2023年2月2日木曜日

20230202 株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」 pp130-133より抜粋

株式会社岩波書店刊 林屋辰三郎著「日本の古代文化」
pp130-133より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006001665
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006001667

倭五王に代表される「河内王朝」の時代は、さきにふれた古墳時代の時代区分からすると、仁徳陵は前期であったが、倭五王の時代の前に前Ⅳ期が訪れ、墳丘がしだいに縮小化し、同時に横穴式石室への歩みよりがはじまる。前方後円墳・前方後方墳のほか、円墳・方墳についても同様の傾向が次第に顕著なものとなる。この墳丘の縮小化した事実は、古墳のもつ意味が変化してきて、外観のもっていた意味がしだいにうすれてきたことを意味しているが、その反面に横穴式石室という新しい葬法が採用されて、古墳の内容にふかい意味が附せられるようになってきたのであった。

 この横穴式石室という葬法は、前Ⅰ期いらいの竪穴式石室とは著しく異なったもので、朝鮮半島からもたらされた大陸の墓制であった。横穴式石室は、遺骸をおさめる玄室とそこに運び入れるための通路である羨道とを連接させた石積の石室であり、墳丘の横側に羨門をひらくところから、その名が生れた。この傾向は前Ⅳ期の石室・石棺に複雑な変化をもたらし、竪穴式石室なかに家形石棺を安置する例も見出されるが、一般に従来の舟形石棺が古式の家形石棺へと転化する傾向を示し、後期に於ける家形石棺の盛行に引きつがれる。また副葬品にしても、宝器的財物や鏡の副葬が次第に減少し、むしろ馬具が普及し、須恵器の副葬がはじまるという。

 この前Ⅳ期を過渡期として、後期に入れば、その特徴は横穴式石室の普及という内部構造の大きな変化であった。そしてその時期は、後Ⅰ期が六世紀前半、後Ⅱ期が六世紀後半から七世紀前半に推定されている。この間、古墳の築造が急速に拡大し、いわゆる群集墳の時代をむかえるのである。このような後期の発展は、かつての族長層のものから個人のものへ、古墳の主体の変化をしめしてきたことを物語っているし、それと同時に、人間が死後の世界について前期とは異なったいっそう深い認識をもつようになってきたことを教えている。そしてそのような古墳に関する認識の変化に対応して、古墳の築造技術が著しく進歩してきたということを考えさせるであろう。そしてその背景には、やはり古墳を生みだす社会全般の大きな発展をみなければならない。石器時代の装制である屈葬・抱石葬などの形式のなかにも、その時代の人間のこころのうごきをのぞきみ、高塚古墳を営む場合の意匠にも、その時代の支配者の精神をみることができるように、ここにあげた後期古墳にも、その背景が考えられねばならない。

 それは、何であろうか。一口にいえば、つぎに説こうとする内乱、名づけて継体・欽明朝の内乱というべき、六世紀初期の大きな社会的変動であった。そのなかで、族長を中心とし、族長の高塚を営造することに意味を見出した氏族共同体の体制はくずれ去ってしまったのである。そのあとには、多数に分解した家父長制家族層が現われ、彼らの手によって、新しい意味を帯びた古墳が形式は前方後円墳であろうと前方後方であろうと、また方墳であろうと円墳であろうと、自由につくり出されてきたのであった。この内乱機のなかで、人々が直面したものは、戦争にともなう死の問題であった。これまでも石器時代人はそれなりに死を考え、霊魂への恐れを感じとってきたが、人々はここで各自じしんのこととして死を考えざるを得なくなったのである。朝鮮の戦争、筑紫の叛乱、そのために数多くの人々が死んだ。死が、決して他人事ではなく、自分の事となったのが、この内乱期であろう。

 当時の人々が死後の世界を考えるに至って、葬法もまた変化せざるを得なくなったのである。横穴式石室は、羨道という通路をもった一つの個室であり、家形石棺が暗示しているように一つの家屋であった。そして、馬具と須恵器が副葬品の主体をなすように、死後における行動と生活もまた準備されねばなかったのである。のちにふれるように、日本の神話は、継体・欽明朝の内乱期に誕生したと思われるが、「古事記」上巻の黄泉国の叙述は、先人たちによって説き尽されているように、弉冉二神が「千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて」の問答の伝承の底に、横穴式古墳の構造を考えないわけにはいかない。羨門をふさぐ巨石を中に置くことによって、内と外との死と生との対立・抗争として、この話をとらえることができる。黄泉国という発想が、横穴式石室ののちに生まれたことを、何よりも雄弁に物語っているであろう。

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