2022年12月29日木曜日

20221228 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.37-38より抜粋

一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.37-38より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130820915
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130820912

装飾古墳

中期の古墳では、長持型石棺を竪穴式石室に納めた者が多いが、追葬の可能な横穴式石棺もあらわれ、普及する。後期になると、横穴式石室に壁画を描いた装飾古墳が北・中部九州に行われた。

 装飾古墳は、四世紀から五世紀初めにかけ、石棺の蓋や本体に鏡や直弧文、円文や靱など武器・武具のかたちを浮き彫りまたは線刻し、魔除けとしたものに始まる。五世紀には千金甲古墳(熊本)のように、横穴式古墳の玄室(棺を納める奥の部屋)の下部に、石障と呼ぶ区切りの板石を設けて複数の遺体を安置し、そこに装飾を加える。六世紀には、玄室とそこに至る羨道の壁面に彩色や線刻で壁画を描く。六世紀半ばから後半にかけてが最盛期で、王塚、チブサン、珍敷塚、竹原[図16]など、装飾古墳の代表格がこの時期の北九州に集中しており、また茨城県のように、関東にも装飾古墳が及んでいる。七世紀には大分の鍋田横穴、福島の清戸迫横穴のように、山の斜面に直接横穴を掘って墓室とし、その内部や外壁に装飾を施すものも見られる。近畿地方にはなぜか、彩色古墳が八世紀まで見られない。垂れ幕に描いたため残らなかったとする説もある。

 装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。日本の装飾古墳との関係は当然ながら予想され、研究も始まっているが、中国の墳墓とも関係を含め、これからの課題が多い。中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文、三角文、蕨手文、直弧文など抽象文様が多い点にある。盾や靱、人物、馬、動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であり、図形の重なりがなく、平面的羅列にとどまる。同時代の中国の墳墓壁画にくらべてこの印象はとくに強く、高句麗壁画はその中間といえる。

 だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代お見方からすれば、装飾古墳も大きな価値がある。チブサン古墳[図17]の遺体の頭あたりに描かれた人物像は異星人のように奇異で稚拙だが、白、赤、青の三角と菱形、円を組み合わせた彩色は豊かで美しい。清戸迫横穴の狩猟する人物の肩から大きな赤い渦巻き文が吹き出して、描き手の呪術の力がそこにこめられているのを見るのも印象的である。装飾古墳の大部分は、発掘後の壁画の感想により彩色が色あせて見えるのが残念だが、死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱はそこに失われていない。