2023年2月28日火曜日

20230228 株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋

株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003228626
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003228623

T・E・ローレンス大佐(1888~1935。イギリスの考古学者・軍人・作家)に初めて会ったとき、彼はたまたま夜会服に正装していた。あれは1920年の2月か3月のことだったに違いない。オールソウルズ・カレッジでは賓客接待の夜で、そのさい彼は7年間の特別研究員に任命された。夜会服姿は目に注意が集中するが、ローレンスの目はたちまち私をとらえた。人工の光で見てみてもはっとするほど青い目で、彼は話し相手の目をけっして見ようとはせず、衣服や手足の目録をつくりでもするかのようにちらちらと上下に動かす。私は偶然の客にすぎず、居合わせた少数の人々は顔見知りだった。ローレンスは神学の欽定講座担当教授(オクスフォード・ケンブリッジ両大学、およびスコットランドの大学に設けられた講座。ヘンリー八世の創設。その後の同様な講座担当教授にもいう)とシリアのギリシャ哲学者が初期キリスト教に与えた影響、わけてもガリラヤ湖にほど近いガダラ大学の重要性について話し合っており、使徒ヤコブが書簡のなかでガダラの哲学者の一人(私はムナサルクスだと思う)を引用したと言った。彼はさらに、メレアグロス(紀元前一世紀ごろのシリア出身の詩人・哲学者)や、ギリシャの詞華集に寄稿したシリア系ギリシャ人について話し、彼らの詩の英訳を出版するつもりだと言った。私はここで話に加わり、メレアグロスが一度いささか非ギリシャ的な使い方をした明けの明星のイメージに触れた。ローレンスは私に顔を向け、「さては詩人のロバート・グレーヴスだな?君の本は1917年にエジプトで読んだけど、すごくいいと思ったよ」と言った。

 私はどぎまぎしたが、悪い気はしなかった。彼はさっそく若い詩人について訊きはじめた。最近の詩の事情に疎いのでね、と言うので、私は知るかぎりのことを伝えた。

 ローレンスはエミール・ファイサル(1906?~75)サウディアラビア国王〈1964-75〉の顧問を務めた平和会議を終えてまもないころで、「叡智の七つの柱」の第二稿に手を入れているところだった。特別研究員の地位は、アラビアの反乱の正規の歴史を書くことを条件に彼に与えられたのである。私は午前中の講義の合間に彼の部屋をよく訪れた。しかし彼は夜に仕事をして夜明けに寝るので、11時前や11時半という時間はさけた。彼自身は酒を飲まなかったが、用務員にオーディット・エールの入った銀製ゴブレットを持たせてよく使いによこした。オーディット・エールは大学で醸造されてオーディット・デイ(会計検査日)などに飲まれたところからその名がついた、大麦湯のような口当たりのビールだが強かった。シュレスヴィヒ‐ホルシュタインのアルバート王子が新築された博物館の開館式に招かれてオクスフォード大学に来たことがあり、式のまえにオールソウルズ・カレッジで食事をとったさいオーディット・エールの口当たりのよさに騙されてつい飲みすぎ、午後遅く帰るときにはブラインドを引いた車で駅まで送られるはめになった。ローレンスの戦時中の活動についてはっきりしたことは何も知らない。もっとも兄のフィリップが1915年にカイロの情報局で彼と一緒で、トルコの戦力の分析に当たっていたことはわかっている。反乱に関しては訊いたことがない。彼がその話題を好まないように見えたことが一つ‐ロウエル・トーマス(1892-1981。アメリカの著述家・ジャーナリスト・旅行家。第一次大戦で出会ったT・E・ローレンスについて書いた「アラビアのローレンスと共に」〈1924〉がベストセラーになった。その後長くラジオのニュースキャスターとして活躍〈1930-76〉が現在、「アラビアのローレンス」についてアメリカで講義している‐もう一つは私と彼の間に戦争のことは口にしないという申し合わせがあったためだ。何よりも私たちは戦争の後遺症に苦しんでおり、オクスフォード大学を現実とも思えぬほどの憩いの場として楽しんでいた。だから、フルスキャップにぎっしり書かれた「叡智の七つの柱」の長い原稿は居間のテーブルにいつも積んであったけれども、私は好奇心をおさえた。彼はときおり、戦前にメソポタミアで行った考古学の仕事について話した。しかし、私たちがいちばん論じ合ったのは詩、それも現代詩だった。彼は、詩人と聞けばだれかれの別なく会いたがり、私を通じて知りあった代表的な詩人の中には、シーグフリード・サスーン、エドマンド・ブランデン、メイスフィールド、それから後日のことになるが、トーマス・ハーディ(1840-1928。イギリスの詩人・小説家)らがいた。彼は素直に詩人を羨み、詩人にはなにか理解すれば得るところのある秘密のようなものがある。という思いこみがあった。彼はチャールズ・ダウディ(1843‐1926。イギリスの作家・旅行家。作品に「アラビア砂漠旅行記」など)を崇拝し、第二の父と慕っていたアシュモリアン博物館のホーガス館長を通じて紹介してもらった。彼には詩人を特殊な生き方や考え方の体現者というより、むしろ技術的な言葉の魔術師と考えているようなふしがあったが、私にはこれに反論するだけの知識がなかった。その後何年かたっていくらか分かってきたときには、説得するのは難しいと気がついた。彼にとっては、絵画、彫刻、音楽、詩などは類似した活動で、使われる媒体が違っているだけだ。

20230227 株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」 pp.154‐158より抜粋

株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」
pp.154‐158より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062884283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062884280

白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われていることであるが(石母田正「日本の古代国家」)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのだろう。

 それでは、国内的な目的、対内的な目的というのは、いかなるものだったのであろうか。

 第一の可能性として、中大兄が派兵に踏み切った段階というのは、百済の遺臣鬼室福信たちが唐の進駐軍に対して叛乱を起こし、各地で勝利を収めてした時期であった。その時点で百済遺臣は倭国に使者を遣わして、援軍の派兵を要請してきたのである。

 その際、使者は絶対に客観的な事実を言うわけはない。自分たちはすでに大勝利を収めていて、あたかも、もう少しで唐軍を半島から駆逐することができるとでもいうようなことを言ったことは、おそらく間違いあるまい。したがって、中大兄と鎌足は、そのような誇張された情報に乗ってしまったことになろう。実際に、福信たちは緒戦においては勝利がつづいていたわけであるし、使者の情報が誇張を含んだものであると判断したとしても、あながち虚偽の情報でもあるまいと判断し、倭国からの援軍が合流すれば、ほんとうに最終的な勝利を得ることができると考えたとしても、不思議ではない。現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては、本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあったという可能性もあった、ということを考えるべきであろう。

 第二の可能性として、もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい。当時の兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、もしかしたら唐には負けるかもしれない、ということは、明敏な中大兄のこと、心のどこかに予想していた可能性は高かろう。

 しかしそれでもなお、負けた場合に、唐が倭国に攻めてくるとは想定せずに、国内はこれによって統一されるであろうということを、中大兄と鎌足は考えたのではあるまいか。中大兄にとっては、中央集権国家を作りたい、だけど支配者層はバラバラである、地方豪族は言うことを聞かない、というような時に、ここで対外戦争を起こしてみたら、国内が統一できるだろう、という思いを持っていたのではないか。

 その際、外国でおこなう戦争だったのであるから、敗残兵が大量に帰還してくれば、国内の人びとにも、さすがに大きな損害があったことは察知できたはずである。しかしながら、それだけの情報しかないのであるから、国内向けには、こっちは大きな損害を受けたけれども、向こうにはもっと甚大な損害を与えたのだと言い張っても、誰も見ていないのであるから、わからないのである。

 さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても(実際にはそうだったのであるが)、「大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄王子」という図式を、倭国内で主張することは可能である。つまり、中大兄たちの起こした対唐・新羅戦争というのは、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的だったのであり、それによって倭国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成を、より効果的におこなうことを期したものであるという側面があった可能性を考えたい。

 あるいは、もっと深刻な可能性として、倭国の敗北が国内で周知の事実となってしまった場合でもない、中大兄は自らの国内改革の好機ととらえていたのではないかと考えている。

 あたかもこれから、唐・新羅連合軍が倭国に来襲してくるという危機感を国内に煽り、戦争で負けた、これから両国が倭国に攻めてくるぞ、それに立ち向って我らが祖国を守るためには、このままの体制ではいけない、国内の権力を集中して軍事国家を作り、国防に専念しなければいけない、軍国体制を作るためには、これまでとは異なる権力集中が必要である、国内の全権力を自分に与えろ、と主張しようとしていたのではないであろうか。

 じつはこのパターンが、もっとも強力な軍事国家を作ることができるのであり、中大兄にとっては、この戦争は、まさに「渡りに舟」のチャンスと認識していたことになる。

 最後に一つだけ、とんでもない可能性も提示しておきたい。従来から説かれているところであるが、白村江の戦に参加したのは、倭国の豪族軍と国造に率いられた国造軍の連合体であった(鬼頭清明「白村江」)。中央集権国家の建設をめざしていた中大兄にとって、もっとも深刻な障碍となっていたのは、まさに自己の既得権益ばかりを主張し、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族層だったはずである。中央集権国家の建設というのは、取りも直さず豪族層の伝統的な権益(私地私民)を剥奪することに他ならないのである。

