2020年9月3日木曜日

20200903 中央公論社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」pp.137-142

「それがし、伊藤一刀斎十八世の子孫でござる。」と、その人物は頭を下げた。眼光はケイケイとして、頬の肉はこけている。
「君は一体医学を学んだのでしょうね」と医局長が云った。「願書が揃ってないが」
「左様」と一刀斎は答えた。「すべてこれ独学でござる」
「しかし、それでは医師免許がおりないのでね」
「いや、それがし、すでに一刀流免許を授けられた者でござる」
「まあいいでしょう」と誰かが云った。「ところで君は、なんで神経科を志望するのです?」

「さればでござる」と一刀斎はキッと膝をのりだした。「武芸の道はこれ涯のないものと存ずる。それがしの父は、野球なるすぽおつを通じ、また女色の奥義を探りて、何物かを得んと努め申した。しかしこれは肉体のことでござる。それ人には肉体と霊がござる。それがし、ぜひとも人間の精神を究め、もって一刀流のかてごりいを広めんと発心せしは、今をさる5年前のことでござった」

「さようでござるか」と思わず医局長は云ってあかくなり、一座を見まわした。

「では訊くがね、君は一応精神医学を勉強されたのでしょうな」と助教授クラスが助け舟を出した。助教授は6名もいるし、講師に至ってはやたらゴロゴロしているのである。

「恥ずかしながら」と一刀斎は答えた。「くれぺりん教授、えい教授とか申さるる御仁の書物なども読み申した。しかし、それがしはむしろ独自なる分類体系を立てる者でござる」

一同、顔を見合わせた。

「では一刀斎君、分裂病というのを知ってるだろうね」

「なんと、ブンレツとおおせられるか?」

「そう、シゾフレニイです」

「なんと、シゾ・・・と申さるるか?」

「そう、つまりだね、昔は早発性痴呆なんて言葉もあったがね」

「ははあ、それはタバケ病のことでござる」

「タバケ病?」

「それがしの分類体系では、その病いはタバケ病と記し申した」

「そう勝手に記されては困るがね。どういう病気です?」

「さればでござる。これは一種神秘的な病いと申されようか。なにぶん頭が狂うのでござる」

「それはそうだが、もっと具体的に」

「しからば冒頭から述べ申そうか。タバケ病とは或る種のびいるすによって惹起さるる疾患と存ずる」

一同は顔を見合わせてざわついた。これではどうしようもないと考えたのである。

「では君、一刀斎君、これでいいですと医局長が気をきかして云った。「これから心理室にまわってテストを受けて下さい。結果はあとで知らせます。」

一刀斎が落ち着き払って退出すると、一同は更めて顔を見合わせた。

「これはちとムリですね」「いくら何でもね」などという意見と、「いや面白い」「少しは変り者を入れてもよかろう」「うっかり落第さして刀でも振りまわされたら」などという意見がしばらくザワザワと私語された。

「これは仕方ないから、雑学部にまわすんだね」と、ついにM総カントク教授が申された。「そう雑学部のサイトウ君にでも面接させて、なにか特技でもあって医局の役に立つものなら入局させてもよかろう」で、伊藤一刀斎合格か否かの件は、後に持ちこされることになった。


医局長は医局の長い廊下を歩いて行った。エレベーターで12階まで行き、また豪壮な廊下を歩き、とあるドアの前に立止まった。そこには「雑学部研究室」とあり、「主任、ソウキチ名誉助手」と札がかけられてあった。

ノックして室内に入ると、安楽椅子の上にソウキチ名誉助手が長々と寝そべっていた。彼は年齢から云えば当然講師くらいになっていなければならぬのだが、いかんせん、未だ嘗て何一つ論文を書いたことはなし、学会に顔を出したこともないので、致し方なしに医局では名誉助手という称号をあてがってゴロゴロさせておいたのである。

彼はあたかも「鉄腕アトム」というマンガ本を熟読しているところらしかった。

「何か用ですかね。医学以外のことなら何でも訊いていいですよ」

「実は今度マツ先生が火星のフォボス病院に行かれます。火星行きについて何か注意がありましたらと思いまして」

「あ、そう」とソウキチ名誉助手は天ちゃん(注・これは愛称であって、私は父から昭和天皇がいかにお優しい人柄であられたかを聞いて心の底から敬愛していた)のごとく言った。「僕が若い頃宇宙精神医学研究室というのを創ったが、みんなバカにしておった。創始者というものはすべて初めは理解されぬものだ」

「ははあ」と医局長は云った。「どんなことを研究されたので?」

「いやなに、ただ看板を出しただけだよ。誰か心理の女の子がこれをヒッパがして捨ててしまったから、それで終わりだ。フラチな女子じゃった」

「それはそれは」と医局長は云って頭を撫でた。「それからですね、今日の入局試験に奇怪なる人物が現れまして、どうしたものか御意見を聞きたいので」彼は一刀斎のことをこれこれしかじかと説明したのち、

「何しろシゾはヴィールスだと云うんですからねえ」

「なになに」とソウキチ名誉助手は身体を起こした。「そいつはまるで俺みたいなことを云うじゃないか」

「そうですか」

「そうですかじゃない。いいかね、マニーなんてものもヴィールスから起こる。まだ発表してないがね」

こいつは上手だわいと思ったので、医局長は沈黙した。ソウキチ名誉助手は委細かまわず、「今NA講師と俺とで研究している。マニーのヴィールスは葡萄の種子の中にいるのだ。そもそも山梨県にマニーが多いのはなぜか。シゾにしてもミッシュ・プシコーゼ(混合精神病)みたいなのが多いんだ。これは彼らが葡萄をタネごと食べるからだ。今葡萄のタネをすりつぶして分離中だ。君、なんでも着想が大切だよ、着想がね。何でも判ってみりゃカンタンなものだよ。ニッスル氏小体でもなんでもね」と彼は云ったが、その実ニッスル氏小体なぞというものは皆目御存知なかったのである。

「では一刀斎は入局させたほうが宜しいですか」

「むろん、むろんだとも。それにそんな面妖な人物は必ず何かの役に立つ。たとえば火星でマッつぁんが火星人にでもとっつかまったら、彼を送ればいいじゃないか。」

中央公論社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」
ISBN-10 : 4122056586ISBN-13 : 978-4122056589