2020年1月26日日曜日

20200125 「言語と事物の関連性」の明瞭化・深化について思ったこと

おかげさまで1月23日投稿分記事の『手紙形式:クラシック楽曲と映画について【20200123】』がアメーバブログにて20位にランクインしました。これまでにも、何度か投稿記事がランクインしたことがありましたが、今回のランクインは、これまでで最も順位が高いことから、少し高揚しました・・(笑)。これを読んでくださった皆様どうもありがとうございます。

また、当ブログ開始から5周年を迎える、来る6月22日までに66記事の新規投稿があれば、総投稿記事数が1300に至り、同時に、それまでの5年間で10日のうち7日以上、記事作成を行ってきたことになります。そうしますと、今後、6月22日に至るまで、5日のうち2~3日程度、記事作成を行う必要がありますが、どうにか達成してみたいと思います。

これまで、約4年半にわたりブログ記事の作成を継続してきましたが、以前と比べて容易に記事作成が出来るようになったわけでもなく、また、記事内容については、当初の方がいくらか深みがあったようにも思われます。他方で、書かれた文章の読み易さについては、以前と比べますと、いくらかは上達したようにも思われます。これは、書く内容の深みが減衰してきた分、それを表現するための文章も単純化することが出来、いくらか適切な文章を(容易に)書くことが出来るようになったとも見て取れるのですが、これについては、今後、更なる高水準での均衡(文章の読み易さと深みの)を目指していきたいと思います。
また、それらを書いてきた自分については、人文社会科学系と歯科生体材料学分野双方にて研究活動を行ってきた経験があるからこそ、これまでブログ記事の作成を継続することが出来たと考えています。

しかし、多くの閲覧者数を得ている、所謂トップ・ブロガーの方々の多くは、こうした経験など経ずとも、多くの閲覧者数を得ておられることから、上記に述べたことは「本当にそこまで大きな意味・必要性があったのか?」と思われるところではあるのですが、少なくとも自分については、双方分野での研究活動により、単に文体の表層に留まらず、その背景にある「言語と事物の関連・結びつきが明瞭化・深化」され、具象・抽象何れの表現対象であっても、著される文章の明確さ、解像能がいくらかは向上し、これまでの継続に至ったものと認識しています。

これを異言しますと、表現の対象と、その表現に用いる言語との関係性が、研究活動を通じてある程度、書き手にとって明確になりますと、それに伴い、書かれた文章表現の解像能も自然と向上し、読んで頂く方々が増え、そこから書き手の精神が励起し、ここまでのブログ継続に至ったということになります。
とはいえ、このことは、そこまで単純なことではなく、また容易く一般化出来ることではないと思われますが、ここで多少大風呂敷を広げさせて頂きますと、この「言語と事物の関連・結びつき」の明瞭化・深化こそが、その言語を使う国・地域の興廃を決する大きな要素になるのではないかと思われるのです。これは、さまざまな時代の著述物をいくらか読み、あるいは具体的な著作としては、ジョージ・オーウェルによる「1984年」のニュー・スピークに関してのくだりを読んでみますと「あながち嘘ではないのかもしれない・・。」とも考えさせられるところですが、さて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか・・。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。







2020年1月24日金曜日

20200123 手紙形式:クラシック楽曲と映画について

早速のお返事どうもありがとうございます。
また、興味深いクラシック音楽に関しての情報どうもありがとうございます。
大変勉強になり、また肯く部分が多くありました。

さて、私がクラシック音楽を好んで聴くようになった契機は、先日ご一緒させて頂いた**先生からの影響であり、また**先生も、映画にて用いられているクラシック楽曲に関しては該博といって良いほどの知識をお持ちであると云えます。

ともあれ、私の場合は、その後、自分で稼ぐようになりますと、映画作品を観て、その中で気になる楽曲に出会いますと、さまざまな方法で、その楽曲の題名、作曲者等を調べてはCDを購入していました。サントラ盤がある映画ですと、これは簡単ですが、そのような作品ばかりでもありません。また、当時はインターネットも現在ほど普及していなかったため、それらを探すのは、それなりに苦労した記憶があります・・(苦笑)。

そうした中で、クラシック楽曲の映画での用い方が秀逸であると思われた映画監督が、今となってはベタではあるかもしれませんが、スタンリー・キューブリックでした。さきのメッセージにおいて示しましたが、同監督の最後の作品となった「アイズ・ワイド・シャット」の冒頭にショスタコーヴィチによるオーケストラのためのジャズ組曲第2番が用いられていましたが、こうした組み合わせのセンスは、現在他の映画監督で比肩する方はいらっしゃるのでしょうか。