 中大兄と鎌足にしてみれば、乙巳の変依頼、自分たちの改革に対して障碍となってきていた、そしてつぎなる改革に際しても、邪魔な存在となる可能性の高かった豪族層を、対唐・新羅戦争に投入し、それらの障碍を取り除くことができる(いわゆる「裁兵」である)とでも考えたのではないであろうか。

 事実、白村江の戦から九年後に起こっている壬申の乱においては、白村江の戦に参加した豪族の名は、ほとんど見られない。

 中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度、地方にまで浸透していったのである。

 以上、さまざまな可能性を考えてみた。これらのうち、どれがもっとも中大兄の思惑に近かったのか、それとも、中大兄自身がいくつかの可能性をシュミレートしていたのか、今となっては知る由もないが、いずれにせよ、白村江の戦は、必ずしも無謀な戦争だったのではないし、勝敗をまったく度外視していたわけでもないことは、明らかであると思う。

 なおかつ、負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった、という側面を強調したい。しかもそれは、対外的な目的よりも、国内的な要因によって起こしたということを指摘しておきたい。

 これは戦争という国家の権力発動の持つ、非常にして明晰な論理の発現だったのである。あれほどの大敗北だったからこそ、それが先鋭に浮かび上がったということなのであろう。そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる。


 

2023年2月26日日曜日

20230225 先日の「源泉の感情」と「雑談的会話」の続き・・

過日投稿の「1050記事 ブログ記事作成継続のエネルギー・熱源について【対話形式】」にて、2012年の歯科理工学実習のことを書きましたが、これは、直近投稿の「当ブログに関する「源泉の感情」と「雑談的会話」の重要性について」と同じであり、また他にも、この時期のことを書いたブログ記事はありますが、私としては、この時期が人生で最も躁的になっていたと思われることから、総じて印象深く、比較的鮮明に記憶に残っているのだと思われます。

加えて、この時期は、生まれて初めて経験する英語科目の講義もあり、当初はかなり不安で、講義依頼をしてくださった先生に「・・本当に私で大丈夫でしょうか?」と、お聞きすると「大丈夫、大丈夫、鶴木君、ちゃんと英語で口頭発表してるじゃないの(笑)」とのお返事であり、引き受けさせて頂きましたが、こちらも体力勝負なところがあり、マイクを用いずに続けましたが、午前の講義を終えて、PCや教材を詰めたリュックを背負うと、何故であるか、重く感じられたことが何度かあります・・(苦笑)。

とはいえ、そこからまた原付で峠を二つ三つ越えて大学に戻り、最後の準備をしてから午後の実習に備えるのです。そうしますと、一時間ほどの休憩を取る余裕はなくなり、15分ほど一休みしてから実習開始となります。

歯科理工学実習については、2012年の時点で既に3年の経験があり、それなりに慣れてきた頃でしたが、この学年で特徴的であったことは、毎年、1学年を概ね1班10人の5班に分けるのですが、その年は、そこで1班10人全てが女性の班があったことです。

これは当時の私にとっては恐ろしいことであり、また、私がこの班を担当する前の週に、その週の実習を担当されていた先生に、この班員全員が何やら抗議していた様子を見て、その烈しさから、翌週の実習日まで気分が落ち気味でしたが、当日「意を決して」いや「開き直って」と表現した方が良いかもしれませんが、説明や雑談的会話などでの人文系ネタの割合を、以前よりも多くして実習に当たりました。これは、そちらの方が私としては嘘のない、それなりに根拠のある知見を交えた話が出来るであろうと考えたためです。

しかしながら、これまでの経験に基づきますと、人文系ネタを交えたようなハナシを喜んでくださるような女性は、人文系の大学院でも少なかったと記憶しており、ほかの場所では概ね、無視されるか、嗤われるか、バカにされるといった、ネガティブな反応が圧倒的多くを占めていたと記憶しています・・。


またこれは、家族・親族の中であっても、さきのような反応が一般的であるため、そうした(人文系ネタを愛好する)心が萎えてしまうことも、少なからずあるのではないかと思われますが、そうしたことは、たとえネット社会である現在でなくとも、何らかの活動を続けていますと、色々な契機が生じるように、新たな段階に至るきっかけが得られるのではないかと思われます。それは多くの場合、人との出会いであり、いわば師匠のような存在を見出すことにより、心が萎えて枯死することは、なくなるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、それまでの経験から、女性達と人文系ネタは概してあまり相性が良くないものと考えていましたが、この年は、さきに書いたように、午前中の教養英語講義からのハイ・テンションに乗じ、それまで以上に、人文系ネタを多く交えて話してしまいましたが、この時に、以前投稿の「【架空の話】実習・講義篇」内にあるようなことを話したのだと記憶しています。

また、彼女等のそれらに対する反応は、全体としては、あまり例年と変わったところはありませんでしたが、実習中あるいはその後の個別の質問のなかには、人文系ネタに関する興味深いものもありました・・。

そのようにして、特に問題なく、その週の実習も終えて、また、その年の実習も全て秋頃には終えることが出来ました。そして、その後の晩秋から翌2013年の早春にかけて、どうしたわけか、何度か大変興味深い出来事があったのですが、これらについてはまた別の近い機会に書きたいと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2023年2月24日金曜日

20230223 当ブログに関する「源泉の感情」と「雑談的会話」の重要性について

おかげさまで、一昨日投稿分の記事は、投稿後二日としては比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、この題材は、これまでの当ブログ継続の基層にあるものを扱ったことから、これを書くことにより、自らの「源泉の感情」をそこに見出し、そして、その融通無碍の性質から、相変態的に、また新たな方向性の創造を志向して動きだすことが出来るようになるのだと思われます。

その意味において、おそらく各々にある、この「源泉の感情」が、何により齎されたのかが重要になってきますが、これは人により異なると思われますが、それでも多くの方々は複数回は、そうした感情に触れる経験があると考えます。

この(「源泉の感情に触れる」)経験のもとになった出来事は人により異なるのでしょうが、私の場合、まさにそれが当ブログ継続の源泉であると考えることから、無計画に、そして小出しに、ブログ記事として書き続けてきましたが、昨今、ようやく2000記事到達もわずかに現実感が出てきて「そうした際に書いておきたいことはと・・。」と考えたところ、さきの題材が重要なものとして思い起こされ、またそれは、頻繁にツイッターにて連携投稿しているブログ記事である「おかしくなれる時期と(非典型的)知性について」の主題とも関与するものであることから「また何か、これについて書かなければと・・」と思い至り、一昨日の投稿記事となったわけですが、ここで書いた2012年の歯科理工学実習、そして歯科衛生学科での教養英語の経験は、研究室に教授も准教授もいない状況でのことであり、当時の私としては、かなり重大な出来事であったと云えます。

ともあれ、そうした経緯にて、実習やら講義を進めなければいけない私は、その主要な素養(知的背景)は人文系寄りであり、これは教養英語の講義では特に問題ないのかもしれませんが、歯科理工学実習では、先日の投稿記事にて述べた「雑談的会話」で、実習内容と関連することを、ごく自然に、雑談のようにして適宜、話すことが出来ることが重要と書きましたが、他方でもちろん、実習書や各種テキストに記載があるレポート作成上で重要と思しきことは全てお話していますが、それだけでは途中から実習が手持無沙汰になってしまうのです。

そこで、さきに書いた「雑談的会話」となるわけです。そして、2012年の私は、午前中の専門学校の教養英語の講義でのハイ・テンションをどうにか午後まで維持して実習にあたってきましたが、夕方前頃に実習を終えて後片付けをしてアパートに帰宅すると、日中の疲れのため、そのまま玄関先で寝落ちしてしまったことも何度かありました・・(苦笑)。

そして、そのようなことを思い出していますと、以前にも少しだけブログ記事にて書いたことがありましたが、実習時に自らが云ったことが、また少しずつ思い出されてくるのです。そして、それらの内容についてはまた近日中の別の機会に書いてみたいと考えています。

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2023年2月22日水曜日

20230221 人文系人間の歯科理工学実習での雑談的会話について・・

これまでに投稿したオリジナル、あるいは引用記事をいくらかお読み頂いた方々であれば、お分かり頂けるかもしれませんが、おそらく私は、いくらか深いところから人文系への志向が強いと思われますが、2007年に歯科技工専門学校に入学して、歯科医療技術職の職業訓練を受けて、その後、歯学系の大学院博士課程に進みました。

当時は四年制大学での歯科技工士の養成も始まって、まだ間もない頃であったことから、歯科技工士で歯学系の大学院博士課程へ進まれた方は、おそらくいませんでした。その意味において、私は我が国の歯科技工士教育の一つの節目にはなったのかもしれませんが、同時に歯科技工士としては、そこまで良いものになったとは云い難いです・・(苦笑)。

しかし、その代わりに、幾つかの分野に身を置いてきたことから、一身では経験することは少ないと思われる、複数種類の経験をさせて頂いたのではないかとも思われます。

現在から14年前の2009年に鹿児島に移り住み、その年から歯科理工学実習に実習補助として参加させて頂き、その中の幾つかの実習項目については、重要な工程を任せて頂き、また、歯科技工にて用いる各種器具の扱いが、未だ不慣れである学生さん達の動きにも、それとなく注意している必要があったことから、当初の頃はかなり緊張していました。

