2023年11月6日月曜日

20231106 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」pp.303-306より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600274
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600271

 西欧における政治革命と相並んでの産業革命こそは、ヨーロッパの世界覇権を確立せしめる決定的要素となった。西欧の侵略に対し、辛うじて自ら支持し来った、東亜の清朝、西亜のトルコ二大国も幾度かの反抗の後、ついに戟を投じて敵の軍門に投降せざるを得なくなったのである。オスマン・トルコの衰頽とともに西アジアの没落が始まった。西アジア社会の没落は、それが最古の文明を有し、最も進み過ぎたる社会の没落であるが故に、必然の結果としてその苦悶が最も深刻であった。オスマン帝国領土の分割は、まず北方におけるバルカン半島小民族、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャの独立に始まり、次いで南方におけるエジプトの独立で、一段落となった。

 エジプトは先に十字軍の勇将大サラジンを開祖とするアユビド王朝衰えて、奴隷的傭兵の有力者代る代る立ちてマメルウク王朝と称せられ、やがてオスマン・トルコの領土となったが、傭兵軍閥の勢力盛んにして、トルコ皇帝は総督を派遣したるも政令始めより徹底し能わなかった。その後ナポレオンのエジプト遠征あり、フランス軍の撤退に乗じてエジプトを実力をもって征服統一したのが、バルカン生れの傭兵出身マホメット・アリその人である。当時先住の傭兵軍閥の勢いなお盛んにて、アリも最初はこれを利用して自己の勢力伸長に資したが、ようやくにしてその制御し難きを思い、強豪480名をカイロ城内に招いて饗宴の後、一網打尽にこれを誅殺した。アリ王朝の基礎ここにおいて確立し、オスマン・トルコ朝廷より世襲の総督たることを認められたのであるが、その土地の重要性はやがて英国の食指を動かさずにはおかなかった。スエズ運河の工事は最初フランス人の手によって着手成功したのであるが、英人は国王イスマイルの財政困難に乗じて運河会社を買取し、さらに金銭を国王に貸しつけて、エジプト国家を破産に導いたのである。国家の破産、そは本質上乞食の破産以上にむつかしいことであるが、破産を宣告し得る敵国があって始めて可能である。エジプトは破産の結果国家を競売に付す代りに、英仏の保護下に準禁治産者の宣告を受けることになった。エジプト人はかかる謀略の進行に対して不満やる方なく、ついに「エジプト人のエジプト」なるスローガンを掲げて暴動を起こしたが、英国軍隊によって鎮圧され、この時以来英国のエジプト占領は第一次世界大戦の勃発まで引き続き、大戦中に英国は完全にこれを保護国と化して現在に至っているのである。

 スエズ運河の開鑿は、東西洋間の歴史的交通路を一変せしめ、インド洋、紅海、地中海を経由する航路が世界最大の交通動脈幹線となった。エジプトは英国にとって本国とインドを連結する連鎖の最も重要なる一環となっている。この南方海上交通路に対して北方にはロシアが建設したる北方シベリア鉄道があって、東西洋の一連絡路となっている。ただしこの鉄道の敷設せられたのは既に過去の時代に属する。新時代の要求する交通路は、やはり古代のいわゆる「絹の路」すなわち中国の開封、中国より蘭州、敦煌を経て天山南路に入り、パミール高原を越えてロシア領トルキスタンの河間地方、サマルカンドの付近に出で、これより裏海、黒海の南岸もしくは北岸を通過して地中海に到達する路線ではあるまいか。はたして然らば、シリア地方は再び東西交通の孔道を扼して昔日のごとく世界を動かす支点となり得る望みがある。

 シリア地方はオスマン朝トルコの支配下において、帝国内交通の重心であり、アレッポに駐在するトルコ総督の支配を受けた。第一次世界大戦に際して、英仏連合軍の占領するところとなり、戦後北方シリア本部はフランスの委任統治に、南方パレスチナは英国の委任統治となった。シリアは後に土着民の反抗あって叛乱起り、ダマスカスの包囲という大事件も起ったが、結局フランスは名目上の独立を与うるに決し、シリア、レバノン両共和国の成立を見た。が、ただし実権は言うまでもなくベイルート駐在のフランス総督の手中にある。パレスチナは英国の斡旋により、全世界に散在するユダヤ人をここに集めて、流浪の民に故郷を与えんとし、ユダヤ人の移住続々開始せられたるところ、先住のアラビア人は既得の権利を失わんことを虞れて反抗運動を始め、幾度か両民族の間に流血の惨事を引き起した。英国は両者の調停につとめ、トランスヨルダンを分離して純然たるアラビア地域とし、海岸に近きパレスチナをもって両民族共住の地域と定めんとしたが、アラビア人の不満はこれによって緩和されず、英国にとりては両民族の衝突、敵愾心の激化は思う壺なれど、それがやがて反英運動に転向することも容易に起り得べきをもって、自らの謀略のためにかえって痛し痒しで困しみつつある。

 メソポタミア、すなわちチグリス、ユーフラテス両河の灌漑する平野には現今イラク王国をある。この地方は第一次世界大戦中に、英将モードが主としてインド兵を率いてバスラに上陸し、トルコ兵を取り、北上して平定したる地方であって、戦後英国の委任統治となったが、間もなく反英暴動の蜂起を見、英国も已むなく実力者現王朝の始祖ファイサル一世を迎えてその主権を承認し、ただ財政上の実権を掌握して政治外交を指導するにて満足せねばならなかった。