2016年3月8日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.253-257より抜粋 20160308

「源氏物語」以後の平安朝物語の今日伝わらず、標題だけが知られているものは、およそ60ほどある(「源氏物語」以前およそ30.寺本直彦「散佚物語」、久松潜一編「日本文学史中古」至文堂、改訂版、1964、による)。今日読むことができるのは、その一割前後にすぎない。しかも先に挙げた主な作品のなかで、成立の年代の確かなものは、一つもない。年代について専門家の意見がおよそ一致しているのは、「狭衣物語」、「浜松中納言物語」、「夜の寝覚」が11世紀後半、「とりかへばや物語」と「堤中納言物語」の短編の大部分が12世紀(殊にその後半から13世紀初へかけての時期)に作られたらしいということだけである(「堤中納言物語」のなかの一篇が、小式部という伝記不明の女房によって、1055年に作られたとされるのは、唯一の例外だが、その一篇は重要な作品ではない)。
作者については、「狭衣物語」を受領の娘で六条院禖子内親王の宣旨女房(?~1092)の作とし、「浜松中納言物語」を菅原孝標の娘(「更科日記」の作者)の作とする説が有力である。「夜の寝覚」、「堤中納言物語」の大部分、「とりかへばや物語」については、全くわからない。たしかにこのような事情は、「源氏物語」以後の小説の変遷を正確に記述することを困難にする。しかし「源氏物語」(11世紀初)と、11世紀後半の一群と、おそらく12世紀後半とされる諸作を比較すると、そこには一定の発展の方向が認められる。第一、「源氏物語」の模倣。11世紀後半の現存の物語は、宮廷を中心とする貴族社会の恋愛小説であるという一般的な意味においてばかりではなく、「源氏物語」の特定の状況(人物間の関係と話の構造)を模倣しているという意味でも、伝統的である。完本を残さない「夜の寝覚」にさえ、その傾向ははっきりと窺えるが、「狭衣物語」の場合には、登場人物をそれぞれ「源氏物語」の藤壺・源氏・夕顔・葵・紫などにあてはめて考えることができる。
「浜松中納言物語」の場合にも、そのすじ書きは薫大将と宇治大君との関係に似る。
また主人公と唐の皇后との関係も、源氏と藤壺との姦通事件を思わせる。
このような「源氏物語」の直接の影響は、「堤中納言物語」や「とりかへばや物語」にはみられない。院政末期の貴族社会の背景が、「源氏物語」の時代、すなわち藤原氏権力の最盛期を遠ざかるに到ったからであろう。院政は権力の中心の二元化であり、その末期は宮廷外の力(大寺院、武士、地方豪族)が貴族権力を脅かしはじめた時期である。平安朝貴族文化の様式(魔術的および世俗的儀式、制度化された文芸・美術・閉鎖された社会の生活様式)は、12世紀末まで根本的には変わらなかったが、文化の求心的傾向(「栄華物語」と「大鏡」の道長中心主義に典型的である)は次第に失われ、現世即宮廷即浄土の楽天主義は、末法観の悲観主義に代られるようになったのである。したがって「源氏物語」的世界の恒久化が、作者の唯一の関心でありえなくなった。第二、「源氏物語」にみられる現実性の失われたこと、あるいは小説の想像的な面の極端な強調。それには二面があって、空想的で異常な状況を設定する傾向が一つ、話の構造を図式化し、しばしば左右相称の単純化(抽象化)にまで到る傾向がもう一つである。「狭衣物語」では、主人公が横笛を吹くと、天の使者が降りてくる。この挿話は「うつほ物語」の琴の奇蹟に似て、「源氏物語」の日常的世界からは遠い。「夜の寝覚」にも、奇蹟ではないが、空想的で到底ありそうもない話が絡む。しかし架空の話があまりにも現実を離れて、馬鹿馬鹿しい夢物語と化したのは、「浜松中納言物語」である。その舞台は日中両国にわたる。唐の皇后は、唐の遣日使と日本の女との間に生まれた女であり、その息子(第三皇子)は、主人公(中納言)の亡くなった父の生まれ代わりである。皇后は一度死んで天に生まれ代わり、もう一度生れ代って、日本の異父妹の子供となる。生れ代りの情報は、主人公が夢のなかで知る。このように途方もない背景に対して、薫と宇治大君、源氏と藤壺に酷似した関係が語られているが、「源氏物語」の場合のように、その人物の心理の微妙な動きは描かれない。父親の生れ代りのシナ人少年に出会ったときの主人公の心理を、細かく想像することは、そもそも似た状況が現実にない以上困難であろう。心理的な陰影の描写の代りに、儒教道徳による通俗的説明(主人公の父に対する孝心)が前面に押しだされているのは、そのためである。
またたとえば、自由自在に生れ代る皇后の恋心も、藤壺の場合とはちがって、単純な月並み解釈以外のものではありえない。けだし人間は自由自在に生れ代ることができないから、恋をするのであり、恋心のあらゆる複雑さと切なさとが生じるのであろうからだ。
「源氏物語」の背景の現実性のと心理小説としての洗練との間には、あきらかに密接な関係があった。背景の現実性を捨てたときに、「源氏物語」以後の小説は、当然心理描写の妙味をも捨てざるをえなかったのである。奇抜で非現実的な状況におかれた「浜松中納言物語」の人物は、作者が恣意的に操る木偶にすぎない。そういう傾向は、話の構造の図式化にもあらわれている。図式化のもっとも典型的な例は、誤って目的の女とは別の女と契るという趣向である。たとえば「夜の寝覚」の姉妹の妹(中君)と主人公との関係。また「堤中納言物語」の娘とその祖母の尼とのとりちがえ(「花折る少将」)や二人の少将がそれぞれの恋人である姉妹をとりちがえる話(「思はぬ方にとまりする少将」)。この最後の例は、左右相称的な構造を示す。このような話のなかで、登場人物は、いずれも彼ら自身の内的な世界をもたず、作者のさす将棋の駒のような存在にすぎない。しかし「堤中納言物語」の場合には、そうすることで、しばしば滑稽な効果を生じ、「パロディー」にさえも近づくことがある。(そのことには、次に触れる)。「とりかへばや物語」の話も、図式的である。男に二人の妻あり、一方は男子を生み、他方は女子を生む。男子は女性的で、女として結婚し、女子は男性的で、男として出世する。男子と結婚の相手の男、女子と彼女が(男として)仕える春宮(女)―、男と男、女と女の二組ができて、そこに宮の宰相という一人の遊蕩児が絡んで、話が展開するのである。人物の性格は、はっきりしない。
その心理的反応は月並みであって、そこに何らの発見がない。
その代りそこには空想的な状況から生じる倒錯的な性的刺激がある(そのことには、次に触れる)。要するに平安朝貴族社会は、10世紀後半に、「うつほ物語」によって長編小説の形式を、「落窪物語」によって日常的現実主義を、「かげろふ日記」によって内省的心理主義を発見し、11世紀初に「源氏物語」によってそれを綜合し、見事な小説的世界をつくりあげた後、11世紀後半から12世紀末まで、何ら重要な発見をつけ加えることなく、頽廃していったということができる。しかし例外があり、それが「源氏物語」以後の物語の獲得した一種の滑稽味と、倒錯的な刺戟であった。
日本文学史序説〈上〉
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一