それでも、以前にその実習工程を担当されていた講座の准教授の先生が懇切丁寧に教えてくださり、また私の方も、洋書の歯科理工学教科書をアマゾンにて古本で購入して、それらを実験などの空いた時間で読み、自分なりに訳して、こなれたものにしてから、実習時、その記述と関連する工程の局面にて、それをおもむろに語ったりするのです・・。現在になり思い返してみますと「ああ、何と小手先な・・。」と恥ずかしく思う部分も少なからずありますが、しかし同時に、当時の私としては、この実習で与えられた役割を、自分なりに上手くやり遂げようと必死であったのだと云えます・・。

とはいえ、この「上手くやり遂げようとする私」は、前述のように人文系への志向が強く、実習時の説明なども、技術的なことなどは、各種名称や、それら機器の使用法を心得て、ある程度使い慣れていれば、どうにか出来ると思われますが、その他の、実習の各工程についての技術的説明以外に、実習内容と関連する知見が含まれるような雑談的会話を適宜出来るようになることが大変重要であることを知ったものの
私自身は人文寄りな性質であることから、この実習時の雑談的会話では、さきの英語教科書や、実習内容と関連のある英語論文などを読み、ある程度知見を溜め込んでおき、それらを随時小出しにして用いつつ、そこに、私の性質に由来する人文寄りの知見を雑ぜ込みつつ、実習内容について、それらしいことを説明していた記憶があります・・(苦笑)。

2009年から2013年まで、毎年こうした経験をさせて頂き、また2011年からは教授(師匠)そして2012年からは、さきの准教授の先生が退職されたため、当時、研究室唯一の院生であった私が、いくつかの項目については最後まで見ることになり、さらに、それと同時期、近隣の歯科衛生学科が併設された専門学校にて教養英語の講義を担当させて頂くことになり、この時期は早朝に大学に行って実習の準備を整えてから、各種教材を持って専門学校まで講義に原付で出向き、午前の講義を終えると急いで大学に戻り、実習の最終準備をしてから午後の実習に備えていました。

そして、現在になって振り返ってみますと、その他のさまざまな経験も重要なものであったとは思いますが、私の場合は、この時期の前述した経験(こそ)が、これまでにも何度か、当ブログにて述べてきましたが、当ブログ継続の基層にあるのではないかと思われるのです。

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2023年2月20日月曜日

20230219 「精度の上がった「認識の型」」と「予言力」および「歴史意識」について 【社会を変えるもの?】

昨日投稿分の記事内に書いた「精度の上がった「認識の型」」は、その後になり、これは以前投稿した引用記事内にて柳田國男が述べた「予言力」に類似するものであると思われました。

そしてまた、この「精度が上がった「認識の型」」としての「予言力」は、これまた過日に投稿した引用記事内にある「歴史意識」を培地として成長、発展していくのではないかと思われます。

その意味において、我が国が古来より歴史意識が乏しく、そしてまた近代以降も柳田が述べた通り「予言力」が落第ものであったならば、どのようにすれば、それらを改善することが出来るのかと自然、考えが至るわけですが、その解決策は、深く根本から改善しようとすると、かなり大掛かりに社会制度に変更を加える必要があるため難しいと思われますが、同時にそれを卑近なものとして表現しますと「ある程度の精度がある歴史意識を備えた人物の数が、社会にて多くなれば良い」ということになります。あるいは、もっと端的には「さまざまな故事や歴史などについて能動的な興味を持つ人々が増えれば良い」ということになりますが、しかし、このあたりの「・・・が良い」といった段階までは、おそらく我が国は、他国と比べて相対的に同質性が高いことから、スムーズに集団内での同意を得ることが出来るのでしょうが、しかしそれ故に、その後に生じる集団内部での競争が激しいものとなり、かえって文化の発展などが阻害されてしまうことは、現在に至るまで、少なからず生じているのではないかと思われるのです。(優等生病・一番病・カニバケツ)

あるいは、これをもう少し詳説しますと、こうした云わば「ある権威を持つとされる見解や考え、そして、それらを背景とする組織、集団に対する凝集性」は、我が国では古来より、その傾向が強いと云えますが、これは集団の中で凝集性を惹起させる起点となる、一応は全体を見廻しつつ、自らの集団にとって(都合の)良い意見や方策を述べることが出来る人々が居ることから機能していたのだと云えますが、そうした方々が少なくなってきますと、それまでの歴史的文脈を逸脱や無視したような存在の方々が現れて、短期間のうちに社会を席捲することもあるのかもしれませんが、しかし、歴史の中にあっては、実はこうした流れや存在もまたトリック・スター的な存在として、その「認識の型」が存在するのだと云えます。そして、これら多様な「認識の型」のうちの何れが、眼前にある現象に対する理解として適切であるのか、あるいはまた、これら複数の「認識の型」を組み合わせることにより、現象への理解が深まり、そして新たな視点などを見出すことも出来るのではないかと思われるのですが、しかし、さきの凝集性を惹起させるような、深慮があり、有徳な年を重ねた方々も少なくなり、それに代わり、テレビやインターネットなどを舞台として、幾つかの見解を軸とした凝集的な動きが生じるのでしょうが、それらの中で強くなりがちであるのは、やはりまた、さきに述べたような「歴史的文脈を逸脱や無視したような方々による見解の軸」であるように思われます。そして、こうした軸への凝集が強まり、そしてあるところにまで達すると、我が国の場合であれば、どうも変な方向へ行ってしまうのではないかと思われるのです・・。

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2023年2月19日日曜日

20230218 「認識の型の精度」と専門家による知見の価値?

昨日までの数日間の首都圏はとても寒く、春が近づいていることを忘れさせるほどでした。しかし本日は打って変わり、日中、比較的気温も上がり過ごし易かったです。そして、これからが三寒四温に入り、気温もまた上下する期間がしばらく続くのでしょうが、私としては、速やかに暖かい春になってくれることを願うばかりです・・。他方で、当ブログの方は、今回の記事投稿により(ようやく)総投稿記事数が1955に到達します。また、この投稿頻度を継続すれば、あるいは4月中での2000記事到達も叶うのではないかと思われますが、とりあえずは、そのあたりの4・5月の間に到達出来ることを念頭に置いて、今しばらく続けてみようと思います。

そういえば、去る2月15日投稿分の引用記事は、比較的多くの方々に読んで頂けました。このような、どちらかというと「郷土史」に分類されるような著作も、読んでみますと当事者の記憶に基づいた記述であることから、期せずして真に迫るような描写が少なからずあり、そしてまた、そこから当時の時代精神なども読み取ることが出来るのだと思われます。おそらく、多くの優れた時代小説家の先生方も、こうした歴史的出来事の当事者が遺した文章や記録などを読み込んで、それらの内容を統合して、さらに現代の文章として洗練させたものとして書かれるのでしょうが、たしかに、こうした知的作業は大変そうではありますが、同時に、思いのほかに大事であると考えます。

そしてまた、こうした資料やコンテクストを読解して得られたものを統合して、それを抽象化した、ある種の「認識の型」は、その過程を何度も繰り返すことにより、さらに「認識の型」としての精度が上がり、現実世界での出来事にも応用可能になっていくのではないかと考えます。

おそらく一般的に「専門家の知見」なるものが状況の認識や判断において重視される背景には、ある分野の専門家は、その専門分野については、さきの精度の上がった「認識の型」を持っており、これまでの経緯と現状に対する推測、そして、この先についての予測などが適切に出来るであろうと、考えられているからです。

しかし、そこまで考えが及んで思ったのは「我が国の報道番組などにおいては、あまりそうした見解については期待していないのではないか?」ということです。また、そこからさらに思ったことは「こうした「認識の型」の精度などを重視しない社会であるからこそ、議論なども面倒で必要ないものと考えるのかもしれない。」ということであり、また「そうであれば各種芸術も、究極的には創造性などは必要ない、単なる型の作業の繰り返しということになり、そこからは相変態的な進化などが生じることがないであろう。」と思われるのです。

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2023年2月16日木曜日

20230215 青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋

青潮社刊 加治木常樹著「薩南血涙史」pp.93‐97より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B009752XV8

 二月十五日

頃日天候俄に一変し十二日以来激甚の寒気を加え雪を降らすこと連日此日に至り地上の積雪幾んと六七寸より尺余に及べり古老之を伝えて五六十年来未曾有の大雪なりと云う天已に此の兆を示す前途亦寒心せざるを得ざるものの如し而して此日を以て出陣の初日とす午前六時を期し練兵場に集合し同八時を以て進発するの予定なりしかば四千有余の壮士各結束し払暁白雪を蹴り続々として練兵場に至り各隊標示の下に会し篝火を焚きて其期を俟つ、斯て八時を報ずるや各隊順次繰出し一糸乱れず整々として練兵場を発し東西に分れて征途に上る其状甚だ勇壮なりき。

一番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町(八里)に至り二番大隊は東目街道より進み重富に休憩し加治木(五里)に至りて一泊す又別府晋介の統率せる加治木先鋒の一番二番の大隊は早天加治木を発し溝辺に休憩し横川(五里)に至りて一泊す。