また、そこまで有名とは云えない同監督による作品「バリー・リンドン」は、その映像の美しさと、用いられている楽曲の組み合わせにより「あるいは本当に当時の様子を撮影した映像を見ているのでは」と感じさせられるほどでした。とはいえ、この映像・楽曲双方にこだわった作品にも、ケチをつけられないわけでもなく、映画の時代背景であった18世紀中頃には、この作品で多く用いられたシューベルトによるピアノ三重奏曲第2番変ホ長調第2番は存在しなく、この楽曲は19世紀前半に作曲されたものです。

この異なった時代の楽曲を映画に用いることに反対したさらにこだわるスタッフが製作チームから脱退したという話をどこかで聞いたことがありますが、こうしたことは、おそらく、現在の我が国ではあまり生じ得ない現象と云えるのではないでしょうか。

とはいえ、やはりこの「バリー・リンドン」は映像美と楽曲の組み合わせにおいて突出した作品であるように思われます。また、映像であれば、リドリー・スコットの出世作となった「デュエリスト・決闘者」もまた、かなり美しいと云えます。この作品は「バリー・リンドン」の後の時代、さきのピアノ三重奏曲第2番変ホ長調第2番の作曲者であるシューベルトと同時代(ナポレオン戦争の頃)を舞台としたものであり、また、この作品の原作は、私が一時期耽読といって良いほどに読んだジョセフ・コンラッドによるものであることを、後に知りました。このように映画とクラシック楽曲を通じて、色々と繋がったり考えが浮かんだりすることは、なかなか面白く、興味深いと思われますので、引き続き、自分なりに続けようと思っています。また何か面白いと思った考えが浮かびましたら、メッセージ差し上げます。いまだ寒い日が続きますので、どうぞご自愛専一でお過ごしくださいませ。


2020年1月20日月曜日

20200120 昨日の続き、久しぶりの対話形式

A「最近また歴史についてのブログ記事を書いているどうですね。」

B「ええ、ここ最近何となく記事を書いていましたら、自然とそちらの方向に行くようになりました。これは正直なところ書いている自分でも、多少不思議に思うところです(笑)。」

A「うん、何かしら書いているうちに導かれるようなことは、ごく普通にあると思いますので、それはそれで良いのではないでしょうか? また、その書かれている内容についても、そこで扱っていた、馬の冑ですか?について、私はあまり知りませんが、その背景にある云わんとすることは、概ね同感できますね。」

B「はあ、そうですか!そう仰って頂けるとありがたいです。また、さらに言わせて頂きますと、博物館あるいは、そうした歴史に属するモノについてを扱った写真集のような著作の意味合い、価値といったものは、そういったところにあるのではないかと思います・・。

A「うん、博物館で古代に作られたものなどを見ますと、私は少し放心したような状態になることがあるのですが、おそらく、この放心に近い状態において、私の精神は、現在を生きている自分と、その目の前に置かれているものとの間にある遠大な時間を超えようと、あるいはそのものと繋がろうとしているのではないかと思うのです・・。無論、こうした試みは簡単に達成出来るわけではありませんが、それでも、いくらか書籍を読んで調べたりしていますと、よく分かりませんが、何かが繋がったと感じることも時々はあるのです。そして、歴史を学ぶということは、この決して多くはない実感を得るために行っているとも云えるのかもしれません・・(苦笑)。」

B「ああ、それは私も同感です。銅鐸などを見ていますと、何故この時代の人々はこうしたデザインにカミのようなものを見出したのだろうか?などと漠然と思い。また他方で、それを作成した鋳造技術について「これが出来るまでに何回失敗したのだろうか・・?」などと、まあ少し邪な考えが湧いてくることがありますが、そうしたことを、関連する書籍なども読みつつ繰り返し行っていますと、ある時、その銅鐸のカタチや紋様から現在の我々が持つ感覚とも繋がる「何か」が不図脳裏によぎることがあるのです・・。そして、さきほどAさんが仰ったことは、おそらく、私にとっては、こうした現象が相当するのではないかと思われるのです・・。」

