2020年4月15日水曜日

中央公論社刊 石光真清著 石光真人編「城下の人」新編・石光真清の手記(一)西南戦争・日清戦争 pp.32~35より抜粋

中央公論社刊 石光真清著 石光真人編「城下の人」新編・石光真清の手記(一)西南戦争・日清戦争 pp.32~35より抜粋
ISBN-10: 4122064813
ISBN-13: 978-4122064812

神風連の領袖、加屋霽堅に初めて会い、熊本城の由来を聞いた私は、ざんぎり頭の洋学生の兄真澄や従兄たちに、手柄顔でその話をしたのに母までが苦笑し、兄たちは私の稚児髷、帯刀の姿をひやかして、声を立てて笑った。姉の真佐子だけが洋学生たちを睨みすえて私をかばってくれた。

 父は、この有様を黙って眺めていたが、「お前たちは、神風連、神風連と、あの方々を、天下の大勢に暗い頑迷な人のように言うが、それは大変な誤りだ」と、おだやかながらも、きつい眼付きで、ひとわたり皆を見まわして言った。

「あの方たちは、御一新前は熊本藩の中枢にあって、藩政に大きな功労のあった方々だ。学識もあり、勤皇の志も厚い。ところが御一新後の世の動きは、目まぐるしく総てが欧米化して、日本古来の美点が崩れて行くので、これでは国家の前途が危ういと心配し、明治五年、太田黒伴雄氏、加屋霽堅氏等をはじめ国学の林桜園先生の感化を受けた百七十余名の方々が会合して今後の方針を協議された。この会合で日本古来の伝統は必ず護る。外国に対しては強く正しく国の体面を保つことを申し合わせた。この人々を進歩派の人たちが神風連と呼ぶようになったもので、その後、いろいろと保守の策を試みたが、時代の風潮を阻むことは出来なかった。この上は、神明の力によって世論の挽回を図るほかに道がないと、党人は神社神社に参拝して、至尊万歳、国祚康楽、国威振張、外夷摂服、の祈りを捧げた。そのために家産を傾けた人もあるが、そんなことには頓着なく目的達成に心肝を砕いておられるのである。忠操の清烈、素行の端正、神風連の党人は実に立派な人格者ばかりだ。県が神官の採用に当って、殆ど神風連を任命したのは、この人々の誠意に感じてであった。それで加屋先生が加藤社の祠官となっておられるのだ。父はこう説明して皆の顔を見渡した。

「洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見透しも違うが、日本の伝統を守りながら漸進しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心掛けるお前たちと、国を思う心には少しも変わりがない。前に言った林桜園先生はこの人たちの精神の基を礎いた方だが、非常に博学な学者だった。実学派の人たちからも敬意を捧げられておられるのだが、先生が亡くなられてから、いつとはなしに先生を頑迷な国学者だ漢学者だと批評する人が多くなった。進歩を急ぐの余り、そのようなことになったものと思う。林桜園先生は御自分でもオランダ語に精通しておられ、その教えを受けた人たちは二千人を超えているとのことだ。蘭書の講義もし、兵学、科学に力を入れておられた。ただただ神明の加護を願い、結髪帯刀を主義とするような、そんなことは教えられなかった。その後、政府が世界の情勢を検討された結果、進歩を急ぐ政策を促進するにつれて、この一党がうとんじられるようになり、頑迷だ、固陋だと批判される始末になった。それも無理はない。政府では広く世界に眼をひらいてアメリカ、イギリス、フランス等の各国の事情を実地に調査した結果、今までのようにオランダの書物だけに頼って外国の事情を狭く見て来た人たちと自然に見解を異にして来たのだ。こうなって来ると、不幸なことだが・・・神風連の人たちの中には急進派に反対するの余りに、徒に新政を非難するような風潮が生まれて来たし、急進派もまた神風連を時代に盲目な人たちとして嘲うようになったのだ。けれども国の将来を思う心は同じだ。お前たちが洋学をやるにしても、あの方々の立派な人格を見習い、日本人としての魂を忘れない心掛けが大切だ。林桜園先生が蘭書を読む時は、読む前に床に蘭書を置いて足で踏んでから読んだと言われている。そこまでせよとは言わないが、お前たちにその心掛けが必要だという意味が判ってくれればよい。いいかな。今後はあの方々を軽蔑するようなことは慎みなさい。」
兄や従兄は神妙な顔でお辞儀した。父の話には、いつも厳しい説得力があった。

「いつの世にも同じことが繰り返される。時代が動き始めると、初めの頃は皆同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分れ三つに分れて党を組んで争う。どちらに組する方が損か得かを胸算用する者さえ出て来るかと思えば、ただ徒に感情に走って軽蔑し合う。古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出て来る。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当の時代遅れの頑固者と新しがりやの軽薄者が生れて来るものだ。これは人間というものの持って生れた弱点であろうなあ・・」と言って父は座を立って書斎に入ってしまった。母も兄も従兄も叱られた生徒のように膝に眼を落して黙っていた。』