2024年4月27日土曜日

20240426 鹿児島訪問による記憶の励起と、それに対応する言語との関係について

昨日は直近の鹿児島訪問による、かつての在住期間での記憶の励起、そして想起について述べましたが、これらの想起された記憶は、これまで(どうにか)9年近く当ブログを継続してきた私の基層近くにあるものであり、また同時に、以前、当ブログにて述べたことではありますが、これまでのいくつかの異郷での在住経験の中でも印象深い地域であると言えます。

もちろん、それ以前の和歌山での記憶も、和歌山市と南紀白浜とで、それぞれ記憶がありますが、それらは総じて鹿児島のほど、強烈なものではありません。とはいえ、おそらく、記憶とは、強烈であればあるほど良いというわけでもなく、また私の場合、和歌山、南紀白浜での記憶があったため、さらに西南方向にある鹿児島での新たな生活も、そこまで大きな心身への負担を伴わずに、どうにか馴染むことができたのではないかと思われます。

また、昨日の投稿のブログで「鹿児島での記憶は人に関するものが多い」と述べましたが、これは鹿児島の中心市街地と言える天文館を歩いていると、かつての記憶が思い起こされました。また、それは必ずしも自分が歩いている天文館にまつわるものだけではありませんが、「・・ああ、そういえば、そうだったなあ・・。」といった、いわば、隠れて見えなくなっていた在住当時の記憶が、突如現れるといったことが多いと言えます。

さらに、人との対話から「ああ、そういえば、あの時はそうだったなあ・・」といった具合に想起されることもあり、その記憶を対話の場で話して、当時の様子がさらに鮮明に思い出されることもありますが、割合として多いのは、先に述べたような、市街地を歩いている時などです。

ともあれ、先日の鹿児島訪問でも、そのようにして、記憶が度々想起され、また、そうした記憶のことを本日ではありませんが、またいずれ、当ブログ記事で述べたいと考えていますが、しかし、ここまで書いていて、不思議あるいは面白いと思われたことは、想起された記憶の内容が、いずれも実際に自らの経験であることを疑わないことです。

つまり、それらの記憶はいまだ反省や考察を経ておらず、いわば即自的な記憶であり、また他方で、それが自らの、より具体的な記憶の素材になるということです。そして、この想起されて間もない記憶は、その後に為されるさまざまな検討、考察において極めて重要なものとなり、そこから、この段階における、ある種の「愚直さ」ともとられかねないほどの「率直さ」すなわち、現象と、それに対応する言語の精確さのみに注意を集中した態度が重要になるのではないかと思われます。

そしてまた、こうした「率直さ」とは、おそらく、社会におけるさまざまな文化現象が洗練、発展するにつれて、多くの場合、それに伴い、社会におけるスノッブ的な傾向が強化され、徐々に「率直さ」のような態度がダサく、カッコ悪いものと見なされることが多いのではないかと思われます。

とはいえ、そのようにして、社会において現象とそれに対応する言語の関係が、あまり考慮されなくなりますと、やがて、誰もが自信をもって自らの言葉で表現することが困難になっていくのではないかと思われます。

そして、このこと、つまり現象と言語の対応関係については、鹿児島を主とする九州での在住期間によく悩んでいた記憶がありますので、私にとって九州、鹿児島への訪問は、先述の現象と言語との関係における率直さをあらためて考えさせる契機となる一面があると言えます。

現象と言語の対応関係の精確さについて、私もそこまで意識しているわけではありませんが、しかし、それがあるからこそ、ある程度、現実での現象と言語とを調和させることが可能になり、そしてまた、そこから歴史や、その蓄積から抽出される思想などへと結実することもあると思われるのです。

そして、その意味において、今世紀に入ってから昨今に至るまでの我が国の各種文化は、先の「現象と言語の対応関係の精確さ」の欠如を望んでいるようにも見え、またそれは思いのほかに成功しており、現今の我が国社会全般では、「Y本のお笑い」でよく聞かれる語彙や言い回しが盛んに流通しているのではないかと思われます・・。

どちらにせよ、私の場合、鹿児島を訪れると、自らの言語の使用方法や、その言語の現象への対応関係などについて考えさせられますが、その意味で、あるいは九州の言霊・気風の方が、日本語本来の性質(Genius)を現在により精確に伝えているのではないかと考えさせられ、また、そこから谷川健一が述べていた、琉球や鹿児島の島嶼部などの謡が、我が国の詩や文学などの起源となったという説もまた、そこまで荒唐無稽なものではないと私は考える次第です。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。










2024年4月26日金曜日

20240425 今回の鹿児島訪問と個性について

さきほど気が付きましたが、昨日分の記事投稿により、当ブログの総投稿記事数が2180に達していました。そして、今後さらに当記事を含めて20記事の更新により、当面の目標である2200記事に到達することが出来ます。これを現実に落とし込みますと、20記事の更新は毎日1記事投稿のペースで20日間となり、来月中旬頃での到達が見込まれますが、これに、もう少し余裕を持たせて、どうにか来月中での到達が出来れば良いと現時点では考えています。とはいえ、先日の久々(半年ぶり)の鹿児島訪問により、懐かしい先生方にお目に掛かることが出来、また、そうした中で、知ってか知らずか、何度か、以前に当ブログにて述べたことを話題にされていたことが、異なる方々との会話であったことから、思いのほかに当ブログを読んで頂いているのではないかと、推察されましたが、こうしたことは、以前にも述べましたように、気にしても仕方がありませんので、とりあえずは放置安定にて以降も進めて行きたいと考えています・・。

さて、昨日投稿の記事にて述べましたが、私の場合、鹿児島滞在期間の記憶は、その自然環境よりも、人々の雑踏の中のような、日常の生活の場のなかで、より想起される傾向があると思われます。また、以前、お世話になった先生方と会話をしていますと、自然と、こちらも以前に先生方と対応していた時分のテンションになるのですが、それが現在の通常の私のそれと比べますと有意にハイテンションであり、そして先生方との会話も盛り上がるのです・・。

現在の社会風潮からしますと、こうしたことを現在のこととして述べることは困難であるのかもしれませんが、10年以上前の鹿児島では飲み会(飲ん方)の話題で所謂「下ネタ」になることは少なからずありました。そして、その「下ネタ」で爆笑することも度々あり、こちらの鹿児島では、そうした飲み会(飲ん方)での「下ネタ」が職人的に巧みな先生(当時大学院生で病院助教)がおられ、現在思い返してみますと、こちらの先生のあの才能には驚異の念すら抱かせます。あるいは、ああした才能が別様に進化したものが、同郷と云える綾小路*みまろ氏の当意即妙な話芸にも通底するのではないかとも考えさせられます。

ともあれ、以前に在住していた場所に訪問して、彼の地の方々と会話をしていますと、またそこで、いつもよりテンションが上がり、そして、それが作用して、記憶の想起へと至るのではないかと思われますが、その意味で、今回の鹿児島訪問は当ブログの記事作成のための貴重な糧になったとも云えます。どうもありがとうございます。

また、40代にもなりますと、さすがに相対する方が発する精神的な特徴(波長のようなもの?)は、おそらく半ば無意識で類型化するものであり、その中で分類が困難であると思われた方々は、やはり、それぞれに多少変わったところがあるのだと云えます。そしてそれは、さきに述べたテンションの上下によって、類型化、認識の仕方も変化するのかと考えてみますと、それにはあまり影響はしないと考えます。

あくまでも私見ではありますが、相対する人の精神的な特徴を感知するのは、そのテンションからではなく、それよりも、その話す内容によるところが大きいのではないかと、当然と云えば当然のような考えに至るわけですが、では、その話す内容にどのような特徴があると、類型化が困難になるのかと考えてみますと、これは多種多様であり、汎用性のあるマニュアルに基づく審査のようにはならないと考えます。

とはいえ、それでもやはり、それを推し量る指標があると考えてみますと、それは「類型化に反する変わったもの」として考えてみますと、当然と云えば当然であるのかもしれませんが、「突出した何かを持っている」ことが共通して挙げられると考えます。それは自らの努力によって獲得したことであることから、それが、その人の性格の他の部分にまで影響を及ぼして類型化が困難と云えるある種特徴的な性格を形成するのではないかとも思われます。

そうしますと、では「突出した何かを持っている」とは、どのようなことであるのかと考えてみますと、これもまた「突出した」自体が多くの場合、抽象的且つ相対的なものであり、あるいは私がそのように考えるだけであるのかもしれませんが、何らかの卓越した学識や技術を持たれているとされる方々は総じて、将棋や囲碁などの名人や名板前、シェフなどにも通じるものがあるのか、ある種の個性(の強さ)を感じさせます。とはいえ、「突出した何かを持っている」は「個性の強さ」と、あくまでも同意ではなく、また、必ずしも繋がるものでもなく、これを言い換えますと、比較的表層的とも云える「個性の強さ」がある中に「突出した何かを持っている」が見つかることがあると云うほどのことです。しかしながら、表層的とした「個性の強さ」を、これまた表層的とされるテンションでなく、その「話す内容」で判断することは、なかなか難しく、そこで聞き手が理解出来る程度に、自らの卓越性を示すことが出来れば、それはそれでスゴイことであるのでしょうが、おそらく精度の維持のためには、ここで、それなりに長い審査期間を要するのではないかと思われます。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2024年4月24日水曜日

20240424 かつての在住地での感覚や記憶の想起に至る契機から

エックスをご覧になっておられる方でしたらお分かり頂けますが、先週末から去る4/22(月)まで所用のため鹿児島に滞在していました。今回の鹿児島への訪問は、ほぼ半年ぶりでした。

 着陸した飛行機から降りて飛行場内の待合室に繋ぐ可動式の連絡通路(ボーディング・ブリッジ)に入りますと、そこではじめて地域の大気に触れることになりますが、そこで何らかの反応であるのか、かつての鹿児島在住時の感覚や記憶が想起され、甦ってきます。

 空港から鹿児島市内に行く高速バスに乗りますと、そこでまた地域の大気や景色に触れて感覚や記憶が強化されて、やがて目的の市内停留所に到着してバスを降りて市街地を歩いていますと、ここでも、在住当時の感覚や記憶が想起されます。

 こうした一連の経緯は、自らの経験によりますと、和歌山においても同様であったと思われますが、和歌山の場合は、地域の大気から感じられる濃厚な自然の薫りこそが、そこでの記憶の励起や強化に寄与していると思われます。そしておそらく、そうした自然の薫りは和歌山市からさらに海南、有田、湯浅、御坊、印南、みなべ、紀伊田辺、南紀白浜までと南下して行きますと、さらに強くなり、当時の記憶や、それに付随する記憶なども想起されるのではないかと思われます。その意味で、私の和歌山での記憶は、同地の自然環境に強く依拠しているのだと云えます。また、以下については全あくまでも自らの偏見になりますが、そうした豊かで濃厚な自然環境があるからこそ、その地紀伊半島西岸一帯で、世界に知られる我が国の和食文化での重要な調味料である醤油や鰹節が生れたのではないかと思われるのです。