A「・・なるほど、それはたしかに全く違う感覚であるとは云えません・・。あるいはかなり似たような感覚であるのかもしれません・・。また、当然ではあると思いますが、それは継続的なインプット、刺激によってはじめて生じるということが、とても重要であるように思いますね・・。そしてまた、おそらく、何であっても、勉強や研究というものは、こうした背景の地均し、あるいは耕すという意味があるからこそ、重要であるのではないかと思うのですが、これは今後、人工知能が発達してきますと、一体どのようになっていくのでしょうかね・・(笑)。」


2020年1月19日日曜日

20200119 昨日の続き、歴史の理解・認識について

さて、昨日投稿分の記事にて「歴史の理解・認識」について書きました。その主旨は、歴史など手に触れたり、見ることが出来ない、所謂「抽象的」なものに対しては、それについて書かれたさまざまな著作を読み続け、油絵の重ね塗りのようにして、その様相を理解・認識していくといったものでしたが、それと同時に、その歴史と同時代に作成されたさまざまな物を通じた理解・認識もまた、重要であると云えます。

そして、それら双方による理解・認識を通して、はじめて明瞭・クリアな歴史像を得ることが出来るように思われます・・。たとえば、具体的なハナシとしては、和歌山県和歌山市の紀ノ川北岸に立地する大谷古墳から、我が国では出土が珍しい戦闘時の馬に装着する「馬冑」というものが出土しています。この「馬冑」は、古来から乗馬文化を持っていた北東アジアを淵源とするものであり、中国北部や朝鮮半島の墳墓からも出土、さらに墳墓内壁画での描写、副葬品陶俑での表現などが見受けられます。

我が国における「馬冑」の出土は、さきの和歌山県、その他は福岡県、埼玉県の古墳からの3例のみであり、それらの時代はいずれも5~6世紀代とされています。また同時に、この時代は、記紀が伝えるように朝鮮半島内部での国々の争いに、ヤマト朝廷が派兵していた時期でもあり、そこから、おそらく上記3古墳の埋葬者は、この朝鮮半島への派兵に強く関与していたと考えるのが妥当と云えます。

つまり彼等は、ヤマト朝廷の朝鮮半島派兵に従って渡海し、現地にて「馬冑」を入手したのではないかということです。とりわけ、さきの大谷古墳に関しては、5世紀後半に在地豪族である紀氏に属する紀小弓また、その子である紀大磐が朝鮮半島での軍事活動に従事したという記録があることから、その信憑性は高いと云え、あるいは大谷古墳に前記二者(紀小弓・大磐)のいずれかが埋葬されていなくとも、同時期に朝鮮半島派兵に従った紀氏に連なる誰かが埋葬されているとも十分に考え得ることから、さきの「馬冑」の出土と、その背景にある記録されている歴史像は、整合性を持ち結節することが出来ると云えます。

そして、そのようにして抽象的な歴史像と同時代における作成物を重ね合わせますと、そこには、単に抽象的とは云いきれない、具体的なイメージを伴った歴史像が形成され得るのではないでしょうか。また、こうしたことは、歴史を扱ったマンガ・映画などにおいてはその評価をも左右する極めて重要な要素であると云えます。とはいえ、欧米で製作された歴史を題材とした映画と、我が国のそれを比較しますと、我が国の場合、製作された時代が現在に近づくにつれ、その描写が「必ずしも妥当とは云えない」といった作品が多くなっているという印象を受けます。あるいは端的に、我が国の歴史を題材とした映画作品は、全体的に過去と比べ、背景となる歴史への考証が必ずしも適切に為されていないといった感じを受けます。

この意見には、おそらく異論を持たれる方々も少なからずいらっしゃるとは思いますが、それでも、いくらか、そうした作品を読み、観てきた私からしますと、どうしても、そのような印象を受けるのです・・。さて、皆様、こうしたことについて、どのようにお考えになるでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設
日本福祉大学
オープンキャンパス

~書籍のご案内~
新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
どうぞよろしくお願いいたします!













20200118 最近書店に行き思ったこと、歴史の理解・認識について

所用のため、今年に入り既に何度か首都圏を訪問していますが、その度に時間を見つけ大型書店に足を運んでいます。こうした書店に行き、多くの書籍が並んでいる書棚を徘徊し、背表紙や表紙を眺めていますと、さまざまな記憶が惹起され、そしてまた同時に「自分はこれら書籍に書かれている殆どのことを知らない・・。」といった挫折感あるいは圧迫感のようなものをも感じさせます。「書店に行くとお腹が痛くなる」といった割合よく聞く現象は、あるいはこうしたところにも原因があるように思われます・・(笑)。

