2021年2月13日土曜日

20210213 株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著 「サイファ 覚醒せよ!」pp.76-78より抜粋

株式会社筑摩書房刊 宮台真司 速水由紀子 著 
「サイファ 覚醒せよ!」pp.76-78より抜粋

ISBN-10 : 448086329X
ISBN-13 : 978-4480863294

森喜朗首相(当時)の「日本は天皇を中心とする神の国」発言で内閣支持率が二割を切ったように、日本を「一君万民」に戻してくれなどと望む人が多数を占める時代は、未来永劫やってこないでしょう。三島が好んだ「家畜人ヤプー」の主人公、燐一郎じゃありませんが、今から振り返ると、「私たち」は『それ』を望んだのだ」というほか、ないんですよ。その意味では、責任というならば、私たちに責任があるというしか言いようがなくなっているわけです。私たちが望んで選び続けている道なんですから。しかし、経済的に豊かな成熟社会を達成したあとの後知恵でしかないけど、私たちが望んで実現した「それ」とは、ひるがえってみると何だったのかということが、問題にならざるを得なくなっている。
 実はパブリックの不在は、耐久消費財が一巡して「経済的豊かさ」が達成された後、何が幸いなのかが人それぞれ分化し不透明化する近代成熟期(成熟社会)が到来した七〇年代前半には、一部で顕在化していたんです。それが三島事件の背景です。つまりこういうことです。戦後はアメリカが、近代天皇制的な擬似公共性(一君万民)を消去るのと引き換えに「政治的自由」をくれた。その自由の担保に必要な公共財を守ってくれるアメリカの核の傘の存在を前提にして、しかし紛うことなき国民的努力によって「経済的豊かさ」を達成した。そのプロセスで、国民的に合意された「経済的豊かさ」という目標の存在がー誰もがアメリカ的生活という輝きを欲望するはずだという前提がー、天皇主義的な擬似公共性が破壊されたあとの「政治的民度の低さ」すなわち近代的なパブリックマインドの不在を覆い隠してきた。正確に言えば、敗戦と経済成長の「共通体験」が、「同じ日本人」という共同体的共通前提を確保してくれた一方で、公共財を自ら守るという意志を欠落させたままでいられるという、両輪の一方を欠く状況が続いたわけです。

 ところが七〇年代の幕開け。国民的目標を達成した「あと」の成熟社会が始まる。そこで誰よりも早く三島由紀夫が、今私たちが右往左往しているような問題に気づいた。君や僕と同じで「SF好き」だった三島なればこその先見性だったと思うよ。国民の大半は、九〇年前後に、冷戦体制とバブル経済がほぼ同時に崩壊するまで、三島的な問題に全く気づかなかったわけです。しかし七〇年に三島事件が起こってしまった以上、この事件が提起している二つの選択肢の存在に、本来私たちは気がつくべきだったんだよ。一つが、三島が言うような一君万民メカニズムへの回帰という選択肢なのは言うまでもないとして、もう一つ、三島的な選択肢を否定するならば当然意識しなければならない選択肢があったはずなんです。すなわち鈍感な国民の多くが未だに「経済的豊かさ」という国民的目標があると錯覚してくれて政治的統合(パブリック)問題を免除されているうちに、否定された一君万民メカニズムに代わる、新しい近代的パブリックを樹立する必要があったということです。

 ところが、そこに起こったのは、新しい近代的パブリックの樹立じゃなかった。むろん三島由紀夫が気づいていたように、一部でアノミー(目標の空白)は確実に進行しつつあったんだが、しかし、それを埋め合わせるべく進行したのは、パブリックの樹立どころか、七〇年代半ばから一挙に進んだ日本的な「学校化」だったというわけなんだね。