2017年10月6日金曜日

20171006 継続的に文章を書くために大事なこと・・『壁の設定』?

A「たとえブログ記事といった形式ではあれ、継続的に文章を書き続けていますと時折『自身は何かすごいことを発見したのではないか、あるいは予言したのではないか・・?』と思うことがあります・・(苦笑)。

それらの具体的な内容については取り上げませんが、あるいはたしかに、これまでに作成したブログ記事のなかで、一つぐらいはこれまでに文章化されたことのない、新たな知見らしきものがあるのではないかとも思われるのです・・。

おそらく、このように考える自身とは、多少おかしくなっているのかもしれません・・(苦笑)。

しかしながら、こうした公開を前提とする文章を作成するうえにおいては、少なくとも、その程度の覚悟もしくは意気込みといったものが『わずかでも』なければ、おそらくそれを継続することは難しいのではないかとも思われるのです(少なくとも私の場合はそうであると云えます・・(笑))。

またそれは、目的・意義といった大袈裟なものでもなく、それはほぼ毎日、文章を書き始める・著すに至るまでの跳び越えるべき壁のようなものではないかと思われるのです。

そして、その壁とは、自分自身が設定したものではあるのでしょうが、同時にそれがあるからこそ、ある程度の勢いを以って文章を書くことが出来るのはないかとも思われるのです・・。

ともあれ、こうしたことは(科学的とも云える)精確さと的確な文章表現の両立が難しいと常々感じさせるところ(抽象的なことをどのように具体的に記述するか)ではありますが、自身としてはそのように考える、否、描写する次第です・・。

つまり、当然ではあるのですが、これまでの文章にて理解されるように、その始原において『考え』とはすべからく抽象的なものであるのです・・。

そして、その我々の内面に存在する抽象的な『考え』を文章を含めて具現化あるいは可視化したものが言語、数式、図面等を介してはじめて共有可能な『考え』といったことになるのでしょうが、それでも、あくまでも始原における『考え』とは抽象的なものであり、その涌出源とは、我々の『精神』であるのです・・。

この『精神』に重きを置きすぎることは、相対化を妨げ、そして科学的な思考を阻害することになるのかもしれませんが、それでも具現化・可視化されたものに対してのみ過度に価値を認める社会になりますと、今度は創造を要する多くの事物がテンプレート的なものに依存するようになってしまうのではないかと思われるのです・・。

これは自身のこれまでのブログ記事作成から多少の理解を得たことがらではありますが、そういった傾向とはある程度普遍的なものではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか・・?

ともあれ今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等など大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。」

20171005 最近読んでいる著作から思ったこと・・一身にして二生を経るとは・・?

本日は帰宅が若干遅くなったことから、正直なところ、新たな記事作成を多少面倒に思うところではあります・・(苦笑)。

しかしその一方で、その程度のことで本日分の記事作成を止めるというのも、これまでの経緯から考えてみますと、いささか逸脱気味であるといえますので、つい先ほど記事作成を開始した次第です。

さて、本日の首都圏は、朝からこれまでになく冷涼であり、季節がまた一歩、本格的な秋へと向かっていることが感じ取られました。

また先日のブログ記事に書いたように、ここ最近、電車での移動中は既読のジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』を再読しておりますが、帰宅後はまた別の著作を数冊渡り読みしております・・(笑)。

その中の一冊が日清戦争の研究においては特に第一級の史料とされる陸奥宗光著『蹇蹇録』であり、その著作文体は慣れるまでが多少面倒ではありますが、慣れつつ読み進めると次第に『なるほど、これが一つの名文というものかもしれない・・。』といった感想を抱くに至るわけですが、それと同時に感覚的ではありますが、この著作は部分的にではあれ口述筆記によって書かれたのではないかとも感じられました。

これが事実に沿った推察であるかは分かりませんが、こうした不図感じられることが、如何なる経緯にて発生するのかは未だ分かりませんが、それでもこうしたことを感知するセンサーとは我々の精神のなかにあるのではないかと私は考えます。

あるいはそれはある程度文章を書き続けていると、いつの間にかそうした感覚が成長してくるのかもしれません・・。とはいえ、さきの推察が合っているかどうかといった根源にある疑問とは分からず仕舞ではありますが・・(苦笑)。

また、あくまでも個人的な好みではありますが、私自身はこの『蹇蹇録』は簡潔明瞭であり同時に格調高い文体を持つ、近代初期の我が国における名著の一つとして評価されるものと考えます。

しかしながら、そうした文体を著した陸奥宗光は、幕末期には海援隊に属し坂本龍馬と行動を共にした、いわば維新回天期の志士でもあったのです・・。

さらに坂本龍馬暗殺の直後には、その犯人と目される人物への報復襲撃といった乱暴且つ血なまぐさいことも行っています。

これらのことを勘案し考えてみますと陸奥宗光もまた一身にして二生を懸命に生きた人物であることが理解されます・・。

いや、それだけでなく、この人物とは、明治期に入ってからの日清戦争に至るまでの経緯もまたかなりふるっており、決して一筋縄ではいかない何かしら強烈な荒ぶる精神が宿っていたのではないかと思われるのです・・。

それは同時代の志士たちのなかでもかなり特異であり、なかなか薩長土肥出身の方々からは見出せないような『何か』があるのではないかと思われます・・。
(多少肥前の江藤新平が近いのかもしれないが、また大分異なるように思われます・・。)

あるいは、その『何か』は昨今においては地域にて見受けられない前近代あるいは古代にまで遡る『紀州もん』の特徴であったとも思われるのですが、その確たる証拠といったものはありません・・。

くわえて、大変面白いと思うことは、陸奥宗光も幼少期に、父が紀州藩内での政争に敗れた結果、南紀田辺にて蟄居を命じられそこで過ごしているということです・・。

このことはあまり書かれることではありませんが、南紀にて過ごした経験がある自身としては、なかなか興味深いことであるように思われるのです・・(笑)。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等といった大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。