二月十六日

此日雪前日より甚しく三番四番の大隊は予定の時刻を以て練兵場を発し三番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来湊町に至り、四番大隊は東目街道より進み重富に休憩して加治木に至り別府の二大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口(六里)に至り、又二番大隊は加治木を発し溝邊に休憩して横川に至り、一番大隊は市来湊町を発し向田に休憩し阿久根(十里)至りて各一泊す。

二月十七日

降雪猶ほ前日の如し五番大隊及び砲隊は予定の時刻を以て練兵場を発し、五番大隊は西目街道より進み横井及び伊集院に休憩して市来に至る篠原国幹、永山弥一郎、池上四郎之と共にす砲隊は東目街道より進み西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、淵邊高照之を率い此日西郷隆盛は陸軍大将の略服を着し正帽を戴き刀を帯び草鞋を着け歩して田の浦に至る偶ま西郷の長男寅太郎一僕を従えて来り謁す西郷顧て曰く「来たか」と共に行くこと数丁西郷曰く「もう帰れ」と寅太郎猶ほ従い行こと数十歩僕之を止む寅太郎止むを得ず西郷に一礼して停立し其行を目送す、西郷亦屡途より之を顧み磯天神社の下に至る、西郷、淵邊高照に謂て曰く「旧君の門前に至らば諸兵宜しく一礼して過ぐべしと淵邊乃ち敷根市蔵をして之を伝へしむ、砲隊皆な礼して過ぐ西郷亦恭しく三拝して去る、重富に至りて休憩し加治木に一泊す、別府の二大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷(六里)に至り二番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り四番大隊は加治木を発し溝邊に休憩し横川に至りて一泊す又一番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水(四里半)に至り、三番大隊は市来湊町を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十八日

別府の二大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久(五里)に至り二番大隊は大口を発し久木野に休憩して佐敷に至り、四番大隊は横川を発し湯の尾に休憩して大口に至り砲隊及び西郷等は加治木を発して溝邊に休憩し横川に至りて一泊す、又一番大隊は出水を発し(休憩所不詳)水俣(四里半)に至り、三番大隊は阿久根を発し野田に休憩して出水に至り、五番大隊は市来を発して向田に休憩し阿久根に至りて一泊す。

二月十九日

別府の二大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川(六里)に至り、二番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、四番大隊は大口を発して(休憩所不詳)水俣に至り砲隊及び西郷等は横川を発して栗野に休憩し吉田(五里)に至りて一泊す、又一番大隊は水俣を発し湯の浦に休憩して佐敷(四里半)に至り、三番大隊は出水を発して(休憩所不詳)水俣に至り、五番大隊は阿久根を発して野田に休憩し出水に至りて一泊す。

二月二十日

別府の二大隊は小川を発し宇土に休憩し川尻(五里)に達せり、二番大隊は日奈久を発し八代に休憩して小川に至り、四番大隊は水俣を発し湯の浦及び佐敷に休憩して田の浦に至り、西郷及び砲隊は吉田を発し人吉(七里)に至りて一泊す、又一番大隊は佐敷を発し田の浦に休憩して日奈久に至り、三番大隊は水俣を発し(休憩所不詳)佐敷に至る、五番大隊は午前八時出水を発して米の津に至り同九時三十分一隊二十艙の船に分乗し午後四時佐敷に着せしが、三番四番の大隊既に着陣し宿陣すべきの家屋なかりしかば海岸白岩村に至りて宿陣せり、此時熊本城下及び川尻駅焼失の風説あり是に於て三番大隊は午後七時更に佐敷を発し夜を冒して進軍し田の浦に至りて露営せり而して此夜鎮台兵城下を放火し戦備に汲々たるの情報至り続て別府晋介小川に来り川尻衝突の事を以て二番大隊と軍議を為せり。

2023年2月14日火曜日

20230214 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳 『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳
『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

不安定。ナショナリストの忠誠心は、どれほど強烈なものであっても、その対象がかんたんに変わることがある。第一に、これはすでに指摘したことだが、対象は外国であってもさしつかえなく、事実そういう場合がいくらもあるのだ。偉大な国家的指導者や民族主義運動の創始者が、彼らの賛美する国の国民でさえないばあいもけっして珍しくない。まったくの外国人であるばあいもあるし、国籍もはっきりしない辺境出身者のばあいとなればさらに多い。スターリン、ヒットラー、ナポレオン、デ・ヴァレラ、ディズレーリ、ポアンカレ、ビーヴァ―ブルックなどは、すべてこういう辺境の出身である。汎ゲルマン運動は、なかば、英国人ヒューストン・チェンバレンの創始によるものであった。文学的知識人のあいだでは、過去五十年か百年のあいだに忠誠心を変えるものが続出した。ラフカディオ・ハーンのばあいは日本へ、カーライルをはじめその当時の多くの人びとはドイツへ、忠誠心の対象を移したし、今日ではたいていソヴィエトを対象に選んでいる。だがとくに興味ぶかいのは、この対象が再変更されるばあいもある、ということである。長年にわたって崇拝してきたある国家あるいはその他の組織がとつぜん嫌悪の対象となって、ほとんど間髪を入れず別の愛情の対象がこれにとって代る。H・Gウェルズの「世界史体系」の初版やほど同時期の彼の著作では、今日ソヴィエトが共産主義者にたたえられているのにも劣らないくらい。異常なまでにアメリカがたたえられているのだが、この無批判の賛美は、それから数年もしないうちに敵意に変わったのだった。数週間、いや数日のうちに、頑固な共産主義者が同じように頑固なトロツキストに変わるというのは、珍しいことでもない。ヨーロッパ大陸でのファシスト運動には大量の共産主義者が参加したが、ここ数年のうちにその逆の現象が起こったとしても、すこしも不思議ではない。ナショナリストにあって終始かわらないのはその精神状態だけであって、感情の対象そのものは変わることもあるし、架空のものであってもさしつかえないのだ。

 だが、知識人のばあい、忠誠の対象を変えるということは、すでにチェスタトンをめぐってかんたんに触れたとおり、重大な影響を受けるのである。すなわち、その結果、自分の祖国あるいはその他、自分がほんとうによく知っている組織のために発言するばあいなら考えられないくらい、はるかにナショナリスチックになってしまうのだ。つまり、はるかに卑俗で、愚かしく、意地悪く、不誠実になってしまうのである。相当の知性があり感受性にも富む人びとがスターリンとか赤軍といったものについて卑屈な、あるいは得意そうなたわごとを並べているのを見れば、これはぜったいに何か錯覚しているせいだと考えざるをえない。現代英国のような社会では、知識人といえるような人間が自分の祖国に深い愛着をいだくことは、まず考えられない。世間がーと言っても、知識人としてのその人物が意識している一部の世間ということにすぎないのだがーそれを許さないのである。周囲にいつのがたいてい懐疑的で不満を持っている人間ばかりとなれば、その真似をするか、要するにそれに反対する勇気がないというだけの理由から、自分も同じ態度をとってしまう。そうなると、ではほんとうの国際的視野を持とうとするかと言えばそうはせず、単にもっとも手近な型のナショナリズムも放棄するというだけに終わるだろう。しかしやはり何か「祖国」は欲しい。そうなれば、これを国外に求めるのは自然な成り行きである。そしてひとびとたびそれが見つかれば、自分ではとうに脱却したつもりでいる。神とか、国王とか、帝国とか、ユニオン・ジャックといったものにつながる愛情に身をゆだねて平然、という思いがけない結果になる。こういう、とうに覆されたはずのさまざまな偶像がふたたび名前を変えて現われ、その正体を認識できないまま、良心のとがめもなく崇拝するということになるのだ。忠誠心の対象を移し変えたナショナリズムというのは、犠牲の山羊(スケープ・ゴート)を使うのと同じで、みずからの行いは改めないまま救いを得る、一つの方法なのである。

20230213 「デウス・エクス・マキナ」が望めなさそうな世界情勢と「内憂外患」

本日は終日降雨が続きましたが、気温は、以前ほど寒くは感じられませんでした。2月ももうすぐ半ばとなりますので、徐々に春が近づいているものと思われます。とはいえ、世界情勢はロシアによるウクライナ侵攻、そして隣国である中華人民共和国による台湾侵攻への懸念も払拭されることなく月日が経っております。さらに、これらの世界規模の重大な懸念は今後、どのようなカタチで落ち着いていくのかは現時点では不明ではあり、また同時に、スムーズにそれらが収束することは難しいのではないかと思われます・・。

そして、このような状況にこそ、古代ギリシャ喜劇の「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)の到来が望まれるのだと思われますが、そうした気配、あるいは国際情勢での文脈も、現時点においてはないと思われますので、今後も、2020年頃から今なお続くコロナ禍と同様、否が応にも、それら情勢の推移を注視し続ける必要があるように思われます・・。

そしてまた、そのように考えてみますと、1945年の太平洋戦争の敗戦以来、我が国にとって、最も戦争に巻き込まれる可能性(危険性)が高くなっているのが現在であるように思われます。

我が国にとって理想的な今後の展開は、ロシアがウクライナへの侵攻を諦め、東部ドンバス地方そして南部のクリミア半島からもロシア軍が撤退し、さらに、中華人民共和国が台湾への侵攻を完全に止めることであると云えますが、しかし、たとえ、そのような方向へ情勢が推移したとしても、その次は我が国の内部での諸問題に焦点が当たり、それらもまた、全て良い方向での解決は困難であると思われますので、こうした状態がまさに「内憂外患」と評し得るのではないかと思われます。

