によるものであるのか、本格的なスランプとまでは行きませんが、何やらブログ記事の作成が疎ましく思えてきました・・。

しかし、であるからと云って記事作成を行わないと、目標としている2000記事まで到達出来ませんので、記事作成を行うため環境を変えるべく、久しぶりに喫茶店に入り、そこでノートを開き、使い慣れたペリカンの万年筆を準備して、あまり考えずに書き始めてみますと、意外なことに比較的滑らかに文章は書かれていくのです。しかし、その書かれた文章を現在、判読を試みますと、なかなか難しいところもあり、また、その文章自体も、当ブログの記事として投稿出来るものであるのかは難しいように思われます。

そして、そのように考えた主な原因は、先述のノートに記した文章は何と云いますか、あまりにも「即物的」な文章であったと思われたからです。具体的にはノートに「・・席に着きノートを開いて向かうと、こうした文章は割にスラスラと出て来るようである。そして、ここまで書き進めることが出来たのは、先ほど、あまり考えずにペンを持ちノートに向かったからではあるが、であるからと云って、そこで作成された文章が、そのままでブログ記事に出来るかは、また別問題と云える。」と書いていましたが、ここで、その部分を実際に引用してみますと、たしかに物理的にはブログ記事の一部にはなりましたが、私としては、やはり、この引用部は当ブログの文章としては、未だに何か違和感を覚えてしまいます・・。他方で、久しぶりに、こうした行為(ノートに手書きした文章をPCで入力する)をしますと、さきの違和感も実のところ、そこまで意味を持つものではないことも、かなり以前でのブログ記事作成で経験して知っていたことが想起されたことから、こうした方法は、これまでにも種々試みており、そして現在では(すっかり)忘れてしまっていることもあるのでしょうが、本格的なスランプ状態に陥ることなく、記事作成を継続出来るように、色々と試みることは、さきの思い出すという観点から、それなりに意味があるように思われるのです。

そして、そのおかげで、当記事は、どうにか、ここまで書き進めることが出来ました(笑)。以前のほぼルーチンとして記事作成を行っていた時期であってもスランプはしばしば(慢性的に?)ありましたので、その際も、さきのように自分なりに考えて、ブログ記事作成を続けてきましたので、そうした折に経験した、記事作成に関する少しの工夫(場所を変える・ノートに書くなど)は、前述しました「想起」からも理解されるように、ある種「身体化」されていたのではないかとも思われるのです・・。

そして、文章作成に関して、これまでのブログ記事作成により半ば無意識ながらも蓄積された「何か」をさらに励起させて、今後、何かに役立たせることは出来るのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




20230513 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.6-8より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.6-8より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

長閑な、輝かしい一日が静かに暮れようとしていた。水面はなごやかにかがやき、雲一つない空は澄み切った夕映に、広々と微笑みかけている。エセックスあたりの沼沢地の薄靄までが、なにかまるで薄織のように照り映えながら、木深い丘脈をこめ、低い河岸を透きとおった襞模様に押し包んでいた。ただ西の方、上流河区の空を垂れこめた暗雲だけが、まるで太陽の接近を怒るかのように、刻一刻その暗澹さを加えていた。

 やがてついに、動くともない曲線を描きながら、陽が低く傾いた。そしてその大都市の群集の上を垂れこめた暗雲に触れると、頓死でも遂げたかのように、みつみつ白熱の輝きから、光も熱もない鈍赤色に変って行った。

 と、まもなく河面にも変化が起った。水面は艶やかな光沢を失うとともに、いっそう沈痛な澄明さを加えて来る。何千年か、両岸に住むあらゆる種族に豊かな余沢を恵んで来た老大河は、いまや落日の下に漣波一つ起らず、はるか地の果てまでつづく水路の威厳を誇るかのように、眼路のかぎり広々と静もり返っていた。いわば高徳の長者ともいうべきこの河の流れを、われわれは、ただ来ては去る短い一日のあざやかな夕映えの下に眺めていたのではない。もっと悠久な記憶をとどめた荘厳ともいうべき光の下に眺めまわしていたのだ。敬虔と愛とをもって「海に生きてきた」ものならば、あのテムズ河の下流河区を眺め渡して、それが持つ過去の偉大な精神を思い浮かべないものはあるまい。不断の恩沢をもたらしながら、あるいは故郷の安らかな休息へと、あるいはまた海の戦いへと、数知れぬ人と船とを載せて送った、そのさまざまな想いで出を秘めたまま、いまもなおたえまなく満干をくりかえしているのだ。サー・フランシス・ドレーク(1540-1596。英国の航海者、スペイン無敵艦隊を撃破す)の昔から、サー・ジョン・フランクリン(1786-1847。英国の北極探検家 第三回目の遠征に消息を絶ち、極地に死す)に至るまで、この国民のもって誇りとする海の騎士たちーそうだ、彼等こそ真の騎士だったのだ。爵位の有無など、それがなんだーを、この河はことごとく知っているばかりか、身親しく奉仕して来たのだった。

 かつてこの流れの運んで行った幾多の船、それらこそは、時という闇黒の中にまるで宝石のように光を放っている光栄の名前なのだ。円々と膨れ上がった船艙に数々の財宝を充して帰り、かしこくも女王陛下に親しく訪問の光栄をえたあと、そのまま偉大なる海洋発展史物語の上から姿を消してしまった「金鹿」(ゴールデン・ハインド)号(前記ドレイクの乗船、世界一周した最初の英国船)をはじめ、新たなる征服を目指して船出し、-ついにふたたび帰らなかった「エレバス」、「テラー」の二船(前記フランクリンが最後の遠征に用いた船名)に至るまで、流れはすべてそれらの船を知り、人を知っていた。デッドフォドから、グリニッジから、そしてエリスから、-冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たちー彼等はすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは文化の炬を携えて、すべてこの流れを下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者、それにしても未知の国々の神秘へと、この河の退潮が載せて行ったもののいかに大きかったことだろう!・・・人類の夢、社会の胚種、そして帝国の萌芽!

