2017年10月19日木曜日

20171019 入出力の均衡のためには(何らかの)葛藤が必要であるのか・・?

A「昨日分の投稿記事において『ブログ記事作成を継続的に行うために大事なことは、日々の文字を媒介とする経験を重ねることではないか』といった意味のことを書きました。

そして、このことは以前にもブログ記事にて書きましたが『入力と出力の均衡』においても深く関連することであり、くわえて、その継続においては『均衡』すなわち『出力されると同時に入力もある』といった状態の保持が重要ではないかと考えます。

その意味にて、自身はおそらく入力については何かしら読み続けてはおりますので、こちらの要素については特に大きな問題はないものと考えます。

しかし他方にある出力に関しては、今現在においても、何と云いますか『ある状態の保持安定』といったものを得られることはなく『毎回とりあえず何かしら文章を作成している』といった状態が継続していると評して良いと云えます。

つまり、多少の欲を述べるならば『出力という文章を書く行為においても、他方の入力である読書と同程度に安定して行うことが出来ないものであろうか?』といったことであり、これまでどうにか継続的にブログ記事の作成が為されてはいるものの、その背景には慢性的にこうした悩みが存在しているのです・・(苦笑)。

あるいは、こうした悩みから一時的に逃れる(忘れる)ことが出来ている時とは、何かしらの着想を得て、比較的円滑に文章を書くことが出来ている時か、ブログ記事作成の必要性から解放されている時であるとも云えます。

それ故、ある種の楽しみといった要素が存在しないことにはブログ記事の作成とは継続し得ないといったことも事実として認められるものの、それと併存して、さきに書いたある種の葛藤とも評し得る状態もまた自身の内面において比較的明瞭に存在しているのです。

そして『今後、恒常的に円滑に文章を書くことが出来る状態が自身内面において達成されるのことはあるのだろうか?』ということは、今もって興味深いことであり、おそらく当ブログ記事の作成をはじめた時期に比べれば、多少の変化は認められるのでしょうが、そうした変化を心ゆくまで味わうといった余裕・感興とは、そうそうありません・・。

それよりも、さきに書いたような日々の記事作成を為す際に(大なり小なり)感じる葛藤と対峙している時の方が、円滑に文章を書くことが出来る自身と為すためには、有益ではないかと思われるのです(そうした状態に慣れてきた?)。

また、そのように考えてみますと、逆説的に日々のブログ記事作成を行うことがなくとも、葛藤らしきものを(全く)感じることがなくなれば、それはさきの『円滑に文章を書くことが出来る状態』が達成された時であるのかもしれませんが、面白いことに、どうやらこうしたことに関しては、自身を偽ることは出来ないようです・・。

もっと器用に自身を偽ることが可能であるのならば、こうした自意識過剰ともいえる行為(ブログ記事の作成)をも行わずに安心出来るはずではあるのですが・・(苦笑)。

また、こうした状態に至ったトリガーとは、現在になり考えてもあまり意味のあることではないのかもしれませんが、それでも一体何であったのでしょうか・・?

おそらくそれは、一般的な意味で健全な感情・情念ばかりではないように思われるのですが、しかしその健全でばかりとはいえないものによって、これまで自身は継続的にブログ記事を書くことが出来ているとも云えます・・。

あるいは、このことは何かしら普遍的な意味合いがあることであるのかもしれませんが、読んで頂いた皆さまはどのようにお考えになるでしょうか?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在までに日本列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。」



20171018 ブログ記事をある程度継続的に行うために大事なこと・・

本日は帰宅が遅くなったことから一度しばらく休んだのち、記事作成を開始することにしました。

そして午前三時頃に目を覚まし、シャワーを浴び、記事作成を開始し、現在に至っていますが、本日作成分の記事主題においても、概ねこれまで通り、その主題とは定まっておりません・・(苦笑)。

とはいえ、こうして何かしら書いておいますと思い起こされることは、今現在読んでいる著作についてであり、また、こうした題材とは、著作そのものに何かしら大きな問題(ある種の話題性)がない場合、どちらかというと無難であり、自身が(どうにか)現在までブログ記事作成を継続することが出来た主たる要因とは、抜粋引用をも含め、何かしら書籍に関して書くことが多かったからではないかと考えます。

しかし、書籍、文字を媒介としない経験もまた、自身を含め何方であれ毎日経験しているはずです。

そして、そうした文字を媒介としない毎日の経験を文章として書き続けることは、出来ないこともないのでしょうが、そうしますと、それは語義的に『日記』に近いものになると云えます(読書日記といったものも存在しますが、あくまでも一般的な意味で・・)。

当然ではありますが、通常、日記とは一日の出来事を綴るものであり、そこに綴られる出来事が創作ではなく、実際の出来事であり、さらにそれをブログ記事として継続的に公表するといった行為には、私見ではありますが、何かしら書き手自身の精神を制限・束縛し、そして(不自然な)負荷を強いるといった要素があるのではないかと思われるのです・・。
(プライバシーの価値、意味合いといったものは、この辺りにあるのではないでしょうか?)

少なくとも、自身の場合、さきに挙げた日記体でのブログ記事の場合、それを継続することは困難であったものと云えます・・(外からの風が常時流れ込む鍾乳洞には鍾乳石(つらら石)は形成し辛い・・)。

それ故、文字を媒介とし、さらにその文字列が公表を前提とする文章(論文・小説・新聞・雑誌など)である場合、日々それらに接し、その思うところを継続的に書くことは、それが文字を媒介とする『実際』の経験に基づくものであり、そして、その行為には創造性をも要することから、もちろん精神的な負荷も(少なからず)あるのでしょうが、さきの日記様のものとは異なり、書き手の精神を制限・束縛するといった要素については少ないと考えます・・。

そこから、自身の経験から思うところではありますが、ブログ記事をある程度継続的に行うために大事なことは、さきに書いた意味において、日々、文字を媒介とする経験を重ねることではないかと思われます(これはある程度の普遍化が可能ではないかとも考えますが、如何でしょうか?)。

そしてまた、それ以外の経験もまた充実している方が望ましいのでしょうが、公表を前提とするブログ記事の作成においては、文字を媒介とする経験の方が幾分かは重要であるのではないかと思われます・・。

また、以上に述べたことの概括から極言を試みますと、我々が何かを学ぶという行為の根源にあるものとは、こうした『変換』(経験から文章へ、もしくはある種の抽象化)の様式の洗練・上達にあるのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまで列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。

引き続き、先日より新たに噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。」