2023年12月12日火曜日

20231214 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.124-126より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

合衆国において宗教が政治に及ぼす直接の作用については、いま(前節で)述べたばかりである。その間接の作用のほうがはるかに強力なように見える。宗教が自由について語らないときこそ、アメリカの人々に自由である術を最もよく教えるのである。

 合衆国には数えきれないほど宗派がある。そのすべてが人間連帯の義務については一致している。各宗派は、それぞれの仕方で神を崇めるが、すべての宗派が神のみ名において同一の道徳を説く。個人としての人間に、各自の宗教が真実であるということは意義が大きいとしても、社会にとっては問題にならない。社会は来世を恐れもしなければ、来世に望みもかけない。社会にとって最も重要なのは、すべての構成員が真の宗教を奉ずることではなく、一つの宗教をもてはよいのである。そして、合衆国のすべての宗派はキリスト教という大きな単一体に属し、キリスト教の道徳はどこでも同じである。

 アメリカの人々の中には、確信に従うというより、慣習によって神を崇める人が相当あると考えてよい。さらに合衆国では主導者(人民)が宗教的であり、その結果、一般に宗教的であるふりをせざるをえない。しかしアメリカはいまなお、世界中でキリスト教が人間の魂を動かす力を最も強く保っているところである。また、それが人間にいかに有益であり自然であるかを最もよく示している。今日、その力が人間に最も強く及んでいる国は、最も開明的であるとともに、最も自由であるからである。

 すでに述べたことであるが、アメリカの聖職者は市民的自由(の原理)に対して一般に賛成である。信教の自由を断じて認めない人々さえ例外でなない。しかし、特定の政治体制を支持することはない。聖職者は現実の問題に巻きこまれないように注意し、政党政派に介入しない。合衆国において、宗教が立法にも政治的な意見の細部にも影響を及ぼすとはいえないが、習俗を指導するのである。家庭を規制することによって、国家の規制にはたらく。

 合衆国に見られる習俗の厳正さは、信仰に第一の源をもっている。これを私は瞬時も疑わない。ここでも、富がさし出す無数の誘惑から男性を守るのに、宗教はしばしば無力である。男の、金持になりたいという熱望をすべてが刺激する。これらを和らげることは宗教にできまい。しかし、女性の魂にとって宗教は至上の権威をもっている。そして、習俗をつくるのは女なのである。まさしくアメリカは、婚姻の絆が世界で最も尊重される国であり、結婚の幸福について最も高く正しい観念が保たれている国である。

ヨーロッパでは、社会のすべての混乱は家庭と夫婦関係とをめぐって生じる。男性が自然の絆と正統な楽しみを軽視し、秩序の乱れに味をしめ、心が落ち着かず、欲望にも不安定を来すのは、ここにおいてである。自分の住居にしばしば紛糾があり、その激情に動かされるので、ヨーロッパの人々は国家の立法権に服するのが難儀になる。アメリカ人は政治の喧騒から離れて家庭に帰ると、秩序と平和との姿に接する。家庭では、すべての楽しみが簡素、自然であり、喜びには罪がなく、穏やかである。規則正しい生活によって幸福がもたらされるので、意見も趣味も(正常に)抑えておく習性ができやすい。ヨーロッパの人が社会を騒がせて家庭の悩みから逃れようとするのに対し、アメリカ人は家庭から秩序への愛を汲みとり、次いでそれを国事にもたらす。



20231212 中央公論新社刊 藤野裕子著 「民衆暴力」― 一揆・暴動・虐殺の日本近代 pp.24‐26より抜粋

中央公論新社刊 藤野裕子著 「民衆暴力」― 一揆・暴動・虐殺の日本近代 pp.24‐26より抜粋
ISBN-10 : 4121026055
ISBN-13 : 978-4121026057

興味深いのは、村の遊び日を研究した古川も、通俗道徳を論じた安丸も、遊興に流れる民衆の解放願望が、幕末のええじゃないかや世直し一揆につながると言及している点である。

 ええじゃないかは、幕末期に東海地方から近畿地方にかけて幅広く見られた、民衆が乱舞する現象である。暴力的な一揆が起らなかったとされる畿内でも、この現象が起きている点は興味深い。日本近世史家の西垣晴次は、ええじゃないかの共通点を次のようにまとめている(「ええじゃないか」)。

 ええじゃないかが始まるきっかけは、神社のお札が降ってきたことによる。降ってきたお札が祀られ、その後数日間にわたって祝宴が開かれるようになる。その宴から、ええじゃないかと歌いながら多くの人が踊り始めた。

