2022年6月19日日曜日

20220618 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考えるー 」 pp.189-190より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える 
pp.189-190より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

神風連の「暴発」は、その形がいかに暴発であるにせよ、まぎれもなく政治と思想における「正義」の意識につらぬかれたものであった。その点を考慮しないならば、かれらはたんなる頑固党として、開化期の人々に物笑いの種を提示したにとどまることになる。

 神風連の政治思想を見るにもっとも適当なものは、一党の副首領として太田黒伴雄と併び称される加屋霽堅の「廃刀奏議書」ではないかと私は思っている。私がこの忘れられ、無視された思想集団に関心を抱いだいたのは「神風連烈士遺文集」(荒木精之編、昭和19年刊行)に収められたその意見書を読んでからであった。それは明治9年3月の廃刀令に対する抗議を述べたもので、全文は400字詰に直せばおよそ百枚もにちかい長文のものであり、この種の奏議書としても珍しいものかもしれない。加屋はこの文書を完成したのち、出京して元老院に上達し、聴かれなければ、その門前に割腹して諫奏しようと考えていたといわれるが、脱稿前に事をおこすことになり、未完成のままに終わったものである。

 この文書の与える第一印象は、一種の奇怪さの印象であろう。その印行本で80頁におよぶ文章は、最後の4・5頁をのぞいて、ほとんどが日本における刀剣の歴史を述べたものである。「伏惟我神武ノ国刀剣ヲ帯ル事ハ綿邈タル神代固有ノ風儀ニシテ・・・」に始まるその論述は、記紀をはじめ和漢の典籍からの博引傍証をきわめ、ほとんどその古典的引用の圧倒的な量のみによって、廃刀の不可を主張し、説得しうるものとしているかのようである。われわれは、はじめその考証の厖大さにうんざりし、一種の衒学的独善さえ感じかねないが、やがてその錯雑煩瑣な行文をたどっていくうちに、しだいにその論旨にひかれるというよりも、そのような無意味に全身的エネルギーを注入したであろう加屋の精神構造の奇怪さに、奇妙な関心をいだかずにはいられなくなる。そこには、ともあれ歴とした信条体系の展開が見られ、むしろその神学的・解釈学的正統性は、当時における絶対主義イデオロギーのそれよりも、整合的であったとさえ思われるからである。しかし、何よりもわれわれをおどろかせるのは、廃刀反対の抗議文書でありながら前記のようにその全文のほとんどが神的引用で埋まっていることであろう。あたかも、聖書の解釈によって万物の起源と運動法則とを明らかにしうるものとした西欧中世紀の神学者と同じように、加屋はただ神典の解釈と伝承によって現実政策の得失を論じうるものと考えているかのようである。このような精神は、もちろん、たんに不平士族の利害関心に帰せられるはずのものではないであろう。

 神風連蹶起の心情はかなり簡明であり、すべてその後の日本政治史にあらわれた武力的蹶起の場合と同じように、概して無計画的であった。(とくにかれらの場合、自分たちの行動を不平士族の政治的行動と同一視されることを警戒する気味さえあったことは、たとえば福本日南の「清教徒神風連」によってもしることができる。かれらは、隣接する薩南の鬱勃たる封建反動の勢力に対しても、かなり批判的であったように考えられる。)例えば一党の一人緒方小太郎は獄中記に次のように記している。

「今の世活眼というものを見るに、老もせぬに眼鏡をかけていたく人を見くだし、頭より足さきに至るまで身に附る物はすべて舶来品ならざるなく、大方耳目にふるる物西洋品ならざればこころゆかず、故にかかる人々は遂に彼に化せざるを恨み、其結果人種改良をいい、或いは楠公の忠死を権助の首くくりとののしり、或いは史乗に歴然たる忠臣をたやすく抹殺し、又は申すも恐ろしき事ながら、皇祖皇宗を外来の如くに論ずるなど、実に常人の沙汰とも思われず。是ぞ一朝時あらんか鋒をさかしまにして外艦をむかえ、あるは其の犬ともなりかねぬ奴原なりける。世の活眼者ばかりおそろしきはあらざりけり。」

 要するにそれは典型的な尊攘感覚であり、「新論」的な段階でいだかれた現実感覚のそのままの継承である。このような守旧的イデオロギーが熊本に久しく残存したのは、幕末=維新期における藩の政治的位置が中央から疎隔され、藩の古典的イデオロギーが現実政治の局面でいくたびもの屈折をやむなくされるという経験をくぐらなかったことと、なまじっか熊本における学問研究の隆盛であったことに原因するかのように思われるが、ともあれそれは祖樸な尊王攘夷思想の明治期への伝承にほかならなかった。
 
 しかし、かれらはその思想をたんに神典によって正統化したばかりではなく、維新政府の公式声明によってまた正統化されたものと考えた。(もしくはそのように考えることを欲した。)