とはいえ、こうした国内においても不安定な要素が活性化している状況は、何も我が国のみに限られず、各種報道を視るかぎりにおいては世界各地にて生じていることであるとも云えます。

そして、こうした世界規模にて、さきの「不安定な要素が活性化している状態」を歴史を視座として考えてみますと、今後の進展は、必ずしも、我が国にとって都合の良いものにはならないと思われるのです。

そして、そうした考えが依拠する歴史は、1930年代の我が国と(ナチス)ドイツによるものであり、実際にウクライナに侵攻したロシアに関しては、少なからずの研究者の方々が、そのことを指摘されていました。

しかし同時にロシアの方は既に戦争を始めていますので、他方の中華人民共和国の動向については、1930年代以降、既に統治していた南満州に飽き足らず、満州全土を手に入れ、そこに傀儡国家をおき、さらに中国全土の支配を目論んでいた、当時の我が国と比較してみますと、先ず、一国二制度により高度な自治権が認められていた香港への中華人民共和国からの締め付けが厳しくなり、さらに、そこから少し北上した東側の海にある台湾に対しても、他の国々からの繰り返しの非難にもかかわらず、威圧的な行為を繰り返しています。さらに、最近では観測気球(飛行艇と云う)がアメリカ合衆国、カナダ上空などで発見され撃墜されていますが、これに対しても国際法上明らかな領空侵犯であるにも関わらず、中華人民共和国政府は、陳謝や反省の弁を述べることはなく、逆にさらに強硬な態度を示しているとのことです。

この事態の推移からは、さきの1930年代の中国大陸での我が国の動向、そしてまた1960年代初頭のピッグス湾事件、そしてキューバ危機などとも相通じるものがあるように思われますが、同時にそれらの背景にある諸要素は同じではありませんので、さらなる検討が必要であると思われます。

そして、このたびの一連の動向が、今後、砲弾やミサイルの発射、そして何より流血や人命の損失を伴わずに収束に向かうことを切望していますが、しかし、実際の事態の進展とは、どのような方向に進むことになるのでしょうか?

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ISBN978-4-263-46420-5

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2023年2月12日日曜日

20230212 株式会社三省堂刊 ウィル・バッキンガム著 小須田 健 訳「哲学大図鑑」 pp.134‐137より抜粋

株式会社三省堂刊 ウィル・バッキンガム著 小須田 健 訳「哲学大図鑑」
pp.134‐137より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4385162239
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4385162232

二種類の真理がある。理性の真理と事実の真理だ
ゴットフリート・ライプニッツ(1646年~1716年)

 初期の近代哲学は、しばしば二つの学派に区分されるものとして提示される。合理主義学派(こちらには、ルネ・デカルト、ベネディクトゥス・スピノザ、イマヌエル・カントらが含まれる)と、経験主義学派(こちらには、ジョン・ロック、ジョージ・バークリーそしてディヴィッド・ヒュームらがふくまれる)だ。

実際には、それぞれに異なる哲学者たちを二つのはっきりしたグループに分けることなど簡単にできる話ではない。なにしろ、このグループの本質的なちがいは、認識論的なものであった。

つまりそれは、私たちはなにを知りうるか、自分たちが知っているということをどうやって私たちは知っているのかといった点にかんするちがいであった。簡単に言うなら、経験主義者たちは知識は経験に由来すると述べ、合理主義者たちは知識は理性的反省によってのみ獲得されうると主張するのであった。

 ライプニッツは合理主義者であったが、理性の真理と事実の真理のあいだにライプニッツが設けた区分は、合理主義と経験主義との論争に興味深いひねりをくわえるものであった。ライプニッツが主著「モナドロジー」で述べるところによるなら、原理的にあらゆる知識は合理的反省によって到達可能だ。だが、私たちの合理的能力につきまとう欠点のせいで、知識を獲得する手段として経験にも依拠せざるをえない。

心のなかの宇宙

 ライプニッツがどのようにしてこの結論にいたりついたかを見るには、彼の形而上学、つまりライプニッツが宇宙はどのように構成されていると考えたかを、わずかでも理解しておく必要がある。

ライプニッツによるなら、世界のあらゆる部分、あらゆる個々の物は、ある明瞭な概念ないし「観念」をともなっており、その観念のおのおのには、それ自身が本当のところなんであるのか、さらにはほかのものとどう関連しているのかにかかわるいっさいが内包されている。

宇宙のなかのありとあらゆるものが連結しあっていればこそ、あらゆる観念がほかのすべての観念と連結していることになるのだし、さらにこの連結をたどって宇宙全体の真理を発見することも、原理的には理性的反省の力だけで可能になるとライプニッツは主張する。こうした意味での反省が、ライプニッツの「理性の真理」という考えへつうじてゆく。だが、人間精神には、そうした真理のうちのごく少数のもの(たとえば幾何学の真理のような)しか把握できない。そのため経験にも頼らざるをえず、そこから「事実の真理」が生れる。

 こうして、たとえば雨が降っていると知ることから、地球上のどこかほかの場所では明日なにが起こるかを知ることへと推論を進めることが可能となる。ライプニッツの考えでは、その答えは、宇宙が「モナド(単子)」と呼ばれる個別的で単純な実体から構成されているという事実に潜んでいる。おのおののモナドはほかのモナドから分離されていて、それぞれが過去・現在・未来のあらゆる状態における全宇宙の完全な表象をふくんでいる。この表象がすべてのモナドのあいだで同調(シンクロナイズ)すると、あらゆるモナドが同じ内容をもつことになる。神が事物を創造したのはこのようにしてだとライプニッツは語る。つまり、あらゆる事物は、「前もって確立されている調和状態」にあるのだ。

 ライプニッツは、すべての人間精神がそれぞれ一個のモナドであり、したがって宇宙についての完全な表象をふくむと主張する。だから私たちには、原理的に言って、この世界およびそれを越えたものについて知りうるすべてを、ただ自分自身の精神を探索するだけで知ることができる。たとえば、ベテルギウス星について私がもつ観念を分析するだけで、ついには、いま現在のベテルギウス星の表面温度を決めることすらできるだろう。だが実際には、私が絶望的なまでにーライプニッツの用語で言うなら、「無限に」-複雑なために、またそれぞれを私が網羅することができないために、ベテルギウス星の温度は、理性の真理なのかそれとも事実の真理なのか。その答えを見つけるには経験的な手法に訴えかけるのが筋なのかもしれないが、私の理性的反省によってそれを発見できたほうがよかっただろう。だから、それがどちらの真理であるかは、私がどのようにしてその答えにいたりついたかに左右される。だが、これがライプニッツの言いたいことなのだろうか。


20230211 小説、物語などから認識される、さまざまな状況について

ここ最近、日が長くなり、また気温も上下しますが、日中の最高気温が少しづつ上がってきたように感じられます。また当ブログも、今回の記事投稿により、1950記事に到達します。さらに、そこから50記事の追加投稿により、当面の目標としている2000記事に到達することができるわけですが、こちらについては、当ブログ開始から丸8年となる、来る6月22日までに達成出来れば良いと考えています。

そうしますと、これから凡そ130日の間に50記事の新規投稿ということになりますので、概ね2.6日に1記事の投稿頻度となります。これであれば、そこまで苦とならずに(どうにか)到達することが出来るようにも思われますが、また今後、事情により、記事作成をしない期間がある可能性も数度見込まれることから、今後もしばらく、毎日の記事作成を目指して続けて行こうと思います。

そういえば、先日投稿の「昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】」は、おかげさまで、最近投稿したオリジナルのブログ記事としては、比較的多くの方々に読んで頂くことが出来ました。これを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

そしてまた、それに関連してか、あるいは偶然であるのか、ここ最近相次いで、読んでいる小説の話題になったことがありました。その話の中で私がカレル・チャペックによる「山椒魚戦争」を挙げたことから、その直後に岩波文庫版のそれを書棚から見つけ、またしばらく読んでいたところ、興味深い記述をいくつか見つけたため、その一つを引用記事としたのが去る2月8日投稿分となります。

カレル・チャペックの作品は、去る2020年頃から新型コロナウィルス感染症が国内で拡大し、緊急事態宣言が発出された頃に「白い病」(戯曲)が話題となり、書店にて平置きされていた時期がありました。そして前出の小説「山椒魚戦争」は、昨年2月末からのウクライナ・ロシア戦争、そして近年の中華人民共和国による台湾進攻への懸念などとも関連あるいは通底する要素があるように思われます。

とはいえ、これらの作品は、それぞれフィクションとして書かれていますが、そこで大変興味深いと思われることは、もちろん、和訳文ではあるのですが、作中のさまざまな記述、描写などに、ある種の「現実感」があることです。

その具体的な一例として、去る2月8日投稿分の引用記事が挙げられますが、同時に、この引用部は、当著作を知った契機となった以前の2016年に引用記事を作成した荒俣宏による「理科系の文学誌」内にある「山椒魚戦争」についての記述が、まさに、この引用部に該当すると思われるのです。

そのように考えますと、私は2016年に「理科系の文学誌」から「山椒魚戦争」を知り、その2年後に当著作を読み、そこからさらに5年後、各種報道などで知る世界情勢から当著作が思い出されたわけですが、この一連の経緯から考えられことは、さまざまな規模での状況の様相とは、情報を多く収集することのみでは認識が困難であり、こうした小説、物語などをモデル、仮説として、そこから現実での要素を加味、検討をして、徐々に(現実との)整合的な認識へと至ることが出来るのではないかと思われるのです。そして、おそらく、この段階において、より重要であると思われるのが「文字、文章による伝達であること」であると思われるのですが、さて、如何でしょうか?