 つまり、お札という異世界の要素が生活世界に持ち込まれたことをきっかけに、熱狂的な乱舞が始まったのである。歌は地域によってさまざまであるが、次のようなものもあった(同前)。

御陰でヨイジャナイカ 何ンデモ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ おまこ紙張れ へげたら又はれ ヨイジャナイカ

 このように、ええじゃないかでは性的な要素を含んだ歌が歌われた。女性は男装し、男性は女装するといった異性装も見られた。乱舞するなかで、人びとは勢いにまかせて、豪農の家へと押し寄せて、酒肴を強要することもあった。また、年貢の減免を要求したケースもあった(安丸「日本の近代化と民衆思想」)。

 ええじゃないかとは、現実とは異なる幻想的な世界を求める、世直し的な要素を持った踊りであり、集団的な熱狂の力を借りて、人びとは日常では不可能な要求を行ったのである。

 古川は、村の遊び日や若者組の祭礼行動の「極限的な到達点」が、一八六七年(慶応元)のええじゃないかであると述べている。願い遊び日のうち、かなりの部分が、ええじゃないかであったともいう。

幕末特有の社会不安、すなわち、この世がユートピア的な世界になるか、あるいはたたりのような災厄が訪れるのかわからない不安が、ええじゃないかという現象の根底にあった。そして、同様の衝動や願望が、世直し一揆における打ちこわしというかたちでの爆発的な暴力行使にもつながったのだと安丸はいう。

20231213 株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会 pp.35-38より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会
pp.35-38より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061495755
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061495753

ここで注目すべきなのが、そのオタクたちの幻想が営まれる場所が、江戸時代の町人文化に擬した一種のテーマパークのように描かれていたことである。前傾のコジューヴをはじめとして、日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は、「昭和元禄」という表現があるように、自分たちの社会を好んで江戸時代になぞらえていた。ポストモダニズムたちの江戸論は、八〇年代に幾度もメディアを賑わしている。

 この欲望のメカニズムは理解しやすい。日本の文化的な伝統は、明治維新と敗戦で二度断ち切られている。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶は政治的に大きな抑圧を受けている。したがって、八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやすい。大塚や岡田のオタク論に限らず、江戸時代がじつはポストモダンを先取りしていたというような議論が頻出する背景には、そのような集団心理が存在する。

 したがってそこで見出された「江戸」もまた、現実の江戸ではなく、アメリカの影響から抜け出そうとして作り出された一種の虚構であることが多い。「セイバーJ」が描くジャポネスは、まさに、そのようなポストモダニスト=オタクたちの江戸的な想像力のいかがわしさを体現している(図2)。超近代的な科学技術と前近代的な生活習慣を混ぜ合わせて設定されたその光景は、まったくリアリティを欠いている。TVアニメという性格上、登場人物は強いデフォルメでデザインされ、過剰に非現実的な感情表現をする。ジャポネス城は変形してロボットになるし、マリオネットたちの衣装もまた和服に似せてはいるものの、セクシュアル・アピールを強調するため随所に変形が加えられた結果、まるでイメクラのコスチュームのようになっている。低予算で作られたアニメのせいか、映像的にもセルの使い回しが多く、主人公以外の男性たちは、数人を除きほとんど描き分けられることがない。おまけに物語の多くはドタバタコメディであり、シリアスな設定と齟齬を起こしている。物語的にも映像的にも、ここにはいかなる深さもなく、いかなる一貫性もない。しかしそれはある意味で、オタク的な疑似日本の戯画であり、また、現代日本の文化状況の戯画でもある。制作者たちがそのようなメッセージを自覚的に込めたとは思わないが、筆者は以上の点で、「セイバーJ」は、オタク系文化の特徴をきれいに反映した隠れた佳作だと考えている。

オタク系文化の重要性

 ここまでの議論でも明らかなように、オタク系文化についての検討は、この国では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダンの問題とも深く関係している。たとえば、冷戦崩壊後のこの一二年間、小林よしのりや福田和也から鳥肌実にいたるまで、日本の右翼的言説は一般にサブカルチャー化しフェイク化しオタク化することで生き残ってきたとも言える。

したがって彼らが支持されてきた理由は、サブカルチャーの歴史を理解せず、主張だけを追っていたのでは決して捉えることができない。筆者はこの問題にも強い関心を抱いており、いつか機会があれば主観的に論じてみたいと考えている。