 このことは、別の機会でさらに詳細に検討して述べたいところですが、ともあれ、私の場合、在住経験を持つ地域に行きますと、在住当時の記憶が想起されることが多く、そうした中、和歌山でのそれは、彼の地の濃厚な自然環境に依拠するところが大きいと云えますが、その理由については不明です。そして他方、先日訪問した鹿児島については、さきの和歌山と同様、自然環境の薫りに因るとも云えますが、それ以外にも市街地の雑踏や市電での移動時の車両内の様子などといった、その中に人間が含まれている景色から、当時の感覚や記憶が想起されるといったことが多いように思われます。

 そして、その理由について考えてみたところ、和歌山の場合は、当初、自然が多い南紀白浜に在住していたことから、雑踏や市電といった都市的な要素が入り込むことがなく、また、南紀白浜への移動は、3、4月とは云えなお寒い雪景色の北海道からでしたが、この転勤に伴う環境の変化が大きかったのではないかと思われます。そして、おそらくはそのために南紀白浜転居後からしばらくの期間は、食べる食べ物が何でも美味しく感じられました。その中でも特に強く印象に残っているのが、転勤後しばらくして行った田辺市宝来町の国道424号線沿いにあるうどん そばのお店で頂いた、うどんと丼ものの定食でしたが、そこで私は初めて関西風のだしの美味しさを実感を通じて理解した記憶があります。ともあれ、このように初めての関西圏での生活は、特に当初から色々と驚くことがありましたが、そうした経験を得たのが、関西圏で辺縁と云える和歌山県の、さらに辺縁である南紀白浜であったことが案外、私にとっては良かったのではないかと思われるのです。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2024年4月19日金曜日

20240418 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」 pp.58‐60より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

十四世紀以降バルカン半島を支配していたイスラム王朝のオスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)を基盤とした統治制度を敷いていた。しかし、フランス革命後バルカン半島にも西欧から「ナショナリズム」概念が入ってくると、バルカンの非ムスリムは各地で自治権獲得の運動や、独立運動を展開した。その結果、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロは十九世紀中にオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治権を獲得した。各国は、「同胞民族」と見なす人々が国境の外に依然として存在すると主張し、「同胞民族」の居住する地域の獲得を目指した。獲得すべき土地があったのはオスマン帝国であった。また、多民族国家であるオーストリアの南部地域もバルカンの民族国家は狙うことになる。

 オスマン帝国領ボスニアは一八七八年のベルリン条約によりオーストリアの施政権下になっていた。一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、ブルガリアが独立を宣言すると、オーストリアはボスニア併合を宣言した。ボスニアの獲得を目指していたセルビア国内では、政府やメディアが反墺的主張を展開し、多くの民族主義団体が組織された。その中には、青年ボスニアとも関係を持つことになる「統一か死か」(通称か死か」(通称「黒手組」もあった。

 バルカンのオスマン帝国の獲得を目指しバルカン同盟を締結したセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは、一九一二年一〇月、オスマン帝国を攻撃した(第六次バルカン戦争)。その戦争の局地化を目指して外向的介入を行ったヨーロッパ諸大国は、国際会議を開催し、オスマン帝国領マケドニアを同盟諸国に譲渡する一方、オスマン帝国領アルバニアを独立させることで一致した。後者を強く主張したのが、オーストリアとイタリアであった。アドリア海に面するアルバニアの獲得を目指していたセルビアは、強く反発した。第一次バルカン戦争終結後に、今度は、バルカン同盟が獲得したマケドニアの分割をめぐって同盟内で対立が発生した。一九一三年六月、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。しかし、ブルガリアは反撃されただけでなく、第一次バルカン戦争で戦ったオスマン帝国、さらには中立を保っていたルーマニアからも攻撃された。そのためブルガリアは敗北し、第一次バルカン戦争で獲得した領土の重要な地域を喪失した。他方、二つのバルカン戦争によって、セルビアの領土は二倍となった。セルビア内外でのセルビア国家の威信は否応なしに高まった。これは、オーストリアにとって致命的な問題であった。

 また、オスマン帝国の勢力がバルカンから駆逐されたことによって、セルビアとルーマニアの次の領土獲得の対象がオーストリアであることは明らかであった。ボスニアを含むオーストリア南部のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の一部には隣国セルビアとともに、南スラヴ国家(=ユーゴスラヴィア)建設を目指す動きもあった。セルビア国内にも同様の考えを持つ者がいた。オーストリアの政策決定者にとって、この南スラヴ運動は、国家の解体を意味したので、セルビアは不倶戴天の敵であった。ウィーンには、外交的手段ではもはやこの問題を解決することはできないとの考えが充満していった。そのような時に、サライェヴォで暗殺事件が起きたのであった。

2024年4月17日水曜日

20240417 和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

第2章 ケアンズの価値論

第1節「中間原理」

 ケアンズの価値論が明確に指示されているのが1874年に出版された、「経済学の主導的な原理」であろう。

 本章では、第1章で指示したケアンズの原理(理論)と事実(データ)との関係について見ていこう。

 この原理(理論)と事実(データ)の融合こそが、「経済学の主導的な原理」の目的であった。導入部分でケアンズは、当時、多くの経済学の新たな動向が存在していることを認識しながら、自身の研究が「スミス、マルサス、リカードウそしてミルの労働によってつくられた科学の態度」の延長線であるとする。具体的にケアンズが同一であるとする内容は、人間の性格や経済科学の究極的な前提を構成する自然の物理的条件に関する仮説である。そしてそれらの前提と事実から導入された結論もスミス以降の経済学者のものと異ならないとする。

 一方でケアンズは究極的な原理と結果としての事実との結びつき自体は間違っていないと信じ、その結びつきを説明する原理に問題があるとしており、その説明原理の適切性の必要を説く。

「彼ら(スミス、マルサス、リカードウ、ミル:訳者)と意見が異なる点は、ベイコンの言葉で「〈中間原理(axiomata media)〉」と呼ばれるものである、この中間原理によって、詳細な結果が生み出される高度な原因が説明される。…現時点で一般的に受け入れられている経済学のこの部分における間違った素材はない。そして現在のすべきことは、現在の批判に耐えることができるように、弱い要素をより良い要素にできるだけ替えていくことである。」                       (Cairnes [1874]1)

「中間原理」は、方法論に関するケアンズの書「経済学の性質と論理的方法」で指摘されている。その指摘を利用して、ケアンズが原理をより良いものにしようとしていたことについて説明する。

 書の第3講「経済学の論理的方法」で、ケアンズは社会科学と自然科学の方法を比較する中で、社会科学が自然科学に対して、相対的な利益を有する部分もあると指摘している。(Cairnes[1888]81)それは自然科学は法則を成立するのにとても長い時間を要するのに対して、「〈経済学者は知識や究極的な原因からスタートできる〉」(Cairnes[1888]87)からである。

 経済学では次のような他の科学から得た具体的な事実を利用できるのである。心理的な感情、動物的な性向、生産を支える物理的条件、政治制度、産業上の状態、などであり、これらは他の科学の分野が生み出した結論なのである。

 ケアンズはベイコンの「諸科学の成長(De Augmentis Scientiarum)」やヒューウェルの「帰納科学史」などを利用して、自然科学の歴史的展開について説明する。人間は問題をそのまま未解決にすることを好むのではなく、固定的な概念を、長時間の考究の上で獲得したがるものであり、複雑な現象に対する究極的な原理を古代から想定してきたと説明する。

 タレス、アナクシメネス、ピタゴラスなどの哲学者により、観察に基づき究極的な原理が考えられてきた。その際に用いられた方法は帰納法であり、その方法こそが自然科学の考察の土台であった。そして帰納法に基づき推測された結果と事実との整合性に関する長い調整の結果として確実な前提が得られるようになるとともに、演繹法が確実に影響力を発揮するようになってきたとケアンズは指摘する。

「演繹的推論での発見の成果として・・・高度な原理と経験との結びつきを媒介する多くの原理(中間原理:筆者)が存在した。物理科学の進歩は、アルキメデスや古代の思想家がなしたことにも関わらず、ガリレオと同時代人が主要な動的原理を確立するまでは、歩みが遅かった。しかし一度確立されると、・・・力学、流体学、気学などより土台となる原理に含まれるものが、急速に続いた。」               (Cairnes[1888]85)

ケアンズの指摘する修正すべき「中間原理」は、したがって他の学問より帰納的そして演繹的に獲得された究極的な原理から、ミルまでの古典派経済学者が演繹を行い説明しようとする、まだ事実によって検証され確定されてはいない原理(説)を指す。 
         

2024年4月16日火曜日

20240415 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.350-353より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.350-353より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520  

 妄想ーひとつであれ複数であれーというテーマで話をと依頼されて考えてみたところ、現代における妄想といえば、そのひとつは間違いなく陰謀にかかわるものであろうと思いあたった。インターネットでちょっと検索すれば、どれほど多くの陰謀(当然、どれも偽物だが)が告発されているか、すぐに分かる。しかしながら、陰謀という妄想はわたしたちの時代特有のものではなく、過去にもかかわるものである。

 歴史上陰謀がこれまで存在してきたこと、そしていまも存在することは明白だと思われる。ユリウス・カエサルの殺害に、火薬陰謀事件、ジョルジュ・カドゥダルの恐ろしい爆弾装置、どこかの会社の株式を買い占めるため日々実行されている金融機関の陰謀。だが現実における陰謀の特徴は、ただちに露見する点にある。陰謀が功を奏する(ユリウス・カエサルの例をみよ)にせよ、失敗する(ナポレオン三世を殺そうとしたオルシーニの陰謀、ユニオ・ヴァレーリオ・ボルゲーゼが一九六九~七〇年に計画した、いわゆる「森林監視隊のクーデター」、はたまたリーチオ・ジェッリ)にせよだ。現実の陰謀は神秘めいてはいないため、ここでは扱わない。

 それよりもわたしたちの興味をひくのは、陰謀症候群や、ときに世界的に広がる陰謀論でっちあげ症候群という現象である。これはインターネット上にあふれていて、ジンメルがいうところの秘密と同じ特徴を備えているために、永久に神秘的で不可解なものでありつづける。その特徴は、中身がからっぽであればあるほど、秘密はより強力で、誘惑的になるというものだ。中身のない秘密は脅迫的に映り、暴露されることも、異論を唱えられることもない。まさにそれゆえ権力の道具となる。

 多くのウェブサイトで話題にされている第一の陰謀、九・一一について話そう。巷にはたくさんの推理が出まわっている。まず、陰謀はユダヤ人によって企てられたという極説がある(アラブ系のイスラム原理主義か、ネオナチ系統のウェブサイトにみられる)。あのふたつの高層ビルに勤務していたユダヤ人は、当日出勤しないように指示されていたという。レバノンのテレビ放送局アル=マナールで伝えられたニュースは明らかに偽物だった。実際には、あの炎上によって、数百人のユダヤ系アメリカ人とともに、イスラエルのパスポートを有する市民が、少なくとも二〇〇人は命を落としている。