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2023年2月9日木曜日

20230208 株式会社岩波書店刊 カレル・チャペック著 栗栖 継訳「山椒魚戦争」 pp.265‐266より抜粋

株式会社岩波書店刊 カレル・チャペック著 栗栖 継訳「山椒魚戦争」
pp.265‐266より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003277414
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003277416

山椒魚学校が国有化されたことによって、事態は簡単になった。どの国でも、山椒魚は、その国の言葉で教育されたからである。山椒魚は外国語を、比較的熱心に学ぶのだが、彼らの言語能力には、奇妙な欠陥があった。それは一つには、発声器官の構造によるものであり、一つには、どぢらかというと、心理的な原因によるものだった。たとえば、彼らは多音節から成る長い単語を発音するのが困難で、一音節にちぢめようとし、短く、すこしばかり蛙の鳴くような声で発音した。rと発音するところをlと発音し、歯擦音の場合は、心持ち舌たらずだった。文法上必要な語尾を落としたし、「私」と「われわれ」の区別が、どうしても覚えられなかった。彼らには、ある単語が女性であるか、男性であるかは、どうでもいいことだった(交尾期をのぞいて、性的に淡白であることが、こういうところに現れているのかもしれない)。

 彼らの口にかかると、どの言語も性格が変わり、この上なく単純で基礎的な形に合理化された。彼らの新語、発音、それから文法的単純さは、港に働く下層の人間たちばかりでなく、いわゆる上流階級のあいだに浸透したが、こういう表現方法は新聞にまで現れるようになって、やがて一般化した。人間のあいだでも大幅は文法上の性が焼失し、語尾が脱落し、格変化がなくなった。教育を受けた青年たちまでrを発音せず、舌たらずの歯擦音を出すようになった。教養のある人びとでも、インデテルミニスムス(非決定論)あるいはトランスセンデントノ〔英語ではトランセンデンスで、先験的世界〕の意味を説明できるものは、ほとんどいなくなったが、それは、これらの単語が、人間たちにとっても、長すぎて発音しにくくなったからにすぎない。

2023年2月8日水曜日

20230207 光文社刊 宮台真司・野田智義著「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来」 pp.189‐193より抜粋

光文社刊 宮台真司・野田智義著「経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来」
PP.189‐193より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334952933
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334952938

宮台 スローフード運動は、1986年、イタリアのローマにマクドナルドの第1号店がオープンした際、市民の間え「僕らはパニーニを食べるんだ」という声が上がり、反対運動がわき起こったのをきっかけに発展しました。99年8月には、ジョゼ・ボヴェという有名なフランスの農民活動家(現欧州議会議員)がマクドナルド店舗解体キャンペーンを始め、その様子は世界中に伝えられました。人間が社会の、あるいはシステムの奴隷になってしまうのを避けようとする戦略的な運動は、90年代をピークに一定の広がりを見せたのです。

 しかし、その後の運動には陰りが見え始めます。それは、とりわけ90年代半ば以降のグローバル化の急進展で、地元商店が大規模資本の直営店やフランチャイズに置き換えられて、ファストフードが雇用を生み出す重要なシステムとして見直されるようになったためです。2018年には、フランス、マルセイユ郊外のバルテルミー地区で、地域経済の落ち込みによってマクドナルドの閉店が決まると、住民たちが「閉店反対運動」を起こしました。

これは、残念であると同時に、非常に重大な展開です。共同体が共同体であり続けるための条件はいろいろありますが、そこには経済的環境も含まれます。具体的には、グローバル化の影響による格差拡大で貧困化が進んだコミュニティでは、人々は生きていくためにあえてシステム世界を選択せざるをえず、それによってコミュニティはますます壊れて、ますますシステム世界に依存していきます。ヨーロッパ的アプローチの限界はそこに表れています。

 マクドナルド化をディズニーランド化で埋め合わせる

宮台 これに対し、アメリカではシステム世界を重視し、システム世界の全域化そむしろ徹底しようとしています。

 移民国家アメリカの社会は多人種・多民族で構成されており、人間関係は互いを知らないという「不信ベース」で成り立っています。人間集団の基本は、同じ価値や目的を持つ人たちが集まるアソシエーション(組織集団)で、行動に責任を負うのはあくまでも個人です。また、キリスト教原理主義の国なので、人々は神に見られていると感じており、汎システム化によって人間が経験する精神的不安定にも比較的耐性が強い土壌が備わっています。

 システム世界の全域化を徹底するアプローチは、こうした歴史や文化を反映したものです。一口で言えば、成員が「動物」でも回る社会の仕組みを構想しようというものです。ここで「動物」というのは、不快を避け、快に向かう性質を持つという意味です、つまり、人々の内発的な善意ー良心ーを用いる代わりに、アメとムチだけでなく、快・不快の巧妙なコントロールを行うアーキテクチャ(仕組み)による管理下を進めるという戦略です。

 飲食店を例に取ると、大資本の直営店やフランチャイズ店では、BGMの音量、照明の明るさ、座席の硬さ、家具や調度のアメニティを使って、客の滞留時間をコントロールし、単位面積当たりの収益率を上げようとします。客は、そうした戦略に気づかず、「疲れたな」とか「飽きたな」と感じて、主観的には自発的な選択として店を出ますが、そうした自発的な選択がアーキテクチャによってコントロールされています。ローレンス・レッシングは「CODE-インターネットの合法・違法・プライバシー」(山形浩生・柏木亮二訳、翔泳社、2001年)という著書で、これを「アーキテクチュアル・パワー」と呼びます。

「人間が快・不快を感じる動物でありさえすればよい」とするこうしたアプローチは、収益率上昇にとっては有効ですが、副作用をともないます。こうしたアーキテクチュアル・パワーを用いたシステムは、客の常識的な価値観を一切当てにしないので、システム世界の全域化が進んでいけば、社会はその分、さらに「不信ベース」になりがちです。

 そうした流れを象徴するのが、モンスター・クレーマーによるカスタマー・ハラスメント(顧客・取引先からの嫌がらせ・過度クレーム)です。不信や不安が原因で、損得勘定に過剰に敏感になって、些細な不利益でヒステリーを起こす人が増えるのは、システム世界の全域化にともなう当然の副作用です。

 そうした副作用にどう対処するのか。アメリカ的アプローチでは、システム世界の全域化による副作用には、システム世界の全域化の徹底によって対処します。アメリカのマクドナルドでは、商品を受け取るまでの時間が長いことを理由に店員を殴ったクレーマー事件が発生すると、すぐさま警察に突き出して解決します。警察=行政というシステムで解決するのです。さらに、Airbnbなどでは、プロバイダーのみならず、消費者・ユーザーの振る舞いも評判スコアにカウントされますが、そうしたシステムを使うわけです。

 ここから少し話を進めます。マックス・ウェーバー研究で知られる社会学者ジョージ・リッツァは「マクドナルド化する社会」(正岡寛司監訳、早稲田大学出版部、1999年)という本を書いています。元になっているのは1980年代に書かれた論文ですが、そこで彼は「マクドナルド化(McDonaldization)」と「ディズニーランド化(Disneylandization)」という言葉を使います。

 リッツァの言う「マクドナルド化する社会」とは、人間が「動物」でありさえすれば回るような脱人間化・没人格化・損得化が進んだ社会です。そういう社会では、人々は「かけがえのない人間として扱われたい」という感情を無視されることで疎外感や不安感を抱くようになり、カウンセリングを受けなければ押しつぶされてしまうような心理状態に置かれます。

 それを対処するために使われるのが「ディズニーランド化」、すなわち祝祭的消費に因る感情的回復です。アメリカでは、マクドナルド化によって人々が抱くようになった疎外感や不安感を、ディズニーランドによって与えられる祝祭体験で埋め合わせることで、人々が感情的に破綻してシステム世界からこぼれ落ちることがないようにしているのだ、というのがリッツァの図式です。

 そこには「システムがつくり出した裂け目を、システムで埋める」というシステムのマッチポンプがあり、人間はマッチポンプの素材へと貶められています。そこには、人間を動物のような制御対象と見なすシステムの自己運動があるだけで、社会の主人としての人間という存在はほとんど完全に消え去っています。われわれの尊厳は、果たしてそれで保たれるのか。保たれないからこそ、トランプ現象や、Qアノン現象のような陰謀説のまん延があるのではないでしょうか。みなさんにじっくり考えていただきたい点です。

2023年2月6日月曜日

20230206 中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋

中央公論新社刊 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著 清水富雄・飯塚勝久・飯塚勝久訳「モナドロジー・形而上学叙説 」pp.14-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121600746
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121600745

