2021年5月14日金曜日

20210514 あってもなくても問題ないブログで意味があること・・「誤配」と「セレンディピィティ」

 今回の記事投稿によって総投稿記事が1530に到達します。また、さきの1525記事の投稿からは書籍からの引用部を記事として充ててきましたが、おかげさまで、これらの閲覧者数も思いのほかに伸びています。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、それらの中で、一つでも興味を惹かれるものがありましたら幸いと云えます。

そして、本日もまたさきほどまで書籍からの引用を記事としようと考えていましたが、ある程度は自身の文章での記事作成を行わないと、文章作成の腕が鈍るのではないかと思い、また、今回の記事投稿によって、1530に到達し、多少は区切りが良いと思われることから、自身の文章にて記事を作成することにした次第です・・。

さて「自身の文章にて」と書いてはみましたが、実際、このように書き進めてみても、今現在に至るまで特に記事の主題は思い浮かばず、ここにきて、キーボード上の両手は、何やら突如として動きが鈍くなりましたが、それでも、この辺りまで書き進めることが出来たのであれば、とりあえず、どうにか先も書き進めることが出来るように思われます・・。

ここ数日間は、主に新書からの引用にて、中国、そして同国の伝統的な特産品のひとつである茶について扱いましたが、そこから本日は、この茶から敷衍して、中国地域内で特産品に相違があるのと同様、伝統的な医療についても、地域的な相違があることを言及した記述を充てようと考えていました。さらには、それとも関連して、地域における鉱工業や、それを基盤とした軍事組織の相違などについても、いくらか関連した記述を見出すことが出来るのではないかと考えていましたが、そうしたなかで、こうした自身の手による記事を挟むことにより、計画通りの記事作成とはならずに、ある種の「誤配」のようなものが生じ、さらに違った面白い方向に進んで行くのではないかとも思われるのです。

あるいは、こうしたことを事後的には「セレンディピィティ」と云うのかもしれませんが、ともあれ、こうしたブログのような、いわば「あってもなくても特に問題がない営み」においては、まさに、そうした「誤配」を敢えて忍ばせることに「問題がない」なりの意味が認められるのではないかと思われるのです・・。

もしくは、少し大きく見ますと、当ブログがいくつかの偶然によって2015年に始まり、現在、この文章の作成にまで至っていることも、まさに「誤配」や「セレンディピィティ」の賜物であり、またさらに、そこが今現在において当ブログの「問題がない」なりの意味であり、そして、さらに続けることにより、その後において、あるいはその意味や重さも変わってくることもあるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、ここまで書いてみますと、昨日までの「茶」の記事との時代背景の近似(16世紀半ば~17世紀初頭)、あるいは同じ嗜好品であるといった関連からか、芥川龍之介による「煙草と悪魔」という短編が思い出されてきました。あの短編もまた、解釈によれば「誤配」と「セレンディピィティ」について扱った話とも云えますので・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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20210513 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

イギリス人が最初に茶に言及しているのは。日本の平戸へ来航したイギリス東インド会社の駐在員R・ウィッカムが、ミヤコの同会社駐在員に宛てた1615年6月27日付の手紙であって、そのなかで彼は、ミヤコから良質の茶を一壺送って欲しいと述べている。

 オランダ人についで、イギリス人も日本を通じて茶を知るようになったということは興味深い。だから当時は、今日のように福建語系の「ティ」と発音せずに、「チャ」または「チャ」に近い「チョオ」と発音していた。しかも彼らにとって「チャ」といえば、日本の抹茶つまり茶葉を粉末にしたものに熱湯を注いで飲むことを意味したようである。このことはさきに述べたマンデルスロが「東インド旅行記」の中でものべていたことである。それでは、いつごろからイギリス人は茶のことを「ティ」と呼ぶようになったのか。だいたいそれは1644年以後のことではないかと思われる。というのは、この年イギリス商人が厦門(アモイ)に拠点を築き、ここで中国人から直接福建語の「テー」を知りtoe→teaになってゆくのである。だから1671年に出版された「英語用語解」(グロサリ)にはまだchaという綴りで表されていた。