 日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。

2023年5月13日土曜日

20230512 1990記事に到達して思ったこと・・

おかげさまで昨日の記事投稿により、総投稿記事数が1990に達しました。そして、当記事を含めてあと10記事の投稿により、当面の目標としている2000記事に到達します。しかし、現時点においては、あまりその実感もなく、これまでと同様、何やら書き連ねているといった感じしかありません。あるいは、さらに数記事ほど追加投稿しますと、この感じも変わってくるののかもしれません・・。そこで、以前、2018年に1000記事に到達した際の記事「20180526 1000記事の到達、多く読んで頂いた記事について」を読んでみますと「今回の記事投稿により総投稿記事数が1000に到達します。しかし、それに対しての感慨・感興はほぼ皆無であり・・」と述べており、それよりも、少し先のブログ開設から丸3年となる6月22日までのブログ記事作成を目指していたようです。

そこから2000記事到達まで10記事程度にまで迫った現在の状況を考えてみますと、やはり冒頭に述べたとおり、実感はなく、今後、2000記事に到達したとしても、しばらくはマラソン後のクール・ダウンのように、6月22日まではブログ記事を作成し続けるように思われます・・。

そして6月22日まで続けましたら、また何か異なった感慨でも湧いてくるのではないかとも思われたため、また同じく1000記事到達後、ブログ開設から丸3年となった2018年6月22日の記事に目を通してみますと「残念ながら、そうした感覚・実感はこれまで同様皆無であり、また多少なりともの感興といったものありません」と述べており、ここでもさきと同様に感慨などはなかったようです・・。

とはいえ、かれこれ8年近くブログ記事の作成を継続していますと「事務的に」とは云いませんが、特に感興などなくとも、(どうにか)記事作成は出来るようにはなってきました。また、それら記事の内容に関しましては、あまり文章の洗練などは考慮せずに、当時の考えを比較的率直に述べている記事が多かったのは、1000記事到達の少し前の2017年末頃から2018年春頃までの時期であったように思われます。その後、2020年以降からはコロナ禍や、2022年からは第二次宇露戦争もあり、当ブログの作成に関しても何かしら変化があり、特に2020年春以降、コロナ禍にて緊急事態宣言が発出された際は外出もままならず、家からあまり出ない(出れない)状況で一連の「架空の話」の作成がはじまりました。この「架空の話」は今現在また休止中ですが。2000記事まで(どうにか)無事に到達することが出来ましたら、あらためて続きを作成してみたいと考えています。また、これにつきましては、作成の波に乗ることが出来れば、しばらくは継続して作成することが出来るのではないかと思われるのです・・。

上述の「継続して作成」から思い出されましたが、過日二回にわたり作成しました我が国の横穴式石室の古墳を題材としたブログ記事は、思いのほかに閲覧者数が伸びました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。こちらの題材については記事作成が出来ると思われますので、近日中に作成・投稿したいと思います。これまでに作成した我が国の古墳を題材としたブログ記事は、私の場合、和歌山、南紀在住期間に、その原点があったと云えます。この原点での感覚がなければ、その後の知見の獲得、そして、それらの自分なりの体系付けなどは出来なかった思われますので、この感覚については、これまでにも何度か当ブログにて記事として作成・投稿してきましたが、またあらためて述べることにより、これまた自分なりに新たな発見があるのではないかとも思われます。

さきの古墳についても同様ですが、何かの歴史などについて述べる文章の作成も楽しく感じられることがありますが、如上のような独白形式で述べていく文章もまた、少し間を置いて作成してみますと、これもまた楽しく感じられることが新たに分かりました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2023年5月11日木曜日

20230510 中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋

中央公論新社刊 佐々木雄一著「陸奥宗光-「日本外交の祖」の生涯」pp.200-203より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025091
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025098

陸奥の外交の巧みさというのは、例えば、周到に手を打ち、大義名分を失わないようなかたちで清との戦争に持ち込んだことに求められる。「蹇蹇録」には、外交上は被動者の位置を占めつつ軍事上は常に機先を制そうとした。大鳥圭介駐清公使に対し平和的対応というときの臨機の処分という表裏二個の主義を含む訓令を授けた、日本の共同朝鮮内政改革案を清が拒むのはわかっていた、などと書かれている、あたかも、事態が陸奥の想定通りに動き、事前に用意していた策がことごとく当たっているかのようである。

 林董は、あるとき、大をなした政治家というのは門閥の背景がなければあとはみな戦争の勝利によって台頭したと語り、それを聞いた陸奥は頭を傾けてしばらくして、「ヤッテ見ようかネ」と述べたという。そして、明治27年6月に朝鮮に兵を送るとなった際、陸奥、林、参謀次長の川上操六が集まり、いかにして平和にことをまとめるかではなく、いかにして戦いを起こしていかにして勝つかの相談をしたとする。つまり、陸奥としては初めから清と戦争を起こすつもりで、それに向けて着々と策を講じたという話である。林は、首相の伊藤は平和志向なので陸奥と川上が共謀してだましたことまで述べている。伊藤が混成旅団の規模を知らないことにつけ込んだというのと、旅団の派遣として決定して実際には混成旅団を出したというのと、二種類の回顧談で若干内容が違うが、ともかく、伊藤は派遣兵力が2~3000人であると誤認して7~8000人の派兵を決定したというのである(「後は昔の記也」)。