ドイツが30年戦争の線から立ちなおるには、ほとんど1世紀を要した。この時代のドイツの惨状は、同時代の記録によると、たとえば人口は四分の三を失い、家畜類や財貨の損失はさらにはるかに大で、農業はもとの状態に回復するのに、ある地方では2世紀を要し、大多数の商業中心地は亡び、政治団体はあらゆる悪徳が蔓延していた。これらのすべては30年戦争に帰せられた。

 今日では、かかる状況記述には誇張があると言われ、第一に、ドイツは1618年にすでに破壊の途上にあったこと、第二に当代の記録はかならずしもそのまま信頼しがたいことが指摘されている。君主たちは金融上の義務を避けるために、諸国の損害を言いたて、市民は税をまぬがれるために、すべて自国の状態をどぎつい極彩色で描いているという。たとえばスペイン政府に対して書かれた損害表には、ある地方では破壊された村の数が存在の知られている総数以上になっている。人口の減少もある程度までは一時的な移住によるものがあり、社会的にも破壊よりは移転による。

 しかし、誇張があるにしても真実がないわけではない。人口の四分の三を失ったか、あるいはそれほどの率でなかったかにかかわりなく、それ以前にも以後にもドイツの歴史が経験しなかった全般的な災厄であったことは事実であり、挽回しがたい災厄という実感が一般的に広がっていたことはたしかである。すくなくとも戦後のドイツ再建の仕事に直面した人々には、これが一般的印象であったであろう。

 スウェーデン軍だけでも約2000の城、18000の村、1500以上の町を破壊した、バイエルンは18000の家族と900の村を失った。ボヘミアは6分の5の村と4分の3の人口を失った、とそれぞれ主張した。ユルテムベルグでは住民の6分の1に、ナッサウでは5分の1に、ヘンネベルグでは3分の1に、ヴォルヘンビュッテルは8分の1に、マグデブルグでは10分の1に、オルミッツでは15分の1以下に減少した、という当代の記述は、伝説であるとしても、モンテーヌ将軍はナッサウで「自分自身の目で見たのでなかったら、一地方がかくも荒らされ得るものとは信じなかったであろう」と述べている。(ウェッジウッド「30年戦争」1957)。

哲学者の課題ー再統合

 しかし、戦争の直接の損害より根本的に重大であったのは、社会秩序の崩壊、権威や宗教の不断の変化動揺、それがもたらした社会の解体である。これがまさに思想家の直面する問題であり、これの再建、復興が思想家の避けがたい課題となる。われわれの哲学者ライプニッツがあえて講壇の生活を捨て、広い世間に出て活動することを意欲した動機には、かかる背景が想定されてよいであろう。この課題は哲学と宗教と政治にまたがる。具体的には、分裂対立した宗教的信条の再統一、再統合、それにつながる政治的問題である。

 これを根本的に基礎づけることは哲学の使命である。これらいっさいにわたるものが、ライプニッツがみずからに課した問題である。彼の哲学が志向するものはこれなしには理解しがたいであろう。「永遠の相のものに」人間と世界を観想することを説いたスピノザが、「神学・政治論」「国家論」を書かざるを得なかったのも、同一の哲学的使命感によるであろう。しかし、それをいかなる哲学にもとめるかは、哲学者がいかなる人間であるかによって決定される。

 ライプニッツの遠大な世界史的活動は、マインツ選帝侯に仕えることによってまずその端緒を見いだした。これ以後ライプニッツの活動には、全生涯を通じて、常に宗教、政治、哲学・科学が内面的に相交錯しており、それらがずれも独立分離していないことが彼の全活動の根本的性格である。そして、それが常に世界的規模において、「普遍的universal」な見地において行われることが、もっとも性格的なところである。

 彼が君主に仕えたのは、経済的に独立でなく、しかしスピノザのようにつつましい孤独な思索者たることに満足せず、世間の中で活動することを意欲したからではあるが、より根本的な動機としては、偉大な君主をとおして自己の大志を実現しようとしたのであろう。彼の全生涯を見ると、かならずしも一国一君主に隷属した忠実な廷臣ではない。それゆえ、彼の天才を洞察することのできた君主には信頼されたが、これを理解し得ない君主には白眼視された。結局、真に彼を用いる英邁な大国の君主に出会うことのできなかったのは彼の悲運であった。彼の真の理解者・共感者は宮廷の貴婦人だけであった。

2023年2月5日日曜日

20230205 株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」 pp.279-282より抜粋

株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」
pp.279-282より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4344986830
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4344986831

日本の大学は工学部が強いと思われているが、強いのは、古いタイプの工学部だ。例えば、機械工学だと、世界100位以内の大学数は4校になる(東大20位、東工大43位、京大52位、東北大72位)。コンピューターサイエンスに比べて、数も多くなるし、順位も上がる。

 機械工学は、1980年代頃までの世界で重要だった学科だ。日本では、それが、いまでも工学部の中で大きな勢力になっていることが分かる。そして、これは、現実の日本産業で、自動車産業が強いことと対応している。 

 しかし、第6章でみたように、自動車産業は大きな技術革新に直面している。とりわけ重要なのは、自動運転が進展し、自動車においてもコンピューターサイエンスの重要性が増すことだ。そのような世界において、日本の自動車産業が対応できるかどうか、大いに疑問だ。

 日本が目指すべき目標として、コンピューターサイエンスの分野で世界ランキング上位100校に入る大学数の日本シェアを、日本のGDPシェア(5.9%)と同程度にすることが考えられる。そのためには、上位100校に入る日本の大学数を6校にする必要がある。いまの2校に比べて3倍にする必要がある。

 このようにして初めて、他国と同じ水準の研究・教育水準を、コンピューターサイエンスの分野で実現できるようになる。

*新しい資本主義には「大学改革」が不可欠

政府は、2022年6月、「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)を閣議決定した。岸田文雄首相が掲げる「人への投資」に重点を置き、3年間で4000億円を投じる。デジタルなど成長分野への労働移動を促すという。「新しい資本主義」は岸田政権の成長戦略の看板になる。

 しかし、大学教育が右に見たような状況では、人材面で世界水準になることは望めない。日本では、とりわけデジタル人材が不足していると言われるが、十分な教育を大学がしていなければ、人材が育つはずがない。大学ファンドの構想もあるが、金だけ出したところで、研究や教育が進むわけではない。

 また、巨額の補助金を出して、台湾の半導体メーカーTSMCの工場を熊本に誘致するが、ここで生産するのは、10年くらい前の技術を用いた半導体だ。こうした補助金をいくら出しても、最先端半導体には追い付かない。このように、いま考えられている方策では、展望は開けない。

 日本の産業を発展させるためには、基盤となる研究開発と専門的人材の育成を行う必要がある。日本が世界水準に追い付くには、大学での研究教育を根本から組み直すことが不可欠なのだ。

大学教育の状況は、未来を映し出す鏡だ。右に述べたような状況を根本的に改革しない限り、日本に未来は開けない。


20230204 「将来のビジョン」と今年の目標について・・

ここ最近は、当ブロガーでのブログ記事作成のほかに、いくつかの文章を作成させて頂いておりますが、それらはあまり大きく取り上げられるような性質のものではなりません。しかし、そうした仕事も、おそらくは当ブログの継続的な記事作成があったからこそ、どうにか出来ているのではないかと思われるのです。

また、ここ最近どのような偶然か「将来のビジョンは?」という問いを、異なる場所にて何度か受ける機会がありました。そのような問いに接し、そして考えてみますと、現在の私には「明確なビジョン」が無いようにも思われるのです。

昨年であれば、いくつかの目標を立てていましたが、全てではありませんが、それらのいくつかは周囲の皆様のおかげにより、どうにか叶いつつある方向に進んでおります。

そして「将来のビジョンは?」をさらに具体的にして「今年のビジョンはと?」と考えてみますと、またJrec-inなどのサイトを閲覧、応募して、月に何日か勤務のパートタイムにて西南日本にある医療介護系あるいは、それら学科をメインとした大学の職に就きたいと思っています。

希望する職務の内容は、教養科目の講義、大学独自の興味深い取組みなどの取材そしてその発信、あるいは首都圏での就職を希望する学生さんへの情報提供などの就職支援活動などであれば(どうにか)出来るのではないかと思われます。

また、言い換えますと、その職種に就き、西南日本と首都圏との往来を重ねることにより、また徐々に、生気を取り戻すことが出来るのではないかと思われるのです。そのためにまたJrec-inなどの閲覧を始めようと思いますが、同時に、上述職務内容にて西南日本在の大学の求人が出ることは、かなり稀であると思われますので、あるいは当ブログを読んで頂いておられる方々で「少し頭がおかしいかもしれないけれど、こんなヒトがいるよ。」と関係される方々に御周知頂き、さらにおススメして頂けましたら、大変ありがたいです。

しかし、そうした職務内容についても、たしかに重要ではありますが、あるいはそれよりも、より重要であるのは「実入り」の具合(額)であるのかもしれません・・。そして、そのように考えてみますと、私はあまり多くの額を稼ぐ技能や才能が乏しいのではないかと思われるのですが、しかし同時に、それだけが大事なものではないとも思われますので、私としては、当ブログは未だ、直接的に金銭的な利益をもたらしてくれているわけではないものの、しかし、こうした、いわば独自の取組みとは「きっかけ」になるものであると云えますので、当面の目標としている2000記事到達までは、どうにか続けたいと考えています。そして、その後については、未だ明言は出来ませんが、やはりまた何かしらの文章を作成し続けるのではないかと思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











