2017年3月19日日曜日

20170318 書店にて思ったこと(装置と芸術の違い・・?)

A「気がついてみましたら、投稿記事数も570に近づいておりました・・。

この調子にて記事作成を行っていきますと、来月中には以前に書いた目標通り600記事に到達することが出来るのではないかと思われます・・。

とはいえ、これは未だ先のハナシですので、この先もただ、出来るだけ毎日何かしら書いていこうと思います・・。

そういえば、本日久しぶりにある程度の時間を書店にて過ごしました。

大型の書店に行きますと、いつものことですが、知らないこと、読んでいない書籍、知らない分野の多さに愕然とします・・(苦笑)。

さて、本日赴いた某書店内に掲示されていたポスターから再認識したことであり、また同時に自身は視聴していませんので、そのストーリーは分かりませんが、今年の大河ドラマは織豊・江戸初期の井伊家が題材となっているようです。

そして、そこから以前に投稿した昨年の大河ドラマ『真田丸』を扱ったブログ記事内において、偶然にも、わずかながら井伊家のこと(井伊の赤備え)を書いていたことを思い出しました・・(笑)。

また、それに加えて、これまでに投稿したブログ記事にて数度取り上げている野上彌生子著『迷路』に明治以降、華族となった井伊家当主兄弟をモデルとした人物が重要な役柄で登場することも思い出されました。

この登場人物については、加藤周一著『日本文学史序説』下巻においても解説されており、その部分はブログ記事として抜粋引用を行った記憶があります・・。

考えようによれば、これらもなかなか面白い偶然であるのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、ここまで書いていて不図思ったことは、この野上彌生子著『迷路』を大河ドラマに限らず映像化してみるというのは、なかなか面白く、且つ、これまで為されていない試みではないかと思いますが、如何でしょうか・・?

また、以前には山本薩夫監督『戦争と人間』という、部分的には多少史実と異なるものの重厚な長編映画がありましたので、同じ戦後期、現代とはいえ、数十年程度の単位にて文化水準といったものは大きく変化する性質のものであるとも考えられます・・。

その意味で、おそらく自身を含め現在の我々とは、小説も映画もドラマも『手軽に感激することを目的とした装置』のように認識しているのではないかと思われます・・。

一面においてそうした認識は間違っていないとは考えますが、しかし、本来それらが、芸術である所以とは『そこから有無を云わせない何かを提示され、考えさせられること』ではないかと考えます。

異言すると、そうした芸術作品とは、感激は残さずとも、不可解ではあれ『何かしら強い印象』を心に残すものであると思われます。

そして現在、そうした意味での重厚な作品とは、かつてに比べ少なくなっているのではないでしょうか?

そして、たしかにそうした作品がかつてに比べ少なくなっているのであれば、その大きな理由とは、小説、映画、ドラマといった、モノガタリを人に提示する様式全てが『マンガ』を基準とすることが最も効果的な集客、販売につながると考えられるようになったからではないかと思われるのですが、如何でしょうか?
何でも分かり易ければ良いというものでもないらしいです・・。)

そしてそこから『(経済的な意味での)有用性の限界』および『文化水準とは何であろうか?』と考えさせられます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した大地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」