2021年2月24日水曜日

20210224 議論や話し合いが行われる前提にあるものについて

新たな記事作成により、目標としている1500記事まで徐々に近づきつつありますが、最近はそうした(目標に近づきつつある)状況のためか、記事作成に対して変に意識して、あれこれ考えてしまう傾向があると云えます。そこで考えを変え、その時の思い付きにて書いてみることにしました。

とはいえ、そうすれば自然に記事主題が湧いてくるというものでもなく、ここでもまた立止まり少し考え始めてしまいます・・(「その時の思い付き」って・・何だ?)。

しかしながら、よく考えてみますと、こうしたことは、何もここ最近はじまったわけではなく、内心で半ば無意識にて思っていたことを文章にすることにより、ある方向からの概念的な理解が可能になってきた(意識化される)ということになります。

また、その様に考えてみますと、こうしたブログ記事の作成であっても、多少は創造的要素があることに気が付き、そして、それはそれで意味があるようにも思えてくるのです。

こうした「気付き」は、決して気力が横溢している状態とは云えない現在の私にとっては、貴重なものであり、また、それをこうして文章として著すことが出来るということは、それなりに貴重なことであるとも云えます(笑)。

即ち、こうした自転車操業的活動にも、固有のそれなりの価値があるのではないかと云うことになります・・。

また、そうしてある独特のフェーズに自身の精神を嵌め込み、多少強いてでも記事作成を始めますと、次第にあぶらが乗ってくるのか、この辺りまで書きますと、割と早いスピードにてキーボート上の手が動いていることに気が付かされます。

こうした、ある程度の長さの文章作成能力とは、やはり書き続けていないと鈍化していくようであり、現在は以前、1000記事への到達を目指して作成していた頃に比べますと、やはりいくらか鈍化しているように感じられます。しかし他方で、進化していると思しきことは、記事作成に費やす全体の時間であり、より具体的には、記事作成の波に乗るまでに費やす時間が短くなったということです。

またそれは、記事主題を見出すまでに掛かる時間というわけでもなく、むしろ、主題の決定をも含めて、ある方向への文章の展開を予測し、それに沿って書き始めるまでの時間の短縮化と表現する方が、より精確であるように思われます。

そして、こうした変化の認識は、たしかにあまり大したことではないのかもしれませんが、しかし同時にそれは、これまでどうにか記事作成を継続していなければ知覚・認識し得なかったことであると云え、また、それ故に、これまでの全てのブログ記事には、それぞれの記述内容に対しての価値(あるとすれば)とは別に、単純に自分自身の精神の変化を見出すことが出来たことに対する価値もまた、あるように思われるのです。

そういえば、小林秀雄氏がどこかで「精神とは記憶のことですよ。」と述べていましたが、その伝にて考えてみますと、私は現在では、以前ほどの熱意(必死さ)を以てブログ記事作成を行っているわけではありませんが、同時に、これまで記事作成を行ってきた記憶に基づいてこそ、新たな記事作成を行うことが出来ていて、それは「記憶を文字を用いて記録に変換する」ことにより、以前程の熱意や精神力を用いなくとも、どうにか新たな文章の作成が出来ているということになります。(雪ダルマ式とも云えるのかもしれません。)

そうした意味においても、やはり文字は重要なものであると云え、始めに記憶に基づき記録されたコトバがあってこそ、次の記録されるコトバもまた生まれ易くなるのだと云えます。そして、未だ上手く表現することが出来ませんが、これこそが、こうしたブログであれ、継続的な文章作成に普遍的に付随する価値であると云え、さらにまた、古来から続く伝統的な人文社会科学系学問の根源的な価値と云えるのではないかとも思われます。

しかしながら、これら全ての記述された記録に対し前提として云えることは「如何なる内容であれ、書き手の内心に対して正直に書かれたもの」であるということです。

そして、昨今の我が国社会での風潮を鑑みるに、おそらく、これが我が国では極めて難しいのではないかと思われます。そして、こうした内心に対し必ずしも正直とは云えない記述の氾濫・増殖によって我が国の文化とは、徐々に悪い方向に行くといった傾向があるのではないかと思われます。少なくとも近代以降については、こうした視座は全くのナンセンスとは云えないと考えます。

あるいはこれを異言しますと、我が国の社会では「正直に内心を述べることは、少なからず社会通念と反してしまうものだ。」といった認識が常識・通念として存在しているようであり、それだけに常識や通念が社会にて「重い」ということになりますが、しかし、その重さは、長年積み重ねられた議論の過程によって生じる重さとは異なり、上手く表現できませんがコトバにならない「社会での無言の圧力」のようなものであるように思われます。

これにつきましては、ボク自身未だよく分かっておりませんので、また機会がありましたらさらに深めて、何かしら書いてみようと思います。しかし同時に思うことは、「正直に内心を述べる」という行為が常識・通念と反するか反さないかということには、その「述べる」という行為に真の能動性があるか、ないかが強く関与しているのではないかと思われます。そして、そうした能動性によって、組み立てて行くことが出来るような議論が可能になり、そしてそれが社会にて広がり、次なる時代精神を惹起させ、駆動していくのではないかと思われるのです。そして、それ故に議論や思想・哲学が重要であり、また、その蓄積とも云える歴史、そして人文社会科学全般もまた、重要であるのではないかと思われるのです。

そうした意味から、端的に、おそらく戦後の我が国の高等教育は、間違った方向に舵を切ってしまったのではないかと私は考えます。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


ISBN978-4-263-46420-5

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