2022年4月12日火曜日

20220412 株式会社新潮社 池内紀著「ちょん髷とネクタイ」時代小説を楽しむ pp.157‐158より抜粋

株式会社新潮社 池内紀著「ちょん髷とネクタイ」時代小説を楽しむ
pp.157‐158より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4103755032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4103755036

鹿児島県と宮崎県南部にかけて、同じ地名があちこちにある。町村合併あ地名改正で急速に消えていったが、それでも出水市麓町、加世田市麓町、吾平町麓、田代町麓・・といったぐあいにのこっている。かつて薩摩領内で「外城」とよばれた防御拠点であって、総計100あまりをかぞえた。

 肥後・熊本城の壮大な石垣や濠や、再建された城を見た人は、薩摩。鶴丸城の貧弱さに驚くだろう。本丸跡は堀にかこまれ、石垣がのこっているが、加賀百万石につぐ七十余万国の雄藩にしては、なんとも小規模なものである。しかもそこには一度も天守閣が建てられず、櫓すらもなかった。城主の居城にあたる館があっただけ。鎌倉時代このかた薩摩一円を領してきた島津氏は、領民を支配するのにことさら威圧的な城郭を築く必要がなかった。「麓」を拠点とする外城がはりめぐらされ、藩内ではどこでも防備がとれる体制になっていた。西南の役で西郷軍の部隊を編制したのも「麓」の旧士族である。強力なつながりではあれ、ひとたび敗れると熊本城のように籠城ができない。

「薩摩の国の藩制は他藩と著しい相違がある」

そんなふうに断った上で、海音寺潮五郎は短編「唐薯武士」のなかでてみじかに述べている。ふつう藩士はほとんど全部が藩主を中心として城下町に集合しているものだが、薩摩藩では城下侍以外に「外城侍」というのがいて、これが城下侍の何十倍もの多数にのぼった。

「外城侍は普通には郷士という名称で呼ばれているが、他藩の郷士とはその身分も職制も違う。他藩では郷士というのは刀は差していても武士ではない。先祖が武士であった百姓がその由緒で帯刀しているに過ぎないし、領主からもよくて名主ぐらいの取扱いしか受けていないのだが、この国においては、立派に武士なのだ、また歴とした藩士なのである」

 百姓武士というもので、藩主から禄米や知行所をもらうかわりに田をもらい、みずから耕して生活している。一朝ことあれば武装して出陣するのはむろんのこと、平日にも輪番で城下に出た。

「・・・薩摩領内の俗に百二外城と言われる大きな村々に、四五百から少なくとも四五十に及ぶ家が、麓または脇本と呼ばれる部落をつくって住いしている」

 家のつくりに特徴があった。この地方に多い泥灰岩の切石か、スイカほどの大きなの自然石を積み上げた石垣、あるいは柞の生垣にかこまれ、前庭にはミカンや柿、梅、桃などの果樹があり、うしろに菜園をひらいている。