2023年2月2日木曜日

20230202 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp130-133より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
pp130-133より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

倭五王に代表される「河内王朝」の時代は、さきにふれた古墳時代の時代区分からすると、仁徳陵は前期であったが、倭五王の時代の前に前Ⅳ期が訪れ、墳丘がしだいに縮小化し、同時に横穴式石室への歩みよりがはじまる。前方後円墳・前方後方墳のほか、円墳・方墳についても同様の傾向が次第に顕著なものとなる。この墳丘の縮小化した事実は、古墳のもつ意味が変化してきて、外観のもっていた意味がしだいにうすれてきたことを意味しているが、その反面に横穴式石室という新しい葬法が採用されて、古墳の内容にふかい意味が附せられるようになってきたのであった。

 この横穴式石室という葬法は、前Ⅰ期いらいの竪穴式石室とは著しく異なったもので、朝鮮半島からもたらされた大陸の墓制であった。横穴式石室は、遺骸をおさめる玄室とそこに運び入れるための通路である羨道とを連接させた石積の石室であり、墳丘の横側に羨門をひらくところから、その名が生れた。この傾向は前Ⅳ期の石室・石棺に複雑な変化をもたらし、竪穴式石室なかに家形石棺を安置する例も見出されるが、一般に従来の舟形石棺が古式の家形石棺へと転化する傾向を示し、後期に於ける家形石棺の盛行に引きつがれる。また副葬品にしても、宝器的財物や鏡の副葬が次第に減少し、むしろ馬具が普及し、須恵器の副葬がはじまるという。

 この前Ⅳ期を過渡期として、後期に入れば、その特徴は横穴式石室の普及という内部構造の大きな変化であった。そしてその時期は、後Ⅰ期が六世紀前半、後Ⅱ期が六世紀後半から七世紀前半に推定されている。この間、古墳の築造が急速に拡大し、いわゆる群集墳の時代をむかえるのである。このような後期の発展は、かつての族長層のものから個人のものへ、古墳の主体の変化をしめしてきたことを物語っているし、それと同時に、人間が死後の世界について前期とは異なったいっそう深い認識をもつようになってきたことを教えている。そしてそのような古墳に関する認識の変化に対応して、古墳の築造技術が著しく進歩してきたということを考えさせるであろう。そしてその背景には、やはり古墳を生みだす社会全般の大きな発展をみなければならない。石器時代の装制である屈葬・抱石葬などの形式のなかにも、その時代の人間のこころのうごきをのぞきみ、高塚古墳を営む場合の意匠にも、その時代の支配者の精神をみることができるように、ここにあげた後期古墳にも、その背景が考えられねばならない。

 それは、何であろうか。一口にいえば、つぎに説こうとする内乱、名づけて継体・欽明朝の内乱というべき、六世紀初期の大きな社会的変動であった。そのなかで、族長を中心とし、族長の高塚を営造することに意味を見出した氏族共同体の体制はくずれ去ってしまったのである。そのあとには、多数に分解した家父長制家族層が現われ、彼らの手によって、新しい意味を帯びた古墳が形式は前方後円墳であろうと前方後方であろうと、また方墳であろうと円墳であろうと、自由につくり出されてきたのであった。この内乱機のなかで、人々が直面したものは、戦争にともなう死の問題であった。これまでも石器時代人はそれなりに死を考え、霊魂への恐れを感じとってきたが、人々はここで各自じしんのこととして死を考えざるを得なくなったのである。朝鮮の戦争、筑紫の叛乱、そのために数多くの人々が死んだ。死が、決して他人事ではなく、自分の事となったのが、この内乱期であろう。

 当時の人々が死後の世界を考えるに至って、葬法もまた変化せざるを得なくなったのである。横穴式石室は、羨道という通路をもった一つの個室であり、家形石棺が暗示しているように一つの家屋であった。そして、馬具と須恵器が副葬品の主体をなすように、死後における行動と生活もまた準備されねばなかったのである。のちにふれるように、日本の神話は、継体・欽明朝の内乱期に誕生したと思われるが、「古事記」上巻の黄泉国の叙述は、先人たちによって説き尽されているように、弉冉二神が「千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて」の問答の伝承の底に、横穴式古墳の構造を考えないわけにはいかない。羨門をふさぐ巨石を中に置くことによって、内と外との死と生との対立・抗争として、この話をとらえることができる。黄泉国という発想が、横穴式石室ののちに生まれたことを、何よりも雄弁に物語っているであろう。

2023年2月1日水曜日

20230201 朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋

朝日新聞出版刊 木村誠著「大学大崩壊」pp.108-113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022737905
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022737908

問題は人文科学系の大学院生である。同じ文系でも社会科学分野の法・経済などと違って、企業勤務に直接的に必要な知識や専門性を持たないため、どうしても民間企業よりも教育研究方面を希望する人が多い。しかし、少子化が進み児童生徒が少なくなっていくので、高校や中学の教員需要は、将来もそれほど高くない。

 結局は大学の教員や研究職を希望するが、何度も触れているように、大学での研究職・教員のポジションは減っており、就職への道も狭くなっている。ポスドク問題や大学での非常勤講師の増加が、それを裏付けている。

 文部科学省が、1996年から2000年の5年間で、「世界水準の研究を支える競争的環境のサポーターとして1万人の博士号取得者を創出」するための「ポスドク1万人支援計画」を打ち出した。そのため期限付きで雇用する必要があるので資金を大学や研究機関に配分した。すなわちポスドクは研究力を世界水準に上げるための、研究に専念できる任期付き要員だったのである。

 ところがポスドクは、正規の大学教員に就くまでの仮の不安定な立場という認識が世間に広がった。実際に大学の教員や研究者というポストを手に入れる者は多くはなかった。さまよえるポスドクの誕生だ。最近は40代以上のポスドクも出てきている。

 ここにもやはり若者の進路を配慮する視点が欠けている。

 最近、文部科学省が大学改革実行プランや高等教育無償化、あるいは後述する専門職大学などでしきりに推奨する実務家教員の登用も、大学院ルートから大学教員を目ざす者、ポスドクも含めて、大学教員への就職の間口を狭める要因になっている。

大学院重点化の流れの中で、大学側も、自校の印象アップのためにコストのあまりかからない文系大学院の新増設に走ったケースがあることも否定できない。あるい私立大学の学長が「大学院を作ってやっと一般の大学入りをした。やはり大学院がないとね」と述べていた。

 文系の研究に情熱を傾ける有能な若手研究者の、大学だけでなく研究機関などでポジションを与えることは、日本の文化や学問にとっても重要である。

悲惨なポスドクと人文系博士の経済状況

 ポスドクを多く生みだした任期付き雇用問題は、若手研究者を中心に日本の大学院に深刻な影響を落としている。

 第一に、大学における正規の教育研究者のポジション(働き場所や職務上の地位)間の流動性が非常に低下している。具体的には大学間の人事交流も少なくなってきている。既存の教員がその座にしがみついている。定年にならないと、常勤で無期雇用の大学教員はなかなか辞めない。他大学にもそのポストが少なくなってきているからだ。新学部や新学科ができても、学内の正規教員の横滑りや、実務家教員や他大学の定年教授が新採用で補充される。新たな常勤ポストがポスドクなどに用意されるケースは多くない。国立大学に限っても、図表11「40歳未満教員の雇用状況」を見てもわかるように、2007年から2016年の10年間で任期なし教員が激減し、それぞれの割合が逆転している。

 2点目に待遇の問題も大きい。熱意のある若手研究者の多くは給料も少なく、社会的な立場が不安定な状況にある。図表12「博士の年間所得」を見てみよう。大学卒と修士を含む大学院卒とを比べると、所得は一般に大学院卒のほうが高い。ところが博士を見ると、500万円以上も多いが、300万円未満の層が大学院卒平均より多くなり、大学卒でも4.2%しかいない100万円未満がなんと9.3%もいるのである。生活保護水準の場合、都市の1級地で単身なら月間7万9000円の生活扶助の他に住宅補助も付くので、年間100万円を超える。それ以下の大学院修了者が1割弱もいるのである。博士間の所得格差が広がっているのだ。

 また、この調査は「収入なし」を除いている。すなわち無職無収入の博士はカウントされていない。前掲図表10(106~107ページ)「大学院修了者の進路状況」によれば、博士課程修了者全員がポスドクというわけではないが、バイトを含めた就職・進学以外の者と不詳・死亡を合計すると、人文・社会科学系では、なんと40%を超えている。研究力強化どころか「博士大失業時代」なのだ。

 大学院重点化導入の目的を「若手研究者の育成」としていながら、博士号取得者に対する社会の受け入れ体制ができていない。進路は大学に限らず、研究所やシンクタンクといった選択肢もあるが、修学分野によっては受け皿の大きさに差がある。

 最近、大企業でも一部の理工系の博士課程修了者の雇用を拡大する動きが出ているが限定的である。ましてや、文系博士へのニーズは低いままだ。

 この状況では、トップクラスの優秀な若手気研究者は海外へ職を求め、知の流出がさらに加速するであろう。日本の大学の研究力は、崩壊への下り坂をたどることになる。