 ほかには、アフガニスタンとイラクに侵攻するための名目ほしさに攻撃を企てたとするアンチ・ブッシュ説がある。アメリカ合衆国の、多かれ少なかれ正道を逸したさまざまな諜報部の手によるとする説もあれば、陰謀はアラブ系のイスラム原理主義者によるものだが、アメリカ政府は事前にその詳細を把握していたにもかかわらず、のちにアフガニスタンとイラクを攻撃する口実をつくるため、事態になんら対処しなかったという説もある(日本と戦争をはじめるための建前が必要だったために、目前に迫った真珠湾攻撃のことを知りながら、船隊を救うためになにもしなかったと言われたルーズベルトの例と似ている)。こうした事例すべてにおいて、陰謀のうち少なくともどれかひとつでも支持する者たちは、公的な事件再現は誤りであり、詐欺であり、子どもだましだと考えているわけだ。

 これらのさまざまな陰謀説について知りたいと思うなら、ジュリエット・キエーザとロベルト・ヴィニョーリ監修による『ゼロー九・一一の公式発表が虚偽である理由』を読んでみるといい。信じがたいことだろうが、世の中で尊敬されている人たちの名が協力者として挙げられている。敬意のしるしに、名前は挙げないことにする。

2024年4月15日月曜日

20240414 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」 pp.226-228より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。

 西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。

 東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。

 唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。

 人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。

2024年4月13日土曜日

20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー

 この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。

 将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。

紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。

紀氏の朝鮮での記録は、まだある。

雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。

 これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、

〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉

そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。

〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉

小弓の訴えを耳にした天皇は、

〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉

と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。

 さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。

 が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。

激戦になった。

 この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。

 乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。

「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」

そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。

討伐軍の悲運はそれだけではない。

大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。

雄略天皇の九年、夏五月。

陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。

大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。

 異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。

「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」

そんなある日

百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。

大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。

 おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。

 このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、

「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」

と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。

神聖王、紀大磐

 しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。

紀大磐宿禰である。

ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。

 大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。

『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。

〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉

というのだ。壮大な野望である。 

 そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。

 狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。

ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。

『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。

 当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。

とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。

 ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。

 もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。 

 もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。



2024年4月11日木曜日

20240411 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

 紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。

 いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。

 農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。

 しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。

 事実、紀氏の勢力は目をそばだたせるほどの勢いでヤマト政権のなかに膨れ上がり、各地に拡がっていく。

 この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。

 いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー

まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー

 といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。

でー

これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。

 朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。

 朝鮮の檀君神話では、

〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉

のだという。

 それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。


2024年4月9日火曜日

20240409 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。

 こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。


20240408 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

ドイツのヨーロッパ外への膨張については、しかし、なお一つの途があった。それは、陸路によってドイツ本国と連絡された植民帝国または勢力圏を建設することであった。そして、現にこの時期のドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を拠点としてその勢力をバルカン半島へのばし、さらにこの半島を「東方世界への橋」として、中東(Middle East)へ帝国主義的支配を及ぼそうと企てていたのであり、それは、具体的にはコンスタンティノープルからアジア・トルコを貫いてバグダード(Baghdad)にいたる鉄道敷設計画を根幹として進められていたのであった。しかも、この計画もペルシャ湾を窮極の目標としるものであった点において、イギリスの「インドへのルート」を脅威するものとなり得たのであり、従って、この鉄道敷設計画は現に対英関係を甚だしく緊張せしめることになった。

 ドイツは、以上のようにして、世界帝国イギリスと経済的・政治的に次第に鋭い帝国主義的対立の関係に立つことになった。ドイツの海軍大拡張、および、それにともなって英独両国間に展開されることになった建艦競争は、実にその集中的表現にほかならない。ドイツは一八九八年に海軍拡張七ヶ年計画を立てたが、それは沿岸守備を主たる建前とした在来のドイツ海軍を大洋において作戦行動を行い得るものに発展させ、海相ティルピッツ(v. Tirpitz)の言葉をかりていえば、ドイツ海軍を列国にとって無視し得ない存在たらしめることがその目的であった。しかも、それから僅か二年後の一九〇〇年には、南ア戦争(South African War;ブーア戦争 BoerWar)によりドイツ人心の中に反英感情が沸騰するにいたった機会をとらえて、以上の計画をさらに飛躍的に拡大した海軍拡張一七ヶ年計画を作成した。この計画の目標は、明白にイギリスに拮抗し得るところの海軍を建設することにあった。ドイツがこのように海軍大拡張を企てるにいたったのに対しては、イギリスももとより傍観することはできず、一九〇三年には巨大な海軍拡張計画を立案、これに対抗するにいたった。

 さて、英独帝国主義の次第に先鋭化するこの対立を軸として、国際政治は大きくその様相を改めることになった。イギリスは一九〇四年にフランスとの間に英仏協商(Anglo-French Entente)-それはアンタント・コルディアール(Entente cordiale)(心からの諒解という意味)ともよばれているーを成立させた。すなわち、イギリスとフランスとは、エジプトおよびモロッコをめぐって長年にわたって演じてきた烈しい帝国主義的対立関係、ならびに、ニューファンドランド(Newfoundland)、シャム(Siam)、マダガスカル(Madagascar)、ニューヘブリデス(New Hebrides)に関する両国間の係争問題を互譲的に解決して、その国交の調整を行ったのである。イギリスとしては、かくすることによって、ドイツ帝国主義の烈しい攻勢により強力に対処し得る地位に立とうと欲したのであり、またフランスは、ドイツと次第に鋭く対立し出しているイギリスに接近することによって、ドイツに対するその地位を有利ならしめることを望んだのであった。

2024年4月7日日曜日

20240406 2170記事に到達して:(読書や文章作成から感じられることについて)

昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2170に至りました。そして、さらに30記事の更新により、当面の目標としている2200記事に到達することが出来ます。その時期は、今後毎日1記事の更新であれば約1カ月後、つまり5月初旬と見込まれますが、その投稿頻度での継続は困難であると思われることから、期間を延長し、5月中での2200記事達成を目標にしたいと考えます。

さて、別件ですが、つい先日オーランド―・ファイジズによる「クリミア戦争」上下巻を読了しました。当著作は近年の私にとっては久々の文量であり、さらに、これまで自らの専門、あるいは、その周辺分野として慣れ親しんだ経験がない分野の著作であったことから、当初は読み進めていても文章の理解が伴わないことが度々ありましたが、読み進めるにつれ、徐々に慣れて楽になり、下巻に入ってからは、文章に何らかの変化があったのか、あるいは、私の方がさらに慣れたのか、読み進めることが楽になり、下巻に関しては思いのほか早く読了に至ったように感じられます。また、その読了後の実感は、さきに述べた文量と比例するものであったのか、相対的に大きなものであり、現在でも、このように文章などを作成していて少し集中してきますと、どうしたわけか、その感覚が想起されてくるのです。

そして、こうした経験を通じて思ったことは、私には読書の習慣がありますが、そこで読む著作とは、概ね、新書や選書や学術文庫や文庫の小説といった比較的手軽な様式の書籍であり、そしてまた、それらの読了後の感覚は、さきに述べた「クリミア戦争」上下巻でのそれとは異なり、相対的に軽いものであり、また、長期間は継続しません。そうした実感から、さらには当ブログ継続の見地からも、比較的手軽であるからと、文庫様式の著作ばかり読まずに、時には重要と考えるハードカバーの著作を、古書であっても良いので入手して読むことが重要であるということです。

また、現在になり少し面白く感じられたことは、さきの著作上下巻は、移動や外出の際にも持参して読んでいましたが、これを読了後から肩が少し軽く感じられるようになったことです・・。おそらくハードカバーの著作を持ち歩いて、外出時に読むことは、身体に対しても少し負荷を掛けていたのかもしれません。とはいえ、おそらく、これも慣れであると思われますので、今後もう少し意識しつつ継続してみようと考えています。

と、如上のように先日の読書経験から思ったことを述べましたが、当ブログ自体の継続もまた、自らの読書経験に基づいていると云え、引用記事などは、その最たるものであると云えます・・。そういえば、当記事は久々の自らの独白形式によるものであり、そのためか、書き進め方がぎこちなく、文章の流れもどうも滑らかではないように感じわれるのです・・。しかし、こうしたことも、これまでのブログ記事作成の経験から、継続により徐々に自然に、そして自分なりに、出来るようになっていくのではないかと考えています。そして、この「自分なりに出来るように・・」という感覚の積み重ねにより上達するということは、我々の活動の多くに共通して云えるのではないかと考えます。

とはいえ、私の場合、これまで8年以上にわたり当ブログを(どうにか)継続してきましたが、文章作成の上達の実感を記憶に残るほど強く受けたことはないと記憶していますので、さきの著作読了後に得た感覚と同程度に強く、今後、自らの文章作成について、上達などの変化を実感してみたいと願うところではあるのですが、さて、どうなるのでしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2024年4月5日金曜日

20240405 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」 pp.302-304より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 「21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考」
pp.302-304より抜粋
ISBN-10: 4309227880
ISBN-13: 978-4309227887

実際には、人間はつねにポスト・トゥルースの時代に生きてきた。ホモ・サピエンスはポスト・トゥルースの種であり、その力は虚構を創り出し、それを信じることにかかっている。

自己強化型の神話は石器時代以来ずっと、人間の共同体を団結させるのに役立ってきた。実際、ホモ・サピエンスがこの惑星を征服できたのは、虚構を創り出して広める人間ならではの能力に負うところが何より大きい。

私たちは、非常に多くの見ず知らずの同類と協力できる唯一の哺乳動物であり、それは人間だけが虚構の物語を創作して広め、膨大な数の他者を説得して信じ込ませることができるからだ。誰もが同じ虚構を信じているかぎり、私たちは全員が同じ法や規則に従い、それによって効果的に協力できる。

 だから、新しい、ぞっとするようなポスト・トゥルースの時代をもたらしたとして、あなたがフェイスブックやトランプやプーチンを責めるなら、何世紀も前に何百万ものキリスト教徒が自己強化型の神話のバブルの中に閉じこもり、聖書の記述が事実どうかをけっして問おうとはしなかったことや、何百万ものイスラム教徒がクルアーンを疑うことなく信じ込んでいたことを思い出してほしい。何千年にもわたって、人間の社会的ネットワークの中で「ニュース」や「事実」として通ってきたことの多くは、奇跡や天使、魔物、魔女についての物語であり、想像力に富む報告者が奈落の底から直接、生中継したものだ。イヴがヘビに誘惑されたことや、異教徒はみな死ぬと地獄で魂が焼かれることや、宇宙の創造主はバラモンの人が不可触賤民と結婚するのを好まないことを裏づける科学的証拠はいっさいない。それにもかかわらず、何十億もの人がこうした物語を何千年にもわたって信じてきた。フェイクニュースのなかには、いつまでも消えないものもあるのだ。

 私が宗教をフェイクニュースと同一視したため腹を立てた人も多いかもしれないことは承知しているが、それがまさに肝心の点だ。でっち上げの話を一〇〇〇人が一カ月信じたら、それはフェイクニュースだ。だが、その話を一〇億人が一〇〇〇年間信じたら、それは宗教で、信者の感情を害さない(あるいは、怒りを買わない)ために、それを「フェイクニュース」と呼ばないように諭される。とはいえ、私が宗教の有効性や潜在的な善意を否定していないことに注目してほしい。むしろ、その逆だ。良くも悪くも、虚構は人間の持つ道具一式のなかでもとりわけ効果的だ。宗教の教義は、人々をまとめることによって、人間の大規模な協力を可能にする。宗教の教義は人間を鼓舞して、軍隊を組織したり刑務所を設置したりさせるだけでなく、病院や学校や橋も建設させる。アダムとイヴはけっして存在しなかったが、それでもシャルトル大聖堂は美しい。聖書の大半は虚構だろうが、それでも何十億人の人に喜びをもたらすことができるし、慈悲深く、勇敢で、創造的であるようにと、人間を促すことに変わりはないー「ドン・キホーテ」や「戦争と平和」や「ハリー・ポッター」といった、他のフィクションの名作と同じように。

 私が聖書を「ハリー・ポッター」になぞらえたので、またしても機嫌を損ねた人もいるだろう。もしあなたが科学を重んじるキリスト教徒なら、聖書はもともと事実に基づく説明としてではなく、深い叡智を含むたとえ話として意図されていたと主張して、聖書の中の誤りや神話の釈明をするかもしれない。だが、それは「ハリー・ポッター」にも当てはまるのではないか?

