2017年10月12日木曜日

20171012 『読書百遍義自ずから見る』と血肉化(インカーネーション)などについて・・

A「先日投稿のブログ記事に書きましたとおり、ここ最近はジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』上巻を再読しています。

再読ということもあり、読み進める速度は初回目よりも若干早いと思われますが、それと同時に、よく分からない表現などがある場合、読み進めるのを止めて、その場で考えてみたりする(そこで述べられている文章が具体的にどのような史実を踏まえているのか、あるいは類似する我が国の史実を検討してみる)のもまた特に再読の際によく行うことです。

そのようにして何度かその著作を繰り返し読んでみますと、大体の場合、著作の概容がある程度深く理解され、一種の血肉化(インカーネーション)が為されるのではないかと考えています。

あるいは故事に云われる『読書百遍義自ずから見る』にもまた相通じるのではないかとも思われます。

そしてまた、そうした読書と並行し、類似した内容の別の著作を読んでおりますと、より一層何と云いますか双方著作に対する、より深くからの理解が効果的に為されるのではないかとも考えられます。

そのことを考えたのは、本日昼に休んでいる時、これまた先日来より一人輪読(笑)を続けているユヴァル・ノア・ハラリ著『Sapiens: A Brief History of Humankind』を読んでおりますと、その最中、冒頭にて挙げた『銃・病原菌・鉄』文中において出てきた単語、コトバが認められ、それにより、その(『Sapiens: A Brief History of Humankind』)文章の背後にある『文脈』を何となく理解、把握出来た感じを持ち得るに至り、また、それはたしかに大意としては間違ってはいないのです・・。

さらに本日に関してはそればかりでなく、これも先日投稿の記事においても挙げた岡正雄論文集『異人その他』を読んでおりますと、これがまた、和書であるにもかかわらず、さきの二つの著作に対してよく調和するように思われたのです(笑)。

食べ物にてたとえますと、適当であるか分かりませんがホース・ラディッシュにて食べるロースト・ビーフは山葵にて食べても決して相性は悪くない、といったところであり、ともかく自身としては、ここに取り上げて書くほどには感心したのです(笑)。

そこで、自身がそのように感じた理由について納得のいく説明を求めようと(これは一つの私の悪い癖であるのかもしれませんが・・(苦笑)。)調べてみますと、この著者、著作とは、扱っている内容が基本的には我が国のことがらでありながら、その扱い方、論述の手法が大変欧米的(?)であり、私なりの表現を用いますと、多少誇張しておりますが、『英論文を和訳した文章』といったような感じを受けるのです・・。

おそらくそれは、著者である岡正雄が長年にわたりオーストリアのウィーンにて学び、研究をしてきたという背景があるのではないかと思われますが、昨今評判の外国人による二著作と決して新しいとはいえない日本人による著作の読み合わせ、相性が悪くないということは、自身としてはなかなか画期的なことではないかと思われたのです・・(笑)。

これがたとえば、当ブログ記事に頻出しております加藤周一著『日本文学史序説』ではこうはいかないのではないかと思われます・・。
(私見によりますと加藤周一も長年欧米に滞在していたのですが、その書かれた日本語の文章から、さきのような感想を持ったことはありません・・。)。

このように考えてみますと、なかなか文章といったものもまた、奥が深いような感じがしてきました(笑)。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域の諸インフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。」

































20171011 継続を意識しなくなった時にこそ(有意な)変化は生じるのであろうか?

A「これまで二年以上にわたり、ほぼ毎日ブログ記事を作成投稿してきましたが、その過程により、自身とは多少は進化発展を遂げたのかと自問してみますと『明確には、それは分からない・・。』といった答えになります。

ただ、文章を書く技術に関しては多少の進歩が認められるのではないかと思われますが、これに関しても、かつて自身の知性が最も高い水準にあった時期と比べますと『果たしてその時期以上の段階にまで達しているのであろうか?』といった疑問が生じてきます・・。

とはいえ、明らかに進歩していると思われることは、継続的にある程度の長さの文章を作成することであり、これに関しては、これまでの人生で最も充実しているのが現在であるといえます。

そして、そのように考えてみますと、冒頭に書いた進化発展の有無などもまた『特に気にすることでもないのかもしれない』と考え得るに至るのです。

一方で『長い期間書き続けるのは結構ですが、それより大事であるのは、やはり中身ではないだろうか?』といった、もう一つの内心からの声が聞こえてきます・・(苦笑)。

とはいえ、そこで抗弁させて頂きますと『おそらく、作成された文章のうちのほとんどが駄文であろう、しかしそうであっても、とりあえず書き続けないことには中身(文章)の進化発展もまたあり得ないことから、少なくとも(現在をも含む)書き始め当初の時期においては、相対的に中身云々よりも、とりあえず(多く・長く)書き続けることの方が大事ではないかと考える。』といった感じになります。

そうしますと今度は『では、どの程度の量・期間を書き続ければ、その中身とやらの進化発展は生じるのか?』といった質問が為されるのではないかと思われます。

すると『それに対しては最終的には私自身が判断を下すのであろうが、書くことを継続している際に為される一つ一つの小さな無意識ともいえる文章に対する工夫、改良などは『わずかな変化』とは評することが出来るのかもしれませんが、しかし、それらは必ずしも『進化発展』であると評することは出来ないものと考えます。それ故、どの程度の量・期間といった具体的なことがらに対しては、当然であるのかもしれませんが、明確に返答することは出来ないと考えます。

むしろ、ある程度何かを調べて分かることであるのならば、積極的に御教示を賜りたいところではありますが、残念ながら、これまでにそうした具体的な数値を示した書籍・文献・事例といったものを見受けることはありませんでしたので、おそらく今後しばらくは、そうした状況が続くのではないかと思われます・・。

要するに、そのその先については(毎回)未知の状況であるのです・・(笑)。

そして、毎日書き続けるなかで、どのような変化が生じるのかと考えるのにも飽きた頃に、そうした変化とは、さりげなく生じるのではないかと思われるのです・・。

つまり、あまり『変化』という自覚を生じさせない、感知し得なくなった時期およびその継続にこそ、さきに書いた(毎回生じる)未知の状況と混然一体となり、漸進的なものであれ新しい精神の位相となっていくのではないかとも思われるのです・・。

とはいえ、それは主体として明確に認識可能なものではないのでしょうが・・(笑)。

それ故、結句として、こうしたことはあまり気にしてもしょうがないことであり、同時にとりあえず書き続ける以外に有効と思しき選択肢はないのではないかと思われるのです。

また、書き続けておりますと、時折は多くの方々に読んで頂ける記事が作成されることもまたありますので・・。

そして、それらは当然ではあるのですが、あくまでも企図したものではないのです(笑)。

しかし一方で、それらを企図して行うことが出来るようになれば、それはそれで一つの進化発展の様式ではあるのかもしれませんが、同時にそれのみが(有効な)進化発展ではないとも思われるのですが如何でしょうか?

また、おそらくここまでの思考のこの地点に理系・文系学問間に存在する考え方の大きな相違といったものが横たわっているではないかと思われるのですが、これも如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きまして、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

また、つい先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』