 こうした陸奥の外交姿勢に対し、帝国主義的であるという批判は数十年前からあった。あるいはさらにさかのぼると、強硬な軍・国内の圧力を受けながらなんとか外交を指導したというかたちで陸奥を評価する見方もあった。こちらは、軍の力が強まっていた昭和戦前期の時代状況を反映した見解である。百発百中の巧みな外交と捉えるのと、帝国主義外交と批判するのと、軍の圧力と渡りあった外交と評価するのは、それぞれまったく異なる議論のようだが、いずれも、陸奥が明確な方針や展望を持って整然と外交をおこなっていたというイメージは共通している。おそらくそれは、一般的に受け入れられている「陸奥外交」のイメージでもある。

陸奥外交の実像

 それに対し、実は近年の研究ではむしろ、こうした「陸奥外交」のイメージを崩すような陸奥論の方が盛んに唱えられている。例えば、条約改正交渉で失敗を重ねて行きづまっていたため、それを打開するべく日清開戦に持ち込んだとか、あるいは、朝鮮への派兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだったと指摘されている。「蹇蹇録」の記述に多くの脚色やウソがあることもわかってきている。

 また日清戦争自体、なぜ、どのような力学で始まったのかということについて、この30年ほどの間、学会では定説がない。そのなかで有力視されてきたのは、対清協調論者の伊藤首相が強硬な国内世論に押されて対決姿勢に転換したから、という見解である。それは必ずしも陸奥に対する評価の問題ではないが、コントロールされた外交、開戦、といったイメージとは異なる日清開戦過程の説明がなされているのである。 

 こうした、誤算と方針転換に満ちた日清開戦過程という近年の見方は、ある面で正しい。先々の展開を見通して次々に的確な判断を下していったと捉えるかつての「陸奥外交」像は、過大評価である。ただ、百発百中の見方を否定して、全体的に失敗が続いたかのように論じるというのもまた、極端に振れすぎている。

 陸奥は、限られた経験と情報に基づいて刻々と変化する情勢に対処していたのであって、ときに失敗や誤算が生じるのは当然だった。そのうえで、近代日本のさまざまな政治・外交指導者と比較して、このときの陸奥の情勢分析や各局面における判断をどのように評価できるかと言えば、それはやはり、総じて的確であった。「陸奥は速断し、時として当り、時として誤る。誤りて窮地に陥り、之を脱する際に最も才能を発揮す」という陸奥評がある(「同時代史」)。そのあたりが、陸奥万能論的なかつての「陸奥外交」像とそれに対する批判を越えた先にある、等身大の陸奥の日清戦争指導の姿である。

2023年5月10日水曜日

20230509 昨日の続き、横穴式石室について

元来、横穴式石室は中国で紀元前4-5世紀ごろにあらわれた「磚槨墓」という埋葬施設を起源としています。「磚」とは、レンガのような焼き物のブロックのことであり、これを積んで玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)をつけたものが磚槨墓です。以降、中国での王侯や貴族層の標準的な埋葬施設として微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐の時代まで続きました。

一方、朝鮮半島では、紀元4世紀頃、まず、中国に接している北部の高句麗に、この埋葬様式が伝わりました。それは当地特有の石積みの方墳に横穴式石室を採用したものであり、当初は墳丘上部に玄室を造営していましたが、5世紀代に至ると、地上と同じ高さに玄室を造営して、それを丸い土の墳丘で覆うようになり、全体的に墳丘は小型化しました。こうした玄室の造営場所の変化は、約1世紀後の横穴式石室が伝来した我が国においても見受けられました。

朝鮮半島で高句麗の次に横穴式石室が伝わったのは朝鮮半島南西部に位置する百済でした。それは4世紀後半頃であり、当初は高句麗と同様、石積みの方墳が採用されました。やがて百済においても、横穴式石室に小墳丘を被せた円墳へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、あらためて中国南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墳墓として造営されるようになりました。その意味で、6世紀前半に造営された百済の武寧王の陵墓は、その最高峰であると云えますが、墳丘は大きくはない円墳でした。

高句麗や百済と比べて、中国からは遠くに位置する新羅や伽耶での横穴式石室の採用は5世紀後半から6世紀前半と、やや遅れます。他方で面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、当地特有の積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変化する際に、その造営場所も、王都である慶州から、その周辺各地域へと分散する傾向があるのです。そこから、横穴式石室の採用とともに、新羅においても日本列島と同様に造営の原則が、中央への集中から、本貫の土地での造営へと変化していく様相が看取できます。

日本列島において横穴式石室が造営されるようになるのは、九州北部では4世紀末期と、比較的早い時期であると云えます。しかし、それが在来の伝統的な竪穴式石室との折衷といった、いわば中途半端な段階から、地上の高さに玄室が造営され、墳丘も小型化して、名実ともに横穴式石室の葬送思想へ転換したのは、朝鮮半島辺縁に位置する新羅や伽耶と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半のことであり、さらに、それが東日本、東北地方南部にまで達して普及するのは6世紀後半のことでした。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
横穴式石室の起源は、中国で紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設です。この埋葬施設は、レンガのような焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものです。以降、中国では王侯や貴族層の埋葬施設として、微妙に形を変えながらも7-8世紀の唐代まで続きました。

