2017年10月20日金曜日

20171020 『伸びしろ』ともいえる余白部分に対し、どのように接するかによって未来は変化するのか?

A「昨日分の投稿記事は投稿翌日にしては割合多くの方々に読んで頂けました(43)。

こうしたブログ記事をも含む文章の作成の際に存在する『葛藤』については、これまで自身が作成した文章のなかでは比較的明瞭に述べることが出来たのではないかと思われます。

とはいえ、たとえ、その文章が自身としては上出来と認識されても、あくまでもその(あるいはそれら)文章にて述べたいことは『それだけではく』やはり何かしらの追加、加筆修正を要する部分・余地が存在するものと考えます。

しかしながら、完璧な文章を期し、そうした追加、加筆修正といった作業を行っていますとキリがなく、時間も掛かることから、そうした行為とは、あくまでも、もとにある文章の意味、味を残したままにて体裁を整える程度にて切り上げる方が良いのではないかと考えます。

つまり、こうした公表は前提とするものの、必ずしも公的なものとはいえない文章(ブログ記事のような)を作成する際には、さきに書いたような一種のアバウトさ、あるいは余白らしき部分を残しておく方が、その先にある展開を惹起させ易くするのではないかと思うのです。

そして、それがブログ記事作成の継続に対しても、少なからず寄与する部分があるのではないかと思われます。

また、そこから考えてみますと、昨今の我が国を含む(主に先進諸国)国際社会とは、さまざまな情報機器の進化発展により、演繹的ともいえる科学的知識、知見を社会一般にて広く用いることが可能となった反面、先にある展開を惹起させ易くする要素として前に述べた余白らしき部分、あるいは異言すると、未来において偶然が介入し得る部分を出来る限り最小化しようと試みているのではないかとも思われるのです・・。

もちろん、如何なる分野においても科学的な思考は極めて重要・有用ではあると考えますが、ただ、表層的に利用、応用し易いような科学的知識、知見のみを正義の名のもとに振りかざすような(圧政的ともいえる)姿勢とは、さらに先に存在する面白い、その時点では考えもしなかったような劇的な展開の発生を封殺させるような何かがあるのではないかと思われるのです・・。

また、それが現代(あるいは古来からの)我が国社会に見られる悪癖(凝集性が強い)の一つではないかとも思うのです・・。

しかし一方、かつての我が国には『牛に牽かれて善光寺詣り』といったコトバもまた存在しますので、あるいはこうした風潮とは都市文化限定であるのか、あるいは、これまた我が国にてよくありがちな『一過的な流行』によるものであるのかもしれません・・。

そして、そうしたことを考えてみますと、現在のさまざまな現象を精確に把握、認識するためにも、やはり歴史・思想・哲学などもまた重要ではないかとも思われるのですが、さて、如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きまして、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに日本列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸地域のインフラの復旧・回復そしてその後の復興を祈念しています。

また、引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。」