さて、とはいうものの、書店に行く度に、こうした挫折感・圧迫感を軽減するため、興味を持った書籍を購入していますと、さまざまな面で大変になりますので、昨今は自分なりに選んで購入しているつもりではありますが、それでもやはり徐々に増える一方であることから今後、近いうちに機会を見つけて書籍の断捨離・整理をした方が良いのかもしれません・・(苦笑)。

また、先日来から読み進めている岡議武著「転換期の大正」はさらに頁が進み、300頁少し手前まで読み進みました。ここに記されている時代は、1918年に第一次世界大戦が休戦にて終わり、パリ講和会議ワシントン海軍軍縮会議の開催となり、国内では第一次世界大戦の極東地域における事象と云えるシベリア出兵米騒動寺内正毅内閣の総辞職、尼港事件、(立憲)政友会の原敬を首班とする内閣の成立そして、その暗殺、他方で、元老・藩閥など維新エスタブリッシュメント等による影響力の低下と、時代潮流が大きく変化し、また、その意味においてこの大正期は、表題の通り、明治以降、近現代日本の転換期あったと云えます・・。

これまで当著作を読むことにより、また少し我が国の近現代史についての理解・認識が深まったように思われ、また、同時にそれは、これまでに読んだ北杜夫著「楡家の人びと」前半部、そして石光真清著・石光真人編「石光真清の手記・誰のために」とも時代が被ることから、今後、これら著作再読の際は、以前よりもいくらか深く読むことが出来るのではないかと思われました。

そして、通常、目に見えるカタチでの表現を採らない歴史への理解・認識といったものは、おそらく、こうした比較的長い期間をかけた反復的な活動を通じ、油絵の重ね塗りのようにして、自分なりの、その時代に対する理解・認識のカタチといったものが形成され、そして、深化していくのではないかと思われます。

しかし、その一方で、歴史認識においては、さきに述べた方法と同程度に重要であり、そしてまた、その方法との補完関係にあると云える方法が、歴史上に登場するさまざまな具体的存在のカタチ・機能そしてその背景にある意味を理解することであると考えます。

おそらく、前者のいわゆる文字によって著された歴史と、後者の具体的な存在によって表される歴史の双方が関連し合い、まさしく適切に配されることにより、ピントが合い、明瞭な歴史像に対しての視野を得ることが出来るのではないかと思われます・・。

そういえば、先日立ち読みした、ユヴァル・ノア・ハラリの新著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」はかなり興味深く感じられ、現在読み進めている著作を読了しましましたら、次はこれを読んでみようと考えています・・(笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設
日本福祉大学
オープンキャンパス

~書籍のご案内~
新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
どうぞよろしくお願いいたします!









2020年1月12日日曜日

20200112 書かれた文章の位相について思ったこと

かれこれ、約4年半にわたりブログ記事の作成を行っています。その間、毎日1記事の投稿を行いますと、1643記事ほどになりますが、現在までの自身の投稿記事数は1229であり、そこから、およそ10日のうち7日程度の割合で記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、思いのほか多く作成・投稿してきたとも思われますが、今後、6月に迎える5年目までには、もう少しその率を上げていきたいとも考えています。

さて、つい先ほどまで、しばらくの間、これまで作成してきたブログ記事を眺めていましたが、自身のブログは、読んだ書籍・観た映画などについて扱った記事が相対的に多く、それに対し、日常生活について扱った記事は少ないと感じられました。さらに、ここからは私見になりますが、自身の場合、読書・映画などを主たる題材としてきたからこそ、これまでの間、記事作成を継続することが出来たのではないかとも思われるのです。


これは多少不思議にも思われることであるかもしれません。何故ならば、日常生活を題材とした方が、より、抽象的もしくは観念的と云える書籍・映画などを題材とした記事作成よりも容易に行うことが出来ると(普通は)考えられるからです。


このことは、ブログ記事作成当初、自分なりに悩んだところであり、現在、考えてみますと、初期に多く作成した対話形式の記事は、いわば、その悩みや迷いが結晶化したものであるとも云えるのです・・(苦笑)。また、これは今もって言語にて精確に表現することに対しての困難さを覚えますが、即物的・具体的な文体にて日常の出来事を述べることと、そうした即物的な世界観からいくらか離れ、接した書籍・映画などを題材とした抽象的・観念的とも評し得る内容を述べることの間には、それぞれで著された文章全体の位相が異なるように思われるのです・・。そして、過去の自身は「とりあえず抽象的・観念的なことを自分なりに精確に言語化してみることが自身にとっては重要であろう・・。」と考え、現在なおも右往左往している状態と云えます・・(苦笑)。