朝鮮半島では、中国に接する北部の高句麗が最初に、この様式を取り入れ、4世紀頃には石積みの方墳に横穴式石室を採用しました。また初期には、墳丘の上部に玄室を造っていましたが、5世紀代に入ると、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せ、墳丘全体としては小型化しました。このような玄室の造営場所、墳丘の大きさの変化は、約1世紀後の我が国においても見られました。

百済では、高句麗に続いて4世紀後半頃に、この様式を採用し、当初は高句麗と同様に石積みの方墳でしたが、やがて土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化しました。そして5世紀後半になりますと、南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになりました。

新羅や伽耶では、さきの高句麗や百済よりも遅れて、5世紀後半から6世紀前半に採用されました。また面白いことに、新羅の王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向がありました。そして我が国においても、さきの新羅と同様、横穴式石室が採用されたことで墳墓の造営原則が中央集中から、本貫の土地での建設に移行する変化が見られました。

日本列島での横穴式石室は、4世紀後半に、九州北部にて造営されるようになりましたが、当初は伝統的な竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていました。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃の5世紀後半から6世紀前半にかけて、元来の横穴式石室の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。さらに、これは6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
横穴式石室の起源は、中国において紀元前4-5世紀に現れた「磚槨墓」と呼ばれる埋葬施設である。この埋葬施設は、焼き物のブロック(磚)を積み上げて玄室を造営し、そこに出入口となる通路(羨道)を設けたものである。その後、中国においては、微妙に形を変えながらも、王侯や貴族層の埋葬施設として、7-8世紀の唐代まで続いた。

朝鮮半島においては、最初に、中国に接する北部の高句麗が4世紀頃に、石積みの方墳に横穴式石室を採用し、地上と同じ高さに玄室を設け、その上に丸い土の墳丘を被せた。その後、百済でも高句麗に続いて4世紀後半頃に、石積みの方墳から土による小さな円形の墳丘を被せた横穴式石室へと変化し、さらに南北朝時代の南朝からの強い影響を受けて、磚積みの精巧な横穴式石室が、王侯の墓として造られるようになった。

新羅や伽耶においては、高句麗や百済よりも遅れて5世紀後半から6世紀前半に横穴式石室が採用され、新羅の場合は、王侯の墳墓が、積石木槨墳から小型の横穴式石室の墳墓へと変わるときに、造営場所も、王都である慶州から周辺地域へと分散する傾向があった。

日本列島においても、4世紀後半に九州北部にて横穴式石室が造営され始めたが、当初は竪穴式石室との折衷的な段階に留まっていた。しかし、新羅や伽耶のような朝鮮半島での辺縁地域と同じ頃、元来の横穴式石の葬送思想へと変化して、地上に玄室が造営され、墳丘も小型化していきました。そして、6世紀後半頃には東日本や東北地方南部にまで伝播しました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2023年5月8日月曜日

20230507 紀州・和歌山での特徴的な横穴式石室の造営様式から

一般的に、我が国の古墳造営様式は、はじめに弥生時代以来の墓制を継承したカタチで竪穴式石室が発達して、それが各地へ伝播しました。

その後、4世紀末頃に朝鮮半島・中国大陸から北部九州に新たな古墳造営様式である横穴式石室が伝来、そして列島を東漸して、6世紀に至ると東日本や東北地方南部にまで達しました。

竪穴式石室と異なり、横穴式石室は、玄室と羨道によって構成され、羨道は古墳外へとつながっています。この造営様式により、数世代にわたり、複数の遺体を同じ墓(玄室)に葬る「追葬」が可能になり、これが一般化していきました。

また、双方の造営数についても、全国的に後期古墳を特徴付ける横穴式石室の方が圧倒的に多く、その背景には、おそらく、どの地域であっても、安定した支配体制が確立して、また安定した食糧を含む各種生産が可能になると、ある程度手が込んでいて、さらに追葬も可能な(ある意味合理的な)造営様式(横穴式石室)での墳墓の造営が盛行するといった様相があるように思われます。

これを異言しますと、地域の支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が大幅に増加し、それに適応した墳墓の造営様式が横穴式石室であったのだと云えます。

こうした現象は、これまでにも何度か述べてきました紀州・和歌山においても概ね同様であり、彼の地においては、現在の県庁所在地である県北部の和歌山市およびその周辺に横穴式石室を造営様式を主体として、いくつかの古墳群を形成して、総数1000基程度の古墳があります。対して県全体での古墳の数は1600基程度とされていることから、およそ県全体での古墳総数の三分の二ほどが、和歌山市とその周辺に存在していることになります。

この横穴式石室を主とする和歌山市および、その周辺での古墳の造営様式は、当地ならではの特徴的な点がいくつかあり、それは、中央構造線もしくは紀ノ川流域にて多く採られる緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、さらに玄室内には同青石を用いた棚か梁状に懸架したものが多いことで、こうした特徴を持つ古墳は、県内有数の横穴式石室を主とする古墳群である岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

くわえて、興味深いことは、前述のように本来、中央構造線あるいは紀ノ川流域(南岸)にて採掘される緑泥片岩(青石)を用いた同様の造営様式を持つ古墳が、奈良県北部の生駒郡平群町や、紀ノ川(吉野川)流域からほど近い現奈良県の複数地域からも見つかっており、それぞれの地域には、かつての紀州北部(現和歌山市およびその周辺)を治め、また、さきの「岩橋型横穴式石室」の有力な造営主体と考えられている紀氏との繋がりを示す地名や神社などが残っているため、おそらく、これらは当時のヤマト王権に何らかのカタチで出向していた紀氏に出自を持つ方々の墳墓であったのではないかと思われます。