 もしあなたがキリスト教原理主義者なら、聖書の言葉は一つ残らず文字どおりの真実だと言い張る可能性が高い。それならば、あなたは正しいと、しばらく仮定しよう。聖書は本当に唯一の真の神の絶対信頼できる言葉だ、と。では、あなたはクルアーンやタルムード、モルモン書、ヴェーダ、アヴェスタ〔訳註ゾロアスター教の教典〕、古代エジプトの「死者の書」はどう考えるのか?こうした文書は、生身の人間が、(あるいはことによると悪魔が)創作した、手の込んだ虚構だと言いたくならないだろう?そして、アウグスゥスやクラウディウスのようなローマの皇帝の神格は、どう見るか?古代ローマの元老院は、人を神に変える力を持っていると主張し、そうして生まれた神々を、帝国の臣民が崇拝することを求めた。それは虚構だったのではないか?実際、自らの口でその虚構を認めた偽りの神の例が、歴史上に少なくとも一つは存在する。前述のように、日本の軍国主義は一九三〇年代から四〇年代前半にかけて、昭和天皇の神格に対する熱狂的な信心を拠り所としていた。日本の敗戦後、天皇は、それが真実でないこと、自分はけっきょく神ではないことを公に宣言した。

20240404 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.90~92より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.90~92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 一九三〇年、日本は米英主導のロンドン海軍軍縮条約に調印した。また、日米対立の大きなきっかけの一つであった排日移民法についても、移民法は日本人の面子を守る形で修正しようという排日移民法修正運動がアメリカ民間人の間に起こっており、日米関係は安定しているかのように見えた。そして、ついには一九三一年九月一七日に、ワシントンでスティムソン国務長官が出渕勝次駐米大使に、移民法修正への楽観的見通しを語るにまでなっていた。

田中上奏文と満州事変

 ところが翌一八日、満州事変が勃発する。すると、黄禍論を恐れていた米英人は、来るべきものが来たと感じた。彼らがまず想起したのは田中上奏文であった。

 田中上奏文とは、日本の世界征服計画が記された怪文書で、昭和初期に田中義一首相が天皇に宛てた上奏文の形をとっていた。当時すでに他界していた山県有朋が協議に加わっていたり、上奏文が内大臣でなく宮内大臣を通じて奉呈されているとするなど内容的に明らかに偽書であった。しかし、その征服計画において、世界征服にはまず中国を支配すべきであり、中国を支配するにはまず満蒙を征服しなければならないとの記述があったため、満州事変の勃発途ともに想起されたのである。

 日本側が強く偽書であると否定していたため、欧米人の多くはこの文書を信憑性あるものととらえられていなかった。しかし、そこに記されたとおりに日本の世界征服プランが実行に移されているように見える事態が現出したのであった。「ニューヨーク・タイムズ」は、「狂った軍国主義者の夢想」としか見なされてこなかった田中上奏文は、いまや現実に姿を現し、「中国侵略はその第一歩である」との中国政府関係者の発言を報じた。

 一方で、アメリカ政府の満州事変への対応は当初は微温的であった。当初、現地からの情報が少ない中、スティムソン国務長官は、一部の兵による反乱であるとみなしていたし、東京に駐在していたキャメロン・フォーブズ駐日大使などは、偶発的事件ですぐに収まるという日本外務省の説明を信じて、事変勃発二日後に、休暇のためアメリカへ向けて出港している。時の共和党政権は、東アジアに対しては、日本とのビジネス関係を維持しつつ、中国ともその領土保全を前提として友好関係を維持するという、漠然とした政策に終始していた。フーバー大統領は介入に消極的であったため、結局国務省としては、長官名で不承認主義のスティムソン・ドクトリンを送付するに留まった。

 当時、南京に住んでいたパール・バックは、仕事を手伝ってくれていた中国人から、「日本が満州をとったということが何を意味するのかを米英人が理解しないということがどうして可能なのでしょうか。二回目の世界戦争になりますよ」と言われたことを記録している。日本の満州獲得は、これまでの西洋によるアジア抑圧に対して反抗する狼煙を日本があげたのであって、アメリカとの最終戦争を優位に進めるためのものであると、当時の中国人や中国在住の外国人は直感したのである。

 一九二〇年代の日本のアジア主義は無名の国会議員や民間人が主導したものであったが、満州事変以降は政府内部の人間も含めた有力者によって繰り広げられていくことになる。それは、日露戦争以降の黄禍論を否定しようという日本政府の姿勢から大きく転換するものであった。それまでは西洋列強が人種的に国際関係を捉え、合同して日本に対抗するのを避けるため、日本政府は、アジア主義的野心など日本は持っていないと示すことに腐心してきた。それが、自らアジア主義を率先して露にするようになっていくのである。

2024年4月3日水曜日

20240403 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 pp.234-236より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 
pp.234-236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309227368
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309227368 

 科学には、宗教が下す倫理的な判断を反証することも確証することもできない。だが、事実に関する宗教的な言明については、科学者にもたっぷり言い分がある。「受精後一週間のヒトの胎芽には神経系があるか?胎芽は痛みを感じられるか?」といった、事実に関する疑問に答えるには、聖職者よりも生物学者のほうが適格だ。

 事実をもっとはっきりさせるために、ある歴史的実例を詳しく考察しよう。この例は、宗教のコマーシャルではめったに耳にしないが、当時、途方もなく大きな社会的・政治的影響を及ぼした。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇は絶大な政治権力を誇っていた。ヨーロッパのどこで争いが起こっても、教皇はそのたびに問題の決着をつける権限を主張した。その権限の正当性を立証するために、教皇は繰り返しコンスタンティヌス帝の寄進状を挙げ、ヨーロッパの人々の注意を喚起した。この寄進状の物語によれば、三一五年三月三〇日、ローマ皇帝コンスタンティヌスは公式の命令書に署名し、ローマ教皇シルウェステル一世とその後継者たちにローマ帝国西部の永続的な支配権を与えたという。歴代の教皇はこの貴重な文書を保管し、野心的な君主や好戦的な都市や反抗的な農民が敵対の構えを見せたときにはいつも、強力なプロパガンダの道具として利用した。

 中世ヨーロッパの人々は、昔の皇帝の命令にはおおいに敬意を払っており、文書が古いほどその権威を増すと考えていた。彼らはまた、王や皇帝は神の代理人だとも考えていた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を異教徒の領域からキリスト教帝国に変えたので、とりわけ崇められていた。だから、当時の都市の議会の要求と、ほかならぬコンスタンティヌス帝が発した命令とが衝突したら、古い文書のほうに従うべきなのは、中世ヨーロッパの人々には明らかだった。したがって、教皇は政治的な抵抗に遭うたびにコンスタンティヌス帝の寄進状を振りかざし、服従を求めた。ただし、いつもうまくいったわけではない。だがコンスタンティヌス帝の寄進状は、教皇のプロパガンダと中世の政治秩序の重要な土台だった。

 コンスタンティヌス帝の寄進状を念入りに調べてみると、この物語が上の表のように三つの別個の要素から成ることがわかる。

 古い皇帝の命令が持つ倫理的な権威は、およそ自明とは言い難い。二一世紀のヨーロッパ人の大半は、現在の人々の願望のほうが、とうの昔に死んだ君主たちの命令に優先すると考えている。とはいえ、この倫理的な論争に科学は参加できない。どんな実験も方程式も、この問題に決着をつけられないからだ。現代の科学者が七〇〇年前にタイムトラベルしても、昔の皇帝たちの命令はいまの政治の議論には無関係であることを、中世のヨーロッパ人に証明できないだろう。

 もっとも、コンスタンティヌス帝の寄進状の物語は、倫理的な判断だけに基づいていたわけではない。そこには、とても具体的な事実に関する言明も含まれており、それは科学にも立証したり反証したりする資格が十分ある。一四四〇前、カトリックの司祭で言語学の先駆者ロレンツォ・ヴァッラが科学的な研究を発表し、コンスタンティヌス帝の寄進状が偽造文書であることを証明した。ヴァッラはその文書の文体や文法や使われている語句を分析した。そして、この文書には四世紀のラテン語では知られていない単語が含まれており、コンスタンティヌス帝の死後およそ四〇〇年を経てから捏造された可能性が非常に高いことを実証した。この文書には、他にも重大な問題がある。そこに記された日付は「コンスタンティヌスが四度目に執政官に、ガリカヌスが初めて執政官を務めた年の三月三〇日」だ。ローマ帝国では毎年二人の執政官が選ばれ、文書では誰が執政官かで年を表すのが習いだった。あいにく、コンスタンティヌス帝が四度目の執政官になったのは三一五年だったのに対して、ガリカヌスが初めて執政官に選ばれたのは三一七年になってからだった。これほど重要な文書が本当にコンスタンティヌス帝の時代に書かれたのなら、これほど明白な誤りが含まれていることはけっしてなかっただろう。トマス・ジェファーソンと同僚たちが、アメリカの独立宣言に「一七七六年七月三四日」と日付を書き込んだようなものだ。

 今日、コンスタンティヌス帝の寄進状は八世紀のいずれかの時点に、教皇の下で捏造されたということで、歴史学者全員の意見が一致している。ヴァッラは古い皇帝の命令の道徳的権威にけっして異議を唱えることはなかったものの、彼の科学的分析は、ヨーロッパ人は教皇に従うべきであるという実際的な指針の効力を間違いなく切り崩した。

