2023年11月25日土曜日

20231125 株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」 pp.346‐349より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」
pp.346‐349より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163647104
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163647104

「キリスト教はイエス・キリストに始まる」は一種の常識だが、「キリスト教はアレクサンドロス大王に始まる」という妙な言葉もあるといえば、驚く人もいるであろう。この言葉は字義どおりには正しくないが、キリスト教の母体となった新約聖書、その新約聖書へと結実した一つの時代の起点をアレクサンドロス大王とその時代に置くことは、むしろ通説といってよい。

 アレクサンドロスの東征とその文化政策はヘレニズム圏を拡大したが、このことは同時に、彼と彼の後継者の広大な支配地における東方文化が、逆にギリシャ語圏に浸透して行くルートを開拓することにもなった。さらに彼の帝国の主要部分がローマの勢力圏にはいると、地中海周辺の全文化圏を統合する広大な「コイネー・ギリシャ語圏」ができ上った。ローマ人はギリシャを征服したが、文化的には逆にギリシャに従属したため、この世界は一つの共通言語で総括できる文化圏になったわけである。コイネーは「共通」の意味、そして新約聖書の言語は基礎をこのコイネー・ギリシャ語に置いており、その基礎を置いたのがアレクサンドロス大王だったわけであるーといっても新約聖書は、各書によって非常に差はあるが、しかしもしこれがアレクサンドロス東征以前の共通語「アラム語」で記されていたら、ローマ圏への浸透は考えにくく、現代のようなキリスト教文化の成立はあり得なかったであろう。当時のローマ圏では新約聖書成立期にもそれ以後にも、著作はギリシャ語で行うのが普通であり、有名なローマ人プルタルコスの記した「英雄伝」もユダヤ人のヨセフスやフィローンの著作も、また初代キリスト教の多くの文書もみなローマ圏の国際語ギリシャ語で書かれ、その結果、広大な全地中海圏への浸透が可能だったわけである。

「七十人訳」の影響

ギリシャ語がイエスの時代にすでに深くパレスチナに浸透していたことは、その弟子に純然たるギリシャ名の者がおり、それを少しも不思議としなかったことでも明らかだが、同時にこのことは逆方向への浸透もすでに始まっていたことを物語っている。新約聖書がギリシャ語圏に浸透する前に、まず旧約聖書が浸透していなければ、旧・新約聖書を一体としてこれを正典としたキリスト教は成立し得ない。従って西欧におけるキリスト教文化の成立の基礎を提供したものは、イエスの生まれる200年以上前になされた旧約聖書のギリシャ語への翻訳であった。ヘブル語から訳されたこの旧約聖書のことを通常「七十人訳聖書」と言い、これまたアレクサンドロス大王に起因する西欧キリスト教文化発生の最も大きな出来事の一つである。

 この聖書が七十人訳と言われるのは、この翻訳がエジプトでプトレマイオス二世(アレクサンドロスの部将であったプトレマイオス・ソーテールの後継者。在位前283―前247年)のとき、王命によりイスラエル十二部族からそれぞれ六名ずつ選ばれた計七十二人の「最高の名声を持つへブル人」によってなされたと記す「アリステアスの手紙」という文書に基づく。だがこれは伝説の集録を基にした権威づけのための創作と思われ、現実には、アレクサンドリアに住むユダヤ人二世、三世のために、相当長期間にわたって徐々に訳されていったものと思われる。そしてこの翻訳が必要だったのは、当時すでに多くのユダヤ人が海外、特にエジプトに移住し、へブル語聖書が読めないユダヤ人二世、三世が生じてきたからであった。というのは、これの翻訳が始まったと思われる前三世紀より三百年も昔、すなわちエルサレムが陥落し、上層の人びとがバビロニアへ強制移住させられた、あの「バビロン捕囚」のときにも、多くのユダヤ人がエジプトの地にのがれたことが記されているからである。それらに関する記述は決して少なくないが、直接的な史料としては、ナイルのエレファンティン島のユダヤ人武装植民者―いわば一種の屯田兵として、川上からのスダン人の侵入を警戒し、同時にその地に植民者として住む―のアラム語の手紙「エレファンティネ・パピリ」が残っている。またある時期のアレクサンドリアは人口の半分以上がユダヤ人であったとも記されている。

 七十人訳は「人類最初の正典の翻訳」と言われ、文化史的には大きな意義をもつが、その目的はいわば「同胞のため」であり、決して他民族への伝道もしくは浸透を目的としたものでなく、またパレスチナでの使用を目的としたものでもなかった。とはいえ、ユダヤ人のローマ圏への移住が進むとともに七十人訳の伝播も広がり、同時にパレスチナの地の一般民衆の通常用語がアラム語になり、へブル語が「敷衍訳的解説つき」でないとわからなくなると、七十人訳が逆に「ギリシャ語化したパレスチナ」にまで影響を与えても不思議ではなかった。新約聖書の旧約聖書からの引用の多くが七十人訳によっていることを、学者は指摘している。
 移住したユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を中心に生活していたが、彼らはこれを非ユダヤ人にも開放した。ギリシャ人からの改宗者も少なくなく、その人たちは改宗者として新約聖書にも登場するし、ルカ福音書を記した医者ルカはギリシャ人だと思われる。そしてこの人たちが正典としたのがこの七十人訳であった。いわば旧約聖書は、広いローマ圏のどこでも、そのローマ圏の共通語で読まれ、かつ説かれたわけである。そしてローマの帝政時代には、外来の新宗教へのローマ人、ギリシャ人の改宗は決して珍しくなく、ある時期のローマは、今の日本の新興宗教のようにあらゆる外来宗教が、それぞれ隆盛をきわめ、その中には後にキリスト教と宗教的覇権を争ったミトラス教もある。以上のような状態を背景として、パレスチナからローマ圏内の諸会堂へと巡回して講演・伝道旅行をする師(ラビ)たちも決して少なくなく、これも亦新約聖書に登場するし、イエス時代にはダマスクスの女性の半分がユダヤ教徒になったという記録もある。以上のように西欧への聖書の浸透は長い期間を経て徐々に行われたわけで、七十人訳からテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教にするまでには、六百年以上の歳月が流れている。