やがて、そうした故地との繋がりが希薄になり中央官僚化した流れも出てきて、そこから文人として知られている紀長谷雄や同紀貫之が出てきたものと思われます。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
日本の古墳造営様式は、最初は弥生時代以来の墓制を継承、発展させた竪穴式石室が一般的でした。その後、4世紀末頃には横穴式石室が大陸から伝わり、6世紀代に至るとこれが一般化しました。横穴式石室は玄室と羨道で構成され、羨道は古墳の外に続いています。これにより複数世代の遺体を同じ墓に埋葬する「追葬」が一般化しました。横穴式石室の方が全国的に見て圧倒的に多いのは、ヤマト王権による支配体制の安定化により、新たに古墳を造営できる人々が増加して、それに適応した墓制が横穴式石室であったためと云えます。

和歌山市とその周辺には、県全体での古墳総数の三分の二ほどが存在し、その主体である横穴式石室の古墳の多くには特徴的な点があります。それは当地特産の緑泥片岩(青石)を板状に加工したものを積み重ねて玄室、羨道を造営し、玄室内には同じ青石を用いて棚か梁状に懸架したものが多いことです。そして、この造営様式を主体とする古墳は、市内にある岩橋千塚古墳群から「岩橋型横穴式石室」と呼ばれています。

同様の造営様式を持つ古墳は、奈良県北部の平群町や紀ノ川の上流である吉野川流域の複数地域からも見つかっており、そこから、それらの被葬者は、同地の豪族である紀氏に出自を持つ人々であった可能性があります。また、紀氏には、中央官僚化した流れもあり、そこを出自とする文人として紀長谷雄や紀貫之が挙げられます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











2023年5月6日土曜日

20230505 2000記事への到達が現実味を帯びてきて思ったこと

今回の記事投稿により、総投稿記事が1987に到達します。そうしますと、残り13記事の投稿にて当面の大きな目標としていた2000記事に到達出来るのですが、同時にこの目標は、来月6月の22日に当ブログ開始から丸8年となるまでに達成出来ればとも考えていることから、今後、45日程度のあいだに13記事の投稿を要することになります。そうしますと、概ね3~4日に1記事の投稿で良いということになりますので、これまでの投稿頻度から考えますと、そこまで苦痛であるとは感じられません。むしろ「多少楽過ぎるのではないか?」とも考えられることから、さきに挙げた目標に少し変更を加えて、今月中での2000記事到達を目指します。そして、その後もクール・ダウンのように、投稿頻度などはあまり考慮せずに6月22日まで、なおもブログ記事作成を継続してみたいと思います。

1980記事あたりまで(どうにか)達しますと、これまでは現実感が乏しかった2000記事への到達もいくらかは現実味を帯びてきます。そこで「では、その後、当ブログはどうするのか?」へと思い至るのですが、さきの変更を考慮しますと、おそらくは2000記事以降も、しばらくは記事作成を続け、2000記事丁度で止めることはないと思われてきます・・。また、キリの良い投稿記事数で止めることには、あまり意味はないとも思われますので、その後も、これまで通り、あるいは、これまで以上に休みを入れつつも、ブログ記事の作成は、少なくとも、しばらくは継続することになるのではないかと思われるのです・・。

そして、さきの現実味に基づいて、今後6月22日までに2000記事以上の投稿が出来たと想定してみますと、それまでの8年間は、10日間のうちで6~7記事を投稿してきたことになりますので、それなりに頑張って継続したのではないかと思われます。

また、2018年に1000記事まで(どうにか)到達した際には、その後、2000記事まで作成するとは全く考えていませんでしたので、現時点ではあまり考えたくはないですが、その後また、3000記事まで継続してしまうのではないかとも思われるのです・・。

とはいえ他方で、昨今はChatGPTのような、ある意味驚異的とも云えるAI技術も普及してきましたので、これまで簡単には作成出来なかった、ある程度の長さの文章をオーダーにより瞬時に生成出来るようになり、そして、その文章に加筆修正を行うことにより、こうしたブログ記事作成は以前よりも、(かなり)容易に出来るようになったと云えますので、あるいは今後、(どうにか)2000記事まで到達出来て、その後もしばらくはブログ記事作成を続けることになりましたら、その時にはChatGPTを利用しつつも、ChatGPTでは生成困難と思われるような知見・見解をいくらかは含んだブログ記事の作成を目指してみようとも考えています。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
この投稿により、ブログの総投稿記事数が1987に達します。そして、残り13記事の投稿で、当初の大きな目標であった2000記事に到達できます。同時にこの目標は、来月6月22日に当ブログが開始されてから丸8年となるまでに達成することも目指しています。そのため、今後45日程度で13記事の投稿が必要となります。そして、その間での具体的な投稿頻度を3〜4日に1記事とすると、そこまで苦痛ではないと云えます。そこで投稿頻度を増やし、5月内での2000記事到達を目指し、そして、その後、当ブログ開始から丸8年となる6月22日までは継続する予定とします。つまり、この変更を考慮しますと、2000記事到達以降も、しばらくは記事作成を続け、キリの良い投稿記事数には拘らず、適度に休みを入れながらも、ブログ記事の作成はしばらく6月22日までは継続することになると思われます。また、これまでの約8年間は、10日間で6〜7記事を投稿してきました。2018年に1000記事に到達したときには、その後、2000記事まで続けることは考えていませんでした。さらに昨今は、ChatGPTのような驚異的とも云えるAI技術が進化発展し、瞬時に文章を生成できるようになりました。そして、そうした文章に加筆修正することにより、ブログ記事作成は容易になると云えます。そのため(どうにか)2000記事に到達し、その後もしばらくはブログ記事作成を続けることになった場合、ChatGPTを活用しつつ、自らの知見・見解を含んだブログ記事の作成を目指すことを考えています。