20240402 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

 英国内で過去数十年間蓄積されてきた根深い対露不信は、ロシア皇帝のロンドン訪問によっても払拭されなかった。現実問題としては、英国の国益を損傷するようなロシアの脅威は微小であり、両国間の外交関係と貿易関係も、クリミア戦争が勃発する時までは概して良好だったが、それにもかかわらず、反露感情は(反仏感情以上に)英国民の世界観を左右する重要な要素となっていた。そもそも、ほぼすべてのヨーロッパ諸国で国民のロシア観を形成していたのは恐怖心と想像力だったが、英国もその例外ではなかった。十八世紀の全期間を通じてロシアが強行した急速な領土拡張、ナポレオン軍を粉砕したロシアの軍事力の誇示、「ロシアの脅威」を論ずる小冊子、旅行記、政治論文などがヨーロッパの各国で次々に刊行され、ロシア脅威論は一種のブームとなった、現実的な脅威または体感できる恐怖というよりも、むしろヨーロッパの自由と文明を脅かすアジア的な「他者」としてロシアを論ずる議論が主流だった。これらの出版物の業者たちがその想像力によって生み出した固定観念としてのロシアは、野蛮な強大国であり、本質的に攻撃的で領土拡張主義的だが、同時に狡猾かつ欺瞞的で、「見えざる勢力」と共謀して西欧諸国に敵対し、西欧社会に浸透しようとする陰謀国家だった。

 「ロシア脅威論」の著者たちがその主張の根拠としていた参考文献の中に「ピョートル大帝の遺書」と呼ばれる文書があった。反露派の作家、政治家、外交官、軍人などの多くが、世界征服を企むロシアの野望の明白な証拠として「ピョートル大帝の遺書」を引用している。ピョートル大帝はこの文書の中で誇大妄想的な国家目標を言い残したとされていた。すなわち、バルト海から黒海に至る広大な範囲に領土を拡張し、オーストリアと組んで欧州大陸からトルコ人を放逐し、東地中海地方(レヴァント)を征服し、インド貿易を支配し、ヨーロッパ全土に不和と混乱の種を撒き散らし、欧州大陸の支配者になるというのがその目標だった。

 「ピョートル大帝の遺書」は実は偽造文書だった。十八世紀初頭のある時期にフランスおよびオスマン帝国とつながりを持つ何人かのポーランド人、ハンガリー人、ウクライナ人によって創作され、数種類の異本を経た後、最終的にこの偽造文書は一七六〇年代にフランス外務省の文書館に収蔵された。フランスはこの文書をピョートル大帝の真正の遺書として扱った。それがフランスの外交政策に役立つと考えられたからである。ヨーロッパ東部におけるフランスの主要な同盟国(スウェーデン、ポーランド、トルコ)はすべてロシアによる侵略の被害者だった。十八世紀から十九世紀の初めにかけて、フランスの外交政策の基底には、「ピョートル大帝の遺書」の内容をロシアの外交政策の基本と見なす考え方があった。

 この文書の影響をとりわけ強く受けたのがナポレオン一世だった。ナポレオンの外交顧問たちは事あるごとに「ピョートル大帝の遺書」に書かれた思想や文言を持ち出している。たとえば、フランスの総裁政府時代(一七九五~九九)と執政政府時代(一七九九~一八〇四)の両期を通じて外相の地位にあったシャルル¥モーリス・ド・タレーランは、「ロシア帝国の全システムはピョートル一世以来一貫して変わらぬ目標を追求している。すなわち、全ヨーロッパを野蛮の洪水の下に沈めるという目標である」と主張している。ナポレオン・ボナパルトから厚く信頼されていた外務省幹部のアレクサンドル・ドートリーヴ伯爵は同様の趣旨をさらに直截に表現している。

 ロシアは戦争を通じて近隣諸国の征服を追及する一方、平時には近隣諸国以外の地域にも進出して不信と不和を扇動し、全世界を混乱に陥れようとしている・・ロシアがヨーロッパでもアジアでも他国の領土を簒奪していることは周知の事実である。ロシアはオスマン帝国とドイツ帝国の破壊を目論んでいる。そのやり方は正面攻撃だけにとどまらない・・ロシアは陰険な手口で秘密裏にオスマン帝国の基盤を掘り崩すための陰謀をめぐらし、地方勢力の反乱を扇動している・・その一方で、オスマン帝国政府(「ポルト」)に対しては常に友好的な姿勢を装い、オスマン帝国の友人、保護者を自称している・・ロシアはオーストリアに対しても同様の攻撃を準備している・・そうなれば、ウィーンの宮廷は消滅し、西欧諸国はロシアの侵略から身を守るための最も有力な防壁を失うことになるだろう。

「ピョートル大帝の遺書」は一八一二年にフランスで刊行された。ナポレオン軍がロシアに侵攻した年である。それ以来、同書はロシアの拡張主義的外交政策の決定的な証拠としてヨーロッパ各国で再版され、引用されることになる。以後、ヨーロッパ大陸でロシアが参戦する戦争が勃発する時には、決まって「ピョートル大帝の遺書」が話題となり、一八五四年、一八七八年、一九一四年、一九四一年などに繰りかえし刊行された。第二次大戦後の冷戦時代にも、ソ連の対外侵略の意図を説明する資料として引用されることがあった。一九七九年にソ連がアフガニスタンに侵攻した時には、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙と「タイム」誌がモスクワの意図を示す証拠として「ピョートル大帝の遺書」からその一部を引用し、英国下院の論議でも同書が取り上げられた。

2024年4月1日月曜日

20240331 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.22‐25より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻
pp.22‐25より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

クリミア戦争は、また、最新の工業技術が動員されたという意味でも、まさに近代戦の最初の例だった。新型のライフル銃、蒸気船、鉄道、近代的な兵站、電報をはじめとする新しい通信技術、革命的な軍事医学などが動員された総力戦だった。戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのも初めてだった。しかし、同時にクリミア戦争は古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争でもあった。戦闘の最中に敵味方の話合いがもたれ、戦場から負傷者と死体を収容するための一時的な休戦が頻繁に実現した。有名な「軽騎兵旅団の突撃」の舞台となったアリマ川の戦いやバラクラヴァの戦いなど、クリミア戦争の初期段階の戦闘はナポレオン時代の戦争の様相を色濃く残していた。しかし、最も長く、また最も決定的な局面となったセヴァストポリ攻防戦の段階に入ると、工業力を背景として戦われた第一次大戦(一九一四~一八年)を先取りする塹壕戦の特徴が明らかとなる。十一ヶ月半に及んだ攻防戦の間、ロシア軍、英国軍、フランス軍が掘り進めた塹壕の延長距離は一二〇キロに及び、攻撃軍と防衛軍の双方が交わした銃弾は一億五〇〇〇万発、砲弾は各種口径を合わせて五〇〇万発に達した。
 クリミア戦争という名称を使うこと自体が、そもそも、この戦争の世界的な規模を表現するには十分ではなかった。戦争の深刻な影響は、西ヨーロッパとロシアだけでなく、バルカン半島からエルサレムまで、また、コンスタンチノープル(イスタンブール)からカフカスに至るまでの広大な地域に及んだ。これらは、当時、東方問題と呼ばれていた問題の紛争地域である。東方問題はオスマン帝国の崩壊を目前にして発生した重大な国際問題だった。少なくとも東方問題との関連を明示するという意味では、ロシアが採用した「東方戦争」(ヴァストーチナヤ・ヴァイナー)の方が実態にふさわしい名称だったかもしれない。また、トルコ側が使った「トルコ・ロシア戦争」も、数世紀に及ぶロシアとオスマン帝国との抗争という歴史的な意味合いを表現するには適切かもしれない。しかし、「トルコ・ロシア戦争」という名称からは、この戦争に西欧諸国が介入したという決定的な要素が抜け落ちてしまう。
 戦争はオスマン帝国とロシア帝国の軍事衝突として一八五三年に始まった。衝突が始まった地域は現在のルーマニアにあたるドナウ川下流域のモルダヴィア公国とワラキア公国だったが、戦場はすぐにカフカス地方に拡大する。カフカスでは、トルコと英国がイスラム教徒諸部隊を支援して反ロシアの抵抗闘争を奨励していた。戦争はカフカスからさらに黒海沿岸地域全域に拡大する。一八五四年に入って、英国とフランスがトルコに味方して参戦し、さらに、オーストリアが反露連合に参加する動きを見せると。ロシア皇帝はドナウ両公国から軍隊を撤退させ、その結果、主戦場はクリミア半島に移る。しかし、一八五四~五五年にかけて、戦争はその他のいくつかの地域でも戦われることになる。たとえば、英国海軍はバルト海に進出してロシアの首都サンクトペテルブルグへの攻撃を計画し、白海では実際にソロヴェツキー修道院を砲撃している。一八五四年七月のことだった。ロシアへの攻撃はシベリアの太平洋岸でも実行された。(一八五四年、英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のペトロパヴロフスク・カムチャツキーを砲撃した。同市の湾内には英仏艦隊を撃退した記念碑が今も残っている)
 クリミア戦争は世界規模で戦われた戦争だったが、その事実はこの戦争に関わった人々の多様性にも反映されている。本書に登場する関係者の顔ぶれを見れば、期待(または懸念)に反して軍人が少なく、むしろ軍人以外の人々、たとえば、国王や女王、貴族諸侯、廷臣、外交官、宗教指導者、ポーランドやハンガリーの革命家、医師、看護婦、ジャーナリスト、画家や写真家、パンフレット作者や作家が多数登場することに気づくであろう。たとえば、クリミア戦争についてのロシア側の見方を最も雄弁に語っているのは他ならぬ文豪レフ・トルストイである。トルストイはロシア軍の青年士官としてクリミア戦争の三つの戦線(カフカス、ドナウ、クリミア)を体験している。読者は、また、英国軍兵士の「トミー」や、フランス軍アルジェリア歩兵連隊のズアーヴ兵や、ロシア軍の農奴兵など、この戦争で戦った一般兵士と士官の生の声を彼らの手紙や回想記を通じて知ることになるであろう。
 クリミア戦争については、英語で読むことのできる書物だけでも数多く出版されている。しかし、英国の立場からでなく、ロシア、フランス、オスマン帝国の立場からの資料を幅広く利用して、これらの大国がこの戦争に関与するに至る経緯を当時の地政学的、文化的、宗教的背景を含めて解明しようとする試みは、言語の如何を問わず、本書が初めてだろう。歴史的文脈を重視するという本書の特徴からして、戦闘場面の描写を期待する読者にとっては、最初の数章は退屈かもしれない(したがって、そこは飛ばして読むという手もある)、ただし、私がこれらの章で言いたかったのは、歴史の巨大な転換点としてのクリミア戦争の再評価である。クリミア戦争はヨーロッパ、ロシア、中東地域の歴史にとって重大な転換点であり、その影響は現在に及んでいる。ところで、これまで英国には「クリミア戦争は無意味で不必要な戦争だった」という根強い固定観念があった。軍事作戦上の不手際と芳しくない戦果についての当時の国民の落胆から生まれたこの固定観念は、長い間、英国の歴史界に陰を落としてきた。その間、歴史学者たちはクリミア戦争を等閑視し、まともなテーマとして取り上げてこなかった。そのため、英国では、クリミア戦争はもっぱら戦史物語として扱われてきた。戦史物語の熱心な語り手たちの多くは歴史学者としてはアマチュアであり、いつも繰り返されるテーマは、たとえば、「軽騎兵旅団の突撃」、英国軍司令部の失態、フローレンス・ナイチンゲールの活躍などの同じ話だった。この戦争のきっかけとなった宗教的背景、「東方問題」に含まれる複雑な国際政治、黒海地域におけるキリスト教とイスラム教の競合関係、ヨーロッパに蔓延していた反ロシア主義などについての本格的な議論はほとんど皆無だった。しかし、これらの問題を抜きにしては、クリミア戦争の本質とその重要性を理解することは難しいのである。

