2017年1月26日木曜日

20170126 2011年春の出来事から思ったこと・・

A「先日投稿したブログ記事にて、2011年年始のことについて記しましたが、この年の春の学会は玄界灘の向こう側の国の首都にて国際会議との合同開催でした。

こうしたことは学会の開催において数年に一度行われ、また発表者は、それに合わせて各種発表資料の作成を行うことになります・・。

実験に関しては、基本的に、これまで行ってきた実験を更に進化させるカタチであり、具体的には、実験条件などを改変、追加し、これまでに得られたデータから、より対象とする現象の精確な理解をはかるものであり、特に基礎からの見直しを要するといったものではありません(時にはそういった場合もありますが・・)。

それ故、こうした場合、最も苦労することは、その発表の形式、つまり厳密には、その用いる「言語」についてであったといえます・・。

とはいえ当時2011においては、既にブログ記事に記したように去る2010年秋にインドネシアにて口頭発表、またさらに以前の2009年秋においても2011年学会と同国にある南部の都市にてポスター発表を経験しておりましたので、そこまであわてるといったことはありませんでした・・。

加えて、この2011年春の学会が開催される都市への訪問とは初めての経験であり、むしろそのことの方に高揚していた感があります・・(笑)。

また、大変面白く感じたことは、この時の航路(飛行機)とは鹿児島より直通便が出ており、その所要時間が東京へ行くよりも随分短かったことでした・・。

しかし、こうしたことは東アジアの地図を見れば、自ずと理解できることではあるのですが・・(笑)。

つまり、それを面白いと感じた理由とは、それまで自身が心のどこかで首都圏イコール日本であると認識していたことによるのではないかと思われます・・(苦笑)。

そしてまた、そのことによりあらためて、当時、自身が九州に在住していることが理解できました・・。

また、そこから航空機のない時代、つまり我々の知る歴史の殆どの期間、九州とは、現在我が国において(一般的に)語られる、認識されるような意味での『国際的』とはまた異なった次元から『国際的』であり、また現在なお、その次元からの自然発生的な結節に基づく『国際的』なるものが息づいている地域であるといえます。

また、おそらくこうしたことは、ある程度(数年以上)その地域に在住してみないと認識出来ないことであり、同時にこうしたことは本質的に言語、文章にて表現してみても実際のところ、あまり意味はないのではないかと思われるのです・・。

いや、あるいは殆どのこうした実感、体感より生まれ、感覚に基づいた思想、思考とはそうしたものであるのかもしれませんが・・(苦笑)。

それ故、現代において進化したさまざまな科学技術による学問的理解への容易さの増進とは、どうも『片手落ち』のような感じ、違和感を受けることがあるのかもしれません・・。

そして、それは何といいますか鋳造、鍛造といった原初からの金属加工技術が存在しなかった国、地域において、突如としてCAD/CAMによる金属切削加工技術が持ち込まれた際におぼえる妙な違和感に似ているのではないかと思います・・(偶然にもこれと類似したことを先日訪ねた碩学といっても良い歯科医師の方が仰っていました・・)。

とはいえ、そうしますと今度は現代においては一般的には時代遅れとされる唯物史観での発展段階説にまた妙な郷愁らしきものをおぼえてしまうのですが、何れにせよ、その歴史的な認識、位置づけにおいて『現代』とは後世、果たしてどのように認識されるのであろうか・・?

というのは、なかなか不安であると同時に面白い設問であると考えます・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年発生した熊本、山陰東部、福島周辺での大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」









20170125 読書への興味・ブログ記事作成に対する興味について・・

A「本日は多少風邪気味であり、ブログ記事の作成は止めておこうと考えておりましたが、やはり何かしら書いておいた方が良いと考え、面倒とは思いつつも記事作成をはじめた次第です・・(笑)。
習慣とはなかなかおそろしいものであるとつくづく思います。

また「上記のような心情にて書き始めた記事がどのようなものになるのか?」といった疑問もなかなか面白いものであり、それは昨日投稿した記事の主題とも、ある程度関連があるのではないかとも思われます・・(笑)。

さて、現在このように記事作成を行っているわけですが、その心的状態とは、特に高揚、落胆しているわけでもなく、であるからといって、もとより記事作成に没頭しているわけでもありません・・。

本当に何かに没頭している状態とは、おそらくその状態を(客観的な感じで)記述することが難しいのではないかと思われますので、こうした文章を作成している心の状態とは、また少し特殊(現在の自身にとって多少不慣れな心のスタンス)であり、違和感があると最近時折思うのです・・。

しかし、この文章を作成している自身の心の状態を特殊と感じ、また違和感をおぼえるということは、あるいは自身の文体を得るまでに経験する一つの過程ではないかとも思われます・・。

これを別言しますと、以前であれば、こうした心的状態を取り上げ、それを上記のように文章として表現することは難しかったことから、これはこれで一つの進化(の過程)ではなかろうかとも思われるということです・・(笑)。

そしてまた、そのようなことを継続していくうちに果たして「自身の文体」といったものを得ることができるのでしょうか・・?

以前投稿した記事においても示しましたが中井久夫によると「文体を得る経験」とは比較的明瞭、判然としたものであるとのことですが、私はこれに関しては未だに実感がありませんし、また同時に今現在、自身の文体を持っているという自覚もありません・・。

しかしまた、以前に比べれば、多少それに近づいているといった実感はありますが・・。

また、その実感があるからこそ、冒頭にて述べたとおり、面倒とは思いつつも作成をはじめた記事が、この程度まで(特に痛痒を感じることなく)記すことが出来ているのではないかと思います。

また、このことに関して当初「中身が無いことを延々と文章にて記すことは無意味であり、何の益もない」と、かなり批判的に考えていたのですが、それがある程度の期間、ブログ記事作成を経ることにより大きく変化したことも事実です・・(笑)。

それ故「継続は力なり」というコトバの意味もまた、ここであらためて実感しております・・(笑)。

とはいえ、それが「今後どの程度まで継続するのか?」については、正直なところまったく考えておりません・・(苦笑)。

そして、これは自身の読書の傾向と、かなり近似しているように思われるのです・・(苦笑)。

さらにまた、この読書の傾向とは、幼年期にまで遡ることが出来、その意味において、読む書籍に関しては、年齢の経過により、いくらか成長、進化しているのかもしれませんが、その行動自体とは大きく変化(成長)していないということが出来ます・・(笑)。

そうしますと、現在ある程度継続し作成している一連のブログ記事においてもまた、そのようになる可能性があるのかもしれません、また同時に、それが「どのようにして為されるか?」とは、多少興味が湧き、おそらく根源的には、そうした興味によって、これまで一連のブログ記事作成は為されているのではないかと思います・・。

しかしまた、この種の興味とは、さきの読書に対する自身の興味?とはまた異なるものです。

そして、それら(読書、ブログ作成に対する興味)とは、おそらく同一になることはありません。

とはいえ、それら双方の興味が「どのように同一とまではいかないまでも近似していくのか?」とは、なかなか面白いと自身は考えるのです・・(笑)。


今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

また、昨年発生した熊本、山陰東部そして福島周辺での大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」