 ところで、いつから茶がイギリスに入ってきたか。正確なところはわからない。しかしオランダ、フランス、ドイツへ入ったのとほぼ同じころ、すなわち1630年代中頃にオランダをつうじてイギリスへも入ったと考えておいてよいだろう。ただイギリスで茶が一般的に市販されたのはかなり後の1657年、トーマス・ギャラウェイというロンドンのタバコ商でコーヒー・ハウス店主が、茶の葉を売り出し、店で茶を飲ませたのが最初であるといわれる。買ったのは上流階級であったから、値段もベラ棒に高く、一ポンド(重量)で6~10ポンドという高価な値がついていた。コーヒー・ハウスで茶が売られたといえば、ちょっと奇妙にきこえるかもしれないが、じつはコーヒーの方が茶よりも数年早く販売されていたからで、舶来の珍奇な飲み物としては、コーヒーも茶も大したちがいはなかったから、一足さきにできていたコーヒー・ハウスで茶が売り出されたのである。

 コーヒー・ハウスはいまのクラブの前身で、商人や貴族の社交場であり、海外貿易にたずさわる商人をはじめあらゆる階層の人たちが、入場料一ペンス、一杯二ペンスのコーヒーや茶を飲みながら論じあい語りあった情報交換センターであった。それは17世紀後半から18世紀はじめが最盛期であった。コーヒー・ハウスから新聞・週刊誌などのジャーナリズムや、文筆によって生計をたてる人びと、また文壇なるものも生まれたし、さらにはかの王立科学院もここから生まれた。

 このことからも知られるように、コーヒー・ハウスはイギリスの知的生産力の発展にきわめて大きな役割を果たした。最初のコーヒー・ハウスが1650年オクスフォードにできて以来、その数は急速に増加し、1683年のロンドンには、コーヒー・ハウスが約300軒もあったといわれている。コーヒー・ハウスのすべてが茶を扱っていたわけではないことはいうまでもないが、茶に関してはとくに有名であったのが「ギャラウェイ」である。「ギャラウェイ」はシティのロンバード街とコーンヒル通りに挟まれた裏通りエクスチェイジ・アレイの一角、今日バークレー銀行になっている場所であった。

 「ギャラウェイ」で売られた茶は、病気の予防と治療にとくに効くというので有名であったが、店主は1660年、片面刷りのポスターに茶の効用を記して茶の宣伝広告をはじめた。このポスターは近世イギリス広告史の草分けを飾る意味においても、重要な意味をもつものである。同時に茶に関する最初のポスターである意味でも注目すべきものである。

 現在のポスターは、簡単明瞭、一目瞭然を旨としているが、当時のものは紙面いっぱいにくどくどと効能を書き並べているのが特徴で、いまここに全文を翻訳するのはいたずらに紙面をとるだけでわずらわしい。だから要点だけの紹介にとどめるが、広告文は茶に関する一般的紹介にあたる前半と、茶の特効を記した後半の二つの部分から成っている。

 まず前半において、「茶は、古い歴史とすぐれた知能で有名な諸国民(注・・中国及び日本を指す)の間では、しばしばその重さの二倍の銀と交換されている。茶からつくられる飲み物は高い評価をうけており、これら東洋諸国へ旅行した各国の知識人の間で、茶の性質に関する調査が行われてきた。あらゆる方法で厳密に検査した結果、茶を飲めば完全に健康を保って驚くほど長生きができると、識者たちは茶の利用を勧めているのである」とした。

 後半の部分では、茶の適応症として、精力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風邪など十四の症状をあげている。今日のわれわれからみれば、誇大広告もいいところであるが、当時のイギリス人にとって中国や日本はすぐれた文化をもった神秘的な先進国で、茶はまさにその代表的な文化にほかならなかった。だから金持連中はもとより、誰もがいくら高い代価を支払っても、東洋の霊験あらたかな神秘的飲み物を手に入れたいと思ったであろう。当時イギリスをはじめヨーロッパ各国にほぼ同時に入ってきた舶来の飲み物として、チョコレート、コーヒー、茶の三種があるが、くすりとしての効果からいえば、カフェインの含有量の多いコーヒーの方がナルコティックスの作用が大きく、覚醒剤としての効果では茶に決してヒケをとらなかったであろうにもかかわらず、茶だけがこんなにヨーロッパ人にもてはやされたのは、彼等の東洋文化に対するコンプレックスからきているのである。茶には760年頃に書かれた陸羽の「茶経」から、日本の「茶の湯」を中心とする芸能文化、さらに茶碗、茶器などの美術工芸品から茶の入れ方、飲み方、マナーにいたるまで、長い歴史的伝統文化の輝きがある。これに対してチョコレートやコーヒーにはこうした文化の背景がない。少なくとも彼らのコンプレックスをかきたてる文化の重みに欠けていたという点が、茶と根本的に異なる点である。ついでにいえば、イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し、東洋のすぐれた文化・物産の模倣、製造、ついには東洋への攻撃的進出というかたちで展開してゆくのである。