2024年3月29日金曜日

20240328 先日読了の「クリミア戦争」上下巻と「セワ゛ストーポリ」について

今回の記事投稿により、総投稿記事数が2165に達します。そして、当面の目標としている2200記事まで残り35記事となりますが、これは1カ月と数日間、毎日1記事の投稿により達成出来ることが見込まれますが、それでは多少無理があると思われますので、もう少し期間を延ばして、2カ月での到達を目標にします。

 さて、つい先日、オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」上下巻を読了して、そこから続いてレフ・トルストイによる「セワ゛ストーポリ」を読み始めましたが、こちらは旧字体であることから、たしかに読み難いは読み難いのですがしばらく読み進めていますと、徐々に慣れて来て、またその文体は、これまで読んだ限りにおいては、視覚的な情景描写が多く、おそらく読者は、戦場を案内されているような感じを受けるのではないかと思われます。

 そして、こうした、情景を複数案内することにより、ある世界観、あるいは物語を伝えようとする進行の仕方は、特に珍しいわけではありませんが、当「セワ゛ストーポリ」の語り口は、和訳文ではありますが、真に迫るものがあったと思われます。

 そしてまた、当作品を読んでいて、不図想起されたのが、面白いことに、大分以前に体験した東京ディズニーランドのアトラクションである「カリブの海賊」でした。その背景には、おそらく双方に大砲を操作する場面があったからであるとも思われますが、同時に全体を通じても、それぞれの視覚的な情景描写の推移に相通じるものがあったように思われます。

 そして、そうした物語進行の仕方とアトラクションでの情景の推移の背後に通底するものが何であるのかと考えてみますと、多くのキリスト教教会に掲げてある、聖書の絵物語や教会に関係のある聖人の生涯を絵で説明したものであり、あるいは我が国で云えば、絵巻物である様にも思われます。

 そして、そこから、キリスト教文化圏での物語進行の仕方と、我が国での絵巻物とを比較してみますと、それぞれの文化傾向の相違についての仮説も思いつくのですが、話は戻り、さきの「セワ゛ストーポリ」は、そうしたことをも考えさせるほどに、その文体は視覚を意識したものであったと云えます。それ故、旧字体さえ気にしなければ、当著作を読み進めることは、そこまで困難ではないと思われます。

 「クリミア戦争」上下巻を読了し、そして「セワ゛ストーポリ」をこれまで読んできたところから、クリミア戦争が勃発した19世紀半ばとは、他面において兵器の革新の時代でもあり、軍艦は無論のこと、兵員・物資を輸送する船が蒸気船、それも外輪船からスクリュー船へと、また鉄道を用いた陸上輸送、さらには大砲や小銃が、それまでの前込め式から後装式へと変わったのが、まさにこの時代でした。また、我が国においても、この19世紀半ばにアメリカ合衆国から黒船四隻が来航して幕末の回天期に至り、そしてまた、19世紀初頭の我が国では、いまだ主たる火器であった火縄銃が、その後の20~30年あまりの期間で、ゲベール銃、エンフィールド銃、後装式のスナイドル銃、そしてさらには、連発式の機関銃であるガトリング銃なども用いられるようになり、そこから、まさに一面においては、海外から齎された軍事技術の革新によって国の政体が変化した時代であったとも云えます。
 
 その意味において、世界史的な視座からも、このクリミア戦争が勃発した19世紀半ばとは、きわめて重要な時代であると云え、そしてまた、現在なおも続く第二次宇露戦争が、19世紀半ばのクリミア戦争と同じ地域で行われていることにも、あるいはいまだ看取し得ないものの、大きな意味があるのではないかと考えさせられるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年3月26日火曜日

20240326 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」下巻 pp.314‐315より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」下巻
pp.314‐315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094896
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094891

 イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、イギリスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。

 クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった(第5章、第9章)。

2024年3月25日月曜日

20240324 当ブログの現況と短期的な展望およびいくつかの著作について

昨日の記事投稿により総投稿記事数が2162に達しました。そうしますと、あと38記事の新規投稿により、現在目標としている2200記事に到達出来ます。そしてこれは、毎日1記事の更新の場合、1カ月と1週間ほどで達成されることが見込まれますが、また以前のように、突発的に記事作成を休止する可能性もあることから、少し期間を長く設定し、現在から2カ月ほどでの2200記事到達を目標にします。

さて、現在から2カ月としますと、来る5月末頃になりますが、そうしますと、そこから2、3週間ほどの継続で6月17日となり、当ブログ開始より丸9年になりますので、当ブログ記事数と、その継続期間との組合せも9年間で概ね2200記事と比較的分かり易いものになります。

もちろん、これは先のハナシではありますが、もし来る6月17日の丸9年の継続までに、目標とする2200記事に到達出来れば、それまでの9年間、5日間で3記事以上は投稿してきたことになりますので、我がことながら、多少は「身を入れた」「頑張った」と云えるのかもしれません。

とはいえ、毎度のことながら、ブログの継続により何かが変ったのかと考えてみますと、その実感はありません。あるいは今後、丸9年間の継続と2200記事の到達により、これまで実感し得なかった有意な変化が生じるのかもしれませんが、そのようなことは全く予想出来ませんので、これまでの調子で変化などは期待せず、あと3ヶ月弱、そして40記事ほど、更新・継続したいと考えます。

そういえば、ここ最近、何度か、複数の方々から、それぞれの会話の際に、当ブログ記事、あるいは引用記事にて扱った内容について、先方より話題にされたことがあり、それぞれについては、ごく自然な会話の流れではあったとは思われるのですが、後になり、どうも「あるいは私のブログを読まれているのでは・・?」とも思われました。

そうして思い返してみますと、以前にも度々、そのようなことがありましたが、それらは自分で考えてみても、おそらく、納得できる答えは得られないと思われますので、このまま棚上げ、保留しつつ、あまり気にせずに当面は更新・継続するのが良いのではないかと思われます。

また一方で、当ブログのこれまでの総閲覧者数はおよそ85万人であり、それを継続期間の日数で均すために割りますと、1日の閲覧者数が大体250~260人となります。この値はエックス(旧ツイッター)での1日のインプレッション数と比較しますと、桁が異なるくらい少ないのですが、こちらブロガーでの閲覧者数の方が、当ブログの実態を精確に反映していると思われますので、時折、エックス(旧ツイッター)の方でインプレッション数がいくらか増加しても、連携は継続しますが、同時に、こちらも、あまりそうした数字を気にしない方が良いのではないかとも思われます。

別件ですが、現在読み進めているオーランドー・ファイジズによる「クリミア戦争」下巻はいよいよ残り頁もわずかとなり、ここ数日で読了に至ると思われますが、当著作の記述で若い頃の作家レフ・トルストイが、この戦争に砲兵少尉として従軍していたことを知り、さらに、その経験から「セヴァストポリ物語」という作品を著したことを知り、先日、古書にてこれを購入しました。

そして「クリミア戦争」下巻もいまだ読了に至っていませんが、早速、入手した当著作を読んでみますと、その訳文は旧字体が多く、また、文体も硬く古めかしいと思われましたが、同時にそれは、以前に読んだ陸奥宗光による「蹇蹇録」と同程度であるようにも思われましたので、読めないことは全くなく、「クリミア戦争」下巻読了後は、以前に述べたアレクシ・ド・トクヴィル著「旧体制と大革命」と並行して「セヴァストポリ物語」を読み進めたいと考えています。しかしながら、他方で、ここ最近は19世紀ヨーロッパについての著作ばかりを読んでいることにも気が付き、そこから、近いうちに、我が国の考古学あるいは民俗学などを扱った少し硬めの著作をも読んでみようと考えるに至りました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2024年3月24日日曜日

20240323 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.21-24より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.21-24より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

ナチ党の集会に多くの聴衆を引きつけたのは、党の政治的プログラムよりも、ヒトラー個人の演説だった。痩せぎすで、こころもち割れた声。論点を黒白図式で明快に示して、それをくり返しつづける。断固とした口調で、大胆に断定する。ヒトラー自身が政治的プロパガンダの基本的原理として口にしたところであって、ナチス・ドイツ一五年間を通して一貫して変わらなかった。大衆の情緒的な感性にもっともよく訴えることを見きわめていた。

 単純化と、くり返しと、断定が、ひときわ効果を発揮する土壌があった。すでに述べたように当時ドイツは第一次世界大戦後の底知れぬ不況と失業者に苦しんでいた。古今未曾有のインフレによって、ドイツの屋台骨にあたる堅実な中産階級が、せっせと維持してきた預金を一夜にして失った。年金はパン一つ買うにも足りない。

 第一次世界大戦は四年あまりもの無意味な戦いののちに終結した。ロシアは革命で戦線から脱落、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、どの国も消耗しきっていた。ドイツが戦線放棄を余儀なくされたのは、キール軍港における水兵の反乱などで、本国の厭戦気分がもはやとどめようもなくなっていたせいであって、戦線が国内に及んだことはない。「敗戦国」の意識がきわめて薄く、そこから「背後からのナイフの一刺し」の意識が生まれた。その際、情報、外交、経済に強力なネットを持つユダヤ人=ナイフ説が定着した。

 生きがいの喪失と将来への不安、そのような精神状況のなかに、ナチスは「救済役」として現れた。旧弊を断ち切り、明るい未来を実現する。それを邪魔立てする敵は何か。ヴェルサイユ条約、ユダヤ人、コミュニズム。くり返し、またくり返し名指しするー。

 ところで私は一つのことを忘れていた。ヒトラーの声である。記録映画などにとどめられているヒトラーの声はガラガラ声、ときに金切声であって、やたらに壇上で獅子吼するふぜいだが、まだ未熟だったトーキーのせいではあるまいか。あれほど大衆をとらえた演説は、声そのものにも、いうにいわれぬ魅力、また魔力をそなえていたのではなかろうか。