*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
この投稿で、ブログの総投稿記事数が1987となり、残り13記事で、当初の目標である2000記事に到達の予定です。また、目標達成を来月6月22日までに行うため、今後45日で13記事の投稿を要しますが、これは投稿頻度を3〜4日に1記事とすれば充分に可能です。そこで目標を少し変えて、5月内での2000記事到達を目指します。そしてその後も、ブログ記事作成を続け、適度に休みを入れつつも、6月22日までは継続しようと思います。これまでの約8年間で、10日間で6〜7記事を投稿してきました。また、2018年に1000記事に到達したときには、2000記事まで続ける予定はありませんでした。しかし最近は、ChatGPTのようなAI技術が進化し、瞬時に文章を生成することができるようになりました。そこで2000記事到達後は、そうした技術をも活用して、自分の知見や見解を含んだブログ記事を作成することを目指していこうと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2023年5月4日木曜日

20230504 東京堂出版刊 マラート・ガビドゥリン 著 中市和孝訳 小泉 悠監訳「ワグネル プーチンの秘密軍隊」 pp.293-295より抜粋

東京堂出版刊 マラート・ガビドゥリン 著 中市和孝訳 小泉 悠監訳「ワグネル プーチンの秘密軍隊」
pp.293-295より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490210787
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490210781

この本は一人の傭兵とその仲間たちの武勇譚というよりも、むしろ、ロシアが傭兵制度をいかに利用しているかに光を投げかけたものである。傭兵とは西側諸国に特有の現象で、傭兵制度は資本主義の怪物が生み出したものであると教え込まれているが、われわれもまた、海外で自国の権益を拡大するために傭兵を利用している。我が国の政治家は、ロシアの民間軍事会社については控え目に口を閉ざし、そういう民兵組織を利用しているという噂をまるごと否定するとともに、国民に対して集中的プロパガンダを展開し、ロシアにはロシア独自の外交政策があるという考えを叩き込み、傭兵部隊に関する疑問については直接的な答えを避けている。

 こういう現状は誰の利益になっているのか?まずは国民に食わせてもらっていて、自分たちがその国民の役に立っていると思い込ませようとしている者たちに。例えば、シリアに駐留しているロシア軍の将軍たちは「誰もいない」キャンペーンを巧みに駆使して、兵士の犠牲はたいしてないという錯覚を生み出した。だが、イスラム国との戦争で命を落としたロシア市民の実際の数は、公式データと食い違っている。シリアで戦死したロシア人傭兵の数は、正規軍兵士の死者数をはるかに上回っているのだが、流血のない戦争という神話を維持するため、民間軍事会社の介入そのものが国民に隠されている。シリアに駐留するロシア軍人はみな、イスラム国に勝利するために本当は誰が体を張ったのかを知らない国民からちやほやされ、誇らしさに浸っている。

 政治指導者たちもまた、「きわめて道徳的な我が国の価値観にそぐわない現象」と高言する傭兵制度から恩恵を得ている。アサド政権を救ったことで、ロシアは世界各地のあらゆる犯罪者どもの庇護者かつ救済者としての地位を確立した。ロシア外交と政治の裏でうごめく人間にとって、アフリカ大陸は有望な新天地となることだろう。アフリカで権力を握った指導者どもは、シリア政府に対するロシアの支援に目をつけ、自国の豊かな金やダイアモンドや石油などの鉱物資源をロシアの手に渡してもよいという素振りを見せている。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです☟
この本は、一人の傭兵と彼の仲間たちの勇敢な物語というよりも、むしろロシアが傭兵制度をどのように利用しているかを明らかにしたものです。傭兵というのは西側諸国に特有の現象であり、傭兵制度は資本主義の悪例が生んだものだと考えられていますが、ロシアも自国の権益を海外で拡大するために傭兵を使用しているのです。我々の政治家たちは、ロシアの民間軍事会社については口を閉ざし、その存在を否定して、ただ、ロシアに独自の外交政策があるというイメージを国民に植え付けて、傭兵部隊に関する疑問には直接答えずに避けています。
しかし、このような現状は誰のためになっているのでしょうか?それは、国民に食わせてもらっている政治家や軍人たちにとって都合がよく、自分たちが国民の役に立っているという錯覚を生み出しているのです。例えば、ロシア軍の政治家や将軍たちはシリアに駐留している間、兵士たちが犠牲になっている印象を与えないようにしています。しかし、実際には、ロシア市民のシリアでの死者数は公式データとは異なり、ロシア人傭兵の死者数は正規軍兵士の死者数をはるかに上回っています。つまり、民間軍事会社の介入が国民に隠され、流血のない戦争という神話を維持するために、ロシア政府はこの事実を隠しているのです。ロシア軍人たちは、誰が犠牲になったかを知らずにイスラム国に勝利し、国民から称賛を受け、誇らしく思っているのです。政治指導者たちも、傭兵制度が我が国の道徳的な価値観にそぐわないという言葉を口にしながらも、実際には傭兵制度から利益を得ています。ロシアはアサド政権を支援することで、世界中の犯罪者たちを庇護し、救済する立場を確立しました。ロシア外交や政治の裏で活動する人々にとっては、アフリカ大陸が有望な新天地となるでしょう。アフリカの指導者たちは、ロシアがシリア政府を支援していることに注目し、自国の豊かな鉱物資源(金、ダイアモンド、石油など)をロシアに売却する意向を示しています。