そして、この即物的・具体的そして抽象的・観念的な文章、いや、その文章のさらに基層にある認識・想念の明瞭化そして活性化こそ、極めて重要であり、また、これはおそらく我々の身体感覚と強く関連しているのではないかと思われるのです・・。


しかし他方で、上記に述べたような内容を、当ブログ開設以前の時期に、文章として述べることが可能であったかと考えてみますと、おそらく、それは困難であったと云えます。当時の方が体力は明らかに優れていたはずであるのに・・。


そのように考えてみますと、身体感覚と体力とは、必ずしも随伴、あるいは同一視されるものではなく、あるいは、旺盛な体力は、一面においてセンサーとしての身体感覚をいくらか鈍麻させるような性質をも持っているのかもしれません・・。


そして、年齢と共に体力がいくらか衰えてきますと、はじめて、それまで無意識に近い領域にて考えていた、認識していたことを文章として言語化することが可能になる素地が生成され、そこから、意識・無意識による何らかの修練(多分、文章の作成や更なる読書であるように思われます。)を経て、抽象的・観念的にして、いくらかの人々が読んで納得・理解して頂けるような文章を作成することが出来るのではないかと思われるのです。


とはいえ、無論、現在の自身がそれらが出来ているとは考えていませんが、また、畢竟それも一つのルート(理解可能な抽象的・観念的文章作成のための)ではあるのかもしれませんが、それを文章化しておくことも、また一興であるとも思われますので、ここに記しておきます・・(笑)。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

















2020年1月3日金曜日

20200103 2020年はじめての投稿・年末年始の読書から

今回が2020年に入って初めての記事投稿になります。昨年末は30日の投稿が最後となり、そこから年末年始の期間は、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そしてまた、今年2020年の6月22日まで記事作成を続けますと、5年間ブログ運営を行ってきたことになりますので、そこまでは継続してみたいと考えています。とはいえ、考えてみますと、4年以上にわたり公表する記事・文章の作成を継続出来たことは、それらの中のいくらかが、書籍からの抜粋引用であっても、以前の自身では為し得なかったことであると云えますので、年初めの現在のような時期に振り返ってみますと、多少、感慨深いものを感じさせられます。そして、大分前に読んだサン・テグジュペリによる「星の王子さま」内の、星の王子さまが自分の育てたバラについての意見が想起せられます・・(笑)。

さて、先日来から読み進めていました岡 義武著「明治政治史」下巻は、一昨日の元日に読了し、その後、続編とも云える同著者による「転換期の大正」を読み始めました。このいわば近現代日本前期の歴史については、これまで戦争・争乱などを通じての認識が主たるものでしたが、今回の読書によって多少視野が広がったように思われます。あるいは現在において問題とされている、さまざまな事象に繋がるものも少なからずあるように思われました。その意味において当著作は名著であり、また当著作を読むに至る原因となった陸奥 宗光著「蹇蹇録」もやはり優れた著作と云えるのではないかと考えます。

ともあれ、今年の読書は「明治政治史」下巻、そして「転換期の大正」からはじまった次第となりましたが、同時に少し前から気になっていましたユヴァル・ノア・ハラリの新著「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」とジャレド・ダイアモンドによる「危機と人類」上下巻も読み進めていきたいと考えています・・。

他方で、ここ最近気になった著作は、以前にも読んだことがあるジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分」です。この著作では経済活動を含む我々人間の諸活動について、その起源から考察し、特に合理化された思考を持つ現代人からは忌諱されがちな「消費・蕩尽」の意味を重要視しているところに特徴があると云えます。

当著作は修士院生当時、地域にて古代から続く雨乞い祭祀の背景、あるいはその始源にある考えを理解するため、ジェームズ・フレイザー著「金枝篇」などと同時期に読んだ記憶がありますが、現在、我が国近現代史について扱った著作を読み進めているのと同時期に当著作をあらためて読んでみたいと思うところには、何らかの理由があるのだろうか・・。

また、こうした思いの惹起には、最近の読み進めている(た)著作内に、さきのジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分」ついての記述があるからではないのですが、こうした一見したところ無関係にも思われるいくつかの著作について、何らかの関係性、そして、その理由を見つけようとするところにも、我々の持つ創造性といったものが、少なからず関与しているようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設
日本福祉大学
オープンキャンパス

~書籍のご案内~
新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5

~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。

~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
どうぞよろしくお願いいたします!