「新編春の海ー宮城道雄随筆集」という本がある。幼いころに失明したが、箏の世界で革新的な業績をのこした宮城道雄(一八九四~一九六五)の随筆を集めたもので、巻末に作家林芙美子との対談がついている。一九三八年、「文藝春秋」九月号に掲載されたものだという。耳の人には人一倍敏感な聴覚が視覚の補いをする。その宮城道雄がヒトラーの声について述べている。一九三八年はドイツが戦後の荒廃から立ち直り、ヒトラー政権五年間の功績が大きくクローズアップされていたころだった。

宮城 しかし何ですね、厳めしそうな将軍なんかで、会ってみると存外声の優しい方がありますね。この間中継で聞きましたが、ヒトラーという人はやはり声がちゃんと具わっておりますね。

林 なんだか、怖い声のように想像されますが・・・。

宮城 ちょっと聞きますとライオンが吼えるような感じがします。しかし、あまり太い声じゃありません。いい声で、やはりドイツ人特有の声です。

 ヒトラーの演説には、プロパガンダだけがいわれるが、「耳の人」が聴きとったような「いい声」の要素がはたらいていたにちがいない。女性がとりわけ演説に「しびれた」というのも、女性は男性よりも、はるかにその種のことに敏感なものである。

2024年3月23日土曜日

20240322 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.217-220より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

わずか一年前にハースト・アンド・ブラケット社から出版された「わが闘争」の無削除版は、ヒットラー擁護の立場で編集されている。これこそ歴史の動きの早さを示すものだ。訳者はその序文と注で、あきらかにこの本の残忍さを弱め、ヒットラーをできるかぎり好意のもてる人物に仕立てようとしている。というのも、当時のヒットラーはまだまともな人物だったからである。彼はドイツの労働運動を粉砕した。その結果、有産階級は彼のすることならたいてい大目に見ようという気になった。左翼も右翼も、国家社会主義と保守主義の一種にすぎないとする浅薄な見方では、一致していたのである。

 ところがとつじょとして、ヒットラーはやはりまともな人物でないことが明らかになったのだ。その一つの結果として、ハースト・アンド・ブラケット社の再版本には、本書から上がる利潤はすべて赤十字に寄付するというという説明入りの、新しいカバーがついたのである。だが「わが闘争」の内容を考えてみただけでも、ヒットラーの目標や主張には、なんら本質的変化があったとは考えられない。一年くらい前の彼の発現と十五年前のそれとを比べてみて驚かされるのは、その世界観にまったく発展がみられない、彼の精神の硬直性なのだ。これは偏執狂の固定した幻想であって、現実政策の一時的な戦術くらいでは、たいした影響をうけることは考えられない。ヒットラーの精神にとっては、おそらく独ソ不可侵条約も単なる時間表の変化にしかすぎないのだろう。「わが闘争」の中での計画では、まずロシアを叩き、つづいて英国を叩く予定になっていた。ところがロシアのほうが懐柔しやすいものだから、まず英国から片づけようということになったのである。だが英国を抹殺したなら次はロシアの番だーこれがヒットラーの計画であることに疑いはない。むろん、結果としてそうなるかどうかは、むずかしいところだが。

 ヒットラーの計画が実現したとしてみよう。彼が百年後に画策しているのは、広い「居間」を持った二億五千万のドイツ人が住む、ひとつづきの国である(その「居間」はアフガニスタン周辺あたりまでひろがる)。それは戦争のための青年の訓練と、砲弾の餌食となる人間を無際限に産ませる以外本質的には何もしない、恐るべき、愚かしい帝国である。彼がこんな途方もない計画を立てられたのは、なぜだろうか?その生涯の一時期に、彼ならば社会主義者や共産主義者をつぶせると見た重工業家たちが財政的支援を与えたからだというのでは、あまりにも安易な解釈すぎる。この重工業家たちにしても、彼がその弁舌に物を言わせて、一つの大きな運動が実現したかのような幻想をすでに与えていなかったら後援などしなかっただろう。失業者七百万というドイツの情勢が扇動家たちにとっては有利だったことも、一面では当たっている。だが、ヒットラー自身の独自な個人的魅力がなかったなら、多くの競争相手を敵にまわして彼一人が成功するというわけにはいかなかっただろう。その魅力は、「わが闘争」の不器用な文章からもうかがわれるが、演説を聞いたとすれば、さぞかし圧倒的な力をもっているにちがいない。わたしは、自分が一度もヒットラーを嫌いになれなかったことを、はっきり言っておきたい。彼が政権を握って以来ーそれまでは、たいていの人と同じように、わたしも彼など問題にならないものと思いこんでいたーわたしは、もし手の届くところまで近づければぜったいに彼を殺すだろうが、それでも個人的な敵意を抱くことはできまいと考えてきた。つまり彼にはどこかふかく人の心を動かすところがあって、それは写真を見てもわかるのである。とくにハースト・アンド・ブラケット社版の巻頭にある、初期のブラウンシャツ時代の一枚の写真を見てもらえばいい。それは憐みをさそう犬のような顔というか、耐えがたい虐待に苦しんでいる男の顔である。やや男らしいところはあるものの、無数にある十字架上のキリストの絵の表情にそっくりなのだ。そしてヒットラー自身が、自分をそういう目で見ていることはまちがいない。宇宙にたいする彼の恨みのそもそもの個人的な原因は、推測するしか方法がないけれども、とにかく、ここに恨みがこもっていることはたしかである。彼は殉教者であり、犠牲者なのだ。岩につながれたプロメテウスであり、徒手空拳で自己をかえりみず耐えがたい不正と戦う英雄なのである。ねずみ一匹殺すにしても、彼はそれをうまく恐龍に見せる方法を知っている。われわれはナポレオンにたいする時のように何となく、彼は運命と闘っている、勝つことはできまいが勝ってもいいではないかといった気持になる。こういうポーズはきわめて魅力的なものだ。映画の主題の大半はこれなのである。

2024年3月21日木曜日

20240321 現在読み進めている著作から思ったこと

ここ最近は、数日間遠出していたこともあり、ブログ記事の更新は進んでいませんでしたが、後になり記事材料となる経験を意識的に持つことも記事作成と同様に重要であり、またそれら経験を整理しつつ、さらにそれを自然に文章化出来るようになるまでには、ある程度の期間を要すると思われますので、多少気の長い話ではあるかもしれませんが、こうした突発的な休止期間も時には必要であって欲しいと考える次第です・・(苦笑)。

他方で読書の方は進み、先日の遠出の際にも、かねてより読み進めている白水社刊 オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」下巻を持参して、移動時や睡眠前に読み進め、残り数十頁となりました。また、その他にも書籍に関しては、立ち読みなどで興味深い著作をいくつか見つけましたが、現在メインで読み進めている前出の「クリミア戦争」下巻の読了後は、以前、購入したままで積読状態にあるアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読み進めたいと考えています。

考えてみますと、トクヴィルの生年はフランス革命の期間から数年経た1805年であり、そして没年は1859年であり、また、その生涯を通じた大きな興味の一つが「フランス革命」であったことから、トクヴィルは19世紀前半の思想家と見做されがちと云えますが、当記事前出、もう一つのトピックである「クリミア戦争」は1853~1856年の期間続き、また、その歴史的背景、基層には所謂「東方問題」として、数世紀にわたり懸念視され続けてきたものがあります。

ともあれ、そこでトクヴィルとクリミア戦争との関わりについて考えてみますと、1848年の2月革命政権(第二共和制)時に官職に就いていたトクヴィルが、1851年のナポレオン三世によるクーデターによって辞職することとなり、それから2年後にクリミア戦争が勃発しましたが、この戦争についてトクヴィルがどのように考えていたのかは興味深いものがあり、トクヴィルのそれまでの履歴から考えてみますと、おそらくは、フランスにとっては犠牲が大きく、益の乏しい戦争であると考えていたのではないかと思われます。

とはいえ、このクリミア戦争とは、主体となる国家や政体は変化しても、残念ながら今なお継続しており、そこから、まさに重層化したフォルト・ライン戦争の勃発地域、あるいは国際秩序が乱れた際に紛争・戦争といったカタチでの応力集中が生じ易い地域であるとも云えます。

その視座からも、もしもあるとすれば、トクヴィルのクリミア戦争に対する見解は興味深く、そしてそれは、今後の世界情勢の展開を検討するうえで一つの参考になるのではないかと思われました。さらに、トクヴィルが興味を抱き続けた18世紀末の「フランス革命」即ち、大きな社会変化の様相や、その機序についての考察もまた、今後のさまざまな国や地域について考えるうえでの有効な参考になるのではないかと考えました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2024年3月20日水曜日

20240319 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.69-70より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.69-70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

政府はふつう、無力によるか、または圧政により崩壊する。前者では権力がその手から漏れるが、あとの場合には権力がもぎとられる。

民主制の国家が無政府状態に陥るのを見て、政府が本来、弱くて無力だったのだと、多くの人は考えた。しかし、実は、いったん党派間に闘争が勃発すると、政府が社会に対する影響を失うのである。

私は、民主的な権力に本来、力と策とが欠けているとは思わない。反対に、政府を崩壊させるのはたいていの場合、物理的な力の濫用と方策・資源の悪用とであると信じている。無政府状態は、たいがい、圧政か未熟から生まれるが、無力からではない。

 安定を物理的な力と混同したり、巨大なものは持続すると考えてはならぬ。民主的共和制においては、社会を指導する権力は安定しない。しばしばその持ち手と目的とを変えるからである。しかし、それを行使されることになると、その力に抵抗するのはきわめて困難である。アメリカ共和制の政府は、ヨーロッパの絶対君主制の政府と同様に中央集権的で、精力の点ではまさっているように見える。それが弱いから崩れるとは、とても思えない。

 万一、アメリカで自由が失われることがあるとすれば、多数の万能が少数(派)を絶望に追いやり、物理的な力に訴えさせるようになる場合にちがいあるまい。その場合には無政府状態になるであろうが、それは専制の結果として到来する。

 (のちの)大統領ジェイムズ・マディソンが同じ考えを述べる〔『ザ・フェデラリスト』第五一篇を参照〕「共和国においては、支配者の圧制から社会を守るだけでなく、当該社会の一部を他の部分の不正から守ることがきわめて重要である。正義はすべての政府の向かうべき目的である。それこそ社会形成の目的なのである。これを人民は達成されるまで追求したし、今後ともそうするであろう。あるいは、追求は自由の失われるまでつづけられよう。一つの社会で、より強力な党派が容易に勢力を結集して、より弱い党派を圧迫するようなことがあれば、その下では、自然状態においてと同様、無政府状態が支配するといえよう。自然状態では、より弱い個人は、より強い個人の暴力から護られていない。そして、自然状態でより強い個人さえも、自己の境遇が不確かで不安定なため種々の不都合が生じるから、政府に服する気にさせられ、その政府が同様が弱者を彼らとともに保護することになるのと同様、無政府状態でも、より強力な党派が、同様な動機から、しだいに強弱を問わず、すべての党派を保護する政府を希求するようになる。