*ChatGPTによる要約に手を加えたものです②☟
この本は、一人の傭兵と彼の仲間たちの勇敢な物語というよりも、むしろロシアが傭兵制度をどのように利用しているかを明らかにしたものです。ロシアは自国の権益を海外で拡大するために傭兵を使用しており、政治家たちはその存在を否定し、ロシアに独自の外交政策があるというイメージを国民に植え付けています。しかし、実際には、ロシア市民のシリアでの死者数は公式データとは異なり、ロシア人傭兵の死者数は正規軍兵士の死者数をはるかに上回っています。これは、民間軍事会社の介入が国民に隠され、流血のない戦争という神話を維持するために、ロシア政府がこの事実を隠しているためです。政治指導者たちは、傭兵制度が我が国の道徳的な価値観にそぐわないという言葉を口にしながらも、実際には傭兵制度から利益を得ており、アフリカ大陸での鉱物資源の取引に注目しています。ロシアはアサド政権を支援することで、世界中の犯罪者たちを庇護し、救済する立場を確立しました。

20230504 筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」 pp.165-167より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」
pp.165-167より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073957
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073952

2015年に入ると、彼らはシリアにも派遣された。ロシア航空宇宙軍の空爆開始に先立ち、潰滅的な状況にあったアサド政権のテコ入れを図るのがその目的であったと見られている。実際、元軍人を中心に構成され、戦車などの重装備も与えられたワグネルはKSSOの特殊作戦部隊と並んで有力な戦力となり、パルミラやデリゾールの奪還では中心的な役割を果たしたとされる。

 だが、彼らが完全にロシア政府のコントロール下にあるのかどうか、疑われるような事態も発生している。2018年2月7日深夜から翌8日にかけて、アサド政権側の1個大隊がクルド人勢力の支配下にあるユーフラテス川東岸に侵入し、米軍の猛烈な空爆で撃退された事件がそれである。この地域は米露の仲介で合意された非戦闘地域に当たっていたことから、アサド政権側の停戦合意違反とされ、ロシア側も表向きはこれを非難する側に回った。

 しかし「コメルサント」(2018年2月14日)によると、この侵攻作戦にはワグネルのコントラクター600人が加わっており、ロシア政府の許可を得ずにデリゾールの石油精製施設を占拠することを目的としていたという。

 これに先立つ2017年12月12日、AP7通信は、ワグネルの活動にはプリゴジン氏の個人的な経済的利権が関連していると指摘していた。ワグネルのフロント企業であるエヴロポリス社はワグネルのコントラクターがISから奪取し、警備する施設から得られる石油・ガス収入の25%を得る約束になっていたという。デリゾールにおける出来事は、こうした利権獲得を目指す軍事活動であった可能性がある。

 さらに2017年以降には、ワグネルはアフリカでの資源利権確保のためにも投入されているという情報が見られるようになった。知られている限りでは、スーダンの金鉱山警備や中央アフリカの金。ダイアモンド鉱山警備などが主なところで、そのいずれもがプリゴジン氏の関連企業が開発利権を得ている場所であった。(Marten 2019)。ちなみに中央アフリカでは2018年7月、ワグネルの活動を追っていたドキュメンタリー番組の撮影チーム3人が何者かに殺害されているが、ロシアの民間団体「ドシヨー・センター」は携帯電話の通話記録などを独自に調査した結果、プリゴジン氏の周辺が殺害を命じた可能性が高いと結論づけている(Meduza 2019.1.10.)。

 こうした動きを見る限り、ロシア政府のために戦闘任務を担う見返りとして外国の資源利権を獲得する権利を与えられる。というのがワグネルの「事業モデル」であるようだ。




 


 


 

20230503 視覚による認識の違いと「耳」から「眼」への感覚の変化について:銅鐸の変遷から

GWとはいえ旅行などに出かけることもなく過ごしていますが、久々に数本の映画作品をDVDで視聴しました。ここ最近は映画作品を最初から最後まで視聴することはなかったことから、これはなかなか新鮮に感じられました。また、書籍も何冊か読み進めていますが、ここ最近で気が付いたことは、スマートフォンをしばらく使用すると、その後の書籍など紙の文章を読み進めることが、とても辛くなるということです。これは以前から感じていたことですが、年齢のためであるのか、以前よりも顕著になってきたと感じられました。そして私としては、今しばらくは紙の書籍を読みたいと考えていますので、今後は以前よりもスマートフォンの使用時間を出来るだけ減らしたいと考えています。他方、PCの画面であれば、それ以前から用いていて慣れているためであるのか、読書との相性が悪いとは感じたことがありませんでしたので、スマートフォンとPCでは、眼に与える影響が異なるのかもしれません。あるいは、スマートフォンも継続的に使用して慣れてきますと、そこまで苦痛を感じなくなるのかもしれません・・。

そして、これもまた先日の投稿記事にて述べました「同じ視覚による認識であっても文字による文章を目で読み認識する」ものと「マンガなどの画像を見て感覚的に認識する」ものとでは性質が異なるのではないか?とも何か関連があるのかもしれません。また、こうしたことを書いていますと、これまでに何度か当ブログにて述べました、弥生時代の青銅製祭器である銅鐸の我が国での伝播、およびその発達の様相での特徴が想起されてきます・・。

朝鮮半島・中国東北部から北部九州に齎されてからごく初期の銅鐸は、概して小型で装飾性に乏しく、これは本来の用途である「鐸」から逸脱せずに「鳴らす」機能を重視していたと推察されることから、これら初期的な特徴を持つ銅鐸は「聞く銅鐸」として分類されます。

これらの銅鐸は当時の祭祀でどのように用いられていたのか分かりませんが、ああしたベル型の金属器は、後世の寺の釣鐘ほどではないでしょうが、叩くと特有の金属音がして、それが金属器自体が乏しかった当時の人々としては、神秘的に感じられたことは感覚的にも納得出来ます。

そしてまた、この初期型・比較的小型の「聞く銅鐸」は、主に西日本にて比較的早い段階から集落として栄えた地域での出土が多く、その典型は奈良や香川であると云えます。これを異言しますと、弥生時代の西日本にて、相対的に早い段階から水稲耕作を生産手段として栄えた地域にて多く出土するのが前出の比較的小型の「聞く銅鐸」であると云うことになります。くわえて、その出土数は当時の耕地面積から推測される社会規模と比べて相対的に少なく、おそらくは社会規模が大きくなる以前から、代々、それらの銅鐸が音を鳴らす祭器として認識されていたのだと推察されます。

やがて、それらの社会(ムラ)がさらに発展して大規模になってきますと、そこから比較的近い水稲耕作に適した他の土地に移住して、新たなムラが営まれるようにになりますが、こうしていわば分村して成立した社会においても銅鐸を用いた祭祀は行われ、あるいは、そうした新たなムラに、もとのムラから祭器として新たな銅鐸が授けられるような仕組みがあったのではないかとも思われます。

ともあれ、こうして分村により成立した新たなムラにおける銅鐸祭祀は、当初からの特徴的な金属音よりも、銅鐸自体の見た目の壮麗さなどが重視されるようになる傾向があると云え、そこから、大型・高装飾化した比較的後期からの銅鐸は、さきの「聞く銅鐸」に対して「見る銅鐸」として分類されます。

もちろん、この銅鐸の大型・高装飾化の背景には、鋳造技術の進歩により、作成可能になったのですが、しかし、それと同時に、やはり「聞く」から「見る」を重視する感覚の変化といったものが少なからず関与しているのではないかとも思われるのです。そして、当時の我が国では文字・漢字は(殆ど)入ってきていませんので、さきに述べました「文章と画像の視覚認識の違い」と同じではありませんが、この銅鐸に関する、いわば「耳」から「眼」への感覚の変化の背景には、一体何があり、そしてまた、そうした現象は、その後の歴史の推移においても看取出来るのであろうかと考えてみますと、それはそれでまた興味深いものがあるように思われるのですが、さて、これも実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2023年5月1日月曜日

20230430 株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」 pp.9-10より抜粋

株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」
pp.9-10より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041304032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041304037

それは終戦後一年たった、昭和二十一年九月下旬のことである。いましも笠岡の港を出た、三十五トンの巡航船、白竜丸の胴の間は種々雑多な乗客でぎっちりとつまっていた。それらの乗客の半分は、ちかごろふところぐあいのいいお百姓で、かれらは神島から白石島へ魚を食いに出かけるのである。そして、あとの半分は、それらの島々から本土へ物資を仕入れに来た、漁師や漁師のおかみさんたちである。瀬戸内海の島々は、どこでも魚は豊富だけれど、米はいたって不自由だから、島の人々は魚を持って、米と交換して来るのである。

 すりきれた、しみだらけの、薄ぎたない畳敷きの胴の間は、それらのひとびとと、それらのひとびとの持ちこんだ荷物とで、足の踏み場もないほどであった。汗のにおいと、魚のにおい、ペンキのにおい、ガソリンのにおい、排気ガスのにおい、どのひとつをとってみても、あまり愉快でないにおいが、錯綜して、充満しているのだから、気の弱いものなら、嘔吐を催しそうな空気だけれど、漁師と百姓、いずれも神経の強靭な人たちばかりである。そんなことにはおかまいなしに、この辺の人間特有のかん高い調子でしゃべりまくり笑い興じて、その騒がしいことといったらお話にならない。

 ところがそういう胴の間の片すみに、ただ一人ちょっと風変わりな男が乗っていた。その男は、セルの袴をはいている。そして頭にはくちゃくちゃに形のくずれたソフトをかぶっている。いまどきは家にいるときの百姓だって、洋服あるいは洋服に類したものを着ている。ましてや旅に出るとあれば、猫も杓子も洋服を着る。現にこの胴の間につまっている乗客でも、男で和服を着ているのはこの男のほかにもうひとりしかいなかったが、これはお坊さんだから致し方があるまい。

 こんな時代に、あくまでも和服でおしだすこの男は、どこかしんにがんこなものを持っているのだろうが、見たところ、いたって平凡な顔つきである。がらも小柄で、風采もあがらない。皮膚だけはみごとな南方やけがしているが、それとてもあまりたくましい感じではない。年齢は三十四・五というところだろう。

 胴の間の喧騒もどこ吹く風といわぬばかりに、その男は終始窓際によりかかって、ばんやり外をながめている。瀬戸内海の潮は碧くすみわたって、あちこちに絵のような島がうかんでいる。しかしこの男はそういう景色にもかくべつ心を動かすふうでもなく、いかにも眠たげな眼つきである。