2024年3月14日木曜日

20240313 令和・歯科医院訪問記③ 院長について

 以前投稿の記事にて、かつて勤務先での営業活動のため、首都圏の医療機関をまわっていた時期があったことを述べました。その具体的な期間は2016年3月から2018年5月頃まででしたが、思い返してみますと、この時期も当ブログは継続しており、また丁度、毎日に近く記事投稿をしていた頃でもありました。しかしながら、少なからずの医療機関をまわっていたこの時期は、かえって、その活動についての具体的なことを記事にすることは(あまり)ありませんでした。

そして、この時期の記事作成の視座から、現在のそれを考えてみますと、当時は、これまでに2記事作成・投稿した「歯科医院訪問記」のようなブログ記事は作成しなかった、否、出来なかったことから、自分が当ブログ全体に対して自信のようなものを持ったようにも思われますが、他方で「何か違ったことをやらなければ・・」と考えた結果の行為であったようにも思われる次第です・・(笑)。

いや、こうした自らを信じる自信と、内面での葛藤とは、本来、両立しあうものであり、あるいは、それらが噛み合い駆動することにより、人間の精神に内発的な変化が生じてくるのではないかとも思われます。そして、それがなくなると、変化はなくなり、徐々に硬直化して、そして衰頽していくというのが、我々人間の活動に普く認められる性質であるようにも思われます。

とはいえ、そこまで掘り下げなくとも、今回の投稿記事は「歯科医院訪問記③」であり、前回の続きですと、クリニック玄関から中に入るところからになりますが、そこから書き始めてしまっては、過日、冗長気味をも是とするとした訪問記についての見解に反するとも云えることから、ここでもう少し今回の訪問先歯科クリニックの院長についてを述べます・・。

以前投稿の訪問記①にて述べたことですが、こちらの院長はご出身が山梨市であり、御実家は歯科クリニックを運営されていますが、数年前に現院長が敷地を駅前の大通りに面した場所に移転して、またそれに伴い、徐々に診療業務も代替わりをされつつあるというのが現状と云えますが、しかし他方で、こちらの院長は長らく沖縄県の大学病院口腔外科に勤務され、10年ほど前に帰郷し、拠点を山梨市に戻されたとのことですが、私としては、このあたりが大変に奮っており、また珍しいと思われるのです。そのため以前「何故、先生は沖縄での臨床研修を望み、そこからまた6年間医員として勤務されたのですか?」と訊ねたところ「ああ、高校時代の修学旅行で行ってから好きになり、その後は歯科大学時代でも毎年行っていましたので、臨床研修先の病院も沖縄にしようと思いまして**大学病院を希望しました。」とのことでしたが、そのようにして、自らの故郷ではない地域を好きになれるのは、外界に対して開かれ、能動的でないと出来ないと思われますので、私見としては、それは幸せなことであると考えます。

そしてまた、この「能動的」という言葉も当院長には似つかわしく、院長が医員として勤務されている、私が歯科治療を受けた都内東部の比較的大きな歯科医院でも活発に動かれていて、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方への指導や、自分でなければ困難と思われる歯科治療の手技の際には、どこからともなく現れて、適切な処置を若手の先生がたに見せつつ説明しながら行い、それを行うと、次の処置の確認をされて、また足早に去って行くといった感じであり、そこから、おそらく、院内に複数いる臨床研修医や若手医員の先生方が行っている歯科治療の概要と、それらに必要な処置の流れや、要する時間なども把握されているのだと思われました。そして、こうした様子を見ていますと、故郷から離れた沖縄の大学病院の口腔外科におられたことや、離島勤務の歯科医師であったことなども想起されてきます。こうした活動も、自ら動く「能動性」が必要であると思われますので・・。

そしてまたこちらの院長を特徴付ける「能動性」について、さらに私見を述べさせて頂きますと、これは当然であるのか、あるいは意外なことであるのか、ご当地山梨県の地域性にも触れるように思われましたので、それにつきましては、また次の訪問記にて述べます。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2024年3月13日水曜日

20240312 株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」pp.159‐161より抜粋

株式会社岩波書店刊 岡正雄論文集「異人その他 他十二篇 大林太良編」
pp.159‐161より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003319613
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003319611

日本民族の文化的社会的展開の道筋

 私は、日本民俗学が対象とする基盤的生活文化を、西欧近代文明渡来までに成立した生活文化と、いちおう限定するが、種族的混成が国家の創立によって、いっそう促進され、それがどんな過程を経て、江戸時代の社会的・文化的構造を展開するまでにいたったかという、あらましの展開の道筋をここで考えてみたいと思う。

 さきに述べたように、石器時代以来、日本列島にはいくつかの種族が渡来し、それらは隣住し、多少とも独立の種族的生活を営んでいたが、しかし時の経過のうちに相互に交流し、接触し、あるものはすでに混合の過程が進んでいたであろう。最後に渡来した天皇種族は、これらの先住農耕種族や漁労種族を征服し、国家を創建し、時とともに政治的権威を強大にし、領土を拡大し、かくして国家広域社会が形成されるにいたった。先住の諸種族はその種族としての独立性を失い、国家広域社会内に組み入れられることになり、だんだん階層化して被支配層となり、あるものは農民層となり、あるものは漁民層となり、あるものは手工業者層と変貌し、またさらに支配者種族自身も種族としての独立性を喪失し、階層化して支配層となり、また貴族層となり、王朝制を確立するに至った。種族としての独立性を失った諸種族の社会的結合力は必然的に弱化し、これら種族固有のさまざまな社会的規制は徐々に弛緩し、たとえば種族内婚的通婚性は崩れ、通婚圏は拡大し、混血の過程は急速に進行した。このばあい、種族の種族としての社会的な枠組みは、まず壊れたが、しかし種族社会を構成していた核社会としての村落共同体、小社会集団、親族構造、社会制度、それにまた生活様式、とくに生産様式は、比較的に長く存続したであろう。種族としての社会的枠組すなわち内婚制は消滅し、通婚圏は広まり、経済生活圏も拡大し、異種族との通婚による混血は文化の交流・混交を促し、かくて身体形質の遺伝、文化伝承の場はその範囲を拡大した。文化の地盤であり容器であった種族の解体は必然的にまた種族文化の統体性の解体を促した。この解体がすすめばすすむほど、その文化要素は母胎社会集団から遊離し、浮動し、伝播し、異系文化要素と混合し、結合し、癒着し、さきに述べた通婚による文化の交流、混交の現象とともに、雑多な新しい形態の宗教、儀礼、社会制度、習俗を生み出すにいたった。伝播や交流は時とともに広範囲に広がり、混合分布の地方差はあっても同じような文化要素が日本列島にほとんど一般化し、ついに雑多で、しかも等質とも見られるような日本文化を生み出すにいたったのである。これはまた身体形質の混合がその度合いの相違はあっても、日本全島に一般となるにいたって、現在見られるとうな雑多なしかも同系等質らしくみえる日本人の人類学的相貌といわれるものが結果するに至ったことにも並行する現象である。しなわち混合の一般化、融合化が等質らしさを生んだのである。この等質らしさはまた事実の等質化への進行を意味する。生物学的遺伝、文化的伝承の場は時とともに拡大し、かくて共同出自の観念は一般に浸透し、言語は統一化し、信仰、儀礼、習俗などは、さまざまな結びつきあいの混合で、広く散布しているというような形で一般化し、等質化しかくて日本民族という新しい大きな単位体エトノスが徐々に形成されるにいたったわけで、しかもエトノスの可変的=過程的性格からもいえるように、この日本民族という民族単位体の一様化・等質化は現在もなお進行しているのである。

2024年3月11日月曜日

20240310 令和・歯科医院訪問記②クリニックに着くまでの経緯

「やがて私が山梨市の医院を訪問する運びとなり、その日程が昨年暮れに決まり、翌、本年の1月下旬と訪問日が決まりました。」

その続きになりますが、この訪問時のポイントはその場でメモをとり、翌日に、それらを短文にまとめておきましたが、それらを統合した訪問記事の文章の書き方については悩みました。その理由は、こうした医院や歯科医院への訪問記、取材記事といったものは、既に数多くネット上にあり、それら前轍に倣い作成することに違和感を覚えたためです。

とはいえ、当記事は、すでにサイは投げられており、書き進める必要があることから、上述の、いわば呻吟している様子をも含めて訪問記の一部として書き進めることにしました。

そして、そうした書き進め方とは、往々にして簡潔ではなく、冗長気味にもなりますが、それはそれで悪いことではなく、シベリウスとマーラーの作曲スタイルの比較にも通底するものがあるのか、ともかく「オッカムの剃刀」も使いようであると私は考えます。

さて、訪問当日は早めの朝7時頃に起床して身支度を整え、最寄のJR総武線本八幡駅に到着したのが7時30分頃でした。そこから総武線で御茶ノ水駅まで出て、中央線に乗り換え、新宿まで行き、そこで予め乗車券を購入していた8時30分新宿発の「かいじ7号」に乗車しました。

「かいじ7号」は予定時刻通り出発して、当初は見慣れない周囲の景色を眺めつつ、持参していた白水社刊 オーランドー・ファイジズ 著「クリミア戦争」上巻を読み進めていましたが、八王子あたりから眠くなり、少しウトウトとしていたところ、早くも目的とするJR山梨市駅は近くなっていました。そこで不図、以前に訪問先医院の先生が「いやあ、新宿から一寝入りする時間もありませんよ・・(笑)。」と仰っていたことが思い出されました。

山梨市駅に到着し、下車してから改札がある駅舎二階に出ると周囲の景色を臨むことが出来ました。そこで此処は山に囲まれた典型的な盆地であることが実感されて、さらにまた、新宿と比べ、明らかに気温が低いことも実感されました。そして、北口から駅前の通り沿いに徒歩2分ほどで目的のクリニックが左側に見えてきました。

こちらのクリニックはここ数年、令和に入り、ごく近隣にあった以前のクリニック敷地からこの場所に移転してきたとのことであり、現在の新クリニック2階の窓からJR線方面を眺めると、以前のクリニック建物が自然と目に入ってきました。現在、この旧クリニック建物は、倉庫や院長の休憩部屋などとして用いているとのことです。

さて、駅から歩き、左手に見えてきた新クリニックは開院してからまだ数年と日が浅いためであるのか汚れも少なく、あるいは見方によれば、周囲の他の建物と比べて、少し異質なくらい「美」を意識しているようにも感じられました。

とはいえ、無論、そうした「美意識」あるいは「審美性」といったものは、医療機関だけに変に耽美的であったり、あるいは装飾過多といったものではなく、簡素ななかに美しさを見る、何というか、北欧の各種生活雑貨や家具などからも看取される文化に近いものであり、そして、そこに何らかの独自の機能美を付加、追求したと思しき嗜好の傾向を持たれている開業医師・歯科医師の先生方も実際に少なからずおられました。それでも、こちらの歯科医院は、あまりそうしたことを強調するようでもなく、そして、そこにまた独自の嗜好の傾向があるようにも感じられました。

さて、クリニック前に矯正治療後の歯列のように整然と置かれたプランタの間を通り扉を開けて中に入ると・・・

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。